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第26話 静かなる揺れ


 ドゥールの働く魔道具屋の扉を押し開けると、蝶番の軋みが低く響き、その音の余韻が消えるより先に、外の光が目に飛び込んでくる。


 工房の中で慣れきっていた薄闇から一歩出ただけで、世界は目が眩むほど眩しかった。


 目を細めると、白く滲んでいただけのものが、少しずつ街の形を取り戻していく。


 乾いた風が頬を撫でていき、鉄と油の匂いが、肉や魚の焼ける香りに上書きされる。


 そこへ熟れた果実の甘い香りまで混じり、この街そのものの匂いがする。いつの間にか、鼻の方が先に馴染んでいる。


 一歩、石畳へ踏み出す。俺の左手には今、いつもとは違う小さな感覚がある。


 視線を落とすと、人差し指に嵌めた指輪が、陽の光をぼんやりと反射している。


 銀の地に、細い黒の筋が一本。さらに深く視ると、その内側で、細い流れが眠ったまま静かに巡っている。


 違和感は特になく、もう随分と長く身につけている気さえする。


 ドゥールに頼んでおいた、新しい魔道具のひとつ。


 そして、もうひとつ。


 肩に担いだ布包みが、歩調に合わせてわずかに揺れる。


 金棒よりも細いが、金棒よりも硬く、ずしりとした重みがある。


 馴染んでいない道具は、重さではなく、こういう静かな違和感で肩に残る。


 本来なら命を賭けた戦いで、慣れないものなど使いたくはない。


 ……だが、必要だ。


 ハルが歩調を合わせ、すっと俺の隣に並ぶ。


 「それ、急ぎか?」


 人の流れを軽く避けながら、視線だけをこちらへ寄越す。


 その視線が、肩の布包みから俺の顔へ移る。


 「夜にはドゥールも棲家に来るだろ?」


 通りの向こうで、子どもが甲高い声を上げて走り抜けていく。


 露店の男が声を張り、値切ろうとする客と軽口を叩き合っている。


 誰かの屈託のない笑い声が聞こえてくる。


 俺は肩の布包みを一度だけ担ぎ直してから答える。


 「早い方がいい」


 短く言っただけのつもりだったが、横を歩くハルの歩幅が、ほんのわずかに乱れた。


 何かを問いかけようとした口の動きが、途中で止まる。


 「……いや、違うな」


 「何がだ?」


 「俺は今、その魔道具の話をしたかったわけじゃない」


 「聞いたのはお前だろ?」


 「会話の入り口を探したんだよ。まさか、その一言だけで話を終わらされるとは思わなかった」


 言っている意味がよく分からず、肩の布包みをもう一度、担ぎ直す。


 「……しばらく街を出るしな」


 「……やっぱり決定事項なんだな」


 ハルは一度こちらを見たあと、何かを諦めたように空を仰ぐ。


 「俺、こんなことしてる場合じゃないんだけどな」


 「歩きながらなら、他のこともできるだろ」


 「……そういう意味じゃない」


 ハルが髪を掻き上げ、そのまま指を止める。軽口が、出てこないらしい。


 左手の人差し指へ、親指を滑らせた。


 ……これで、いい。


 しばらく街を離れる決意をした時にタマが見せた、貼り付けたような虚勢の笑みが、未だ頭の隅で引っかかっている。


 あれから、まださほど時も経っていないというのに、遠い記憶のように感じる。


 それでも、ガグンという名を思い出すたびに、胸の奥で何かが静かに揺れる。


 街を出る、出ないの話ではない。


 守るべきものは、多くなくていい……だが、譲る気もない。


 『世界はね……きれいには、とじないの』。


 タマの本当の笑顔、イバラキの小言、レオンの槍、畑の土を手で払うアルティシア、ドゥールの工房から漂うこの油の匂い、洞窟に根付いた生活。


 今度は取りこぼさずに守れるだけの力が要る。


 ……二度と失う気はない。


 指輪の細工で誤魔化してきたのも、肩のこれも、そのための助走だ。


 石畳を踏む俺の草履とハルの靴の音が、一定の間隔で続いていく。


 その足音の合間で、風が、少しだけ重くなる。


 鼻の奥に、焦げたような匂いが、ほんの一瞬だけ紛れ込む。


 気のせいだ、と胸の内で言ってみる。


 露店の魔道具、通行人の身につけた装身具、井戸の浄化陣。街の魔力の流れは、いつも通り緩やかに巡っている。


 晴れ渡った空の下だというのに、嵐の前に肌の産毛が一本ずつ起きていく時の感覚に似ている。


 言葉にするほどのことではない。だが、消えない。


 ハルが前を向いたまま、声だけをこちらへ寄越す。


 「なあ、少しいいか……ルキアス殿下の話なんだけど__」


 その言葉が終わる前に、空気が一度、硬く張り、街の音が一息に遠のく。


 風がぴたりと止まり、次の瞬間、遠くで何かが引き裂かれる。


 視線が勝手に上を向く。


 紅赤の光が視界いっぱいに弾けると、遅れて轟音が届く。


 空気そのものが叩きつけられるように震え、焦げた匂いが、風に乗って一気に押し寄せてくる。


 ……雷だ。


 繁華街。タマとリラが向かった方角。


 「……リラだ」


 呟いた声は、自分でも驚くほど低かった。


 ハルの足が、止まる。


 「は?」


 隣から声が遅れて返ってくる。だがその頃にはもう、俺は石畳を蹴っていた。


 風が耳でうなる。担いだ魔道具の重みが肩に食い込み、人の波が悲鳴混じりに割れていく。


 誰かの肩に触れると、怒った声が上がり、鋭い視線がいくつも突き刺さってくる。


 構っていられない。


 「おい、待て!!」


 背後でハルが息を切らしながら、それでも足を緩めず追ってくる気配がある。


 さっきまで、この街は変わらずいつも通りの顔をしていた。


 子どもが走り、露店の声が響き、誰かが笑う。


 世界は何一つ変わっていないように視えた。


 それなのに、鼻の奥の焦げた匂いが、濃くなっていく。


 *


 王都近郊の平原は、すでに原形を留めていなかった。


 踏み荒らされた草は黒く焼け、乾いた土はひび割れ、焦げた匂いが場を覆い尽くしている。


 風は吹いているのに、ゲルの焔がもたらした熱は、流れることなく漂っている。


 ガルムが短い詠唱と共に地面を踏み抜くと、踏み込みと同時に土が弾け、地面に亀裂が入る。


 その沈みをそのまま力へ変え、槍を横薙ぎに払う。穂先から放たれた炎の跡が、空気を裂いて走る。


 「穿(うが)て焦熱の牙ーー《焔衝(えんしょう)》」


 放たれた火線が一直線にゲルへと迫る。炎がゲルを飲み込もうとした瞬間、彼女の腕に刻まれた文字が、淡く光を放つ。


 そして、炎は当たらない。


 ゲルは身体をわずかに傾けただけ。それは、避けたというより、その刹那だけ"そこにいなかった"かのように、炎は何も焼かずに通り過ぎていく。


 だが、完全な無傷ではなかった。傾いだ拍子に炎の先が頬をかすめ、細い青の線が一本、皮膚に浮かぶ。


 ヴァルクスは、その一瞬を目に焼き付ける。


 互角ではないにしろ、届いている。


 「ははっ、遅いな」


 ゲルの笑い声が聞こえたと同時に、間合いが消えていた。踏み込みの動きすら見せず、ゲルはすでにガルムの懐に入っている。


 振り上げられた槍が、空気を裂くような鋭い音とともに振り下ろされる。


 ガルムは咄嗟に柄で受ける。金属がぶつかる音が平原に響き渡る。


 一撃を受け止めた衝撃で、地面に無数のひびが走る。


 ガルムは歯を食いしばり、そのまま踏みとどまる。即座に膝を落とし、重心を低くすると、短く詠唱を開始する。


 「赤き熱よ、地に留まれーー《焔壁(えんぺき)・最大》」


 声と同時に炎が立ち上がり、空間を遮るように広がった熱の壁が、二人の間を覆い隠す。


 空気が一気に膨張し、熱風が肌を刺す。視界が揺らぎ、炎の向こうの輪郭が歪む。


 だが、その炎を、ゲルは躊躇なく踏み抜く。焼ける気配がない。


 炎が割れ、赤い火の粉が散ると、その中から現れた槍が、迷いなくガルムに向かって振り下ろされる。


 「軽い」


 ガルムが槍を振り上げ、弾く。ゲルの槍を受けるたびに、衝撃が空気を震わせる。


 踏みしめた地面がさらに沈み、すでに亀裂の入っていた足元の土が、さらに崩れる。


 確実に、押されている。それでも、彼は退かない。


 背後で、ヴァルクスは視線を前線から外さない。


 ガルムの踏み込み、ゲルの槍の軌道、空気の流れ、そのすべてを目で追いながらも、狙いは別のところにある。


 ハルバードの石突を地に突き立てたまま、地面へ魔力を流す。


 柄越しに伝わる感触だけで土の密度の在り処を測る。


 「千の岩石よ集い、硬質なる一閃となれーー《巌穿弾(がんせんだん)》」


 低く唱えた言葉と共に、土が盛り上がり、砕けた石が浮き上がる。


 それらを一瞬で圧縮し、弾丸のように撃ち出す。


 狙いはシグ。


 後方で魔導書を開いた女へ向けて、石の雨を降らせる。


 「……鬱陶しい」


 ここへ至るまで、放とうとした魔法をヴァルクスにことごとく潰され、その苛立ちは、もはやシグの表情から隠しきれなくなっている。


 杖をわずかに動かすと、宙の水気が一瞬で凝り、澄んだ刃となって走る。


 「流れよ清廉なる死の雫の刃ーー《水刃(アクア・カッター)》」


 飛来した石を正確に切り裂き、空中で粉砕する。


 砕けた破片が陽の光を受けて煌めき、すぐに力を失って地面へと落ちていく。


 これほど精密に魔法を操る者は、第三団にもいない……世界を探してもそうはいないだろう。


 だが、その技量に驚いている暇はない。間を置かず、次を放つ。


 角度を変え、速度を変え、圧縮の強弱までずらして連続して打ち込み続ける。


 狙いはただひとつ。文字を作るのを許さないこと。


 魔導書のページに指を這わせる暇すら、この女には与えない。


 二撃目、三撃目と続けるうち、石の軌道が、ただの飛来物とは違う動きを見せ始める。


 ヴァルクスは放物線を描くはずの軌跡を、途中で気づかれない程度に沈み込ませている。


 放った石そのものが、内側から重さを増していくかのように。


 シグの《水刃》の軌道に、わずかな遅れが生まれ始める。


 振るう速度は落ちていないのに、間合いの読みが少し遅れる。


 少しずつ乱れていく。完璧だったはずの応対に、ひびが入り始めている。


 その乱れを見て、ヴァルクスは、次の段階に進む。


 今なら狙いを変えることができる。


 石の一つを低く、地を這うように放つ。シグではなく、ガルムと打ち合うゲルの足元へ。


 爆ぜるような音とともに、ゲルの足元の土が弾ける。


 ゲルの動きが、ほんの一瞬、止まる。


 片眉がわずかに上がり、視線が肩越しに一度、ヴァルクスの方へ流れる。


 わずかだが、意識を割いた。


 すぐに興味を失ったように、視線はガルムへ戻る。だが、その空白を、ガルムは見逃さない。


 低く踏み込み、柄尻でゲルの脇腹を打ち抜く。


 鈍い音が鳴り、ゲルの呼吸が詰まった瞬間、腕に刻まれた文字の光がわずかに乱れる。


 そして、その一撃と共に、ヴァルクスは見た。


 ゲルの槍の穂先を包んでいた炎が、打撃の衝撃で一瞬だけ途切れた。


 露わになった金属の表面には、細い亀裂が走っている。


 焦げて赤くなった金属の欠片が一つ、地面へ落ちて、しばらく熱を持ったまま転がっていた。


 焔が、消えている。


 ヴァルクスの中で、手応えが確信に変わる。


 ゲル本人を捉えることはできない。速さも力も、ガルムの届かない域にある。


 だが、あの焔は武器に纏わせているだけの焔だろう。振るうたびに、槍そのものが熱に炙られ続けている。


 ならば狙うべきは、彼女ではない。彼女に振るわせ続けることだ。


 シグに文字を作らせず、ゲルにあの槍を使わせ続ければ、先に音を上げるのは槍の方。


 金属が限界を越えれば、歪み、腕から流れ込む力を受け止められなくなる。


 槍が媒介としての形を失えば、あの焔も維持できまい。


 その背後で、エルネストが静かに息を整えていた。戦場の熱と焦げた匂いの中で、魔力が集まっていく。


 「ーー《付与魔法・剛力》」


 落ち着いた詠唱とともに、淡い光が、ガルムとヴァルクスの身体を包み込む。


 筋肉が締まり、動きにわずかな軽さが加わる。


 エルネストはそこで動きを止めることなく、次の詠唱に入る。


 杖をわずかに引き、空間に線を引くように振る。


 「ーー《多重防護結界》」


 空間に見えない層が重なっていく。二枚、三枚、四枚と薄い膜のような結界が幾重にも重なり、ガルムの前に防壁を形成していく。


 ゲルの槍が突き込まれる。速度は落ちていない。


 だが、結界に触れた刹那、わずかに……本当にわずかに、槍の勢いが鈍った。


 そのわずかな時間だけで、十分だ。


 ガルムがその一瞬で槍を弾き、勢いを外へ受け流す。


 同時にヴァルクスが放った石が、体勢を崩したゲルの足元を攻める。


 ゲルの踏み込んだ足が浮き、着地が乱れる。三人の呼吸が、綺麗に噛み合う。


 誰も口にはしなかったが、手応えが、確かに三人の間を駆け抜ける。


 だが、その均衡は長くは続かなかった。


 パリン、と乾いた音が響く。一枚、割れる。間を置かず、次。さらに、次。音が続く。


 一度は勢いを殺した結界も、繰り返される一撃には追いつかない。


 エルネストの杖が、細かく震える。呼吸が浅くなり、肩が揺れる。


 額に浮いた汗が、こめかみを伝って顎の先から滴り落ちる。


 それでも、視線を外さないまま、魔力を流し続け、新しい結界を生み続ける。


 「……これで、何度目だ」


 エルネストの口から、呟きがこぼれ落ちる。


 この戦いが始まってから、この時まで、ほとんど休むことなく結界を作り続けている。


 一枚が割れれば、また一枚。その繰り返しが、辛うじて前線を支えている。


 前線ではガルムが、なおも食らいついている。


 踏み込みがわずかに遅れる。受けが重くなる。それでも、槍は下げない。足は退かない。背を見せない。


 ゲルの槍の歪みは、もう一目で分かるほどに広がっている。


 ……あと、少し。あと少しで、あの槍は力を失い、ただの鉄の塊になるはずだ。


 その向こう側、ヴァルクスの視界の隅に、ヒルドの姿が映った。


 黒と銀の装備が、陽光を鈍く反射する。これまで、槍を地面に立てたまま、一歩も動いていない。


 だが、地に突き立てられていた槍の石突が、ほんのわずかに浮く。


 ヴァルクスの目は、その一瞬を見逃さない。ヒルドが、初めて重心を動かした。


 「……なるほど」


 ヒルドは小さく、独り言のように呟いた。


 その様子を見たゲルはすぐさまヒルドに視線を向け、首を横に振る。


 ヒルドはゲルを見ると、そのまま動きを止める。


 ゲルの腕に刻まれた文字が、じわりと赤く滲む。


 見えない力が、戦場の中心へと集まっていく。


 ヴァルクスはその変化を、視線ではなく肌で捉えた。


 空気の密度が変わる感覚……自分の魔法が作り出す圧縮とはまるで質の違う、押し寄せてくる重さがある。


 喉の奥が、勝手に乾いていく。


 "軽い"、"遅いな"。ゲルが零す言葉には、苛立ちも殺意も乗っていない。


 ただ、退屈を紛らわす遊びの感想があるだけ。


 こちらは一挙一動に部下の命を、この国の命運を賭けている。


 だが、あちらにとっては、まだ余興ですらない。


 ヴァルクスの背筋を這い上がったのは、恐怖ではなかった。


 こちらが賭けているものが、端から量られてすらいない。


 ガルムが足の位置をわずかにずらし、踏み込みを深くする。足元で土が崩れ、音を立てる。


 汗で槍が滑りそうになるのを、指の力だけで押さえ込んでいる。


 目の前で、ゲルが笑う。口角がゆっくりと吊り上がり、その奥で歯が覗く。


 「燃やし尽くす!」


 地面が陥没するほど踏み込み、槍を引くと、全身の力が、歪んだ空間の一点へと収束していく。


 その切っ先は、ガルムだけでなく、この場に立つ全員を飲み込む気配を放っている。


 ヴァルクスの中で、二つの選択が同時に立ち上がる。


 シグへの牽制を止めなければ、ガルムとエルネストが焼かれる。


 牽制を止めれば、シグの手が自由になる。


 目の前で焼かれようとしている二人と、まだ何もしていないシグとでは、選ぶまでもない。


 戦いが始まってから絶えずシグへ降り注いでいた石の音が、初めて途切れる。


 その静寂の中で、シグの指が、ようやく魔導書のページに触れる。


 シグの口角が上がる。


 石の雨に晒されながらも、ページを開いたまま、ずっとこの時を待っていたのだろう。


 「覚悟しな!!」


 ゲルの槍が突き出される。


 空気が消え、風が止まり、音が消える。草の擦れる音も、鎧の軋みも、呼吸の気配も、すべてが飲まれていく。


 息が吸えない。肺が空気を求めて動くのに、何も入ってこない。


 そして……遅れて、熱が来た。


 熱風の壁が叩きつけられるように、皮膚の表面が焼かれる。


 熱が外から来ているのではない。空間そのものが熱を帯び、内側から押し広がってくる。


 視界が揺れる。空気の密度が狂い、遠近が崩れる。


 ゲルの槍の先に、それはあった。琥珀色の流れが螺旋を描きながら進んでくる。


 中心は白く、周囲の景色を削り取りながら押し広がっていく。


 「ーー《狂智・劫火殲滅槍(エトナ・プロミネンス)》!!」


 遅れて、音が世界に戻る。轟音が耳を叩き、遅延した衝撃が胸を打った。


 ヴァルクスが即座に詠唱し、地へ魔力を叩き込む。


 ハルバードを深く突き立て、柄を握る手に、これまでで一番強く力を込めると、足元から大地が盛り上がり、土が壁となって立ち上がる。


 間を置かず、二枚、三枚と積み上げる。


 頬を伝う汗が、顎先から地面へ落ちる。


 それと同時に、エルネストの詠唱が重なる。


 「ーー《多重防護結界》」


 空間に透明な層が幾重にも重なり、内側から支えるように防壁を補強する。


 守りは、成立している。時間くらいは稼げる。


 劫火が土壁へ触れた瞬間、表面が赤く染まり、次の瞬間には砂のように削り取られる。


 一枚目が薄くなる。その内側から二枚目を押し上げ、エルネストの結界が崩れかけた土を繋ぎ止める。


 消されてはいないが、削られている。


 速すぎる。それでも、補い続ける限り、ほんのわずかな時間なら保つ。


 後方で、紙のめくれる音がした。


 ヴァルクスの視線が、わずかにゲルの後方へ走る。


 シグが、歓喜の笑みを見せる。


 「今度は消えなさい」


 魔導書が開いたまま、指も触れずにページがめくれ、その上の空間に文字が浮かぶ。


 意味はわからない。だが、それが"成立してはいけないもの"だと、本能が理解していた。


 ヴァルクスの声が震える。


 「……しまった」


 向こうで、ヒルドが動く。


 浮きかけていた槍の石突が、再び地面へ触れる。ほんのわずかに浮いていたはずのそれが、何事もなかったかのように元の位置へ収まっていく。


 前へ出る一歩は、結局、最後まで踏み出されなかった。


 積み上げた土の壁も、幾重の結界も、最初から無かったかのように消え去っていく。


 そして、劫火だけが残った。


 その刹那、ガルムが迷いもなく、振り向きもせずに、一歩、前に出る。


 「下がれ!!」


 声が、背中で弾ける。ヴァルクスの足ですら、わずかに下がった。


 それでも、ガルムは槍を構え、正面から迎え撃つ構えを取る。


 迫る劫火を押し返すようにさらに踏み込む。


 愛槍の穂先が劫火へ触れた瞬間、先端から消える。続いて金属が削れ、柄が目に見える速さで短くなっていく。熱が腕へ食い込み、皮膚を焼き、肉を裂く。


 それでも、離さない。


 部下の前に立つのは、本来なら自分の役目だったはず。


 ヴァルクス自身が、そう定めて生きてきた。


 だというのに今、視界を塞いでいるのは、ガルムの背中だ。


 独断でここへ来た。街を守るために、部下を守るために。


 だが今、その部下に自分が守られている。


 劫火が広がり、視界が白に塗り潰される。


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