第21話 届く範囲
眼を開くと、汚れのない白い天井が最初に視えた。
見慣れぬ石の継ぎ目の細部まで拾えるほど、視界だけは妙にはっきりとしていた。
身体のほうは、深く息を吸い込むだけで内側の何かが軋み、動かそうにも、まるでいうことをきかない。
臓腑が潰れたときの重さが、胸の奥に残っている。
眼を瞑ると瞼の裏に、黄金の装甲とあの静かな笑いがよぎる。
強かったな。
短くそれだけを胸の内で呟き、時間をかけて息を吐き出したところで、手のひらの温もりに気づく。
視線を落とすと、椅子に腰掛けたまま眠っているタマがいて、俺の手を、眠りに落ちてなお、両手できつく包み込んでいる。
白銀の髪が肩から流れ、その先が寝息のたびにわずかに揺れる。それでも、握った手の力を緩める気配は、微塵もない。
俺は、その手をそのままにしておくことにする。
以前にも、こんなことがあったな。
リラに斬られたあの夜、隠れ家で目を覚ました時も、確か、同じ握り方をしていた。
誰かを、この世に繋ぎ止めておくための力の込め方。
緩めれば、そのまま黄泉へと流されてしまうとでも思っているのかもしれない。
首を、ゆっくりと周りへ巡らせる。
隣の寝台には、聖女と名乗った女が横たわっている。
額や胸元、腕には包帯が巻かれ、寝巻きの襟元だけが、呼吸に合わせてゆっくりと上下している。
少なくとも、命の峠は越えたのだろう。
その脇の椅子では、カイランが腕を組んだまま船を漕いでいる。
反対側の寝台には、翡翠色の髪のエルフの女が、やはり、寝息を立てたまま動かない。
「……静かだ」
風が、窓を小さく叩き、その音だけが、部屋に響く。
命を懸けた戦いの後にしか、この静けさは来ない。それを、俺は人より多く知っている。
血や煙の匂いも、もうここにはない。
あるのは、薬湯と晒の匂いだけで、それが、この天井の高い部屋の隅々まで満たしている。
俺は天井を見上げたまま、もう一度、ガグンを思い出す。
世界は、たったひとりの存在で、こうも容易く傾く。
簡単には変わらない、というのは嘘だ。簡単に変わってしまうからこそ、こちらが力の限り、踏ん張らねばならない。
そのとき、不意に、脳裏に懐かしい声が浮かんだ。
『世界はね……きれいには、とじないの』
ああ。その通りだ。
世界は、いつだってきれいには終わらない。正義も、悪も、全部が途中のままだ。
誰もが折り合いをつけて、また次の朝が来る。
それだけのことを、サエはあの雨の日に、俺へ残した。
気づけば、口元がほんの少しだけ緩んでいた。
「……それでも」
視線を、もう一度、まだ握られたままのタマの手へ向ける。
この温かさだけは、世界がどれだけきれいにとじなくても、きっと、変わらずにここにある。
俺は、胸の奥の重さを確かめながら、小さく息を吐いた。
世界全部を守るのは、無理だ。そんなつもりもない。
だが、この眼の届く範囲くらいは、守らねばならない。
「……そうでなければ、鬼のまま、ここまで生き延びた意味がない」
タマが眠ったまま、わずかに身じろぎする。俺は、握られたその手を、そっと握り返す。
窓から、朝の光が差し込んでくる。
*
深夜の王城は、廊下の奥まで沈黙で満たされていた。
玉座の裏手に設けられた、私室に近いこの執務室には、暖炉の匂いも、花の香りもない。
冷えきった空気だけが、壁際にわだかまるように、音もなく澱んでいた。
燭台の火が揺れるたび、壁の影がごくわずかに伸び、縮む。
だが、その頼りない熱では、この部屋に染みついた冷たさは、どうにもならなかった。
部屋の奥には、王家の紋章を彫り込んだ高背の革張りの椅子へ深く身体を沈めた、レグナ王国国王・ワイス。
卓上へ広げた王都の地図に目をやりながら、幅の広い肘掛けに置いた指先で、同じ一点を繰り返し叩いている。
長年同じ場所を打ち続けた部分だけ艶が薄れ、爪や指輪による細かな傷が残っている。
爪の先が硬い木でできた肘掛けに触れるたび、乾いた音が、蝋燭の灯りだけの部屋にやけに大きく響く。
その背後には、影のように直立する男、近衛騎士第一団団長・グラウ・アイゼン。
”王国最強”と謳われる男が、身じろぎひとつせず、壁の一部のように立っている。
第四団の斥候が、片膝をついたまま報告を締めくくる。
「__以上です」
ワイスは地図から目を上げないまま、しばし黙考する。
爪の音が止まり、アルティシアとも、ルキアスとも、どこか似た声が落ちる。
「下がれ」
騎士は一礼し、足音を殺したまま下がっていく。
重い扉が、控えめな軋みとともに閉じられ、その残響が消えるのを待つように、部屋はしばらくの間、無音となる。
部屋に残ったのは、王と、その影のごとき番犬だけ。
しばらくの間、ワイスは地図から視線を外さなかった。
指先だけが、王都を描いた線の上を、確かめるように、ゆっくりと這っていく。
「歴代最強の噂もある聖女が潰されたか」
「……」
ワイスの指先が、地図の一点でぴたりと止まり、口の端が、わずかに持ち上がる。
「そして、その相手が、ほんのいっときとはいえ、かつて余の盾であった男。その男が、今では王都を揺らしているとはな」
グラウは微動だにせぬまま、感情の温度を持たない声で答える。
「過去のことかと、陛下」
ワイスは、ゆっくりと息を吐く。
「過去……歴史か」
地図から視線を外し、窓の外へ目をやると王都のわずかな灯りが、いつもと変わらぬ調子で、壁の輪郭を曖昧に滲ませている。
何も知らない街の明るさだけが、この部屋の冷たさと、どうしようもなく噛み合わない。
「歴史とは、勝者が書くものだ……だが、あの男が体現するのは__」
声の高さも速さも変えず、静かに続ける。
「”理”そのものだ」
ワイスが地図を、少し強く指で叩くと、乾いた音がひとつ、部屋に響く。
「我らの手には負えん」
振り返りもせず、そう言い切った。
「グラウ……お前はあいつをどう思う……かつてお前の席に座っていた、”魔王”を」
グラウは一度だけ瞬きをして、それから、声の表情を先ほどと変えずに答える。
「……計算不能です」
ワイスの眉が、わずかに持ち上がった。
「計算不能、か……珍しいな。お前の口からそんな言葉が出るのは」
「敵であれば、排除の手順を組みます。味方であれば、利用価値の有無を測ります」
そこで一度、静かに息を吐く。
「ですが、彼の魔王は、そのどちらにも収まりません」
抑揚のない言葉で続ける。
「……あれは、自由な理のようなもの。矛盾そのものです」
感情の波紋を映さぬその瞳の奥にだけ、”何か”が、常に鈍く光っている。
他の何を計算できずとも、その一点だけは、いつも変わらずそこにあり続ける。
その"何か"が何であるのか、ワイスには知る由もなかった。
「制御下に置くことは、不可能かと」
ワイスは、小さく鼻で笑った。
「……ああ、分かっている。そのつもりもない」
背もたれに預けていた身体を、緩慢に起こすと、珍しく着崩された王衣の袖が、その動きに遅れて揺れた。
「だからこそ、利用する」
指先で、王都の中心をなぞる。地図の上を這うその爪先だけが、この部屋で唯一、迷いなく動いていた。
「あの男が”選別”に飽きるまで……どれだけ多くの駒を犠牲にしてでも、視線を余から逸らし続けねばならん」
ワイスは、椅子ごと身体を回し、初めてグラウへ視線を向けた。
「我が王国最強の男よ。お前は……ガグンと戦う気はあるか?」
グラウは、間を置かずに即答する。
「陛下の安全が脅かされるならば、相手が神であろうと魔王であろうと__」
決意を新たに固める素振りすら見せず、淡々と言葉を継ぐ。
「私の剣が届く範囲までは、切り裂きます」
ワイスは、ふっと喉の奥だけで笑った。
「……やはりお前は、面倒なほどに”責任”という鎖に縛られているな」
そして、アルティシアとルキアスと同じ、しかし違って見える、その薄い灰青の目でグラウを見る。
「それでいい。鎖に繋がれた番犬こそ、この国には一番必要だ」
グラウは、ただ深く頭を垂れる。
ワイスは再び視線を地図へ戻し、抑揚のない声で言った。
「ガグンとギルドで争い、生き残ったという冒険者を探せ」
地図を、半分に折り畳む。紙の重なる乾いた音が、蝋燭の灯りの下で小さく響いた。
「魔王も、ヴァンパイアも、聖女も」
静けさを保ったまま、続ける。
「この際、まとめて排除しろ」
蝋燭の火が、わずかに身をよじった。部屋は、また元の沈黙に沈んでいく。
*
教会の夜は、昼間よりもずっと静かだった。
石造りの廊下は冷え込み、窓から差し込む月明かりだけが、床の上に細い光の帯を引いている。
遠くで、窓の隙間を風が抜ける音がした。
その奥、廊下の突き当たりで、扉がひとつ、控えめに開いていく。
カイランが、片手に木の盆を掲げ、皿と椀、水の入った小さな器を危なげなく揃えて載せたまま、身体を扉の隙間へ滑らせて中へ入る。
両手が塞がっているせいで、扉は足で押し閉めるしかなかった。
重い木の扉が、控えめな音を残して閉じていく。
部屋には、寝台がいくつか並んでいる。
ゲドーマルとエルヴィナは、すでに昼のうちに教会を出ており、並んだ寝台のひとつに、セレスティアがひとり、横たわっていた。
胸元から肩にかけて巻かれた白い包帯の下には、まだ回復魔法だけでは塞がりきらない傷がある。
その目は、扉が開いた瞬間、確かに動いた。一度だけ、素早く。
誰が来たのかを確かめるように、視線の端がカイランへ向かい、そしてすぐ、何事もなかったかのように天井の同じ一点へ引き戻される。
あからさまなほど、わざとらしい戻し方だったが、カイランに対してだけは、いつもこうだ。
誰よりも早く気づいて、誰よりも遅く認める。
カイランは彼女に気づかれないよう、小さく息を吐き、何も見ていなかったかのように、寝台の横の椅子を引き寄せる。
脚が石床を擦る乾いた音が響き、腰を下ろすと同時に盆をそっと置く。
「食べなよ」
カイランは天井を見つめたままのセレスティアに向かって、短く言う。
セレスティアは視線だけを盆へ動かし、匂いを確かめるように中身を見てから、枕へ頬をうずめるように、ゆっくりと顔をそむけた。
だがその頬は、寝台の陰でわずかに緩んでいる。
盆を運んできたのがカイランだと分かった瞬間、確かに、安堵に似た何かが顔の筋肉から力を抜いていた。
それを本人がすぐに引き締め直したので、傍からは、ただ不機嫌そうに顔を背けたようにしか見えない。
カイランは、小さく苦笑を漏らす。
本人は隠せているつもりらしいが、部屋の隅に置かれた姿見に、全部映っていた。
「いらない」
辛うじて聞き取れるくらいの小さな声でセレスティアが返す。
カイランの眉が寄り、少し強めに言う。
「いらないじゃない、食べるんだ」
セレスティアはカイランに背を向けたまま、動かない。
だが耳だけは、椅子のわずかに軋む音、椀を持ち上げる時の袖の擦れる音、そのひとつひとつを、聞こえていないふりをしながら、しっかりと拾っている。
音を拾うたび、視線がわずかに泳ぎ、それが姿見に映って、結局、カイランには全部筒抜けだった。
教会の奥で、どこかの扉が閉まる音がして、それが消えると、また部屋には、静けさが戻ってくる。
カイランは腕を組み、椅子の背へわずかに体重を預ける。
「丸一日、何も食ってないだろ。回復魔法は万能じゃないんだ」
セレスティアは動かず、耳だけをカイランに向けたままでいる。
カイランは、小さく息を吐く。
「……聖女様」
その呼び方には、隠しきれない皮肉が込められている。
セレスティアの眉が、ぴくりと寄るが、それだけでは足りなかったのか、包帯の上から胸を張るような勢いで振り向く。
「その呼び方やめて。カイランには呼ばれたくない」
「今さらか?」
カイランは大袈裟に肩をすくめた。
「歴代最強の聖女様だろう」
セレスティアの目が細くなる。売り言葉に買い言葉、のはずが、痛いところを的確に突かれて、返せなくなる。
鏡の中で、唇だけが動いた。
「……負けたよ」
カイランはそれには答えず、湯気がまだうっすらと立ち上っている椀を持ち上げた。
「ほら」
セレスティアは差し出された椀そのものより、それを差し出しているカイランの手のほうを、一瞬だけ見てから、視線をそらす。
「……いらない」
子供のように頬を膨らませる。普段の凛とした佇まいからは、想像もつかない顔だった。
カイランはしばらくその横顔を見つめていたが、やがて椀を盆へ戻し、背もたれへドサリと身体を預ける。
「……面倒くさいな」
セレスティアが一瞬だけ目を大きくして、すぐにじろりとカイランを睨む。
その目には、どう見ても力が入りすぎていて、縁はうっすらと赤く滲んでいる。
「何?」
「いや」
カイランは視線を天井へ逃がした。
「お前がそういう顔してる時は、大体ロクでもないこと考えてる」
セレスティアは黙り込み、枕を潰れるほど強く抱きかかえ、そのまま顔をうずめる。
だが、やがて、カイランに背を向け、ぽつりとこぼす。
「……勝てなかった」
その声は驚くほど細く、カイランに聞かせるつもりなど、最初からなかったような小ささだった。
カイランは何でもないことのように、いつも通りの声で返す。
「相手は魔王なん__」
「分かってる」
カイランが言い切る前に、慰めはいらないと言わんばかりに、声を被せてくる。
セレスティアがゆっくりと手を握り込むと、包帯がわずかに軋む。
その小さな音に自分でも気づいたのか、握った手の力を、ほんの少しだけ緩める。
「でも……私は聖女だから……歴代最強って……言われてるし」
小さく笑おうとするが、その笑みは口の端だけが持ち上がって終わる、いかにも弱々しいものになった。
手は何もない空間で、《聖なる長杖》を握り込む形をつくっている。
「魔王くらい倒さないと……格好つかないでしょ」
カイランは少しの間、黙っていたが、それから、ぽつりと言う。
「格好なんてどうでもいい。俺にはセレスティアが生きてることの方が大事だ」
セレスティアは背を向けたままだったが、その細い肩が、びくりと揺れたのを、カイランは見逃さなかった。
警戒しながら、ゆっくりとこちらへ身体の向きを変えかけたが、カイランの視線に気づくと、慌てて、押し戻されたように目を天井の一点へ上げる。
カイランは椅子から立ち上がり、盆を片付けようとして、その手を、ふと止めた。
「そういえば」
セレスティアが目だけをこちらへ動かす。今度は隠す間もなく、素早く。
「何?」
カイランは、努めて何でもない顔をつくって続ける。
「《聖域騎士団》が来る」
わずかな間があって、次の瞬間、白かった顔がみるみる歪み、セレスティアは勢いよく上体を跳ね起こす。
「嫌!」
カイランが、本気で慌てた。
「おい、傷が開くぞ!」
だがセレスティアの耳には、もう届いていない。
「絶対嫌! なんで!?」
カイランは、頭をかいた。
「なんでって……普通だろ? 聖女直属の精鋭部隊なんだから」
セレスティアは枕を引っ掴み、胸元へ抱え込むようにして引き寄せる。
その陰から、じとりとカイランを睨みつける。
「絶対来させないで!」
カイランは、彼女に聞こえるように大きくため息をつく。
「嫌なら……巡道教本部に帰るしかないな」
セレスティアの動きが、ぴたりと止まったあと、ゆっくりと顔を上げ、カイランを見る。
頬が、またじわじわと膨らんでいき、目の縁の赤みが、また濃くなっていく。
慈悲深い聖女の微笑みなど、どこにも見当たらない、子供そのものの不満顔になった。
本部に帰れば、この距離も、この軽口も、出すことが難しくなる。
それを言葉にする気は、欠片もないが。
「嫌だろ」
セレスティアは何も言わず、ただじっとカイランを見つめている。
睨んでいるつもりの目が、いつのまにか、ただ縋るような形に近くなっていく。
しばらくして、消え入りそうな声が落ちる。
「……嫌」
先ほどよりも、ずっと小さな声。
カイランは、わずかに口元を緩める。
「とりあえず、飯食え」
もう一度、椀を差し出すと、セレスティアはしばらくそれを睨むように見つめていたが、やがて観念したように手を伸ばし、渋々と受け取る。
匙で掬った一口を、ためらいがちに口へ運ぶ。
膨らんでいた頬が、粥と一緒に、少しずつ、ゆっくりとほどけていく。
ひと口飲み込んだ後、ちらりと椀越しにカイランを見て、美味しいとも、ありがとうとも言わないまま、また視線を天井へ戻す。
それでも、二口目を運ぶ匙の動きに、さっきまでの拒絶はもう残っていなかった。
カイランはそれを見届けてから、椅子の背に深く寄りかかる。
窓の外には、月が出ていた。風の音は残っているが、穏やかな夜といえた。
教会の中を、静かで優しい時間が、ゆっくりと流れていた。




