第22話 足元の一隅
森の空気は、まだ朝の湿りを感じさせた。夜露を含んだ草が、わずかに霜を張っていて、踏むたびに音を鳴らす。
遠くで、鳥が一度、鳴いた。
俺はしゃがみ込む。タマのおかげで、胸の奥に残っていた重さは、もうほとんど気にならない。
地面に広がる草の葉の形、茎の色、そして匂い、そのひとつひとつを、指先で確かめていく。
若い株は柔らかく、根元の土がまだ湿りを含んで黒い。育ちすぎた株は、茎の硬さで分かる。
切り株に腰を下ろしたタマは、さっきから指を折っては戻し、何かを数えるように宙を睨んでいる。
手伝う気配はないが、邪魔をする気配もない。
少し離れた場所では、アウルとノクティスが飛んだり跳ねたりしている。
草についた霜を足で踏みながら、音が鳴るのを楽しそうに戯れあっている。
その様子をちらりと視てから、俺は再び地面へ視線を落とす。
俺の横で、ハルが腰に手を当て、退屈そうに肩を回した。
「なあ、俺はここに必要?」
俺は手元の薬草の根元を確かめながら、丁寧に土を掘る。
「一日作さざれば、一日食らわず、だ」
「何だ、それ」
「寺で教わった。働かざるもの、食うべからず。つまり、食いたければ働け、ということだ」
そのまま、薬草を籠に落とすと、乾いた葉の重なる小さな音がする。
「それに……教会での治療費や泊まりで、それなりに金がかかった」
ハルが眉をひそめ、口をへの字に曲げる。
「……妙に現実的だな」
「現実だからな」
俺は手を止めることなく、薬草を探し続ける。
視線を巡らせた先では、リラが真剣な顔で葉を見つめ、指先でそっと摘み上げ、朝の光に透かす。
戦場で敵の得物を見定める時と同じ目つきが、こんな平和な場所でも出る。
近衛にいた頃の癖というのは、こういうところにも染みついているものらしかった。
「ゲドー」
リラが声をかけてくる。
「これは__」
「それは毒だ」
リラの指の動きが、ぴたりと止まった。
「触るくらいなら問題ない__」
言葉を切ると、リラが続きを求めるように、じっとこちらを見てくる。
「が……食べれば死ぬ」
リラは慌てて手を離す。葉がパサリと落ち葉の上へ。
彼女は頬をピクリと引き攣らせながら、その葉を見下ろしている。
その光景に、覚えがあった。
かつて、俺も同じように葉を落としたことがあった。
まだ山に入ったばかりの頃、摘んだ葉をサエに見せると、『それ、毒』と短く返され、慌てて手を離した。
毒葉が地面に落ちる音まで、今のリラのそれとよく似ていた気がする。
あの頃の自分も、こういう顔をしていたのだろうか。
分からないが、何となく、悪くない光景だとは思った。
「……危なかった」
リラが小さく呟くのを、ハルが見て、肩を揺らして笑う。
「お前、元騎士なのに毒草摘むなよ」
リラが、じろりとハルを睨む。
「薬草採取なんて必要なかったし……ポーション買えば、ことは足りたの。でも採取は冒険者の基本なのよ」
言い切ってから、少しだけ不安そうな声を足す。
「でも……こんなことをしていて、本当にSランクになれるの?」
俺は薬草の根元についた土を、手で静かに払い落とす。
「因なくして、果を得ることはない」
「……何それ?」
「昔、寺で教わった。薬草一つ見分けられぬまま、Sランクという結果だけを得ることはない、ということだ」
俺は別の薬草の根元を確かめながら答える。
リラが顔を上げ、それから目を細めた。完全に、疑っている顔をしている。
俺は、リラが落とした毒草へ目を向ける。
「今のお前が気にするべき場所は、その葉の辺りだな」
「……毒草の辺り?」
「今のお前の足元には、薬草と毒草がある。その違いも分からず遠くへ行けば、強くなる前に死ぬ」
リラは少し考え、それから、先ほど放り捨てた毒草へ視線を落とす。
「……なるほど。それも一理ある……かしら?」
その頷き方には、納得と、それとは別に、ここでこうしていることそのものへの安堵のようなものが、わずかに滲んでいる気がした。
理由は分からないが、ただ、何となく、そんな気がしただけだ。
ハルが、呆れたように呟く。
「納得するな」
「死ななければ、先へ進める。意味は同じだ」
俺がそう返すと、ハルは何かを言いかけたまま口を閉じ、諦めたように肩を落とす。
その時、タマが勢いよく立ち上がる。
「決めた!」
突然の声に、三人分の視線が集まる。
タマは腕を組み、何か重大な決断をしたばかりのような、力の入った真剣な表情をしている。
「どうした」
答えの想像はつく。それでも、一応聞いてみる。
「今日はパフェにする」
森の風が、ヒューッと木々を揺らして通り過ぎていく。
ハルが、首を傾げ、目を細める。
「……何の話だ」
タマは、当然だという顔で答える。
「甘味処。仕事の後のご褒美。いつもの流れ……それで、今日はどこ行くか、ずっと悩んでたの」
ハルが、額を押さえた。
「さっきからずっとそれ考えてたのか」
タマは、迷いなく頷く。
「もちろん」
俺は地面の薬草へ視線を戻し、リラは、また新しい葉を摘み上げている。
今度は、ハルがその手元をちらりと見て、それからリラの横顔へ視線を移し、また前を向いた。
何をしているのかは、よく分からない。
「ゲドー、これは?」
俺は、リラの手にある草を一瞥してから、すぐに答える。
「それも毒草だ」
リラは無言で放り投げた。ぽい、と。葉が落ち葉の上に、力なく落ちる。
ハルが、しみじみと呟いた。
「……Sランクは遠いな」
リラが、キッと睨む。
「うるさい」
睨まれたハルは、それ以上何も言わず、少しだけ口の端を上げただけだった。
何がおかしいのかは、俺にはついぞ分からなかった。
離れた場所で、アウルが土の上の霜を蹴り上げる足を、ふと止めた。
リラとハルのほうへ首をわずかに傾げ、それからアウルがノクティスへ目を向けると、ノクティスも応えるように影を一度だけ揺らし、何事もなかったように、また追いかけっこへ戻っていく。
何を確かめ合ったのかは、俺には視えなかった。
ただ、二人ともすぐに、いつも通り楽しそうに走り出していた。
森の中には、それでも変わらず、穏やかな空気が流れていた。
*
王都リュシア。昼を、少し過ぎた頃。
通りには人の流れが絶えず、露店の呼び声と馬車の車輪の軋みが重なり合っている。
焼きたてのパンの匂いに、酒場から漏れる昼の酒の笑い声も混じっていた。
街は、いつも通りの顔をして見せている。
その中で、通りを巡回する騎士の数だけは、明らかに多い。
王都ではここ数日、警戒の網が、じわじわと厚みを増していた。
謹慎を解かれたばかりの近衛騎士が三人、その通りを歩いている。
先頭を歩く第三団団長ヴァルクスの足が石畳を踏むたび、鎧の重みを受けた石が低い音を返す。それでも歩幅と間隔に乱れはない。
その半歩後ろを、ガルムとエルネストが続く。
二人とも、口には出さないが、この並びで歩くたびに、そこに欠けている一人分の場所を、それぞれの身体が、無意識のうちに感じていた。
本来であれば、この並びのヴァルクスの位置にリラが立ち、赤い髪を風に流しながら、先を急ぐように半歩前へ出ていたはずだった。
今は、そこに彼女はいない。歩調を合わせるべき相手がいない分だけ、隊列がわずかに軽く、そしてわずかに間延びして感じられる。
しばらく無言で歩いていたが、やがてガルムが意を決したように口を開く。
大きく太い手が、重槍の柄を握り直す仕草に、硬さがある。
「団長」
ヴァルクスは、前を見たまま答える。
「なんだ」
大きい手で、槍の柄を無意味に握り直しながら、ガルムは少し言葉を選ぶようにして言う。
ここで言うべきではないと、頭の片隅では分かっているが、分かっていて、それでも口が動く。
「……リラ隊長の件なんですが」
視界の端で、エルネストがわずかに眉を寄せ、開きかけた口を、しかし、閉じるのが分かった。
窘めるつもりだったのだろう。
閉じた理由も、ガルムには何となく察しがつく。こいつも、同じものを飲み込んでいる。
ガルムは、勢いで続ける。
「復帰、どうにか出来ませんか」
ヴァルクスは、歩みを止めない。
「無理だ」
抑揚のない、それでいてガルムの言葉を撥ね返す強さがある。
だがその短い言葉が、いつもの命令と同じ響きだったかと言えば、ガルムにはそうは聞こえなかった。
処分を下したのは団長ではなく、王城という機構そのもの。
侯爵という身分があれば、覆せる余地は残っているのかもしれない。
残っているからこそ、その線を団長自身が踏み越えれば、次に崩れるのは秩序のほうだ。
そこまでは、ガルムにも分かる。分かった上で、それでも口が動いた。
「でも団長、侯爵でしょう。その気になれば__」
「やめましょう、ガルム」
エルネストの低い声に、ガルムは首だけで振り向いた。
「お前はいいのかよ、これで」
エルネストは、変わらずいつもの静かな顔のまま、ガルムの目を見ている。
その静けさが、無関心から来るものでないことくらいは、ガルムにも分かっている。
これ以上進めれば、団長に、選べない選択を選べと迫ることになる……エルネストの目は、そう言っていた。
「その話は、団長の前ですることではありません」
ガルムが、舌打ちする。
「でもよ……隊長は__」
言いかけた言葉は、最後まで形にならなかった。
リラは、悪くなかった。少なくとも、ガルムの目にはそう映っている。
命令に背いたわけでもなく、私情で剣を振るったわけでもない。
正しいと信じたものに従っただけで、それが処分に値するというのなら、この王国の正しさとやらは、一体どこにあるのか。
口にすれば、それは団長への不満であり、王城への不満であり、さらに、近衛騎士という自分たちの立場そのものへの不満になる。
騎士は、剣を預けられた側で、預けた側の判断に、公然と異を唱えることは許されない。
分かっていながら、それでも胸に、飲みきれない何かが残っていた。
その時、ヴァルクスが、ふいに立ち止まった。
二人も、遅れて足を止める。
ヴァルクスは、視線だけをゆっくりと空へ向けた。
青い空に雲は、ほとんどない。
その中を、三羽の真っ黒な影が横切っていく。
カラスがその黒い羽に陽の光を吸い込ませながら、ゆるやかに旋回している。
ヴァルクスは、腰のポーチから小さな金属の円盤型の魔道具を取り出した。
中央に、薄い水晶がはめ込まれていて、それを空へ掲げると、その水晶が、かすかに光を帯びる。
数秒、表情も変えることなく、そのまま待つ。
団長の意識はもう、王都の警戒へ切り替わっている。
ガルムには、それが分かった。いつもそうだ。
私情は私情のまま腹に置き、職務は職務として寸分の狂いなく処理する。
その速さがこの人を団長たらしめているのだと、頭では分かっている。
分かっていて、飲み込みきれない。
ヴァルクスは魔道具を下ろし静かに口を開き、いつもの温度で言う。
「魔族だな」
ガルムが、固まった。
「……は?」
エルネストも空を見上げるが、カラスはただ旋回を続けているだけで、やはり、どこにでもいる鳥にしか見えない。
ガルムが、言う。
「いや……カラスですよ」
ヴァルクスはそれには答えず、もう一度、空を見上げた。
その目は、ただ冷静に、事実だけを測っている。
先ほどまでリラの話をしていた男と、同一人物とは思えないほどの徹底ぶり。
感情を脇へ置くことでしか、この職を守れないと考えているのだろう。
ガルムが、少し声を低くする。
「……本当に?」
ヴァルクスは、短く言った。
「魔力の歪みがある。魔族だ」
ガルムとエルネストが、再び空を見上げるが、やはりそこには、カラスが飛んでいるだけ。
ただの鳥のように。
事実を突きつけられた二人の背中に、目には見えないひやりとした緊張が走った。
ガルムの胸の内では、まだリラの件がくすぶったままだったが、それでも、槍を担ぎ直す手には、いつのまにか力が戻っている。
不満を飲み込むことと、目の前の脅威に備えることとは、この男の中では、矛盾なく両立する。
隣で、エルネストが杖を握る手に、わずかに力がこもるのが見えた。
さっきガルムを止めた男の横顔は、けれど、この話を捨てた者の顔ではなかった。
今この場でないだけだ。ガルムは、そう思うことにした。
王都の昼は、変わらず賑やかだった。人々は、誰も気づいていない。
その青い空の高みを、黒い影だけが、何食わぬ顔で、ゆっくりと旋回し続けていた。
*
王都東側の森の中。
昼の光は木々に遮られ、地面は薄い影が大半を占めている。
風が枝を揺らすたび、葉が優しい音を立てた。鳥が唄い、虫が鳴いている。
迷いの森はいつも通りだった。
その小道を、一人のヴァンパイアの女が歩いている。
カルミラは、鼻歌まじりに、木の根を軽く避け、ひとり軽快に進んでいく。
靴音は、ほとんど鳴らさない。百年余りを逃げてきた足の動きは、地面に負担というものをかけない。
両腕を空へ伸ばし、森の匂いを深く吸い込む。
湿った土、若葉、遠くの獣の匂い、そのどれよりも先に、カルミラの鼻は、ずっと近くで幾つかの匂いを拾っていた。
ひとつは、抑えつけられた魔族の強大な魔力の、嫌な匂い。
もうひとつは、それよりもずっと薄く、怯えの色をした汗の匂い。
木陰に隠れているつもりの者たちの気配は、カルミラにとって、目の前にある虫の羽音と、大差なかった。
「んー……いい天気」
誰に言うでもなく、呟きながら歩く。
気づいていないふりをするのは、退屈しのぎの一興でしかない。
その足が、ふいに止まる。もう十分に、待たせてやった頃合いだろう。
前方の木陰から、ミルザが口元を歪めて出てくる。
「ようやく見つけたよ、カルミラ。久しぶりだね」
ミルザは、へらへらと笑いながら、カルミラに向かって、ひらひらと手を振る。
「それにしても相変わらず、血の匂いが酷いな。それなのに、随分と高貴な服を着ている」
カルミラは、小さく首を傾げながら指先を唇に当て、少し考えるふうを装う。
この手の男は、忘れられることを、殺されることよりも嫌がる。
それを知っているからこその、意地の悪い間を空ける。
「……誰だったかしら?」
ミルザの眉が、ひくりと引き攣る。
「……相変わらず、頭に来る女だ」
カルミラは、あっさりと肩をすくめる。
魔族というのは、どいつもこいつもこうだ。自分たちを、この世で最も洗練された種だと信じて疑わない。
血を吸う者を、餌にたかる下位の存在だと見下し、その見下しをわざわざ声に出さずにはいられない。
そういう手合いを、カルミラは飽きるほど見てきた。
「なら、近づかなければいいのに」
ミルザの笑みが、すっと消え、代わりに、その顔に浮かんだのは、単なる苛立ちではない。
より根の深い、生まれついての優越を汚された者の、憎悪と呼べるもの。
「図に乗るな」
ミルザは一歩、前に出る。
「お前に用はない! クロウゼルを捕まえるエサとしてしか価値のない女め」
……エサ、か。
カルミラの目が、わずかに細くなる。
魔族にとって、ヴァンパイアとは所詮、途中から種族を変えられた、まがいものの不死者に過ぎない。
生まれながらに世界の理そのものである自分たちより下だと、この手の連中はいつも、そう信じている。
その傲慢さが、時折、無性に癇に障る。
何百年生きようと、思い上がりだけは、種族を問わず変わらないものらしい。
「それは……」
小さく、息を吐いた。
「少し、頭に来るわね」
カルミラの姿が、掻き消えた。地面を蹴る音すらしない。
一瞬にして、距離という距離が失われる。
だが、その身体が不意に止まり、次の瞬間には後ろへ跳んでいる。
空気を裂く鋭い音がして、木の杭が虚空を横切り、鈍い音とともに、その杭は地面に深く突き刺さった。
カルミラは、少し離れた場所へ着地する。
「……へぇ」
カルミラの視線の先には、ヤグが立っていた。
ヤグは、いつの間にそこへいたのか、気配すら感じさせなかったが、無表情のまま、手にした魔道具をゆっくりと下ろす。
この男の匂いは、他の魔族とは少し違い、血の温度が低く、代わりに、油と鉄の匂いがする。
カルミラは、そういう匂いのする者を、嫌いではなかった。
その傍らでは、スイウンが霧を撒いていて、その白い霧が、森の地面を這うように広がっていく。
「暗示対策……」
漂う霧の流れを、目で追う。
だがそのスイウンは、カルミラを真っ直ぐに見ることができず、視線を絶えず逸らしたまま、その身体を密かに震わせていた。
この娘の身体には、カルミラという存在に対して、絶対の怯えが染みつき、その細い肩を支配している。
カルミラはそれを見て、くすりと笑う。
可愛らしいこと。
二度目に会う怯えた小動物ほど、見ていて飽きないものはない。
「へぇ……少しは成長してるじゃない」
ミルザが、鼻で笑った。
「当たり前だ」
ヤグが、一歩前へ出る。
「投降しろ」
抑揚も、駆け引きもない、ただの短い言葉。
「そうすれば、痛い目に遭うこともない」
カルミラは首を傾げ、それから、小さく笑う。
こういう交渉が成立した試しなど、彼女の知る限り一度もない。
それでも、こうして馬鹿正直に投降を勧めてくる律儀さだけは、少しばかり好ましく思える。
「お優しいのね」
森の風が、ヒューッと木々を揺らして通り過ぎていく。
カルミラの胸元、ペンダントの魔石が、淡く光を放つ。
この光が意味するもの、それは追われるということ、そしてつまり、まだ見られているということ。
それを見下ろし、小さく息を吐く。
「……あら」
口元が、わずかに歪んだ。それは喜びとも、諦めともつかない歪み方。
目の前の駒たちに向けていた興味など、その光ひとつで、もうどこかへ追いやられていた。
「来てるわね……彼が」
森の奥で、風がひときわ強く吹いて、木々がざわめいた。
その音の中で、ペンダントの光だけが、心臓の鼓動のように、静かに脈打ち続けていた。




