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第25話 努めて本音を隠す


 ギルドマスター室の扉をくぐった途端、さっきまでの喧騒が嘘のように遠のいた。


 分厚い扉が、酒場の混乱の声を、外に置き去りにしていく。


 裂けた木の匂いが、代わりに鼻の奥へ残る。


 部屋の端に、”机だったもの”が転がっている。いや、転がっているというより、投げ捨てられていた、と言った方が正確だろう。


 真っ二つに割れた断面は荒く、繊維が外向きに飛び出している。


 刃で斬ったのではなく、おそらく蹴るか殴るかして、無理やり折った跡。


 床に散った木片は掃かれもせず、そのままの位置で埃を被り始めていた。


 アウルが、その残骸をしばらく見つめていた。


 それから俺の方を向き、箒で掃く仕草をしてみせる。イバラキの真似なのだろう。


 棲家で毎朝繰り返される、あの丁寧な手つきそのものになっている。


 「後でやる」


 シオウは、机の残骸へ目も向けずに言った。


 アウルはしばらくその横顔を見つめ、それから、ゆっくりと首を横に振る。


 掃き方だけでなく、人の言葉を信用しないところまで、イバラキに似てきたらしい。


 シオウは椅子に深く腰を沈めたまま、腕を組み、俺たちを順に見る。


 ここ数日、まともに眠れていないのか、目の下には、うっすらと青黒い隈が滲んでいる。


 腕を組んだ指先が、二の腕に食い込むほど強く握られている。


 「まず前提として話しておく。これは”公式”の話じゃない」


 一度、大きく息を吸い、そして、ゆっくりと吐く。


 「俺の情報屋と、ギルドの網から拾ったものだ」


 部屋の空気が、さらに重くなる。


 俺の肩の上で、ノクティスが小さく揺れた。


 「近いうちに……《聖域騎士団(サンクチュアリ・ナイツ)》が来る可能性がある」


 ……聖域騎士団。


 聞きなれない言葉に、俺は視線だけをタマへ向ける。


 隣に立つタマの横顔は、一見いつもと変わらない。だが、俺にはそれが引っかかった。


 驚くような話を耳にする時、タマはたいてい自分の腕をさすったり、袖の端を握ったりする。


 今、その腕は組まれたまま、微動だにしない。


 やがてタマが、わずかに頷く。


 「巡道教の連中よ」


 この静かな部屋でなければ、聞き逃してしまうほどの小さな声で続ける。


 「聖女直属の精鋭部隊。表向きは守護者……でも実際は……」


 言葉を選ぶ間があった。


 「”掃除屋”ね。魔王とか、魔族とか、ヴァンパイアとか、その他諸々……そういうのを消しに来る連中」


 アウルがタマを見て、もう一度だけ、箒で掃く仕草をする。


 「そっちの掃除じゃないからね」


 タマは、なぜか、アウルではなく俺を見て言った。


 まだ、何も口にしていない。


 「今、同じこと考えたでしょ」


 ……少しだけだ。


 シオウが、小さく鼻を鳴らす。


 「掃除屋……綺麗に言えば、そうだな」


 部屋の隅で、木片がひとつ、かすかな音を立てて床を滑った。誰も触れていないのに、音だけが残る。


 シオウが、肘を割れた机の上へ応急的に渡した板に乗せた。


 「そいつらが王都に入れば……」


 視線が、一瞬だけ机の断面へ落ちる。


 「ヴァンパイアとぶつかる可能性が高い。アイツらは特にオリジナル・ブラッドに対して過敏だ」


 タマの目が、細くなった。


 「……《血の血統》」


 「そうだ」


 シオウが頷く。


 「カルミラはもういないだろうが、クロウゼルの眷属は、王都に入り込んでる可能性は高い」


 空気が、また一段重くなる。シオウは続ける。


 「そこに教会の連中が来る。放っておけば、街ごと戦場だ」


 積み重なる言葉の重みは、山で嗅ぐ雨の匂いに似ている。


 まだ降ってはいないが、確実に近づいている気配がする。


 俺は何も言わなかった。言うべきことは、まだ出揃っていない。


 シオウの視線が、こちらへ戻る。


 「それだけじゃない」


 視線を落とし、指先を組んだり離したりする。


 「ガグン……あいつも、ゲドーマル、お前個人に興味を持ってる」


 タマの顔が歪む。肩の上のノクティスが、影の形を細く尖らせて揺れる。


 「分かってるとは思うが……あれは、放っておいてくれるタイプじゃない」


 場に沈黙が落ちる。


 「……最後にもう一つある」


 そこで、シオウが一度だけ言葉を切ると、視線を壁の一点へ逃がし、それから戻す。


 「ここだけの話だ」


 声が、わずかに低くなる。


 「王城が、お前と……《混沌の庭》を探してる」


 部屋の空気が、完全に止まった。木片の転がる音すら、もう聞こえない。


 「可能なら……しばらく王都を離れた方がいい。身を隠せ」


 いつもの淡々とした報告の調子から外れていた。


 腕を組んだままの指先が、二の腕にさらに強く食い込んでいる。


 「こんなとこで死ぬな」


 タマが、わずかに唇の端を噛む。俺は、その横顔へ視線を向ける。


 隣のタマは、すぐには何も言わない。


 視線が、一度だけ床の一点に落ちる。組んだ腕はほどけないまま、人差し指が、腕をなぞるようにわずかに動いている。


 正直に言えば、動きたくない。


 薬草採取の依頼書の字面にも、もう迷わなくなった。


 ドゥールの工房の扉を、開くことにも慣れた。


 酒屋の親父が寄越す安酒の味も、良し悪しが分かるくらいには馴染んだ。


 タマが目を細める甘味処の場所も、遠回りせずに向かえるようになった。


 それに、この街には、まだ知らない酒がいくつも残っている。


 それだけのことだったが、それだけのことが……悪くなかった。


 動くというのは、その全部をもう一度手放すということ。


 俺には、タマの沈黙の中身までは分からないが、容易な決断ではないことだけは、隣にいれば嫌でも伝わってくる。


 この地で、タマはようやく足を止めていた。


 長い間、逃げて、隠れて、正体を疑われるたびにまた次の場所へ移ることを繰り返してきた身が、ここへ来て初めて”戻る場所”というものを持てるようになっている。


 薬草採取の依頼をこなし、俺の隣を歩き、夜になれば同じ部屋で眠る……そういう、何でもない毎日を、タマはずっと欲しがっていたはずだ。


 それを、また手放せと、今、目の前に突きつけられている。


 だが、タマは分かっている。ここに残るということが何を意味するかを。


 シオウが並べた危険が、ひとつ残らず同じ街へ重なろうとしている。


 その束が一度に牙を剥けば、次に刃を受けるのは、俺の方だ。


 命に関わることだって、あり得る。


 俺はただ、タマが自分で答えを出すのを待った。


 タマが少しだけ顔を上げると、白銀の髪が揺れて、肩から滑り落ちる。


 迷いを振り切るように、大きく息を吸ってから、口を開く。


 「……しばらく、外に出ましょう」


 タマの表情には、嘘の微笑みが被せられている。


 「王都、ちょっと危ないし」


 視線を俺に向け、悪戯な顔を作り、ちらりと舌を出す。


 その奥にあるものは、分かった。案じているのは、王都の情勢などではなく、俺自身。


 俺は、小さく息を吐いた。動きたくないという己の本音は、すでに飲み込んでいる。


 山にいた頃、傷口は膿む前に洗えと教わった。


 今のタマの決断も、それに似ている。


 腫れが広がる前に、場を変える。理屈でもなんでもない、ただの生活の知恵。


 そして今、その知恵に従う番が来ただけのこと。


 タマがここまで腹を括った以上、俺の側に、それより重いものなど何もない。


 短く、頷く。他に付け足す言葉が、思いつかなかった。

 

 代わりに、タマの頬にそっと手を当て、親指でさする。


 タマが目を細める。耳が、じわりと赤く色づくと、誤魔化すように、視線がすっと横へ逃げた。


 「その判断が正解だ」


 シオウが頷き、椅子からわずかに身体を起こす。


 「別の街のギルドに話を通す。紹介状も用意できる。国は変えたほうがいいだろう」


 机の残骸を、一瞥した。


 「面倒ごとから離れるなら、早い方がいい」


 シオウが視線を落とす。タマが頷き、言った。


 「お願いする」


 シオウは、短く息を吐いた。


 「もちろんだ。夕方には用意しておく」


 それだけ言うと、話は終わりだった。部屋に、静けさがまた戻ってくる。


 ただ、今度の静けさは、扉をくぐった時のそれとは、少しだけ質が違っていた。


 *

 

 扉を開けた瞬間、空気の質がまるごと入れ替わった。


 さっきまでの静けさが、まだ耳の奥に残っているというのに、今はもう別のざわめきで塗りつぶされている。

 

 幾重にも重なった話し声に、靴の擦れと鎧の金具の音が絡み合う。


 通路を横切る冒険者たちは、互いの肩をぶつけ合いながら先を急ぎ、舌打ちと罵声が飛び交う。


 受付の奥では書類が乱れ、棚に並んだ薬瓶が、その振動を拾ってかすかに触れ合う音を立てていた。


 外で何かが起きている……とりあえず、それは分かった。


 「失礼します」


 横をすり抜けていったのはリーネ。足音を隠す気配もなく、廊下を駆けている。


 普段は淀みなく客をさばく身のこなしを崩さない女だが、今はその余裕のかけらも見当たらない。


 そのまま俺たちと入れ替わるようにギルドマスターの部屋へ飛び込んでいき、扉が短く強い音を立てて閉まった。


 「ゲドー!」


 聞き慣れたリラの声が、人の流れを押し分けて近づいてくる。


 リラの表情は硬く引き締まり、ハルは歩きながらも視線を左右へ走らせ、周囲の気配を気にし続けている。


 「さっきの人たち……!」


 リラが息を整えながら言葉を継ぐ。


 「犬の獣人が、ヴァンパイアの臭いを嗅ぎ取ったって、そのまま飛び出しちゃって、竜人とエルフも追っていったの。私たちはどうする?」


 俺はわざと間を置いてから、目を細める。


 獣の気配を読む時と同じで、逸って駆ければ獲物を逃す。

 

 「仮にもSランクパーティーよ」


 タマが首を静かに横に振ると、白銀の髪が揺れる。


 「大丈夫でしょ。ギルドマスターも動くはずだし……ギルドからの緊急依頼が出ない限り、私たちが出る場面はない」


 タマは息を整え、努めて落ち着いた声を作った。


 ハルも、それに頷く。


 「ああ、そうだな。正直、もしクロウゼルが出たら、今の俺らでは力不足だ。おそらく近衛騎士も動く」


 周囲を一瞥してから、強張っていた肩の力を少しだけ抜いた。


 リラは、ただ真っ直ぐに俺を見つめている。その赤髪の先が、わずかに浮き上がりパチ、と音を立てる。


 俺はリラではなくタマの方を視て、口を開いた。


 「ドゥールの工房に行く」


 リラの眉が、片方だけ上がる。


 「……今?」


 「朝、約束した」


 それだけ言う。理由を並べ立てるほどのことでもない。


 ハルが、一瞬だけリラを見るが、すぐに俺に顔を向け、ふっと息を漏らす。


 「まあ、お前はそういうやつだな」


 ハルは一度、床へ落ちた書類に目をやる。


 走り抜けた誰かの靴に踏まれ、そのまま滑っていく。


 「……街がひっくり返っても、朝の予定は変えねえんだな」


 「約束だからな」


 「そこを聞いてるんじゃねえよ」


 半分呆れたように言いながらも、口の端は緩んでいた。


 タマは心配そうに俺を見る。


 何かを考えるように、視線が一度だけ宙をさまよい、それからすぐに定まる。


 指先が二の腕へ触れかけ、けれど今はそのまま軽く撫でるだけに留まる。


 「じゃあ、私は買い出しに行く。色々と準備しておきたいし」


 繕うように、軽い口調で話す。


 だが、その意味するところは俺にも分かる。王都を出る、その支度だ。


 いつの間にか俺の肩を離れていたノクティスが、タマの肩の上で小さく揺れている。


 影の輪郭がふっと尖り、それからすぐに丸くなる。


 一度だけ、こちらを振り返るように動いた気がした。何も言わないが、分かっている顔をしている。


 「ノクティスも、そっちか」


 俺が声をかけると、影の輪郭が一度だけ縦に伸びる。


 ハルがそれを横目で見る。


 「工房より買い出しを選んだらしいな。何がほしいんだ」


 影の先が、針のように細く尖る。


 「違うらしい」


 俺が言うと、ハルは聞こえなかったかのように肩を回す。


 「俺はゲドーマルに付いてく。街の中とはいえ、今は何が起きてもおかしくねえ」


 リラは周りを一度見回すと、小さく握っていた拳を開き、タマの方を向く。


 「じゃあ私はタマさんと」


 少しだけ言葉を切ってから、続ける。


 開きかけた手のひらが震え、それをすぐに強く握り込んで止める。


 「……護衛、よ」


 言い切ってから、リラの視線がタマの空いた両手へ落ちる。


 「……荷物も持つわ」


 タマが一度だけ瞬きをする。


 「それも護衛?」


 「護衛の一環よ」


 タマが、小さく笑う。


 「頼りにしてる」


 それを聞いたハルの肩の強張りが緩むのが視えた。


 ハルが腰にあるマジックバッグから剣を取り出し、リラに差し出す。


 「護衛には必要だろ」


 「うん。ありがとう」


 リラはそれを受け取ると、慣れた手つきで腰に佩く。


 人の流れが、また強くなる。誰かが駆け抜け、遠くで何かが割れるような音が耳に届く。


 騒ぎは、まだ収まっていない。


 「また後で……ここで。そのあと、パフェね」


 タマが言う。


 「ああ」


 俺は口角を上げ、短く返した。


 タマが背を向け、白銀の髪が人混みの中へ紛れて消えていく。


 リラがその後ろに付き、視線を絶えず周囲へ配りながら歩き去った。


 ハルが、隣に並ぶ。


 「俺たちも行くか」


 「ああ」


 俺たちは歩き出す。


 騒がしいギルドの中を、いつも通りの足取りで進んでいく。


 *


 王城、玉座の間。


 昼と夕方のあいだの、中途半端な時刻。


 差し込む光はまだ白いが、部屋の奥は薄暗く、重い気配が沈んでいる。


 窓は閉じられ、風は動くこともなく、空気は淀んでいた。


 ワイスにとっては、これこそが玉座の間といえた。


 他人の思惑に揺らされない、静止した空気。それが自分が在る場所だと、疑ったことは一度もない。


 その中心で、第四団の斥候の女が膝をついている。


 頭を垂れたまま、慣れた調子で言葉を紡ぐ。だが、その口ぶりの中、額に汗が滲んでいる。


 「第三団・ヴァルクス団長、ガルム、エルネストの三名は、王都近郊の平原にて交戦中。相手は、《狂帝の騎士》を名乗る魔族の女騎士三名。第三団は詰所にて援軍の準備中」


 場の静けさが揺れ、小さなざわめきが生まれる。


 ワイスは玉座に深く沈んだまま、まだ表情を変えていない。肘掛けに置かれた指先が、同じ場所を叩く。


 魔族に押されているかどうかより先に、そんなことで自分の時間が奪われていることに、腹の奥に熱が溜まる。


 「現在、拮抗……いえ……」


 言葉がそこで止まり、斥候の喉が、一度、動いた。


 「押され始めています」


 室内が今度ははっきりとざわつくが、それでも誰も動かない。


 肘掛けを叩いていた指が、ピタリと止まる。


 第三団といえば、王国の中でも決して弱くはない部隊。


 その中でも上位に数えられる三名が、同数の魔族を相手にじりじりと退いているという事実は、退屈しのぎの余興として片付けられる話ではない。


 自分の駒が、自分の与り知らぬところで欠けようとしている。


 斥候は続ける。


 「冒険者ギルド内にて混乱が発生。原因は王都東部、”迷いの森”にて、ヴァンパイアの魔力にSランク冒険者パーティーが反応したため」


 報告は途切れない。ワイスの指先が、肘掛けの上で、今度ははっきりと一度、乾いた音を立てて叩く。


 「また……」


 斥候の声が徐々に早くなる。額から顎にかけて、汗が一筋垂れる。


 「巡道教本部より、《聖域騎士団》が数日以内に王都へ到着予定。名目は、聖女の護衛および王都内に入り込んだ魔族の浄化です……以上、報告を終わります」


 誰もすぐには口を開かない。斥候の声がなくなり、沈黙が広がる。


 ワイスはゆっくりと眉間に指を当て、強く押さえ、小さく息を吐く。


 その吐息の短さと荒さが、玉座の間の静けさの中で、やけにはっきりと聞こえた。


 視線が鋭く上がる。


 「聖域騎士だと?」


 声は小さく、抑揚もない。ただ、指はもう肘掛けを叩いていなかった。

 

 自分の統治する領域に、断りもなく余所者が踏み込んで来て、好き勝手する。


 ……そのせいで、余の時間が奪われている。


 「……余の許可なく教会の掃除屋風情が土足で踏み込んでくるというのか」


 その声の低さに、控える者たちが息を止めた。


 ワイスの指が、肘掛けを掴む形に変わっていた。爪の先が、木地にわずかに食い込む。


 誰も声を発しない中、音もなく一人の老人が前へ進み出る。


 白髪は一糸乱れず整い、纏う宮廷服は漆黒。光を吸い込むように、輪郭がどことなく曖昧に見える。


 宰相バルタザール。


 その目には何も映していないかのような静けさがある。


 ただ黙って立っているだけなのに、この老人がこの場に加わった瞬間から、部屋の温度が少しだけ下がったように感じられる。


 ワイスの苛立ちが熱を帯びた炎だとすれば、バルタザールは、その炎の下でじっと形を変えずにいる、氷。


 「陛下」


 感情の起伏を、そもそも持ち合わせていないかのような、淡々とした声が場に広がっていく。


 「教会の介入は、現在の王都、並びに王国の”不備”を対外的に認めることと同義。黙って見過ごすという選択肢は、ございません」


 ワイスは何も言わずに、黙ってバルタザールの話を聞いている。


 「しかし、教団本部にとって、魔王に”歴代最強の聖女”が敗れたこの街は、すでに排除すべき汚染源です。遠慮などしないでしょう。こちらもそれなりの覚悟が必要になります」


 次々と積み上げられていくその論理の運び方には、まるで最初からこの結論へ向けて全ての言葉を配置していたかのような、無駄のなさがあった。


 「加えて、アルティシア様の件もございます」


 ワイスの指が、肘掛けの上で止まった。


 「まだ、捕まっていないのか」


 終わったはずの仕事が、いまだ報告書の上に残っていることへの疑問が込み上げてくる。


 「輿入れの際に護衛をしていた冒険者たちが匿っている可能性が高いかと。聖域騎士がアルティシア様を発見すれば、王家が魔女の血を隠していた事実まで辿られる恐れがございます」


 「輿入れから逃げた反逆者だ。王家とは、すでに関係がない」


 ワイスは何でもないことのように言った。


 バルタザールは、瞼を伏せる。


 「では、身柄の奪還ではなく、処分として進めます」


 「初めから、そういう話だろう」


 ワイスの視線が、その老いた横顔へ突き刺さる。


 「自分のとこの”不備”も放置しているくせに生意気な」


 その声は、いつもの気だるさからとは種類が違った。


 バルタザールは、その皮肉にすら表情ひとつ動かさず、ただ、冷静に話を続ける。


 「現在、王都の均衡は既に失われております。もしこのまま、《狂帝》の”選別”が近衛にまで及ぶのであれば__」


 言葉が続く前に、ワイスは片手を軽く振り、それ以上の言葉を切り捨てる仕草で、遮った。


 「ガグンの遊びに付き合う暇はない」


 その断言の下には、これ以上バルタザールの静かな正論を聞き続けることへの、剥き出しの苛立ちが透けていた。


 この老人の言葉はいつも正しい。正しいからこそ、ワイスにとっては、余計に癇に障る。


 視線が一人の男に向く。


 「グラウ」


 近衛騎士団第一団団長。”王国最強の男”は、無駄な動きの一切ないまま、一歩前へ出る。


 「第一団を率いて、狂帝の騎士を根絶やしにしろ」


 ほんのわずか、この場に安堵が広がる。


 この男に命じている間だけは、余の苛立ちが、どこか鎮まる。


 「教会が来る前に……”平和で秩序のある王都”を証明しろ」


 証明すべきは平和そのものではなく、教会の介入を許す隙を、この国が持たないという体裁。


 その体裁ひとつのために、グラウは今から刃を交えに行く。


 グラウは、頭を下げる。


 「……かしこまりました」


 その短い返答の前に、普段はない、わずかな間があった。


 だが、ワイスの目に映っていたのは、命令を受けた駒が、定められた通りに動き出しただけの光景。


 グラウは、踵を返し静かに扉へ向かう。


 ワイスの肘掛けを叩いていた指先は、まだ落ち着きなく、小さく動き続けていた。


 バルタザールの目には、温度がなかった。


 グラウの背が扉の向こうへ消えるのを見送るその横顔には、安堵も、不満も浮かんでいない。


 その横顔を一瞥した時、ワイスはふと妙な感覚に襲われた。


 この老人は今、ワイスの怒りにも、グラウの忠義にも、まるで関心を払っていない。


 今更ながら、そのことに気づいたのだ。


 バルタザールの視線は、もっと別の場所、まだ誰も気づいていない何かへ、静かに注がれているように見えた。


 何を計算し、何を待っているのか。長年この老人を宰相として使ってきたワイス自身にすら、その答えは分からなかった。


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