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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第2章 世界の正体をみる
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第19話 原点


 夜の山は、雨を含んだまま眠っていて、空はもう何も落とすつもりがないらしい。


 それでも土も葉も、俺が背を預けているこの木さえも、雨の名残を含んだまま、いつまでも冷たかった。


 もはや寒さは、感じない。


 濡れた土の匂いだけがゆっくりと立ち上り、鼻の奥を撫でていた。


 葉先に溜まった雫が、自らの重みに耐えかねて滑り落ちる。


 虫も鳥も鳴かない。獣の気配も無くなった。


 風すら、音を立てることを嫌がるように、静かに眠りについている。


 俺は木の根元に、腰を投げ出すようにして座っていた。


 いつからそうしていたのか、覚えていない。


 片膝を立て、片腕を垂らし、もう片方の手を、他人の持ち物でも眺めるようにぼんやりと見ていた。


 血と泥にまみれている。


 指の関節の間に、爪の間に、手のひらの皺の一本一本に、赤黒いものが入り込んでいた。


 乾きかけた血は皮膚の表面で薄い膜のように固まり、指を少し動かすだけで、小さくひび割れる。


 もう、人の手ではなかった。


 爪は伸び、黒く濁り、手の骨の強さそのものが変わっている。


 肉がそれに合わせて、無理やり形を変えられていた。


 握れば石も骨も同じように砕けるだろうし、触れれば、柔らかいものなど何もかも裂けてしまうだろう。


 その手を見ていると、目の奥がじわりと熱を持った。


 血の匂いが、まだ鼻の奥にこびりついている。


 さっきまでここにあったのは、濡れた土や木の匂いではなく、雨の匂いですらなかった。


 もっと生ぬるく、もっと鉄臭く、鼻の奥を刺すような匂いが辺りを埋め尽くしていた。


 すでに、誰の血だったのかさえ、思い出せない。それが、人だったのか、獣だったのか。


 その境界さえ、とうの昔に、曖昧になっていた。


 覚えているのは、俺を殺そうとして見開かれていた、あの憎しみに満ちた双眸だけ。


 「……はは」


 笑いが、喉の奥から零れ落ちた。


 自分の声とは思えないほど、低く掠れている。


 胸の底で消化しきれない何かが居座っていて、もはや、それを軽くするには、おかしくもないことを、無理にでも笑うことでしか誤魔化すことが出来ない。


 突如、奥歯が勝手に震えはじめ、小さな音を立てる。


 眺めていた手が震え出すと、もう片方の手で、無理やりそれを押さえつけた。


 破壊や命を求める渇きが、腹の底から這い上がってくる。


 目に力が入り、視界の輪郭がひどく鋭くなる。


 何者かとの争いの後には、いつも少し遅れてこれがやってくる。


 肉を裂いた感触が薄れ、断末魔が遠くなり、血の匂いがとうに雨に押し流された後でさえ、身体の内側からは、まだ足りないという疼きだけが、じわりと滲み出てくる。


 ”もっと”と、どこかから聞こえ、”まだ足りぬ”と、心を掻き乱す。


 《鬼の衝動》。


 そう呼ぶしかない何かが、俺の中に棲みついていた。


 名をつけたところで、鎮まりはしない。


 それでも、何かと向き合うには、呼び名があった方が都合がいいのも確かだ。


 手を力の限り握り締めると、乾きかけていた血が、指の間でまた湿り気を取り戻す。


 爪の先が手のひらへ食い込んでも、痛みは遠く、肉を裂いているはずなのに、まるで他人の手を眺めているような気さえする。


 「……終わりだな」


 誰に聞かせるでもなく呟くが、雨上がりの山に、その声はすぐに吸い込まれて消えた。


 人の世に戻る道は、もうない……そう思った瞬間、胸の中から何かがひとつ、静かに抜け落ちた。


 ただ、道が変わっただけのこと。


 帰る場所も、待つ者も、名を呼ぶ声も、いずれ忘れ、そのうちに、思い出すことすらなくなる。


 「……無理などせずに、受け入れればいい」


 口にしてみると、少しだけ、胸が軽くなった気がした。


 葉先からまた、雫が落ちる。その音に紛れて、草を踏む音が聞こえる。


 俺は、その場を動かずに、その音に耳を澄ませる。


 足音は軽い。狩人でも武士でもない。ましてや、陰陽師の足取りでもない。


 山に慣れてはいるのだろうが、夜に化け物を追い立てるような者の踏み方ではない。


 濡れた草を避けきれず、時折、裾が下草に引っかかっている。


 腰のあたりで籠が揺れ、衣にこすれる小さな音も、それに混じって聞こえた。


 俺がゆっくりと顔を上げると、木々の隙間に人影が見えた。


 粗い麻の着物を纏った、若い女がそこにいる。


 雨に濡れた裾から水を垂らし、膝のあたりには泥が跳ねている。


 背には籠を負い、摘んだばかりの薬草の葉が、その口からわずかに覗いていて、葉の青臭い匂いが、濡れた土の匂いに混じって、かすかにこちらまで届く。


 背まで届く黒髪は、無造作に束ねられているだけで、指先には薬草の汁の跡が移り、爪の間は土で黒く汚れている。


 どこにでもいる、山の女。


 女は、俺を見た。俺も、女を見返した。


 夜目の利く者なら、まずこの身体の異様さに気づくだろう。


 闇の中に浮かぶ双眸。泥と血にまみれた手。口元からわずかに飛び出た牙。


 そして、人とは明らかに違う二本の角。


 纏っているのは、鼻を刺すほどの血の臭気。


 普通なら叫ぶか、もしくは逃げる。腰を抜かして息を詰まらせ、震える声で神仏の名を呼ぶ。


 俺は、それを待っていたが、いつまで待っても、女は叫ばなかった。


 逃げもしないまま、ただ、じっと俺を見ていた。


 驚いていないわけではないのだろう。目がわずかに見開かれ、息も止まっている。


 それでも足は後ろへ引かず、手も籠の紐から離れなかった。


 俺は口の端を吊り上げてやった。わざと、牙が見えるように。


 「……見ての通りだ。人じゃない」


 声は、思っていたよりもはっきりと出た。


 女の目線が、俺の顔から離れ、腕から下のほうへと、ゆっくり落ちていくが、そこにあるのは、血と泥にまみれたこの手だけ。


 逃げるための隙を探しているのか、それとも足元の石を目で追っているのか。


 そう思ったが、女の目線はただ、そこに留まったまま動かなかった。


 手首、手、指先、その順で見つめている。


 葉に溜まった雫が、また二度、落ちた。それぐらいの間が過ぎた。


 女は少し眉を寄せ、それから、こう言った。


 「手、洗おうよ」


 俺は、動けなかった。理解ができない。


 言葉の意味が耳から届いてから、それが形になるまでに、ひどく時間がかかった。


 ”手”を”洗う”。


 血に、泥に……まみれている《鬼》を見て、この女は、そう言った。


 女は俺が答えないのを見ても、困った様子もなく、口元をわずかに緩めた。


 「冷たいけどね……川、すぐそこだから」


 そう言って、顔を横に向け、山の奥を指差す。


 確かに夜の木々の向こうで、水の流れる音がしている。


 さっきまでは、耳に入っていなかった……いや、聞こえてはいたのに、音として拾い上げていなかったのだろう。


 雨水を含んだ川が、石の間を縫って流れる音が、今ははっきりと届いている。


 俺は眉をひそめた。


 身体を熱くしていたものが、少しずつ消えて軽くなっていくのがわかる。


 「……おい」


 女がわずかに目を見開き、こちらを見た。


 「俺が何に見える」


 声に、思わず力がこもる。山の空気が、一段重くなった気がした。


 濡れた葉の匂いが遠のき、さっきまで聞こえていた沢の音も、また聞こえなくなる。


 背にしている木の幹ですら、存在を隠そうとする。


 女はゆっくりと首を傾げながら、腕を組んで、本当に考えている顔をする。


 ただ、それはほんの少しの間だけで、それから何でもないことのように答える。


 「泥だらけの人」


 俺は、黙った。


 女は俺の手をもう一度見て、それから肩や胸元へと目を移していく。


 衣にこびりついた血、雨にびっしょりと濡れた髪、皮膚に貼りついた泥。


 「あと、血……あぁ、身体も流した方がいいね。冷たいけど」


 鬼でも、化け物でもない。人を喰う者でも、祟る者でも、討たれるべき何かでもない。


 《泥だらけの人》……たった、それだけ。


 その言葉が耳から入り込み、身体の中心にまで響いていく。


 その”ひとこと”は、あまりにも軽く、それでいて、どれほど力を込めても動かせない石のように、心の中に居座った。


 女は踵を返し、無防備な背中をこちらへ見せると、歩き出す前に、振り返りもせずに言った。


 「来ないの?」


 籠を負い直す、その動作のついでにかけた声。


 そこに鬼がいることなど、はじめから大したことではなかったとでも言うような。


 女が山の奥へと歩き出すと、濡れた草を踏む音が、ひとつ、ふたつと遠ざかっていく。


 俺は、女に顔を背けた。


 今さら手を洗ったところで、何が変わるわけでもない。血はもう手遅れなほど、俺自身に染み込んでいる。


 爪の間だけではない、身体の髄にまで溶け込んでいて、人の世へ戻る道など、ないと、さっき自分で言ったばかりだ。


 だが、女の足音が三つ目を刻んだとき、俺の足は勝手に動きはじめていた。


 木に預けていた背が離れると、湿った幹から離れた背中に冷えた夜気が差し込む。


 立ち上がると、今度は草履の底が濡れた土に沈む。


 女は振り返らない。俺が来ると分かっていたふうでもあり、来なくても構わないふうでもあった。


 その背中を見ながら、俺は一歩を踏み出すと、濡れた土と草の青臭さが、鼻の奥を刺した。


 血の匂いは、まだ残っているうえに、腹の底の熱も、完全には消えていない。


 それでも泥と血にまみれたまま、女の後ろをついていく。


 雨上がりの山の奥で、川の流れる音が、少しずつ近づいてくる。


 葉からこぼれた雫が肩に落ち、その冷たさが身体の芯まで広がっていく。


 匂いも、寒さも、冷たさも、今ははっきりと感じられた。


 女の籠からは、潰れた薬草の青臭い匂いが立ちのぼっている。


 俺は、ただその匂いを追った。


 *


 山の朝は、早い。


 空が白みきるより先に、サエは起きている。


 戸口のすぐ外では、足元に夜霧が薄く溜まり、風もないのに、時折、土へ静かに落ちて、溶けていく。


 小屋の戸が、ぎい、と鳴った。その音に、俺は目を覚ます。


 木と藁と土で組まれた小さな小屋には、夜の寒さがまだ残っている。


 寝床にしている敷物の下から、地面の温度がじわりと伝わり、背中に冷たさを届けてくる。


 囲炉裏には、もう火が入っている。


 赤い炎が灰の中で静かに熱を放ち、小さな薪がひとつ、ぱち、と爆ぜた。


 湿った木の燃える匂いが、煙とともにゆっくりと天井の隙間へと昇っていく。


 その煙の向こう側に、サエがいた。


 しゃがみ込み、片手で鍋を押さえ、もう片方の手で木のヘラを動かしている。


 寝る前にほどいていたはずの髪は、もう結い直されていた。


 袖口を肘まで捲り、白く細い手首が忙しなく動いているのが”見える”。


 木のヘラが鍋の縁に当たり、コトコトと鳴り、湯気がうっすらと立ち、山菜と粟が混じった匂いが小屋いっぱいに広がっている。


 「起きた?」


 サエは俺が目を開けたことに気づいたうえで、あえて声をかけてくる。


 「……ああ」


 声を出すと、喉が少し乾いている。


 昨夜、夢を見たような気がした。


 記憶がはっきりとはしないが、目覚めたとき、手に力が入っていた。


 改めて見てみると、握り込んだ手のひらに、爪の跡が薄く残っている。


 《鬼の衝動》は、あの日以来、時折だけ顔を出す。


 それは、気を緩めた時ではなく、忘れた頃に、思い出したように、ふっと蘇る。


 サエは気にしていないふうに見えるが、気づいていないわけではないのだろう。


 俺の呼吸が変われば、何も言わずにそっと背中をさすり、俺が戸の外へ出ていけば、水の入った器をそっと置いておく。


 それでも何も言わない。最初から、ずっとそうだった。


 サエが鍋の中身を椀へよそうと、土器の椀から、白く薄い湯気が立ちのぼる。


 水がやや多く、所々に、手で千切られた薬草の葉が浮いている。


 「食べる?」


 「……ああ」


 「じゃあ、まずは顔と手を洗おう」


 そう言うと、サエは手拭いを手に取り、俺の顔を見て微笑む。


 洗い終わると、決まって手拭いで顔と手の水を拭ってくれる。


 自分でできると伝えても、何故か手拭いを離さず、俺の手を拭う。


 ただの乾いた布のはずなのに、その温もりだけは、いつも不思議と手のひらに残る。


 座ると、差し出された椀を受け取る。


 椀の温かさが手のひらに広がり、粥の熱が芯へ伝わって、冷えていた身体がゆっくりと解けていく。


 俺の手には小さすぎる椀だったが、サエは気にした様子もなく、自分の分をよそっている。


 一口、口に運ぶと、粟の甘さを打ち消すような山菜の苦みが残っていて、それが舌の上でじわりと広がった。


 サエはまっすぐ俺を見る。食事のたびに、毎回。


 「苦い?」


 「……少しな」


 サエは首を傾げ、それから腕を組み、囲炉裏の火をじっと見つめながら、少しばかり考える。


 深刻な顔などしていない。これは、苦みを消す方法を探しているのではない。


 どうせ、朝飯が苦かったことについて、都合のいい言い訳を考えているのだろう。


 ただの、いつものやりとり。


 ほんの少しだけ経つと、顔を上げ、微笑む。


 「まあ、薬だと思って」


 そう言って、自分も食べ始める。


 鬼と一つの火を囲んでいる雰囲気はそこにはない。


 朝に起き、顔を洗い、火を熾し、鍋を温め、粥をよそい、少し苦いと分かっているものを食べる。


 ただ、本当にそれだけのことでしかなかった。


 椀の中で、うっすらと湯気が立ちのぼる。


 外では、まだ朝日が完全には昇っていない。


 小屋の隙間から入り込む冷たい空気に、煙と粥の匂いが押し戻されていく。


 サエが粥をすする音がした。俺も、もう一口食べる。


 苦みはまだ残っているが、喉を通ると、腹の奥に、少しだけ温かなものが広がる。


 ただの、いつもの朝。


 *


 昼になる前には、たいていサエは山へ入る。


 山にはまだ、霧が残っていて、奥へ進むにつれ空は見えなくなり、木漏れ日だけが地面をまだらに照らす。


 足元には落ち葉が積もり、踏むたびに乾いた音を静かに立てていた。


 サエは迷うこともなく、細い獣道を抜け、倒れた木をまたぎながら、黙々と歩いていく。


 背中の籠が揺れ、腰に吊るした小さな刃物で、邪魔な枝を時折切り払う。


 薬草や、食べられる木の実や、燃やせるもの、傷に効くもの。サエはそれらをよく知っていた。


 その知恵を語って聞かせることもなく、ひたすら目の前の葉を一枚ちぎり、手で触れ、匂いを嗅ぎ、それから籠に入れるか捨てるかを決める。


 「これは平気」


 そう言って、サエは一枚の葉を籠へ収めた。


 俺はその横で、束ねた木の枝、小さな鍬、鎌、水の入った竹筒などの入った荷物を持っていた。


 サエと歩くたびに増えていくそれらを、俺は黙って背負う。


 どうやら力仕事は俺の役目らしい。


 サエが当然のように渡してきたから、そういうものだと、俺は黙って受け取った。


 しばらく歩いたところで、俺は足元に生えていた葉に手を伸ばした。


 少し厚みがあり、艶があり、葉脈が赤い。その形が、さっきサエが摘んだものによく似ている。


 「それ、毒」


 俺の手が葉を掴んだ瞬間に、サエの声が届く。


 「……そうか」


 サエは籠を抱え直しながら、こちらへ戻ってくる。


 「触るくらいなら平気だけど__」


 霧の向こうで、鳥がひとつ鳴いた。


 「食べたら死ぬよ」


 俺は葉を放り投げる。


 葉は落ち葉の上に落ちて、ぱさ、と軽い音を立てた。


 サエがそれを見て、少し笑う。


 「外道丸でも、毒は嫌なんだ」


 「好んで食うものではないだろう」


 「……確かに」


 サエは納得したように頷き、また歩き出した。


 陽が高くなるにつれて、霧が少しずつ晴れていき、湿った土の匂いに、草の青い匂いが混じっていく。


 俺は荷を担ぎ直す。サエは少し先でしゃがみ込み、次の草を見ている。


 ただ、目の前にあるものを見て、必要なだけ触れる。


 山の中でサエがしていることは、いつもそれだけ。


 *


 夜は、囲炉裏だ。


 日が落ちると、山の冷えは一気に広がる。


 外では風が音を立てながら木々の間を抜け、小屋の壁を叩いていた。


 隙間から入り込む空気は冷たいが、それでも囲炉裏の前だけは、いつも暖かかった。


 火は赤く静かに揺れ、湿った薪が爆ぜるたびに小さな火の粉が跳ね、すぐに闇へと消える。


 鍋の中では何かが煮えていて、湯気が立っていた。


 サエが料理をしている……失敗することも多い。


 その日の鍋の中身も、妙な色をしていて、煮汁も薄く濁っている。


 匂いは悪くない。悪くはないが……良くもなかった。


 サエと俺は、二人して真剣に鍋の中をじっと見ている。囲炉裏の火だけが、ぱち、と鳴る。


 サエは表情を崩すこともなく、静かに言う。


 「……多分、大丈夫」


 「……多分、か」


 「うん、多分」


 「……そうか」


 二人で食べてみると、少し焦げていて、塩も足りていないうえに、根は硬く、山菜は苦く、煮汁は妙に薄い。


 それでも椀を持つ手は温まり、腹は満たされた。


 口の中に残る焦げの匂いも、しばらくすると不思議と気にならなくなった。


 食事が落ち着くと、サエは立ち上がり、部屋の隅から小さな壺を持ってきた。


 中身は、サエが作った濁り酒。


 木の栓を抜くと、米の甘い匂いと、少し酸い匂いが小屋の中に広がる。


 サエは木の盃を二つ並べると、片方に白く濁った酒を注ぐ。とく、とく、と音がする。


 「はい」


 サエは微笑みながら、何のためらいもなく盃を差し出したが、俺はすぐには受け取れなかった。


 「……いいのか」


 「うん」


 サエは自分の分にも注ぎながら、なんでもないことのように頷く。


 「寒いし」


 俺は盃を受け取り、白く濁った酒をじっと見下ろす。


 木の盃は軽く、手のひらに収まるほど小さい。それに、ところどころ削り跡が残っている。


 きちんと作られたものではなく、誰かが必要に迫られて削り、使えるから使っている、それが見るだけでわかるような盃だった。


 口に運ぶと、濁り酒が舌に触れ、喉を通っていく。


 甘く、重く、少し苦い、”初めての味”。


 それは、なかなか喉を通ろうとはしなかったが、少し無理をして流し込むと、身体の芯が、ゆっくりと温かくなっていった。


 サエは自分の盃を見下ろしながら言った。


 「そのうち、ちゃんとした盃つくろう」


 「……俺は、これでいい」


 サエが顔を上げ、俺の目を見て笑う。


 「作ろう?」


 目を、逸らさない。


 「作ろう?」


 「……ああ、そうだな」


 そう答えると、サエは満足したように笑った。


 囲炉裏の火が揺れ、外で風が吹き、小屋の壁が、がたり、と小さく鳴る。


 サエは盃を両手で包むように持ち、酒を少し口に含んでから、ふと思い出したように聞いてきた。


 「外道丸さ」


 「なんだ」


 少し頬を赤くして、俺を見る。


 「寺にいたんでしょ」


 「……ああ」


 囲炉裏の火が、静かに揺れた。


 寺という、その言葉が、ずいぶんと懐かしく耳に響く。


 朝の鐘、香の匂い、硬い石畳、経を誦む声、それぞれが断片となって、記憶をよぎっていく。


 サエは膝を抱え、少し身を乗り出した。


 「何してたの」


 「修行だ」


 サエが笑う。


 「それは聞かなくても分かる」


 俺は、何をしていたのか、何をさせられていたのか、何を覚えようとしていたのかを、少し考える。


 「掃除をする、経を覚える、字を書く」


 「うん」


 サエが目を輝かせながら頷く。


 「山を走る」


 「……うん?」


 サエが首を傾げた。俺は盃を少し傾ける。


 「……あと、怒鳴られる」


 サエが声を出して笑った。肩を揺らし、盃の酒がこぼれそうになって、慌てて持ち直す。


 それでも、笑いはしばらく止まらなかった。


 「最後が一番それっぽい」


 「そうか」


 「うん。すごく」


 俺が盃を傾けると、喉を通る温かさが、さっきよりもゆっくりと、広がっていく。


 「難しい話も習った」


 囲炉裏の火を見ながら、俺は、ほんの少し前のことを、遠い昔のことのように感じながら、続けた。


 「世界の理とか、人の道とか」


 サエは黙って頷きながら聞いている。


 笑うのをやめ、からかうこともせず、ただ囲炉裏の火の向こうで、暖かい目つきで、俺の言葉を静かに受け取っていた。


 「人はこうあれ、とか。正しくあれ、とか。欲を捨てろ、とか。怒りを鎮めろ、とか」


 言いながら、俺は自分の手を見た。


 そこにあったのは、もう寺で筆を握っていた頃の手ではない。


 サエの目線も、俺の手に移る。けれど、その目に哀れみはなかった。


 火が、ぱち、と鳴った。


 サエは盃を置き、膝に顎を乗せるようにして、ゆっくりと言った。


 「真面目だったんだね」


 俺は眉をひそめた。


 「……そうか?」


 「うん」


 俺の目をじっと見て、静かに頷いた。


 俺は、白く濁った酒の水面だけを見たが、揺れているのは盃の中の酒か、それとも火の明かりか、自分でもよく分からなかった。


 そこに、サエはもう一言、付け足した。


 「誠実だよ」


 小屋の隙間から入ってきた冷気が、身体に触れる。


 だが小屋の中は暖かい。囲炉裏の火だけが理由ではないと、そのとき思った。


 俺は答え方が、分からなかった。


 サエはそれ以上、何も求めることもなく、そっと酒を飲み、少し頬を赤くして、また火を見ている。


 しばらくして、サエが微笑みながら言った。


 「外道丸さ」


 「なんだ」


 「別に、鬼でもいいけどさ」


 鍋の底で、煮汁が小さく鳴り、外の風が壁に少し強くぶつかり、小屋全体がかすかに軋む。


 サエは火を見たまま、静かに口にする。


 「ちゃんと人だよ」


 俺は、サエを見た。


 盃を持つ手が……いや、全てが止まっていた。


 サエは優しく微笑んだまま、俺の目を見ている。


 白く濁った酒の表面に、囲炉裏の火がぼんやりと映っていた。


 口を開きかけたが、何を言えばいいのか、俺には、分からなかった。


 人だと答えるには、俺の手は変わりすぎていて、それでも、違うと答えるには、サエの声があまりに真っ直ぐすぎた。


 俺はただ、盃の酒をゆっくりと飲んだ。サエはもう、こちらを見ていない。


 何か大事なことを言ったつもりもないように、鍋の焦げつきを気にして、木の匙で底をこすっている。


 小屋の外では、山風がまだ吹いていた。


 だが、その夜以降、俺は戸の外へ出ることが減っていった。


 囲炉裏の火が、ただ静かに揺れていた。


 *


 その日は、いつもの山の朝だった。


 まだ朝日は昇りきらず、霧が草の根元に薄く残っている。


 葉先にはいつものように夜霧が溜まり、薄い陽の光を弾いていた。


 小屋の扉を開き、外へ出ると、まだ空気が冷たい。


 真冬のように吐く息が白くなるほどではないが、呼吸のたびに、その冷たさで喉の奥がわずかに締まる。


 冷えた空気には、山の湿りと春の青さが混じっていた。


 昨夜の囲炉裏の煙の匂いが、まだ衣に残っている。


 木々の隙間から、鳥の声がひとつ、響いた。


 サエは小屋の横の小さな岩に腰を下ろし、摘んできた薬草を束ねている。


 膝の上に薬草を乗せ、指で押さえながら、器用に紐で結わえていく。


 俺には、この手仕事がなかなか上手くできなかった。


 長さの違う茎を揃えながら、サエが声をかけてくる。


 「外道丸」


 俺はそれにはもう慣れていて、サエが何を頼むかわかっている。


 だから、呼ばれる前に、身体が自然に動く。


 「水、汲んどいて」


 「……ああ」


 小屋の壁に立てかけてある桶を取り、裏手を目指す。


 木の持ち手は夜の冷えを吸い込んでいて、冷たい。


 山の朝の湿り気が、そこにも移っていた。


 小屋の裏手へ回ると、小さな湧き水が出ている。


 石の間から絶えず水が湧き出し、細い流れになって草の間へと落ちていく。


 大きな音はしないが、耳を澄ませば、その水音が心を静かに撫でてくれる。


 俺が桶を湧水の出口へ置くと、冷たい水が桶にゆっくりと溜まっていく。


 水面が縁近くまで上がる頃には、確かな重さを腕に感じる。


 その水は、桶の底が見えるほど透き通っていた。


 俺は何気なく、それを覗き込むと、水の中に顔がある。


 黒い髪が額にかかり、どこにでもありそうな黒い目が、こちらを見返している。


 見慣れた顔のはずだった……だが、そこで俺は動けなくなった。


 水面がわずかに揺れ、映った顔が歪むが、そのままの姿勢で、揺れが収まるのを待って、もう一度見た。


 ……角が、ない。


 髪の生え際があるだけで、そこには何もなかった。


 俺は桶を少し傾けると、水が思ったよりも大きく揺れ、その揺れが止まるのを待ち、もう一度、覗き込んでみる。


 角がない。


 額は、どれだけ見ても、ただの額でしかなかった。


 俺は水を覗いたまま、しばらく動けずにいた。


 感覚が、遠くなっていき、音が消え、匂いも消え、桶の重さすら感じなくなっていく。


 「……外道丸?」


 後ろから、サエの声がして、俺は桶を手に持ったまま、振り向く。


 サエは薬草の束を手にしたまま歩いてくる。


 朝の薄い霧に覆われた光の中で、その足がぴたりと止まった。


 目線が、俺の顔で固定される。


 パサ、と薬草が地面に落ちる音がして、束ねている途中の薬草が、草の上に散る。


 サエは動かないまま、点になった黒い目だけを俺の顔に向けていた。


 目線が確かめるように、額、目、口元、そしてまた額へと戻っていく。


 サエの唇が、わずかに開くと、息を吸う音が、やけに大きく聞こえた。


 「……外道丸」


 いつも俺の名を呼ぶその声が、震えていた。


 俺は、口を開くことすらできなかった。


 サエは一歩ずつ、草を踏む音をさせながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。


 「人の顔に戻ってる」


 俺はサエのその言葉を、ちゃんと聞いていた。


 音としては分かる。けれど、意味はすぐには呑み込めなかった。


 サエは俺の前で止まると、両手を伸ばしてきた。


 その冷たい手のひらが、俺の頬を、そっと包む。


 薬草に触れていたせいで、草の青い匂いがした。


 指先だけが、確かめるように、わずかに動いている。


 サエの目が赤くなり、瞬きをした拍子に、涙がひとつこぼれる。


 「角、ないよ」


 声というより、こぼれ落ちた、と言うほうが近い小さな声。


 風が吹き、霧がほんの少しだけ揺れ、草の上の露が光を返す。


 サエは、もう一度、俺の額を見上げた。


 「外道丸……人の顔だよ……人に戻ってる」


 俺はサエの手に触れ、そのまま桶の水へ目線を落とす。水面に映る顔が揺れていた。


 黒い髪に黒い目。額に角はない。口を少し開くと、牙も以前より短くなっていた。


 そこにあるのは、先ほどと変わらない、ただの人の顔。


 「……」


 その言葉が頭の中で生まれても、うまく声にならない。


 サエは、まだ泣いていた。涙は止まらないのに、口元は少し笑っている。


 「……よかった」


 俺の頬に触れたまま、ぽつりと、サエが言った。


 「よかった」


 サエはただそう言った。何度も、何度も。ただ、「よかった」とだけ。


 俺はもう一度だけと、桶の水を見るが、そこに映る顔は、どこか見慣れなかった。


 だが、違和感もない。


 身体の内側で暴れていたものが完全に消えたわけではない。


 腹の底にはまだ熱が残っている。


 血の匂いを思い出せば、身体が疼く夜もあるだろう。


 それでも今、水面には角がなかった。


 サエの手が、俺の頬から少しだけ離れ、その指先が額のあたりで止まり、そこに何もないことを確かめるように撫でた。


 涙で濡れた顔のまま、サエは笑っている。


 俺は呟くように、言った。


 「……そうか」


 散々振り絞っても、他に言葉は出てこなかった。


 白から黄金へと変わっていく朝の陽が、少しだけ強くなる。


 木々の間から差し込む色が、目に染みて、草木が光に滲んで、輪郭を曖昧にしていく。


 俺の目にも、涙が溜まっていることに、そこで初めて気づいた。


 サエが落とした薬草は、まだ足元に散らばっている。


 桶の水は満ちたまま、俺の手の中で静かに揺れていた。


 山は、いつもの朝を続けている。鳥がまた鳴いた。今度は、少し近かった。


 鬼だった男は、冷たい朝の山で、人の顔で立っていた。


 サエの手の温度を、頬に残したまま、しばらく二人で立っていた。


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