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第24話 底が見えない


 冒険者ギルドの建物は、まだ修復の途中だった。


 昼を少し過ぎたこの時間なら、本来、酒場から上がる笑い声と依頼板の前で交わされる怒鳴り声が、天井の梁を震わせていてもおかしくはない。


 先日、この建物の中へ、魔王が現れた。


 その噂を酒の肴にする者も、大げさな身振りで目撃談を再現する者も、いくらでもいるはずだったが、誰も動いていない。


 盃を口元まで持ち上げた姿勢で固まっている者がいる。


 泡の溢れた麦酒が指へ伝っているのに、それを拭おうともしない。


 焼いた肉を口へ入れかけていた男も、串を持ったまま、瞬きすら忘れている。


 そして、この場の全ての者が、静止している。


 原因は群青色の髪を、一糸乱れぬよう固めた眼鏡の男。


 アウルの前で、膝を折り、頭を垂れている。その姿勢には、どこか儀式めいたものがある。


 男は、顔を上げないまま言った。


 「お会いできて光栄です、古竜殿」


 喧騒を割って届くほどの声量ではないのに、なぜかギルドの隅々まで、はっきりと通っている。


 アウルは、ぱちぱちと瞬きをしたあと、意味を測りかねるように小さく首を傾げると、水色の髪が頬へさらりと落ちる。


 それからタマの服の裾をぎゅっと掴み、助けを求める目を向けたが、タマも混乱している。


 視線が泳ぎ、やがてリラへ向く。目が合う。だが、それも一瞬。


 タマの視線はハルを素通りし、縋るように俺へ流れてくる。


 俺が小さく首を横に振ると、その目は最後にリーネへ向いた。


 完全に助けを求める目をしている。


 リーネは一度だけ瞬きをしたあと、視線を横に逃す。


 タマの目が、さらに困ったものになる。


 リラが目を見開き、口を半開きにしたまま、呆然と佇む。


 「……ちょ、いま、私、タマさんに戦力外扱いされた?」


 「……いや、俺なんか目も合わせてもらえなかった。これでも、一応、斥候なんだけど……」


 リラの肩の上で、ノクティスが小さく揺れる。影の輪郭がふわりと波打ち、くすくすと笑っているような気配が伝わってくる。


 そんな中、翡翠色の髪を靡かせながら、エルフの女が群青髪の男の脇を風のように抜け、俺の前に立ち、胸ぐらを掴む。


 「お前、《天網の狂帝》と知り合いなんでしょ!? 奴は今どこ!?」


 俺が、詰め寄ってくるその顔を正面から視ると、翡翠色の瞳が、間近で揺れている。


 アウレオンと、同じ色。エルフという種族の色なのか、血の繋がりゆえなのか、それは分からない。


 だが、その瞳の奥に灯る強さの質までは、視れば伝わってくる。


 「アウレオンと同じ目だな。綺麗だ」


 「「!?」」


 なぜか、エルフが固まった。詰め寄っていた勢いのまま止まり、頬にじわりと赤みが差していく。


 なぜか、タマも、固まった。顔から血の気が引いていくのが、隣にいてもはっきりと分かった。


 跪いていた男が、顔だけをこちらへ向ける。


 「エルヴィナ。尋問中に動揺するのは非効率だ」


 「し、していない!」


 エルヴィナと呼ばれたエルフが、弾かれたように声を上げる。


 「わたくしは動揺などしていないわ!」


 「顔面の血流が増加している」


 「黙りなさい、ゼノン!」


 エルヴィナは俺の胸ぐらから手を離すと、赤くなった頬を隠すように顔を背ける。


 だが、一度離した手をどうすればいいのか分からないらしく、結局、腕を組んで胸を張る。


 「そ、それより魔王よ!」


 無理に本題へ戻した声には、先ほどよりも強い勢いが乗っていた。


 「あれは、わたくしが倒す。居場所を知っているなら、今すぐ言いなさい!」


 リーネが慌てて止めに入ろうとして、俺とエルヴィナの狭い隙間に身体を滑らせる。


 「ちょ、ちょっとエルヴィナさん!」


 だが、今度は、銀色の狼のような耳と尻尾を持つ獣人が、リーネの肩口を指先で小さく小突いて、振り向かせると、低く声をかける。


 「……クロウゼルは何処?」


 それはとても小さな声で、いつものギルドの喧騒の中であったなら、聞き逃していただろう。


 だが、その一言には、静けさとは裏腹の重さがある。


 跪いていたゼノンと呼ばれた眼鏡の男が、膝についていた埃を払う仕草すらせず、立ち上がる。


 片膝をついていた時には分からなかったが、こうして全身を起こすと、かなり背が高い。


 濃い群青の上着は裾が長く、立ち上がった動きに遅れて静かに落ちる。


 背負っているのは、本人の身の丈を越える斧槍。斧とも槍ともつかない大きな刃には、文字のような模様が幾つも刻まれている。


 だがあれは、ミルザたちのとは違う。あの模様からは何も視えない。


 ただの模様。空っぽだな。


 男自身は人の姿をしているが、身体の内側まで人の形をしているようには視えない。


 肩から腕へ流れる力も、呼吸に合わせて胸の奥を巡るものも、人よりずっと太く、深い。


 昔、山深い淵で見た大蛇を思い出す。


 長い年月を生きたものは、時折、人の姿を借りる。あれがさらに年を経て、言葉と衣を覚え、ついでに眼鏡まで掛ければ、こうなるのかもしれない。


 ……眼鏡を掛けた大蛇の妖。随分と、学のありそうな大蛇だ。


 一人で納得して深く頷く俺に向かって、ハルが小さく言葉をこぼした。


 「ゲドーマル。今の俺には、まだお前の考えまではわからないが……多分、お前が考えていることは間違っているぞ」


 その大蛇がまっすぐエルヴィナと獣人へ向き直る。


 「待ちなさい二人とも。まず古竜殿に挨拶を」


 だがエルヴィナと呼ばれたエルフは、その声が聞こえなかったのか、聞こえていて無視をしたのか、俺にさらに詰め寄る。


 「魔王は何処!? 言わないのなら、身体に直接聞いてもいいのよ」


 タマが、横から俺の袖を引く。


 「ねぇ」


 下から覗き込むように、じっと俺の眼を捉えて放さない。上目遣いのその瞳には、隠しきれない甘えるような色が滲んでいる。


 「私の目は?」


 「金色だな」


 タマの指が、俺の袖を握ったまま止まった。


 「そういうことを聞いているんじゃないよ」


 声は穏やかではあるが、これ以上間違えるべきではないことだけは、すぐに分かった。


 俺は特に言葉にせず、タマの頭を撫でる。


 目を細め、頬を俺の胸に擦り寄せてくるタマ。白銀の髪が、撫でる俺の手の甲へさらりとかかり、その温かさだけが、この騒がしさの中でやけにはっきりと伝わってくる。


 「……答えになっていない」


 胸元へ頬を寄せたまま、タマが小さく言った。俺の袖を掴む力は緩んでいる。


 ハルとリラは、完全に固まっていた。ギルドにいる冒険者たちも、揃って身動きひとつしない。


 俺はリーネに籠を見せ、声をかける。


 「薬草の納品なんだが」


 誰かが、詰めていた息を吐いた。


 それを合図にしたように、冒険者たちの間から声が上がり始める。


 この場に美人が集まったことで、それぞれの好みを競い始める。誰かがジョッキを掲げ、誰かが真剣な顔で腕を組み、誰かが隣の男を小突いた。


 「エルフだろ。勝ち気なのがいい」


 「俺はタマちゃん一筋だ。最近またひとつ可愛くなった」


 胸元で、白銀の髪が一度だけ揺れた。


 「俺は赤髪の元貴族だな。どことなく品がある」


 「リーネもいいぞ」


 リーネの眉が、ぴくりと動いた。


 「私は関係ありません」


 収拾がつかない。堰を切ったように、誰も止まらない。


 「魔王を探してるエルフと、ヴァンパイアを探してる犬と、子供に跪く竜人だろ」


 「何一つ分からん」


 「《混沌の庭》って、本当だったんだな」


 エルヴィナが、声のした方を凄い形相で振り返る。


 「誰が《混沌の庭》よ!」


 冒険者たちの視線が、一斉に逸れる。


 ゼノンが眼鏡の位置を直した。


 「呼称としては、現在の状況を適切に表している」


 「お前が認めるんじゃないわよ!」


 声が声を呼び、止まりかけていたざわめきが、また広がっていく。


 木のジョッキがぶつかる音と、椅子の脚が床を擦る音が重なる。


 リーネは何かを堪えるように、深く息を吸った。


 「うるさーい!!」


 声が、ギルドの中へ轟いた。壁に跳ね返り、しばらく耳の奥に残るほどの一喝。


 エルヴィナも、ゼノンも、狼の獣人も、冒険者たちも、一斉に口を閉じた。


 アウルまでタマの陰から顔を出し、目を丸くしている。


 先ほどまで好き勝手に話していた冒険者たちは、まるで最初から一言も発していなかったような顔で、背筋を伸ばした。


 一人だけ、掲げたジョッキを下ろす機会を失い、そのまま腕を上げ続けている男がいる。


 リーネは胸元へ手を置き、乱れた息を整えた。


 それから服の皺を直し、いつもの受付嬢の顔へ戻ると、丁寧に頭を下げる。


 「失礼しました」


 顔を上げたとき、頬にはまだ、怒りの名残の赤みが残っていた。


 「タマさん達はギルドマスターがお呼びです。《混沌の庭》……じゃなかった、《残響の楔》の皆さんは少しお待ちください」


 ハルが、小さく呟いた。


 「ギルドの受付が最強だな。お前も受付嬢目指したら?」


 リラが頷きかけて、すぐに首を振る。


 「違うでしょ」


 ノクティスが、リラの肩の上で小さく揺れていた。くすくすと、面白がるように、影の端が丸くなったり伸びたりを繰り返している。


 「……さっき、あの人を妖の類だと思ったでしょう」


 胸元から、タマの声がした。


 視線を向けると、金色の目が半分ほど細くなっている。


 「……何も言っていない」


 タマは小さく息を吐いた。


 「妖はいないって、最初に言ったでしょう?」


 「だが、竜はいただろう」


 「いるけど」


 タマの目が、さらに細くなる。


 「いるけど、だからって、眼鏡を掛けた大蛇の妖にはならないからね」


 そこまでは、まだ言っていない。


 俺が黙っていると、タマは俺の顔をじっと見たあと、片手で額を押さえた。


 「……やっぱり、大蛇まで合ってた」


 *


 風が止まり、森は静まり返っていた。


 木々の間から差し込む光は弱く、徐々に霧が、その場を埋めるように広がっていった。


 あの娘の霧はまだ健気に働いている。


 鳥の声もなくなった。虫の音も聞こえなくなった。木の葉の一枚さえ、揺れることをやめていた。


 その中心に、一人の女が立っている。


 ヴァンパイア、カルミラ。


 胸元のペンダントの魔石が、淡く光っていて、カルミラはその表面を、爪の先で撫でた。


 ……せっかく、良い道行きだったのに。


 ゲドーマル。


 あの男のことを知ったのは、完全に偶然だった。


 世界に放っている潜伏者からの情報。狂帝陣営の古竜復活の目論みの話。


 カルミラはそれを横取りするために王都リュシアに来た。


 レオンという紳士的な男の口から、暗示越しに拾い上げた話は、久しぶりに心を弾ませるものだった。


 オーガを素手で倒す男。魔族幹部の企みを収め、古竜の暴走すら鎮めたという男。


 不思議な眼を持ち、《氣》とかいう、カルミラですら見たことも聞いたこともない、何かを操る男。


 退屈しのぎではない、本当の意味で見たいと思える相手が、久しぶりに現れた。


 実際に会って話をしてみたら、さらに惹かれた。


 その棲家とやらへ、ちょうど良い顔をして訪ねてやるつもりだったのに。


 それを、こんな下等な連中に足止めされている。


 苛立ちがないと言えば、嘘になる……が、それを面に出すほど、カルミラは若くない。


 長く生きるということは、その分だけ、感情を隠すことに長けるということでもある。


 「……来てるわね」


 小さくため息を吐く。ため息の理由を、この場の誰も正しくは読み取れないだろう。


 単なる呆れだと、皆がそう思っている。


 前方に、三つの影が立っていた。ミルザが魔力を高め、白灰色の筋肉が膨れ上がり、空気が震える。


 スイウンは芭蕉扇を構えるが、その手はわずかに震えている。


 ヤグはボーガンにそっくりな魔道具を、カルミラに向けている。


 矢の代わりに木の杭が装填され、武器全体を魔力が覆っている。


 ヴァンパイアについてそれなりに調べてきているらしい。


 「はぁ……少しだけ遊んであげる。あまり時間がないの」


 カルミラの声からは、面倒臭さが滲み出ていた。


 それは、演技や嘘ではなく、本当に、時間が惜しかった。


 あの棲家へ着く時間が、この茶番のぶんだけ遅れる。


 それに”彼”がもうすぐ側まで来ている。一刻も早くここを離れなくてはいけない。


 内心では舌打ちをしたいくらいだったが、口にするのはあくまで気だるい退屈さだけ。


 それ以上の感情を悟らせる隙は、一切、与えない。


 最初の標的を選ぶ。


 スイウンの血の匂いは、すでにカルミラに怯えている。


 間合いの外にいるうちから、その匂いだけで分かる。


 甘く、けれどどこか金気を帯びた、追い詰められた者の匂い。


 触れる前から、もう血が負けている。いつものことで、いつものように、退屈。


 笑みを浮かべたまま、視線だけをスイウンの首筋へ滑らせる。


 そこに透けて見える血の流れの震え方だけで、この娘が今どれほどの恐怖に晒されているかは、正確に測れる。


 喉の動き、扇を握る手の震え、震えを押し殺そうとして逆に強張った肩。


 刻まれた狂智の縛りがこの羅刹の意志を鎖につないでいることも、血の匂いが教えてくれる。


 惜しい、とだけ思う。縛られてさえいなければ、この娘の血はもっと美味しく怯えただろうに。


 カルミラの魔力が、静かに高まっていく。


 周りの空気が揺らいでいき、血が巡り、カルミラの瞳が赤く染まる。


 カルミラは、首を傾げる。


 「魔族の血は嫌いだけど……羅刹はどうかしらね。初めてだから、少し楽しみだわ」


 霧がわずかに巻き、カルミラの姿が、消える。


 スイウンの背後、首元へ、白い牙が迫る。


 だが、鋭い音が空気を裂いた。


 ヤグの放った木の杭。これが心臓に刺されば、流石のカルミラも不味い。


 しかし、カルミラは振り向きもせず、それを手で受け止める。衝撃は、指先で潰されていた。


 そのまま、軽く投げた、というより手放しただけ。


 「ぐっ……!」


 杭が、一直線にミルザの腕に突き刺さっていた。


 短い呻き声とともに、ミルザの動きが止まり、血の匂いが、空気に滲む。


 その隙をスイウンは逃さない。羅刹の瞬発力をもって後ろへ飛び、距離を取る……はずだった。


 首元が無理矢理引かれ、スイウンの呼吸が詰まる。


 冷たい指で襟を掴まれたスイウンの顔が、恐怖で歪む。


 カルミラの牙が、ゆっくりと首へ迫る。


 「あ……あ……あああああっ!」


 叫びは、途中で途切れた。


 血の匂いが、濃くなる。手が離され、遅れてドサリと地面に崩れる。


 スイウンは、意識を失ったまま痙攣している。


 カルミラは、唇を舐めた。羅刹の血には、澄んだ苦みがある。


 「羅刹も……悪くないわね」


 カルミラはすでにスイウンに興味を失ったように、目を細める。


 ヤグが小瓶を取り出し、躊躇なく投げ、ミルザはそれを掴むと、血の付いた手で栓ごと噛み砕き、飲み干す。


 骨が内側から押し上げるような軋む音が霧の中に響くと同時に、元々大きなミルザの筋肉がさらに膨れ、皮膚が張りつめる。


 獣のような臭いが、血の匂いに混じっていく。


 《狂智の錨》がミルザの手から滑り落ち、ドサリと音を立てた。


 ミルザの目が焦点を失い、濁る。口の端から、涎がこぼれ落ちる。


 カルミラは、わずかに顔をしかめ、自分を抱くように腕を巻く。


 理性を捨てた獣というものは、どうにも好みではない。


 魔族としての矜持も狡さも、何もかも脱ぎ捨てた獣のような臭いだけが、そこに残っている。


 「……気持ち悪い」


 ミルザの姿が掻き消え、空気だけが、遅れて揺れる。


 次に現れたのは、カルミラの目の前。


 ミルザの右腕が伸び、カルミラの襟元を掴む。口角が跳ね上がり、牙が剥き出しになる。


 だが、ぽたり、と何かが落ちた。


 ミルザの視線がゆっくりと下がる。


 カルミラの白く細い腕が、その胸に突き刺さっている。


 その手のひらには、青いものが脈打っていた。鼓動は、まだある。


 ヤグが、息を呑む。手にした魔道具を握る手が、震えている。


 ミルザは、言葉を失ったまま、カルミラを見た。


 カルミラは、優しく笑う。


 「残念だったわね」


 手を、一気に引き抜き、その中にある物を無造作に放り投げる。


 空っぽになったようにミルザの身体が揺れ、そのまま崩れ、ドサリと重い音が、地面に響く。


 森が、静かになり、霧は薄くなっていった。血と土の匂いだけが、残る。


 カルミラは、手についた血を、胸元から出したハンカチで拭うと、ヤグを見る。


 「あなたの血にも興味がないのだけど、どうする?」


 ヤグは黙ったまま、ゆっくりと首を横に振る。


 さあ、これで邪魔者は片付いた。


 少し予定より遅れただけのこと。あの棲家までの道のりを思い返し、カルミラの唇の端が、わずかに緩みかけた、その時。


 小さな足音が、近づいてくる。静かすぎる音。


 カルミラが、慌てるように振り向くと、木々の奥に、一人の男がそこに在った。


 ……嘘でしょう……早すぎる。


 紫の髪。整いすぎた顔立ち。黒のロングコートが、風もないのにわずかに揺れている。


 喉元には魔石が嵌め込まれた「欠けた」カメオ。


 その真紅の魔石が、赤く光っている。カルミラの胸元にある赤い魔石も、共鳴するように強く光っている。


 ヤグは、その雰囲気に呑まれ、息をすることも忘れている。


 たった今、魔族幹部の胸を一息に貫いた手が、こわばりかけていた。


 気配を消していた、という次元の話ではない。


 この男が近づく足音に、カルミラは今の今まで、まるで気づいていなかった。


 ……油断していたわけでも、ないんだけど。


 男は、穏やかに微笑む。知的なアイスブルーの瞳が、カルミラを映している。


 「随分と探したよ、カルミラ」


 その声は、やけに柔らかい。なのに、場の空気が、完全に支配されていく。


 まるで、ここに立っているカルミラ自身の輪郭までもが、この男の視線ひとつで、書き換えられてしまいそうな重さだった。


 百年以上、逃げ続けてきた相手だ。強さの底など、とうに測り終えたつもりでいた。


 だが、こうして向き合うと、その底が、また一段深くなっているように思えてならない。


 カルミラの頬を、汗が一筋伝った。


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