第6話 冒険者になる
朝の空気は、酒に向かない。
が、しかし……
宿の扉を出た瞬間、無意識に通りの向こうを見る。
木樽が積まれた酒屋の看板が、朝日に照らされている。あの構えだ、やっていないが昼頃にはやる気を出すだろう。
「……あそこだな」
「違う」
即座に、隣から遮られた。
タマは腕を組み、視線を正面、つまり”魔道具屋”と書かれた看板の方へ向けている。
酒屋など、初めから存在していないかの態度だ。
「まず魔道具屋。絶対に」
「急ぐ必要あるのか?」
「ある」
食い気味だった。
思わず呆然とする。
昨日から続く”魔力がない”という扱いを、そこまで問題だとは思ってなかった。
魔力などなくても生きていける。
そもそも魔力など今だに理解していない。
ただ、無くても、酒は飲めるし、眠れるし、不便を感じることも今のところない。
「冒険者登録をするんでしょ」
「そのほうがいいのだろう?」
「だったら魔力ゼロは論外」
タマの声は低い。冗談で言ってるのではない、と明確に伝えてくる。
「魔力がない=要注意人物、異物、最悪の場合は調査対象よ。目立つ、追われる、狙われる、排除される」
「……そこまでか」
「そこまでよ」
迷いがないな。
この世界では、魔力は血液のようなものだ。あるのが前提で、ないものは”壊れている”か”隠している”か。
「わかった。魔道具屋だな」
「よし」
しかし、歩き出して三歩、酒屋をもう一度だけ見る。
「……冒険者ギルドの登録が終わったら」
「ダメ」
「終わったら、だ」
「甘味処が先」
「なぜだ」
「昨晩、宿代払ったの私、覚えてる?」
「……ああ」
「今日も私が払う予定なんだけど」
「……そうだな」
そこまで言われて気づく。
……金を持っていない。
「酒屋は贅沢、甘味は……必要経費!」
断言された。
静かに息を吐く。
理屈では勝てない。財布がない以上、発言権もない。
茨木。
「……魔道具屋」
「うん」
タマは満足そうに一歩前へ出る。勝敗は最初から決まっていたらしい。
「魔力増幅系の指輪がいい。見た目は普通で、測定に引っかからないもの。ギルド職員が疑問に思わない程度に平均的が理想」
「そんな都合のいいものがあるのか?」
「ある……といいな」
少しだけ、声が弱くなった。
それでも真っ直ぐ歩くタマ。
彼女にとってこれは、”選択”ではなく”前提条件”なのだろう。
魔道具屋の看板が近づいてくる。
古びた木製で、派手さはないが、手入れは行き届いている。
「……終わったら」
「なに?」
「甘味処、だな」
「当然」
そのあと、酒屋だな。
*
魔道具屋の扉は思ったよりも重い。
押すと、ギギっと木と金属の擦れる音がして、ゆっくりと開く。中から流れてきたのは僅かに焦げた匂いと金属、油。鍛冶場に近い。
「いらっしゃ__」
カウンターの老人は、まずタマを見て頷き、それから俺を見て、僅かに眉をあげた。
測っているな。
魔力だろう。咳払い一つで、老人は何事もなかったように口調を整えた。
「今日は何を?」
「魔力を貯められる指輪を探しています。外付けで、本人が魔力を持っていなくても使えるタイプ」
タマが正直に応える。
「……ほう」
老人の視線が、また俺に戻る。今度は真っ直ぐ。
「冒険者用か?」
「はい。測定に引っかからないものを」
理由は言わない。
「増強じゃないんだな」
「ええ、増やす必要はありません」
老人は顎を手に当てて、棚ではなく、店の奥へ視線を送る。
「おい、ドゥール」
奥から、重い足取り。
「はいはい、なんだい」
現れたのは、背が低く、横にがっしりとした男だ。 短く整えた髭。鋭い目つき。
確か、そうドワーフとかいう種族……違ったか?
ドゥールは俺とタマを見て、素直に言った。
「……なんだ、これ。魔力ゼロじゃないか」
「そう見えるだろうな」
「そりゃそうだろ」
遠慮がない。
ドゥールは腕を組み、じっと俺を見る。
「なのに生きてる。変だな」
「そうか」
「そりゃそうだろ。むしろ腰に吊るしてある、その武器の方が強そうだ」
《終座》を見ながらいう。
興味は隠してないが、敵意はない。
「増強は無理、0からは増やせない。偽装は進めない、バレた時厄介だ。蓄積型だな」
「できますか?」
「できる。けど……」
ドゥールはタマを見る。
「チャージがいるぞ、定期的に」
「問題ありません。私がやります」
間髪入れずに応える、タマ。
「そっちが供給係か」
一瞬だけドゥールの目が細くなる。
「なるほどな」
彼は作業台の引き出しを開け、銀色の指輪を取り出した。装飾はほとんどない。
「これは魔力を溜め込むタイプだ。中に小さな魔石が仕込んである。本人の魔力じゃなくて、外から流し込んだ分だけ反応する」
「測定は?」
「引っかからない。ちゃんと”魔力持ち”に見える」
タマがほっと息を吐く。俺は、少し期待して、聞いてみる。
「戦闘で使う魔法は?」
「無理。出せても攻撃力は皆無だ。溜めた分は見せかけようだな」
「それでいい」
ドゥールは少し驚いた顔をして、それからガハハと豪快に笑った。
「割り切りいいな」
「必要ないものはいらない。興味はあるが」
「嫌いじゃねぇな」
少し……いや、それなりに残念だ。
指輪を差し出される。
「つけてみろ」
「どの指だ?」
タマが即座に俺の腕を押さえた。
「待って!」
「?」
「左手、薬指はだめ!」
空気が変わった。
ドゥールがニヤつく。
「ははは、なるほどな」
「違う」
「いーや、違わないな」
「?」
結局、右手の中指に決まった。サイズを調整してもらう。これも、魔法だ。金属に作用している。軽い。存在を主張しない指輪だ。
老人が測定器をかざす。
「……平均値だな。冒険者としてはごく普通」
「よかった」
ドゥールは満足そうに頷いた。
「チャージは1日1回。多くても2回。無理に流すなよ」
「わかりました」
そこで、ドゥールがふと、何気ない声で言った。
「そういやさ、昨日、門のとこにいたよな」
タマが一瞬だけ固まる。
「昨日、街に着いたんだ。門を通るのは当たり前だろう」
「何かあったか?」
「知らないな」
「ふーん、そうか」
ドゥールはそれ以上、突っ込まなかった。だが、視線は確かに、観察する者のそれだった。
タマが代金を払う。
その後ろで指輪を眺める。
これで、表向きは問題ない。しばらくは普通に生きられる。
「次は?」
俺が聞くと、タマは当然のように言った。
「冒険者ギルド」
「甘味処は?」
「登録のあと」
「酒屋は?」
「その後」
順番は絶対らしい。
*
魔道具屋を出て、石畳の通りに足を向ける。
早朝と呼ぶには、もう少し遅い時間になった。
商人が店先の扉を開け、荷車がギギっと軋む音を立てて進む。鎧の留め具を締め直す音、革靴が揃って歩く音。
出勤の時間帯なのだろう、人の流れが一気に増え始めていた。
視線が、やけに集まる。
黒髪、というだけで、これほど目立つものなのか。珍しいというだけでなく、どこか落ち着かない空気が混じる。見られる理由は分かっているし、見られることにも慣れている。
隣を歩くタマは、そんなことは承知の上だろう。腕を組み、ため息まじりに前を見たまま言う。
「問題は、山積みね」
「……そうか?」
「そうよ」
即答だった。
金を持っていないこと。
それが目下、1番の問題だな。彼女にとっては、放置できない問題は別にあるようだが。
そんな会話をしていると、後ろから、やけに軽い足音が近づいてきた。
「おーい!」
振り返ると声とドゥールが走ってくる。
また魔法か……あれは走っているのではないな、地に運ばれている。魔力を地に通しているな。
そして、俺達の前まで来ると。何か小さな物を俺に放る。
反射で身体が動いた。
半歩ずらし、肩を引く。
空を切ったそれが、背後の石畳に跳ねる。
カランッ
「……」
「……」
一瞬の沈黙。
タマが呆れた顔でしゃがみ込み、転がったそれを拾い上げる。
「だから、なんで避けちゃうの?」
「……飛んできたからだが」
「前もそうだったでしょ」
言われて、思い出す。
確かに以前、彼女に指輪を放られた時も、同じ反応をした。
投げる方が悪いと思うのだが、どうやら少数派らしい。
「いやー、反射良すぎだろ」
ドゥールが息も切らさず笑う。
「受け取れよ。噛み付かないから」
「噛み付くつかないの問題ではない」
タマは指輪を指先でつまみ、こちらに差し出した。
「はい。今度はちゃんと」
渋々、受け取る。
指輪は銅に近い色で、装飾は控えめ。魔力を溜め込むための構造が、内側に静かに仕込まれている。見せかけではない、実用の魔道具だ。
「じゃ、つけてみろ」
俺は何となく、左手の薬指に指を伸ばしかけ__
「そこはダメって言ったでしょ」
即座に止められた。
「……なぜだ」
「理由が必要?」
仕方なく右手人差し指にはめる。
空気がわずかに揺れた。風がそよぐように、頭のあたりを通り過ぎる。通りの窓に映った自分を見て、少し驚いた。
黒だった髪が、完全に色を変えたわけではない。
ただ、光の当たり方で、かすかに青みを帯びて見える。
魔力が髪の毛一本一本を覆っている。
濃い藍色、深く静かな色。夜に輝く月を反射する湖の色。
視線が、少しだけ逸れていくのが分かった。
「よし。これなら問題ない、だろ?」
ドゥールがタマに満面の笑みを向ける。
タマが満足そうに頷く。
「定期的に魔力は入れるから。切れたらすぐ言って」
「……世話をかけるな」
「今さらでしょ」
ドゥールが肩をすくめて笑った。
「仲いいねぇ。ま、これでギルド行っても浮かねえだろ」
仲がいい、という言葉に、タマが一瞬だけ視線を逸らす。
俺は何も言わず、指輪を確かめるように軽く握った。
さて、これで、ようやく冒険者ギルドだ。
酒屋は、そのあと。
甘味処が先だが、それも……そのあとだ。
俺は小さく息を吐き、人の流れに歩調を合わせた。
*
冒険者ギルドの中は、思っていたよりも騒がしかった。
受付の隣、広いホールの一角に、堂々と併設された食事処がある。朝と昼の境目の時間帯らしく、鎧姿の者、軽装の者、眠そうな者まで、思い思いに腰を落ち着けていた。
そして。
匂いだ。
鼻腔をくすぐる、甘いもの、酸味のあるもの、樽の木の香り。
日本酒とも焼酎とも違う。麦でも米でもないが、確かに酒だと分かる匂いが、幾重にも重なっている。
足が止まった。
いや、止まってしまった、が正しい。
視線は自然と、酒樽が並ぶカウンターへ吸い寄せられる。色も透明なものから琥珀色、赤みを帯びたものまで様々で、見たことのない酒ばかりだ。
香りだけで、喉が熱を帯びる。
「……ふむ」
思わず、感嘆が漏れた。
「……ふむ、じゃない」
隣から、即座に冷たい声が飛んでくる。
嫌な予感を隠しもしない顔で、俺を見上げている、タマ。
「まさかとは思うけど、今、飲みたいとか考えてないわよね?」
「いや、飲むとは言っていない。ただ……」
「ただ、興味深々な顔をしてる」
言い返せない。
異世界の酒だ。どういう気で醸され、どういう場で飲まれるものなのか。そういうものを知るのは、嫌いではない。
「今日は登録。先にやることがあるでしょ」
「……わかっている」
「冒険者ギルドは王国から、独立した組織で冒険者の身分証も兼ねているからね。持ってれば、世界中のほとんどの国に行けるけど、登録してないと、どこにも行けないよ」
「……わかっている」
渋々視線を引き剥がした、その時だった。
「なあ、聞いたか?」
背後の席から、ひそひそとした声が聞こえてきた。
「門の件だろ。昨日の」
「そう、それ。それでさ……魔族だったって話」
耳が自然と拾う。
「しかもよ、正体が分かったらしい」
「誰だよ」
「ミルザだって」
その名に、周囲の空気が一瞬、固まった。
「……は?」
「ギルド職員の? あの?」
「真面目で、面倒見がよくて、新人に優しい?」
「冗談だろ……」
否定の言葉が飛び交う。
それだけ、その名が信頼されていた証だ。
タマの隣で、彼女の空気が変わるのを感じた。
表情は平静を保っているが、目だけが鋭くなる。
「どうする?」
タマは首を横に振った。
タマが俺の袖を掴んだ。
「ちょ、待……」
「待たない。酒の匂いに釣られて、噂話に首突っ込んで、これ以上遅れたら面倒が増える」
有無を言わさぬ力で、ずるずると引っ張られる。
振り返り、もう一度だけ食事処を見ると、冒険者たちは何事もなかったかのように酒を煽り、笑っていた。
だが、その笑いの奥に、確かな不安が混じっているのも、感じ取れる。
「問題は山積みね」
タマが小さく呟く。
「……ああ」
あまりに種類が多いと迷ってしまう。
次に足を止めたのは、受付の前だった。
受付カウンターの向こうで若い受付嬢が顔を上げた。淡い桜色の髪。肩ぐらいで軽く巻かれている。
「あ、タマさん、おはようございます」
声に迷いがない。事務的でも、馴れ馴れしくもない。でも、毎日顔を合わせている、そんな距離感だ。
「おはよう、リーネ」
笑顔でタマが応える。
「新規登録をお願い」
タマが一歩前に出る。
「紹介ありで」
受付嬢”リーネ”は、書類を受け取りながら俺に視線を移し、そして、ぴたりと固まった。
「え?」
間の抜けた声。
完全に動きが止まっている。
「……?」
俺が首を傾げると、リーネははっとして、慌てて咳払いをした。
「し、失礼しました! えっと……」
視線が泳ぎ、次の瞬間、勢いよくタマを見る。
「……か、かっこいいですね」
言ってから、はっと我に返り、両手で口を押さえた。
「い、今のは違います。仕事です! 仕事!」
顔が赤い。
タマが、慣れた様子でため息を吐く。
「一難去って……また一難」
何故か俺を睨む。
俺が一体、何をした。
「落ち着いて、リーネ。いつも通りでいいから」
「は、はい!」
立て直しが早い、流石だ。
「では、新規登録ですね。紹介者は__」
「私」
タマが即答する。
「彼氏ですか?」
「違う」
タマの返答は速かった。速すぎて、逆に不自然だ。
「ち、違うのね!」
リーネはなぜか安心したように笑い、それから少しだけ頬を赤らめる。
「でも、すごく整った顔立ちで……冒険者っていうより、貴族様みたいです」
咳払いをして、仕切り直すリーネ。
「では、お名前をお願いします」
「ゲドーマルだ」
ペンが一瞬止まる、だが、すぐに動き出す。
「通称ですね。問題ありません……種族は?」
「人族で通している」
「人族で……”通している”、とは?」
タマが俺の足を踏む。
痛い。
「人族よ」
タマが強調する。
「ただの」
「ただの、ねぇ……」
リーネはもう一度俺を見て、小さく呟いた。
「……いいなぁ」
「聞こえてるわよ」
「すみません!」
タマが深く息を吐いた。
一難、去った……ように見えて、まだ去っていない。
「では、ゲドーマルさん。登録を進めますね」
リーネは仕事に戻る。
「まずは魔力測定です」
測定器に手を置く。水晶が淡く光り、静かに反応を示した。
「……安定していますね」
リーネは記録を取りながら頷く。
「突出はありませんが、平均的な魔力保持者です」
疑われることもなく、想定通りの結果だ。
何事もなく、一難去ったようだ。
タマが小さく肩を落とすのが分かった。無事に通ったことへの安堵だろう。
「紹介者はタマさんですね」
「ええ」
リーネはにこやかに言った。
「タマさんは、依頼を選り好みせず、簡単な仕事でも必ず期限内に終わらせてくれます」
「当たり前のことをしてるだけ」
「それが一番難しいんですよ!」
リーネははっきり言った。
「ギルドとしては、とても“安定した冒険者”です」
タマは少し照れたように視線を逸らす。
その様子を見て、胸の奥が、静かに温かくなった。
「……あ、そうだ」
リーネは声を落とした。
「注意事項があります。昨日、門の付近で魔族が確認されました」
タマが頷く。
俺は無駄口は叩かないようにしている。
「はい。現在は処理済みですが、近衛騎士団が動いています」
「近衛騎士団?」
俺が尋ねると、リーネは少し背筋を伸ばした。
「王国直属の精鋭部隊です。五個団あり、それぞれに団長がいます」
「団長は全員、貴族」
タマが補足する。
「実力主義だけどね」
「ええ」
リーネは続ける。
「団長クラスになると、Sランク冒険者と同等か、それ以上とされています」
「Sランク? そういえば、今、この街にいるの?」
「この街の近くにいるのは一人だけです」
リーネが真剣な眼差しでこちらを見る。
「……Sランク冒険者、《緑災》アウレオン」
その名が出た瞬間、周囲の空気がわずかに張り詰めた。
「……よりにもよって、危険な……」
タマが低く言う。
リーネが真剣な顔で言った。
「ですので、無用な接触は避けてください」
「分かった」
俺は頷いた。
話はそこで終わり、リーネは冒険者プレートを差し出す。
「ゲドーマルさん。冒険者登録、完了です。ランクはFランクからです。詳しい内容はこちらの冊子に書いてありますので、必ずお読みになってください。まぁ、Dランクのタマさんが付いていれば安心ですね」
俺はそれを受け取り……思わず、じっと見つめた。
くすんだ鉄。名前が書いてある。
”ゲドーマル”。
読めないはずの文字が理解できる。有能な指輪だ。
タマが昨日、門でレオンに見せていたのとは違う金属のようだ。
「……これは?」
「身分証兼、実績記録ですね」
「……ほう」
角度を変え、光にかざし、裏も見る。ちょっと、齧ってみる。歯に沁みる。
「面白いな」
「ちょっと」
タマが眉をひそめる。
「夢中になりすぎ」
「いや、よくできている」
「目立つって言ってるでしょ」
リーネはくすっと笑った。
「正直者なんですね」
「そうかしら?」
「はい。何をしても」
タマがため息をついた。
「……また一難ね」
俺はよく分からないまま、冒険者プレートを胸元にしまった。
次は、甘味処だ。その次が、酒屋だ。
「ねえ、君さ__」
冒険者が、軽い足取りで近づいてくる。酒の匂いが混じっている。悪意は薄いが、節度もない。
「用事があるなら、受付を通してください」
すぐに、受付嬢のリーネが間に入った。動きは早い。声も落ち着いている。日常なのだろう。
「いやいや、ちょっと話すだけじゃん?」
冒険者は笑っている。
それが余計に厄介だということを、本人だけが分かっていない。胸にはCランクと書かれた銀の冒険者プレート。
その間、俺は……先ほどの酒樽を見ていた。ギルド併設の食事処に並ぶ、見慣れぬ酒、木樽、瓶、陶器。
ここは危険だ。非常に。危険だ。
酒はあとでにする。
‘’タマの後ろに立つ‘’。
それが約束だ。
分かっている。覚えている。
だが、視界の端で酒瓶が光った。
俺はギルドの出口に向かって歩いていく。
いや、"向かっている"と思い込もうとしている。
視線はまだ酒樽に向いたまま。
足が、自然と酒樽の方へ向きかける。
ダメだ。
無理矢理、足を出口に向かわせる。
一歩でも近づけば、自分を止められない。
確信がある。
背中に何も感じなかったから、タマがそこにいるものだと、当然のように思っていた。
「!」
背後の空気が、変わった。
遅れて振り返る。
タマが、立ち止まっている。
その前には、先ほどの冒険者。今度は、距離が近い。
タマの手を、取っている。
「……調子に乗らないで」
タマの声は低かった。
次の瞬間、“何か”が広がった。
魔力ではない。
だが、確実に空気を押し潰す圧。
”怒り”、”恐怖”、”悲しみ”、そういった感情。
冒険者の笑みが凍り、周囲の会話が、すべて止まる。
リーネが目を見開いたまま、動けなくなっている。
俺は理解した。
ああ。
これは、俺が後ろにいなかったからだ。すまない、タマ。
入口まで来てしまった俺は、状況を測りきれないまま、声をかけた。
「タマ。甘味処には行かないのか?」
間の抜けた問いだった。
タマは、一瞬だけこちらを見た。
そして、にっこりと笑った。
さっきまでの威圧など、最初からなかったかのように。
冒険者の手を、自然に振りほどき、そのまま走ってくる。
「行くわよ!」
勢いよく言い放ち、俺の袖を掴んで引っ張る。
「ちょ、待……」
ギルドを出る。背後で、ようやく空気が戻る気配がした。
外に出て、しばらくしてから、タマは立ち止まった。
「……約束」
短い一言。
怒っている。
はっきりと。
「すまない」
タマは一瞬だけ俺を見て、ふっと息を吐く。
その目は、怒りよりも"不安"の色が強かった。
「次は、ちゃんと後ろにいて」
「約束だ。今度は守る」
それも、嘘ではない。
タマは、また笑って歩き出す。
さっきと同じ笑顔で。
今度は俺の歩幅を確かめるように、少しだけ、ゆっくりだった。
約束。
もう破ることはしたくない。
そう思いながら、俺は甘味処の方向へ歩き出した。
酒は……そのあとだ。




