第20話 原点・雨
その日、そのときは、雨の匂いがしていた。
雲が低く、まだ夕方にもならぬのに、空の色は夜明け前のように暗い。
湿りを含んだ風が、ゆっくりと流れていて、鼻の奥には、その湿った匂いが広がっていた。
ぽつりと、雨になる前の最初の一滴が、頬にあたる。
小屋の前、サエが、倒されている丸太の上に腰を下ろし、膝の上に片手を置いて、もう片方の手で薬草を持っている。
サエはそれを束ねていなかった。
いつもなら長さを揃え、茎の弱いものを避け、指先だけで手早く分けていく。
今日は、サエは薬草の葉を、束ねる様子も見せずに、ただ手のひらで撫でていた。
俺は少し離れたところで、足を止める。
サエの横顔は、空を見上げ、雲の向こうにある、何か遠いものを見ているようだった。
「……どうした」
声をかけると、サエは目線を上げたまま、ほんの少しだけ微笑む。
「別に」
こちらを見ないまま、小さな声で返す。
いつもとは少し違う声には、弱さが含まれていた。
サエの隣を見ると、腰を下ろすだけの間はある。それでも、俺はなぜか座らず、そのまま横に立った。
湿った山の匂いを含んだ風が、俺とサエの間を通り抜けていく。
サエの髪が少しだけ揺れ、頬にかかったそれを払おうとする手が、途中で止まる。
「外道丸」
やはり声に、弱さが滲んでいる。
「なんだ」
サエは、すぐには続けず、首を傾げ、少し考える。
それは、何度も見てきた、いつもと同じ仕草。
苦い粥の言い訳を考えたときも、毒草と薬草を見分けたときも、俺を泥だらけの人と言ったときも、サエはこうして少しだけ考えた。
けれど、今日はその間が、いつもより確かに長かった。
空を見上げると、低い雲が山の輪郭に触れそうなほど近く、風が少し湿りを増した。
サエは、ゆっくり口を開いた。
「世界はね__」
そこで言葉が止まり、サエは少しだけ笑った。
眉が下がったその顔は、困っているようでもあり、どこか諦めているようにも見えた。
「きれいには、とじないの」
雨の匂いが、強くなった。
俺はサエを見た。サエはまだ空を見ている。
「……急だな」
そう言うと、サエは本当に小さくだけ肩を揺らして笑った。
笑った拍子に、手の中の薬草の葉が一枚、折れかける。
サエはそれに気づいて、手の力を緩めた。
「うん」
彼女の目線が、空から膝の上へ落ちる。
「急だね」
その声が、先ほどよりもさらに弱い。
そのとき、サエの肩が震えていることに、俺は気づいた。
山の冷えに震えるとき、サエはいつも肩をすくめ、笑いながら腕を擦るが、今は違う。
身体の芯のどこかから力が抜け落ち、震えながらも、どうにか座っている。
「……サエ」
サエはただ、ゆっくりと息を吐き、息を吐き終わった後、手の中の薬草が、手のひらから落ちる。
茎が木の段差に触れ、それから地面へ転がった。
俺には、それがやけにゆっくりと見えた。
俺は手を伸ばし、ゆっくりと傾いていくサエの肩を支え、背に腕を回し、その身体を受け止めた。
いつもより、ずっと軽かった。
「……サエ」
サエの目はもう閉じられていた。
まだ息はあるが、それは、喉をかろうじて通るような息でしかなかった。
俺の五感が、仕事をしなくなる。
サエの頬に雨が落ち、涙のように伝う。
「……外道丸」
かすかな声だった。目は開かないまま、口だけが少し動いた。
「……鬼でも、いいよ」
俺は顔を近づけると、サエの髪から、薬草と煙と土の匂いが、した。
「……ありがと」
言葉は小さく、雨の前の空気に溶けるように消えていった。
俺は、何も返せなかった。声が出なかった。
サエの身体を抱えたまま、俺はただ、そこにいた。
雨が、少し強くなる。
ぽつり、ぽつりとまばらだった雨粒が、やがて繋がり、山の上から静かに広がっていく。
木々の葉が濡れ、土の匂いが一気に立ちのぼった。
腕の中のサエからは、あの細い呼吸の音が、もう聞こえない。
聞こえてくるのは、雨音だけだった。
葉に落ちる音、軒先から草の上に落ちる音、小屋の横に置かれた桶の中へ落ちる音。
山の中で、俺はサエを抱えたまま、ただ座っていた。
どれほどそうしていたのか、分からない。雨が衣を濡らし、髪を濡らし、額から顎へと流れていく。
サエの頬についた雫を、拭う。
膝の横に落ちていたサエのその手に、そっと触れる。
薬草を束ねていた指。俺の血と泥を洗った手。泣きながら俺の頬を包んだ手のひら。
その手に、雨が触れている。
俺はサエを抱えたまま、動かなかった。
雨の匂いだけが、残っていた。
やがて、遠くから山道を駆けてくる、いつもの気配を感じた。
抱えた籠の中で野菜が揺れ、葉に溜まった水が走るたびに跳ねている。
目線を上げると、雨の向こうから、茨木が走ってきていた。
両腕に薬草と野菜を抱え、濡れた髪を頬に貼りつかせながら、それでも足取りは乱れていない。
後ろには、配下たちが続いている。
皆、雨を避けるように小屋へ向かってきていた。
誰かが笑っていた。誰かが、採れたものの多さを誇るように声を上げている。
その中に、玉藻がいた。
白銀の髪を雨に濡らし、抱えた野菜を落とさぬよう、配下たちに混じってこちらへ走ってくる。
山の雨に降られて、少し困ったように笑いながら、それでも皆と一緒に帰ってくる。
雨が降っている。山の匂いが、濃い。
俺は、何も言わなかった。サエを抱えたまま、ただそこに座っていた。
雨は、やまない。
サエが落とした薬草は、俺の足元で濡れている。
「世界は、きれいには、とじないの」
サエの声だけが、耳の奥にまだ残っていた。




