第27話 もう、いい
迷いの森は、異様なほどに静まり返っていた。
風はなく、枝も葉も揺れない。かすかな土の匂いと、強い血の匂いが空気に混じっている。
音が存在しないという事実が、カルミラをより深い緊張へと誘っていく。
森が、止まっている。
百年、追われて生きてきた。追われることには慣れている……つもりだった。
地面にはミルザが倒れている。動かず、胸の上下もない。
流れ出た血は青黒く濁り、周囲へ広がっている。
少し離れた場所では、スイウンが地面に寝たまま、かすかに痙攣している。
指先が土を掻き、空回ったような呼吸音がかろうじて命の残りを示している。
ヤグは肩を上下させながら荒い息を吐き、手にした魔道具を強く握り締めている。
彼の視線の先に、カルミラを遂に追い詰めた存在が立っている。
油断などしていなかった。胸元で光る魔石が、常に彼の居場所を伝えてくれていたし、気配を感じた瞬間もなかった。
それなのに、気づいた時にはすでにそこに在った。
思い出せば、それが、いつも彼のやり方だった。百年経っても、変わらない。
真っ直ぐに伸びた紫の髪が、わずかに揺れている。
風は吹いていないはずなのに、黒のロングコートの裾だけが、ゆっくりと波打つ。
喉元の真紅の魔石が、しっかりとした光を放っている。
《血の血統》・クロウゼル・ヴラド。
その視線がカルミラを捉えている。カルミラの頬が、ピクリと動く。
額に浮かんだ汗が頬を伝い、顎の先で一滴、音もなく落ちる。
それでも彼女は口角を持ち上げ、崩れかけた表情を無理やり整える。
長い時間をかけて磨き上げてきた仮面だ。これでどんな状況からも生き延びてきた。
今更、外し方を忘れてしまったりなどしない。
「……久しぶりね、クロウ」
軽く言葉を投げるように見せながら、その声には抑えきれない震えが滲んでいる。
クロウゼルは答えることなく、ただ、ゆっくりと距離を詰める。
カルミラは後ずさる。だが、気づけば目の前にいる。
瞬きをしたわけでもない。地面を踏む音は聞こえず、空気の流れすら変わらない。
カルミラの肩が、わずかに跳ねた。逃げる意志が働くより先に、身体が反応していた。
誰よりも他人の恐怖を読み、弄んできた自分の身体が、今は誰よりも雄弁に恐怖を語っている。
その皮肉に、笑いすら出てこない。
クロウゼルの手が、ゆっくりと持ち上がる。
白く整った指先が、ためらいもなく彼女の頬に触れる。
カルミラの呼吸が、一瞬だけ止まる。
その指の冷たさに、覚えがあった。百年以上前、カルミラがまだ何者でもなかった頃、同じ指が同じように頬を撫でたことがある。
あの時は、これほど恐ろしくはなかった。むしろ、この冷たさが、彼女をこの世界に繋ぎ止める錨のように思えた時期さえあった。
今、同じ指先に触れられて、カルミラの中に湧き上がったのは、恐怖だけではなかった。
この温度が、どうしようもなく、懐かしい。
カルミラは、彼自身の手でヴァンパイアに変えられた、初めての”人族”だった。
この指が最初に自分に触れた日、彼は確かにこちらを見ていた。
人だった身体が作り変えられていく……あの一瞬だけ。
それから百年、彼の目に自分が映ったことは、一度もない。
指はそのまま滑るように下り、首元へと移る。
カルミラは目を瞑り、顎をそっと上げる。
細い紐に触れ、軽く引くと、小さな音と共にネックレスが外れる。
カルミラはもう一度目を開いたが、抵抗はしなかった。あるいは、できなかったのかもしれない。
この百年、追われ続けることこそが二人を結ぶ唯一の糸だと知っている自分が、その糸を今、彼自身の手で断ち切られていく様を、ただ見ていることしかできなかった。
胸元が、軽い。百年、あの重さだけを信じていた。
クロウゼルはそれを手のひらに乗せ、森の隙間から差し込む光にかざす。
赤い魔石が、わずかに揺らめいた。
角度を変え、色を確かめるように見つめるその仕草は、丁寧で、慎重で、どこか愛でるようにも見える。
やがて、口元がゆっくりと歪む。どうしようもなく悪い嗤いに見えた。
「……っくくく」
堪えきれなかった笑いが、クロウゼルの喉から漏れる。だが、その小さな声が森に広がる。
カルミラは、その笑みをじっと見つめる。
彼の”唯一”。だから、奪った。追われている間だけは、その目が自分を映すと思ったから。
それでも、彼が見ていたのは自分ではなく、持ち去られた魔石だけだった。
石を愛でるその手のひらの優しさが、自分に向けられたことは、一度でもあっただろうか。
思い出そうとして、思い出せない。
それすらも、今はもう、どうでもよくなっていく。
彼のことを心から想っていた。
”唯一”に自分がなりたかった。
……でも、もういい。
つい先日、森で、白銀の尾に包まれた男と女が互いだけを見ていた。
カルミラがすぐ側に立っていたのに、あの二人は一度もこちらを見なかった。
百年、男は必ずこちらを見て、女は必ず妬み、牙を覗かせれば我先にと逃げる。
そればかりだった……あんなものは初めて見た。
『羨ましかったのでしょう』
あの時、スイウンにそう聞いたのは、自分だった。
……でも……だから、もういい。
ヤグが、反射的に動いた。
懐から小瓶を取り出し、歯で栓を引き抜き、そのまま喉へ流し込む。
苦い薬の匂いが空気に広がり、身体の内側から魔力が膨れ上がる。筋肉が強張り、唇の端から涎が垂れた。
そのまま地面を蹴り、全力でその場を離れる。
だが、次の瞬間には止まっていた。ヤグの前にクロウゼルがいる。
距離というものが、意味を失ったとしか思えない速さ。
その一瞬だけ、ヤグの顔からいつもの凪いだ無表情が剥がれ落ちた。
目を見開き、口が薄く開く。感情を表に出さないはずの男が、初めて隠しきれない怯えを晒す。
カルミラは、その一瞬をはっきりと見た。魔族の幹部でさえ、この男の前では冷静を取り繕えない。
頭のどこかが、妙に冷えていくのを感じる。
さっきまでとは違い、今なら身体は動く。
彼の意識は完全にヤグへ向いている。逃げるなら、今しかない。
それなのに、なぜか足が動かない。クロウゼルから目が離せない。
もういい、と思った……はずなのに。
ヤグが声を上げるより早く、首元に牙が触れると、小さく短い呻き声が場に響く。
血の匂いが、わずかに残っていた土の匂いを飲み込んで、一気に広がる。
ヤグの身体から力が抜け、膝が崩れると、そのまま地面へ倒れ込む。すぐに胸が震え、痙攣が始まる。
クロウゼルはその様子を、ただ静かに見下ろしている。
その眼差しに、カルミラは唇を強く噛んだ。牙が薄く唇を傷つけ、赤い血が垂れる。
その目が、これほど長く自分の元に留まったことが、あっただろうか。
今、その目は、彼女ではなく、地面に崩れる見知らぬ男の血の色にだけ注がれている。
唇を噛んだ場所が、まだ熱い。
「……惨めね」
思わず口から溢れ出た。
こんな感情の名前を、自分はもうずいぶん長いこと使っていなかった。
それでも、これが最後の隙だ。
クロウゼルの視線がよそに向いているうちに、カルミラは音もなく身を翻す。
振り返らない。振り返れば、また足が動くことをやめてしまうと分かっていたから。
木々の合間へ、影のように溶けていく。誰の目にも留まらぬまま。
*
クロウゼルは、口元に付いたヤグの青い血を、舌で舐め取った。
そのまま手を差し出すと、手のひらを強く握り込む。
拳の隙間から血がこぼれ落ち、赤い雫がヤグの口元に触れる。
開いた唇から流れ込み、少しすると、ヤグの身体が大きく跳ねた。
痙攣が激しさを増し、背が反り、指が土を掴む。
呼吸は乱れ、音にならない声が漏れるが、それを止めようとする者は誰もいない。
クロウゼルは、ヤグの変化をじっと見ている。
やがて、自らの喉元へ手を伸ばすと、カメオから真紅の魔石を外し、先ほど奪ったばかりの欠片と向かい合わせる。
ゆっくりと近づけていき、二つの欠けた魔石が触れた瞬間、光が大きくなる。
二つの赤は混ざり合うように、赤い光のなかで輪郭がはっきりとし、ひとつの光として収束していく。
歪みも欠けもない、綺麗な八面体の赤い魔石となった。
クロウゼルがそれをヤグの胸元へ押し当てると、触れた瞬間、あまりにも唐突に痙攣が止まる。
ゆっくりとヤグの目が開き、ぼんやりとしていた焦点が徐々に合っていく。
口元には、先ほどまではなかった牙が薄く覗いている。
クロウゼルは魔石をヤグの胸元から離すと、欠けのなくなったそれを、喉元のカメオへ嵌め直す。
クロウゼルの口元が、わずかに緩む。
「ガグンに、よろしくお伝えください」
挨拶に近い響きの穏やかで丁寧な声音。
ヤグの足元は不安定で、身体は揺れているが、倒れることもなくゆっくりと立ち上がると、そのまま振り返ることなく、森の奥へと歩きはじめる。
クロウゼルはその背を一瞬だけ見送り、静かに視線を戻す。
彼はカルミラが立っていた場所を、最後まで一度も見なかった。
その時、震えた声が、森に響く。
「……見つけた」
森の奥から、重く、鋭く、抑えきれない感情を含んだ存在が近づいていた。
木々の間から現れた三つの影の先頭で、ルヴィンが歯を食いしばる。
ルヴィンの鼻先が、わずかに動き、顔が一度、カルミラの向かった森の奥へ向く。
それから、正面へ戻った。
「……一族郎党の仇」
絞り出すような声で呟く。
クロウゼルは、わずかに首を傾ける。
「……銀狼? まだ生き残りがいましたか。本当に……しぶとい」
後方でエルヴィナが弓を引く。ぎり、と弦が絞られ、水が集まり矢の形を成す。
透明な刃が、静かに空気を裂く準備を整える。
ゼノンが眼鏡を押し上げ、身体に集まる魔力の濃度をゆっくりと増していく。
クロウゼルは構えもせず、魔力を溜める気配すら見せず、ただそこに立っている。
森は依然として静かなままだった。音も、風も、空気の流れすらも。
*
どこかで、鐘が鳴っている。昼を告げるいつもの音が、路地の入り口から入ってこない。
通りの喧騒は、すぐそこに確かにある……はずだった。
人の声も、荷台の車輪の音も、ざわめきも、路地に足を踏み入れた途端に遠ざかり、まるで遠い場所の出来事のように感じられる。
湿った空気がこもり、焦げた匂いや石粉の匂い、血の匂いが混ざり合って、この場を埋めている。
路地裏の奥に、リラの身体は横向きに倒れ、腕が不自然な角度で投げ出されている。
衣服の一部は焼け焦げている。その先、石壁が白く毛羽立っている。
近づいて視るが、これは刃で削いだ跡ではない。表面だけが、薄く撫で剥がされている。
山の尾根で、風の通り道にある岩がこうなる。ただし、あれは幾百年もかけて削れたものだ。
これは、一息でやっている。
削れた縁に、まだ細い流れが残っていた。渦を巻きながらほどけていく、その癖に覚えがある。
……タマだ。
リラの呼吸は続いていたが、浅く、今にも途切れそうな頼りない動きに過ぎない。
「リラ!!」
ハルの声が路地の狭さに反響する。駆け寄って膝をつき、懐から瓶を取り出す。
栓を抜く短い音が響き、リラの顎を支えて無理やり口を開かせる。
「飲め……おい、飲めって……!」
瓶を傾ける手が震えている。透明な液体が口元から溢れ、頬を伝って石畳へ落ちるが、それでも構わず流し込み続ける。
わずかにリラの喉が動いたのを見て、ハルがようやく息を吐く。
その光景を、俺は少し離れた位置から視ていた。
倒れたリラ、焦げた石畳、壁に残る傷跡。
眼に映るものを一つずつ確認していくが、意識はその全部を素通りしていく。
留まらせるだけの余裕が、今の自分にはなかった。
リラと一緒にいるはずのタマが、いない。
ふと視線を下げた先に、何か細いものが落ちている。
石畳の上にあるそれは、アウレオンにもらった守りの紐。
思わず手を伸ばし、拾い上げる。
何度か、邪魔そうに指で弄っているのを視たことはある。
それでも、外したところは一度も視ていない。
俺が酒へ手を伸ばせば呆れた顔をして、甘味を見つければこちらの返事も待たず歩き出す。
そんな時でさえ、これはいつもタマの手首にあった。
それが今は、石畳の上にある。
あいつは、洗脳や暗示から身を守ってくれるこれを、自分から外したりしない。
”外された”のだろう。
これを外させることに意味を見出す手合いを、俺は何人か知っている。
噴水の前で笑っていた男と、カルミラ、ヤグ、そしてガグン。
全員、この眼の前にいた。そして俺は、その誰ひとり、止めなかった。
奥歯を、噛み締めた。
リラの脇で、ハルの声が荒く響く。
「クソッ……誰がやりやがった……!」
音としては届いているのに、それでも、意味としてはどこにも残らなかった。
背後で、軽い足音が路地へ踏み込んでくる。振り向くと、そこにはアウルが立っていた。
アウルの肩にはノクティスが乗っている。
あの二人は、俺たちが戻るまで冒険者ギルドで留守番をしているはずだった。
「何があったの? タマは?」
声の高さが、いつもよりわずかに上ずっている。
ハルが視線を少し落として、唇を噛み締める。
俺は手の中の紐を強く握り締める。
ぱち、と乾いた音が耳の奥で鳴ると同時に、空気がわずかに揺れ、身体の周囲を稲妻のような蒼白い光が、触れた空気を焼くように跳ねる。
焦げた匂いが、新しく立ち上った。
ハルの動きが、止まる。
背後で、草履が石を擦った音が聞こえる。アウルが一歩、近づいているが、そこで止まっていた。
いつもなら迷いなく間合いを詰めてきていただろう。だが、二歩目は来なかった。
その肩の上で、ノクティスの影が這うように伸びかけ、途中で止まる。丸まりも尖りもせずにいる。
「……ゲドーマル?」
アウルの声がいつもより、少し小さい。怯えたような震えが滲んでいる。
俺の視線はまだ紐を視ているが……心は別のところにある。
「……そうか」
ようやく口から出た言葉は、それだけ。
空いた手が、無意識に腰の徳利へ触れる。
中でイバラキが詰めた白葡萄酒が揺れる音がする。
その手は、そのまま通り過ぎ、左腰にある《終座》に軽く触れる。
柄の冷たさが、手のひらにじんわりと染みてくる。
ハルの目が、俺の顔からそこへ動き、アウルの目も、同じ場所で止まる。
ノクティスの影は、動かなかった。
『外道丸、人の顔に戻ってる。角、ないよ。よかった……よかった』
大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。手のひらを、柄から離す。
……サエ、俺はどうするべき……だった、のだろうな。
「……いや、まず、どうするべきか、だな」
ゆっくりと、顔を上げると、路地の奥が視界に入る。
光の届かない先、空気の淀み方がわずかに違う場所を、眼が捉える。
眼を、瞑る。
息を止めるようにして、いつもと同じ要領で、意識を路地の先へ伸ばしていく。
円を広げるようにしながら、あらゆる生命の氣から選別する。
身体の周囲を走っていた蒼白い光が、わずかに強さを増していく。
ジジジッと音を立て、紫へ色を変えながら空気を裂く。
「……いた」
声にしたと同時に、そちらへ向かおうとしたが、石畳の上で何かが小さく擦れる音に身体が止まる。
音のした方に眼を向けると、リラの力の入らない指先が、ほんのわずかに石を掻いている。
「おい……待て」
声に、いつもの軽さがなかった。
顔を上げると、ハルがリラの傍らに膝をついたまま、片手で首筋を支えている。
「こいつを置いていくのか」
石畳の上で、リラの指先がわずかに動いた。呼吸はまだ浅い。それでも、続いている。
タマの氣は、この先にある。リラの息は、まだここにある。
どちらも、消えていない。
だからこそ、どちらかを選ぶという考えが、ひどく気に入らなかった。
「……リラを頼む」
それだけ言った。
ハルはリラの顔に視線を落とし、眉を顰めるが、すぐに俺に視線を戻す。
「……言われなくても」
ハルの声に、いつもの軽口は戻らなかった。代わりに、射抜くような眼差しだけが静かに俺を捉えている。
「タマは俺が連れ戻す」
石畳の表面がわずかに焼け、草履の下で小さく音を立てる。
地を蹴るより先に、氣を前へ走らせる。
目には映らない一筋の流れが、人々の足元を縫うように通りの先へ伸びていき、行く手を塞いでいた空気が、水を切る刃の前で分かれるように左右へとほどけていく。
同時に、神眼をいつもより深く開く。
景色の輪郭が薄れ、代わりに、人の内側を巡る氣の流れが浮かび上がる。
荷を抱えて道を横切ろうとする男は、肩より先に腰が左へ傾いている。
その隣では、母親の手を握った子どもの氣が、店先に並ぶ赤い果実へ引かれるように揺れている。
振り返ろうとしている女、足を止めかけている老人、背後から押されてよろめく商人。
動きが、氣の偏りとなって一瞬早く視えてくる。
そのすべてを避ける。
男が足を出すより前に背後を抜け、果実へ駆け寄ろうとした子どもの前では歩幅をわずかに縮め、その小さな身体が進むはずだった場所だけを残して横を通る。
触れれば、その速さだけで相手を傷つける。
だからこそ、神眼は一人ひとりの氣を拾い続け、前へ伸ばした氣は空気だけを静かに分けていく。
踏み込むたびに石畳が鳴ったが、その音が人々の耳へ届く頃には、俺はすでに次の人波の中へいる。
踏み込むにつれて、焦げた空気の匂いが、街の匂いに紛れていく。
「タマ、すぐに行く」
俺の中の答えは、その後だ。




