第28話 ここに、いて
王都近くの丘には、風が葉の匂いを運んでいた。
昼過ぎの空は晴れているのに、どこか落ち着かない。
……これは、自然の風ではないな。
風の乱れる方角へ歩を進めるうちに、肩の周りで跳ねていた光が、音を立てるのをやめる。
指先まで来ていた熱が、行き場をなくして引いていく。
以前、タマが俺に翻訳の指輪を渡した場所。二人で逃げないと決めた場所。
何ひとつ変わっていないはずの丘が、今日は記憶の中とはまるで違う顔をしていた。
白銀の尾が揺れている。
妖狐の姿のまま、陽の光の下で、タマは丘の縁を俯きながらゆっくりと歩いている。
手負いの獣が暴れる時の気配に近い。地面へ伝わる乱れ方も、いつものタマの風ではない。
九つの尾がまとまらずに、一本は根元から震え、二本は空へ向かって槍のように逆立ち、残りは逃げるように地を這っている。
タマの中を巡る魔力は、いつもの澄んだ流れではなく、ところどころに黒い濁りが混じり、本来なら一つに流れるはずのものが途中で折れ、別の方角へ引かれている。
誰かが彼女の中に、”何か”を打ち込んだのだと、視ただけで分かった。
それが、誰なのかも。
俺の気配に気づいたのか、タマは小さく息を呑んで肩を跳ねさせ、勢いよくこちらへ振り向く。
視線が交わるが、次の瞬間にはタマは背を向ける。
「どっか行って!」
叫ぶ声はいつも通りだが、耳が伏せ、肩が小刻みに震えている。
抑えきれない風が身体の内側から溢れている。
制御を失ったそれが、空気を落ち着かせない。だが尾だけは、逃げずにこちらへ寄りたがっている。
「それは、出来ないな」
背を向けたタマとの距離を、一歩ずつ詰めていく。
タマの呼吸が一瞬だけ詰まる。
「なんで? 判断は任せてくれるんじゃなかったの!」
振り向かないまま叫ぶその言葉は鋭いが、尾は垂れている。
俺は歩を止めない。
「任せる。お前が選んだことならな……誰かに選ばされたものまで、お前の判断にする気はない」
タマの尾が、ぴたりと止まった。
「顔を見せてはくれないのか」
タマの背中が強張る。
「無理! お願い……離れて……!」
……逃げないと決めた場所で、逃げろと言われている。
タマの膨大な魔力の揺れが大きくなり、空気がさらに震え、風が不規則に荒れ始める。
聞かなくてはならないことが、一つある。
「路地でリラが倒れていた。やったのは、タマか」
「……」
風がほんのわずかだけ、弱くなる。
タマが背を向けたまま、小さく頷く。
俺は更に一歩踏み出す。
「駄目! 向こう行って!」
それでも構わず距離を詰め、そのまま腕を伸ばすと、タマの身体を後ろから抱きしめる。
白銀の髪が頬に触れ、いつもの、少し甘い、好きな香りが鼻の奥を撫でる。
細い身体がびくりと大きく跳ねる。
「やめて……っ」
タマの声が掠れる。
身体の震えが先ほどよりも明らかに強くなり、肩が上下し呼吸が乱れ始めている。
握り締めた手のひらに爪が食い込み、血が滲むと、指の間を伝ってぽとりと草の上に落ちる。
「大丈夫だ」
耳元で小さく呟く。
「ゆっくりと時間をかけて息を吸うんだ」
タマの身体がぎこちなく動く。吸おうとして、だが、上手くいかずに途中で止まる。
空気が入らずに、喉が詰まるように震えている。
「……っ、は……」
途切れ途切れの呼吸の音が聞こえる。
それでも、俺はタマを離さないまま、続ける。
「棲家での暮らし、楽しいだろう」
わずかに力を緩める。押さえつけるのではなく、包み込むように。
タマの頭がほんのわずかに動き、頷く。
「心配も警戒もすぐに終わる」
震えは止まらず、呼吸も整わないまま、肩が歪に上下している。
「俺が必ず、その”洗脳”を解く」
そう言った直後、必死に魔力を塞ぎ止めていた蓋が決壊し、溜め込まれた風が漏れ出す。
「離れて!」
言い終わるより早く、風が爆ぜると、草が伏せ、俺の直垂の袖が裂ける。
再び吹き荒れた風は、熱いのか冷たいのかも分からないまま、頬に痛みだけを置いて通り抜けていく。
それでも腕は緩めない。
この程度の傷では、この震える細い身体を離す理由になど、ならない。
「早く離れて……お願い……抑えられないの……」
声が震え、尾が逆立っている。
「安心しろ。衝動は抑えられる」
さらに風が荒れると、今度は明確に”狙って”くる。
身体のあちこちが裂け血が滲む。
離さない。
「ダメだよ……大切な人を見たら、襲うように……そういうふうに、されたの……」
聞いた瞬間から、腹の底が冷えていく。
それでも、口をついて出る答えは変わらない。
「問題ない。俺に考えがある」
風が吹き荒れる中、片手を外し、懐へ入れたままだったものを取り出す。
路地の石畳から拾い上げた、そのままの形で。
タマの右手首、いつもは水色のブレスレットがあるはずの場所に、俺はそれを結ぶ。
強く、しかし血の道を止めない程度に。
触れた瞬間、荒れていた魔力の流れが鈍る。
完全ではないが確かに変わった。
「……世界樹の葉の紐」
堰き止めた水が、別の場所から漏れて溢れるのと同じで、紐はその場凌ぎにしかならない。
タマの中に打ち込まれた命令そのものを、断ち切る力まではない。
「……やっぱり無理……」
タマの声が弱くなる。
「完全には抑えられない……自分でどうにかするから……どっかに行って……」
その言葉の途中でタマの身体を回し、無理やりこちらへ向かせる。
「玉藻」
タマの目に溜まった涙が、瞬きのたびに落ちていく。
引きつる口元を必死に噛み締め、荒れる呼吸を抑え込もうと、小さな肩に力が入っている。
俺はその頭に手を置き、ゆっくりと撫でると、そのまま額に口付ける。
「!?」
タマの目が見開かれると、荒れ狂っていた風が、一瞬だけ止まった。
それは、ほんの一時だけで、次の瞬間には再び草が伏し、俺の頬を風の刃が掠めていく。
それでも、タマの目だけは大きく見開かれたまま固まっている。
唇を離すと同時に、懐から小さな包みを取り出す。
「俺は衝動には少し詳しいんだ」
開くと、中には小さな飴がいくつか入っている。
「……え?」
「タマを怒らせた時のために、最近はいつも持つようにしている」
タマの目が、涙を溜めたまま丸くなる。
「……自覚あったの?」
「何の話だ」
「私を怒らせてる自覚!」
さっきまで震えるばかりだった声に、聞き慣れた声音が戻る。
その間にも風は俺の袖を裂く。
……だが、それでいい。
今のは、誰かに決められた声ではない。
飴を一つ摘み、タマの唇の間へそっと押し込む。
抵抗する余裕すらないのか、タマは黙ってそれを口に含む。
甘い味が舌に広がったらしく、タマの眉が少し寄り、風が止む。
「……これ、前に私が美味しいって言ったやつ」
「だから持っている」
「そういうことだけ覚えてる……でも、こんなの、一時凌ぎにしかならない」
「それでいい。一人でどうにかしようとするな。俺もいる」
タマの指が、俺の直垂を掴む。
「……でも、傷つける」
「もう傷ついている」
「それはそうなんだけど! そうじゃなくて……」
つい先ほどまで一緒にパフェを食べる話をしていたはずなのに、耳に届いたその声は、どこか遠く久しぶりのものに思えた。
「……じゃあ、ここにいて」
タマの指先が、俺の袖を強く握ったまま離れない。
九つの尾のうち一本だけが、ゆっくりとこちらへ伸びてきて、すぐに引っ込んだ。
紐だけでは足りないということは、分かっていた。
以前、アルティシアを縛っていたものとは、比べものにならない。
身体の表へ滲み出ている糸のような流れを一つ辿ると、その先で三本に分かれ、うち二本はまた奥へ沈んで元の流れへ戻っていく。
視えるのはそこまでだが、それでも分かることがある。ほどこうとした場所へ、別の流れが回り込んで締め直すように組んである。
……これを編んだ者は、時間をかけている。ほどかれることを、はじめから考えて編んでいる。
俺の眼では、端まで視えない。
これを解けるのは、限られた者たちのみだろう。
「ノクティス」
足元の影がわずかに揺れ、黒い影が肩の上に形を取ると、いつもより輪郭を小さく縮め、タマの方へ影の手を伸ばす。
「イバラキに伝言を頼む」
影がわずかに伸び、闇へ溶けるように消えた。
戻るまでの間、俺はタマを離さずにいた。九つの尾が逆立ち、震え、また逆立つ。
ふと、雨上がりの土の匂いが、どこかで立った気がした。
……錯覚だろう。
腕の中で、九つの尾のうち一本だけが、今度は迷わずこちらへ伸びてきた。
「……飴……もうひとつ、ほしい」
言い終わる前に、タマは自分から口を開けていた。
俺はその口へ、そっと飴を入れる。
「言っただろう。俺は、衝動には詳しい」
「……その説明で飴が出てくるのおかしくない?」
「そうか」
丘の上の風は、まだ揺れている。
だが、先ほどのような荒れ方ではない。
*
教会の治療室は、静かだった。
高い窓から差し込む光は柔らかく、白い壁に一度跳ね返ってから部屋全体を淡く照らしていて、乾いた布と薬草の匂いの底に、血の匂いはもうほとんど残っていない。
ベッドの上のリラは、掛布がそれと分かる程度にわずかに上下するだけの浅い呼吸を繰り返しているが、その間隔だけは乱れていない。
その傍らでセレスティアが手を離すと、手のひらに残っていた淡い光が、ゆっくりと消えていく。
「もう大丈夫ですよ……あとは安静にしていれば、すぐに良くなりますから」
柔らかい声と優しい微笑みでそう言うセレスティアだったが、その笑みの奥にはわずかな疲労が滲んでいる。
腕や服の隙間から覗く包帯は、まだ完全には治りきっていないことを静かに示している。
それでも、表情を崩さないまま、治療を続けてくれた。
肩から力が抜けていくのが自分でも分かって、ハルは深く息を吐きながら背を丸める。
「……ありがとうございます」
頭を下げるその隣で、アウルは落ち着きなく部屋を見回している。
壁、窓、天井、ベッドへと視線が定まらず、初めての景色に興味を惹かれているのは分かるが、触れてはいけないということだけは弁えているらしい。
背後で、カイランが小さく息を漏らすのが聞こえる。
「いつもその顔なら、俺も安心して”聖女様”って呼べるんだけどな」
軽く言ったカイランに、セレスティアの眉がぴくりと動く。
「……その呼び方、やめて」
「元気そうで何よりだ」
カイランは気づかないふりでもしているのか、そのまま肩をすくめてみせた。
黙って眺めているつもりだったのに、どうにも我慢がきかなくなって、ハルは口を挟む。
「……なあ、二人ってさ」
言い終える前に、セレスティアの視線がハルへ突き刺さる。
何も言っていないのに、それだけで続きを封じるだけの圧があった。
ハルは慌てて肩をすくめると、両手を上げて降参の意を示すよりほかになかった。
カイランはその一部始終を眺めて、苦笑する。
「で、何があった?」
カイランの声が変わると、空気が少しだけ引き締まった。
ハルは、何も言わずただ首を横に振る。
リラの指先がわずかに動き、布の上で小さく震える。
「……天網の狂帝」
かすれた声だったが、その一言だけで病室の空気が変わった。
セレスティアの肩がかすかに揺れたのが視界の端に入るより先に、ハルの身体はもうベッドへ傾いていて、口の方が勝手に動いている。
「リラ!?」
喉から飛び出した声は、自分でも驚くほど大きく病室に響いた。
リラの瞼がゆっくりと持ち上がり、焦点の曖昧なままでも確かに意識が戻っているのが分かる。
唇が、ゆっくりと動く。
「……魔族が二人現れて……戦闘になったの」
言葉を探すように途切れながら、リラは続ける。
「でも、その魔族は問題なく倒せた。そしたら……ガグンさんが、いつの間にか、そこにいて……」
浅い息が、一度だけ長く続く。
「……タマさんが、言ったの。あの人が、《天網の狂帝》だって……」
その「いつの間にか」という一言だけで、部屋の温度がすっと下がった気がした。
「また、あの刻印の魔法……か」
カイランが奥歯を噛み締めるように呟く。
「気づくことそのものを、遅らせたのかもしれない」
「……タマさんの、世界樹の葉の紐を……奪って……」
息が浅くなり、喉が詰まるように震えながらも、リラは言葉を止めない。
それまで落ち着きなく部屋をさまよっていたアウルの視線が、ぴたりと止まってリラへ向く。
カイランの指もまた腰の聖剣へ伸びかけたが、柄に届く手前で行き場を失ったように止まる。
「……タマさんは__」
言いかけたリラに、ハルがすぐに被せた。
「喋るな。報告書なら俺が代わりに書く」
リラの目が、わずかに細くなる。
「……あなたが?」
「何、その反応」
「不安」
「怪我人に心配されたよ。俺、これでも、斥候なんだけど」
軽口を叩き合っているつもりでいたのに、自分の口から出た声は思っていたよりずっと掠れていて、それをどうにも隠しきれなかった。
それを遮るように衣擦れの音が立って、見ればセレスティアが腰を上げようとしている。
治療を終えたばかりの手のひらを寝台の縁につき、そのまま身体を起こしたところで、引き攣れた傷が痛んだのだろう、眉がほんの一瞬だけ寄って、すぐに元へ戻った。
それでも、座り直そうとはしない。
「それで? 奴は?」
先ほどまでリラへ向けていた”聖女の微笑み”は、もうどこにもない。
聖女と呼ばれても信じられないほど、鋭い目をしている。
その姿をしばらく黙って見ていたカイランが、ようやく口を開く。
「……三分くらい前に、安静にしろって言ってなかったか?」
「リラさんに言ったの」
「お前も患者だろ」
セレスティアの眉が、ぴくりと動く。それでも言い返す言葉が見つからないのか、唇を引き結んだまま黙り込む。
カイランがそっと肩に手を置く。
「落ち着けって」
「……落ち着け、じゃない。あんたこそ……」
言いかけて、セレスティアは口を噤む。視線が一瞬だけ、カイランの腰の聖剣へ向く。
「……なんでもない」
そっぽを向く仕草があまりに露骨だったので、隣で聞いているこちらの肩まで震えてしまう。
「今の、絶対”なんでもない”じゃなかったよな」
セレスティアの視線が鋭く突き刺さり、言葉ひとつ寄越されないまま、ハルはもう一度、首をすくめる羽目になった。
カイランは今回も何も言わず、ただ視線を天井のあたりへ向けただけだった。
リラは息を整えながら、続ける。
「……変な文字みたいなのが浮かんで……ミルザの時と同じだった……」
指がシーツに食い込む。
「そしたら……タマさんに、攻撃された……」
その一言で、部屋の空気が止まった。誰も、すぐには言葉を返せない。
シーツを掴んでいたリラの手が、一度だけ小さく震えたかと思うと、力が抜けたようにほどけていく。
「……違う」
ハルは、止めなくてはならないと喉が動きかけたが、シーツを掴み直したリラの指が目に入って、そこで声が引っ込んだ。
路地の石畳を掻いていた、あの指だ。あれだけの血を流してなお、こいつは意地でも自分の口で言い切るつもりでいる。
……どうせ、言わせてやらないと寝やしない。
ハルは開きかけた口を、そのまま閉じる。
「タマさんじゃない……あの人、最後まで止めようとしてた」
浅い呼吸の合間を縫うように、リラは言葉を押し出す。
「私を攻撃するたびに……顔が、苦しそうだった。だから……タマさんを、敵みたいに扱わないで」
リラの手が胸の前で握り込まれ、震えを押し殺すように力がこもってから、ゆっくりと開かれていく。
「……その後のことは、わからない……」
言い切ってしまうと、そこで糸が切れたように瞼が落ち、あとはもう持ち上がらなかった。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
カイランが、ゆっくりと息を吐く。
「リラさん」
努めて穏やかな声で続ける。
「まずはここでゆっくり寝て傷を完全に治そう。話はそれからだ」
言いながら視線を横へ流し、セレスティアを見る。
だが、セレスティアの視線はカイランを素通りして、壁に立てかけられた聖なる長杖の上で止まり、それを追ったカイランもまた、そこから目を離さない。
言葉はひとつも交わされないまま、二人の間で何かが決まっていくのが分かるのに、それが何なのかだけは、こちらへは届いてこなかった。
少しして、セレスティアは何か言いかけた唇をそのまま尖らせると、拗ねたようにそっぽを向く。
「……行くなら、行けばいい」
声だけはひどく素っ気ない。
カイランが先に立ち上がり、軽い調子で言う。
「俺、ちょっと急用を思い出した」
セレスティアが顔を上げる。
「は?」
間の抜けた声が漏れた。
「じゃあ」
その時にはもう、カイランの手は扉にかかっていた。
「ちょっと、カイラン?」
呼び止める声を背に受けながらも、振り返らずに部屋を出ていく。
「本当に……行くなんて……バカ」
ハルはベッドの脇から動かなかったし、動く気にもならなかった。
誰かひとりくらいはここに残らなければならないというだけの、それだけの話だ。
*
廊下は静かで、外の光が床に長く伸び、足音だけがやけに響いていた。
カイランの歩幅は速い。指先が無意識に聖剣の鞘へ触れ、すぐに離れる。
その背に、気配を感じる。
「古竜君、君も?」
振り返らずに言うと、後ろの軽い足音が止まる。
肩越しに一度だけ見ると、さっきまでの落ち着かなさは、その顔からもう消えていた。
カイランの足が、少しだけ緩む。
「……タマちゃんが、リラさんを傷つけたのを聞いただろ」
アウルは少しだけ止まってから、答える。
「聞いた」
「それでも行くのか」
「だから、行く」
短いやり取りだけで、それ以上は何も付け足さなかった。足音が、二つに増える。




