幕間話 何もない一日
第2章の途中、第9話と第10話のあいだ、棲家でのある一日の話です。
朝の仕事は、日が森の上へ出るより先に終わっていた。
洞窟の出入り口から外へ出ると、少し離れたところにある湖から上がってきたであろう風が、森と草の匂いを運んでくる。
イバラキは回廊の縁に立ち、袖口を整えてから、棲家の前の広場を見渡す。
昨夜のうちに干しておいた布は、もう乾きかけている。水甕は満ちている。竈の灰は掻き出されている。
今すぐ直すべきものは、どこにもない。
広場の隅で、アルティシアがゴブリンの子どもたちに囲まれている。
一人が彼女の手を握って引いている。反対側からもう一人が衣の袖を引き、さらに後ろから小さいのがついていく。
三方向へ引かれながら、アルティシアは手を振りほどこうとしない。
背筋は変わらず伸びたまま、王女の形が残っている。物心ついたときからの所作は、簡単には抜けない。
子どもたちが立ち止まり、草の根元にある何かを指すと、アルティシアは膝を折って顔を寄せ、それから口元をわずかに緩めた。
初めてイバラキと会った頃のような、人前へ向けていた笑みとは、根本が違って見える。
イバラキは声をかけないことにした。
アルティシア様は以前、自分の言葉で人を動かしていた。逆に今は、小さな手に引かれ、自分の知らない場所へ連れていかれている。
イバラキは、ふと昔のことを思い出した。
『茨木、良いこと教えてあげる』
下を向いていた茨木に、あの方は自信ありげに胸を張った。
『今日からだって変われるよ』
そう言って、薬草を差し出してきた。
『とりあえず、これ束ねてみる? 外道丸はすでに諦めたみたいだし』
イバラキが顔を上げると、向こうには青い空が広がっている。口元が自然と緩くなる。
……懐かしい、声、ですね。
視線を、広場の反対側へ移す頃には、すでに普段の静謐な顔に戻っていた。
そこでは、レオンとゴブリンジェネラルが地面に腰を落としている。
間には、レオンが描いた棲家周辺の見取り図が広げられている。
「正面と裏手と、湖側。ここに一人ずつ置いて、日が傾いたら一度、夜半でもう一度、交代だ」
レオンの指が、入口から内側へ動く。
「敵が入ってきた時に、誰をどっちへ逃がすかも決めておきたい。子どもと、アルティシア様が先だ」
ジェネラルは黙って聞いていたが、少しして、自分の太い指を図の上へ置き、そのまま外へ滑らせる。
「入られてからでは遅い」
指は紙の縁を越えて、地面の土へ届く。
「鳥が鳴かなくなる道、獣が通らない斜面、それから足跡の残る沼だ。風下のここからなら、匂いが棲家まで届く」
そこまで一息に言ってから、ジェネラルの指が止まった。
「……この道を、なんと呼ぶ」
胸元に下がった小さな金属板へ触れる。
それは、ドゥールが渡した、言葉を繋ぐための魔道具。
翻訳の指輪ほど精密ではなく、今では難しい言葉を確かめる時にしか使われていない。
「たいろ」
「退路だ」
レオンが炭の先で、紙の外側へ線を引き足す。図の縁が足りず、線は地面まで続いていく。
二人の指は、一度も同じ場所を通らない。
イバラキは近づいて、二人の脇へ茶を置く。
風で見取り図の端がめくれかけていたので、足元の小石を拾って載せると、石を置いた指が、そのまま図の一点で止まった。
湖側の見張りと、裏手の交代。刻の切れ目に、誰も立たない短い間がある。
夜であれば、そこを抜けられる。
イバラキは口を開きかけて、閉じる。
二人はまだ図の上で言い合っている。声はどちらも大きくなり、譲る気配がない。
茶の湯気が細くなるのを見てから、イバラキは少し離れた位置へ戻ることにした。
盆が、来た時より軽い。
あの時……自分がお館様に連れられて、小さな囲炉裏のある小屋へ加わった時、あの方は驚きもせず、嫌がりもせず、ただ棚から椀を一つ増やした。
『きのうより、にぎやかだね』
口にしたのは、それだけだった。本当に、それだけだった。
イバラキは、盆を持ち直す。
直すべきものは、やはりどこにもなかった。
*
守備の話がまとまった頃には、日が高くなっていた。
今日は自分たちが買い物に行くと言って張り切って出ていったお館様とタマは、まだ戻らない。
「じゃあ、試そう」
レオンが立ち上がって槍を取ると、決めたばかりの配置へ、ゴブリンたちが散っていく。
ジェネラルは森の外周へ手勢を置き、レオン自身は棲家へ続く道と避難路の交わる場所へ立つ。
侵入役は二人。
最初に動いたのは、ノクティス。
小さな影が地面へ沈み、輪郭を失う。
木の根の陰へ向かい、岩の窪みを通り、干し場の柱の影を通る。
日の傾きが作る暗がりを縫って、見張りの視線と視線の隙間へ入っていく。
ゴブリンたちはわずかな異変も見逃すまいと目を凝らしている。
レオンも槍を立てたまま、首を絶えず動かしている。
それでも、誰も気づかない中、やがて影は、完全に見えなくなった。
まだ森の中にいるのか、すでに抜けたのか。判断のつかないまま、レオンが地面の見取り図へ手を伸ばす。
その指先のすぐ横で、黒いものが、ゆっくりと立ち上がる。
レオンの手が止まった。
ノクティスは丸い輪郭を得意げに膨らませている。
湖側の見張りと、裏手の交代の間。先ほど、イバラキが指を止めた、あの場所を通っていた。
レオンは図を見下ろしたまま、長く息を吐いた。
「闇精霊を基準にしたら、誰も止められないだろ」
少し離れた場所から、イバラキは静かに答える。
「お館様ならば、気づかれます」
レオンは顔を上げずに返す。
「その人を基準にしないでください」
褒められたと思ったらしいノクティスが、さらに膨らんだ。二倍くらいになった。
その直後、森の空気が、突如引く。
木々の間を流れていた風が、一瞬だけ消える。虫の声も、葉擦れも、なくなる。
次の瞬間、広場を風が駆け抜ける。
外周にいたゴブリンたちが一斉に足を離され、レオンは槍を突き立てる間もなくジェネラルごと後ろへ転がる。
見取り図が空へ舞い上がり、重しの石が跳ねて散り、干していた布が枝へ引っかかり、木片が屋根の岩肌へ叩きつけられる。
朝から組み上げてきた警戒網は、守る者ごと吹き散らされた。
イバラキだけが、動いていない。
風が来る前に、その手はもう伸びていた。図の上で膨らんでいたノクティスを手のひらの中へ収め、袖の内側へ抱えている。
手のひらの中で、黒い輪郭が小さく揺れた。
少しして、風が止む。
地面から身を起こす者たちの向こう、広場の端にアウルが立っている。水色の髪の先だけが、残った風にゆらりと揺れている。
アウルは吹き飛ばされた者たちを見る。次に、枝に引っかかった見取り図を見る。
最後に、イバラキの手のひらの中のノクティスを見た。
薄い表情のまま、瞳の焦点が点になる。
そして、ゆっくりと身体の向きを変えた。
何も言わずに走り出そうとして、二歩目へ入る前に、襟元を掴まれる。
身体は止まったが、足だけがしばらく地面を蹴り続けた。
やがて観念して足を止め、襟を掴まれたまま、顔だけを僅かに振り返る。
「……ごめんなさい」
イバラキはすぐには答えない。
空へ散った紙を見て、倒れているレオンとジェネラルを見て、枝の上の布を順に見渡す。
「まずは、すべて元へ戻しましょう」
地面に転がったまま、レオンが誰へともなく片手だけを上げた。
「それと、守る側を全部吹き飛ばすのは、突破に数えないでくれ。ついでに古竜も反則だ」
イバラキはもう歩き出している。
レオンの手が、そのまま地面へ落ちた。
アウルは逆らわずに引かれていく。
残された者たちが呻きながら片づけを始めた。
少し離れた場所では、風で転がった木の実を子どもたちが追いかけている。アルティシアもその中にいた。
髪も衣も乱れているが、直そうとはせず、差し出された木の実を両手で受け取り、また笑っている。
イバラキはその姿を一度だけ見てから、アウルの襟を掴んだまま、散らかった広場へ戻った。
*
王都の肉屋で、俺は腿肉から手を離さずにいた。
骨のついた大きな一本だ。持ち上げれば腕にずしりと来る。
棲家の人数を考えれば、これくらいでちょうどいい。余ったところで困りはしない。
塩を擦り込んでおけば日が保つし、煙にあてれば燻製され、酒がいくらでも進む。
「だから、今日食べるものの話をしてるでしょ」
俺の隣で、タマが包みを胸に抱えたまま譲らない。
中身は薄く切った肉で、香草と果実の蜜に漬けてあるという。
火にかければすぐ通る。柔らかいから、アウルも子どもたちも食べやすい。味もすでについている。
言い分は分かる。分かるが、それとこれとは別の話だ。
「明日も、明後日も、皆は飯を食う」
「今夜の話!」
俺たちの間で、店主が困り果てている。
初老の男で、手拭いを肩に掛けている。さっきから何度も、店の反対側に並べた別の肉を指していた。
「だから、今夜あれだけの人数で食うなら、こっちだって言ってるだろ」
肩の肉らしい。焼いても煮ても使えて、人数に合わせて切り分けられるのだという。
「その腿肉は、今日すぐには柔らかくならん。そちらの漬け肉は美味いが、その人数では足りん」
確かに、一見、筋の通った話ではある。
だが、俺は俺の考えで選んでいるし、タマもタマの考えで選んでいる。
ここで手を離すかどうかは、また別の話。
「一晩置けば柔らかくなる」
「その一晩を、今食べたい人が待つの?」
店主が、額の汗を手拭いで押さえる。それから、覚悟を決めたような顔で言う。
「イバラキさんなら、間違いなく、この肩肉を選ぶ」
俺の手が止まった。隣で、タマの動きも止まる。
二人で、同時に相手を見る。
「……イバラキならば、家全体を見る」
俺は骨のついた腿肉を見せて言う。
「あれは、明日のことまで数える。保存の利く方だ」
「ちょっと待って」
タマが包みを抱え直す。
「イバラキだよ? 子どもたちが先に食べられるかどうか、絶対そっち見るでしょ。今夜すぐ火が通る方だって」
「……ならば、本人に訊けばよい」
「訊こう」
話が決まった。
店主の手だけが、肩肉を指したまま取り残されていた。
俺は腿肉を買い、タマは香草漬けを買った。
店を出たところで、深いため息が背中に届いた。
*
夕刻には、散らかったものはすべて元の場所へ戻っていた。
広げ直された見取り図の上で、レオンとジェネラルがまだ話し込んでいる。
風で抜かれた分をどう埋めるかで揉めていたが、やがてレオンが炭を置く。
「……無理だな。やっぱり古竜は別枠だ」
図の隅へ、短くそう書き足す。ジェネラルが黙って頷く。
当のアウルは、イバラキの近くに座って両手を膝へ置いている。今度は風を起こさないようにしているらしく、髪の先まで動かない。
ノクティスは近くの影の中で、助けられたことなど忘れた様子で丸くなっていた。
入口の方から、言い争う声が近づいてくる。
「長く保つ方を選ぶに決まっている」
「今日食べるの! 今日!」
ゲドーマルが骨のついた大きな肉を抱え、タマが綺麗な包みを持って入ってきた。
影が伸びる。ノクティスが床を滑ってゲドーマルの足元まで行き、そのまま肩へ上がって、いつもの場所で丸くなった。
二人はイバラキの前まで来ると、まず片方が肉を卓へ置く。
「人数の多い家ならば、こちらだろう。長く持つうえ、酒にも合う」
続いて、もう片方が包みを隣へ置いた。
「今夜食べるんだから、すぐ火が通る方でしょ。アウルや子どもたちも食べやすいし」
そして、揃ってイバラキを見る。
「どちらが正しい?」
「イバラキなら分かるよね?」
イバラキは、すぐには答えなかった。
まず、骨の付き方と肉の締まり具合を確かめる。
次に、包みを開いて量を見る。
それから、囲炉裏の火へ目を移した。今夜の膳の数を数える。残っている根菜と豆の量を思い出す。戸口から入る光の傾きを見る。
その間、二人は待っていた。どちらも、自分が選ばれると信じている顔をしている。
レオンが二人の様子を見て、見取り図を静かに畳み始めた。ジェネラルも何も言わずにそれを手伝う。
ゲドーマルの肩から、ノクティスが影の手を骨の方へ伸ばしている。アウルは甘い匂いのする包みを見つめている。
少し離れた場所では、アルティシアが器を運んでいた。子どもの一人が手を伸ばすより先に、自分から片手を差し出している。
イバラキは、肉から目を上げた。
どちらが正しいとも言わなかった。
「店主は、なんと?」
二人の動きが、同時に止まった。
ゲドーマルが骨へ視線を落とす。タマが包みを見下ろす。
先ほどまでの勢いが、音を立てずに抜けていく。肩の高さが、二人とも確かに下がった。
囲炉裏の薪が、乾いた音を立てて爆ぜた。
イバラキの耳が、それを拾う。
ゲドーマルとタマが、揃って項垂れる。
夕餉の支度が、いつも通り始まった。
『……まあ、外道丸と玉藻のやることだからね』




