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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第2章 世界の正体をみる
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第18話 魔王の一端


 冒険者ギルド、併設の食事処。


 ついさっきまで、酒の匂いと焼けた肉の脂の香りが漂い、木のジョッキのぶつかる音が幾重にも重なっていた、いつもの夜が、今は空気ごと凍りついたように止まっていた。


 入口には、聖騎士カイランと、セレスティアと呼ばれた女が並んで立っている。


 二人の身の内から立ちのぼる魔力が、扉から流れ込む夜の風ごと、店の空気を軋ませていた。


 その視線の先にあるのは、俺たちのテーブル。


 ラグス、セイン、タマ、俺……ではなく、旅装のままニヤついている、ガグン。


 ざわめきが、波紋のように広がっていく。


 椅子を引く音。じりじりと壁際へ下がる者。卓の下で、武器の柄を探る者。


 それでいて、店から完全に出ていく者は少ない。


 それこそが、冒険者の本質。


 危険を見定めるのが仕事であり、そして正直なところ、揉め事を眺めるのが好きな連中も多い。


 野次馬たちは、飲みかけの酒を手にしたまま残った。


 受付のリーネだけが、顔色を変え、状況を呑み込むなり踵を返し、ギルドマスター室へと駆けていく。


 その間に、ラグスが慌てて席を立ち、セインもそれに続く。


 二人は事情を聞こうと、カイランのほうへ足を向ける。


 タマが、俺の腕を掴み、ぐい、と引く。


 「……ちょ、待て。まだ、飲んでいる」


 腕を引かれながらも、俺は盃を口へ運び、酒をひと口だけ飲んでから、立ち上がる。


 いつもの味が口の中を満たす。この状況でも、それは変わらない。


 カイランが口を開く。低く、それでいてよく通る声で二人に話しかける。


 「席を、離れるんだ」


 ラグスが、眉をひそめる。


 「それは、どういう__」


 カイランの視線が、真っ直ぐに、テーブルに残った男を射抜く。


 「そこの男は」


 ガグンは変わらずニヤつきながら、セレスティアとカイランを見ている。


 「《天網の狂帝》と記録される魔王だ」


 ギルド内に沈黙が落ちた。


 次の瞬間、店が爆ぜるようにざわめく。


 息を呑む者、笑い飛ばそうとして声の掠れる者、卓を蹴って距離を取る者、抜刀する者。


 ラグスとセインは、顔面蒼白でその場に固まる。


 セインの喉が、ひきつれたような音を漏らす。


 「……は?」


 ラグスが、恐る恐るガグンを振り返る。


 当のガグンは、座ったままだった。


 何ひとつ変わらず、帽子の影の下でニヤつきながら、卓上のワインを顔の前に掲げてみせる。


 その前へ、セレスティアが一歩、進み出る。


 それだけで、場の空気の質が変わり、全員が彼女に視線を移す。


 「私は、巡道教の聖女__」


 静かで、それなのに店の隅々まで通る声。


 名乗りひとつで、抜きかけた刃が半端な位置で止まり、詰めていた息を吐く者が、ぽつぽつと出はじめる。


 「セレスティア」


 彼女は周囲の冒険者たちをゆっくりと見回し、続ける。


 「避難して、ください」


 一瞬の沈黙のあと、数人が音を立てて動いた。


 危険を正しく嗅ぎ取ることのできた者たちが、椅子を蹴倒しながら店を出ていく。


 それでも、残る者のほうが多かった。


 理由は単純で、ここは冒険者ギルドで、戦いを見るのも、また商売のうちだからだろう。


 俺は、もうひと口飲んだ。タマが、隣で小さくため息をつく。


 そして、ガグンが立ち上がった。


 ほとんど音のない、静かな笑いが、不気味に響く。


 入口では、セレスティアとカイランが、瞬きもせずそれを睨んでいる。


 ガグンは、芝居がかった仕草で肩をすくめる。


 「今代の聖女は……なかなか武闘派だな」


 どこか楽しげに言い、それから、彼女を値踏みするように首を傾ける。


 「俺の戦士に、ならないか?」


 セレスティアは黙ったまま、もう一歩、前へ出た。


 ガグンが店内をぐるりと見渡すと、冒険者たちが、観客のように取り囲んでいた。


 「ここでは、俺は倒せないぞ」


 静かな声で伝える。


 「お前らが聖女であり、聖騎士である限りな」


 その視線が示しているのは、観客、つまり、逃げ遅れた、もしくは逃げる気のない冒険者たち。


 セレスティアは、逃げ遅れた者たちへ向けられたその声を、まっすぐ受けて答える。


 「避難勧告は、しました。それに、ここは冒険者ギルド……逃げない方が、悪い」


 ガグンが、一瞬だけ真顔になり、それから声を上げて笑った。


 「確かに……その通りだな」


 その応酬でようやく数人が顔色を変え、「げっ……」と短い悲鳴を残して店を飛び出していったが、大半の野次馬は足がすくんだまま、あるいは戦いを見極めようと残ることを選択する。


 ガグンが杖を持ち上げると、杖の先に光が灯り、空間に、細い線が滲み出した。


 歪んだ、読めない文字のような形。


 ……また、あれか。


 俺は手近の皿を掴み、ガグンめがけて投げた。


 皿は一直線に飛び、ガグンが首をわずかに傾けて避けたため、壁に当たって、砕けた。


 ガグンが目を細めて、少し不機嫌そうにこちらを見る。


 「今は聖女の番だ。邪魔をするな」


 その言葉が終わるより早く、ガグンの隙をついて、セレスティアが床を蹴る。


 杖をカイランへ、振り返りもせず投げ渡すと、一息で距離を潰し、胸元の隠しから抜いた”短剣”で、斬り込む。


 様子見の刃筋などではなく、はっきりと殺気が乗っている。


 だが、その刃が届くより先に、”ラグス”が動いた。同時に、セインも。


 セインの支援魔法がラグスの身体を強化し、その勢いのまま、ラグスが本気の一撃を、セレスティアの”首”へ叩き込む。


 セレスティアが目を見開き、咄嗟に跳び退る。


 手が、反射的に首筋を押さえるが、指の間から、細い血がひとすじ垂れる。


 彼女は距離を取ったまま、自分に回復魔法をかける。


 カイランが、叫んだ。


 「ラグス! いったいどうした!?」


 ラグスは、剣先をセレスティアへ向けたまま答える。


 「……よくわからねぇが、なんか、その女を斬らずにはいられねぇんだ。思ってることと、やってることがゴチャゴチャになってる。もう、考えるのも面倒だ」


 「自分もっス……でも、邪魔しないでほしいっス。その女が死んだら、きっと、いつも通りっス」


 ラグスもセインも、焦点だけが濁ったまま、目が据わっている。


 俺は手に持っていた盃を卓に置き、深く息を吐き出す。


 ……遅かったか。


 俺の直垂の裾を掴むタマの指に、少し力がこもった。


 ガグンが、笑いながらカイランを見る。


 「説明してやろう。ヴァンパイアの暗示ほど、頭の中には潜れんが__」


 杖を、軽く回す。


 「俺は、目を見る必要がない」


 その視線が、ゆっくりと店内を流れていく。残った冒険者たち、一人ひとりを確認するように。


 「同じ条件が揃うなら……まとめて、かけられる」


 文字のような紋様が、ガグンの杖の先を回り始める。


 「標的はこの場にいる冒険者……全員だ」


 次の瞬間、あちこちで詠唱が始まり、支援魔法が飛び交い、身体強化を終えた者から、連携を組んで攻撃へ移っていく。


 狙いは、ただ一人、聖女。


 魔法が飛び、剣や槍が振られ、その全部が、セレスティアへ殺到する。


 杖をカイランから受けとったセレスティアが、光の障壁を展開し、カイランは刃の通り道そのものを消して支える。


 光の障壁は次々に走る刃を受け止めるだけで精一杯で、返す一手がどこにも差せない。


 カイランの風が途切れかけては、また継ぎ足される。


 ガグンは、それを眺めて笑っていた。


 俺は、ガグンを睨む。


 また、これだ。洗脳。暗示。


 人の意思を無理やり折り曲げる、あのやり口。腹の底に徐々に熱が溜まる。


 「今すぐやめろ。対話を、奪うな」


 ガグンが、面白そうに笑う。


 「ほう……お前には、効かんか。ならば、力ずくで止めてみろ。話し合いでは、済まんこともあるぞ」


 俺の周囲の空気がパチパチと揺れはじめる。


 だが、俺より先に、細い背が、乱戦のただ中へ一歩、近づく。


 裾を掴んでいたはずの指は、いつの間にか、俺から離れている。


 腹の底の熱が、洗脳への怒りとは別の場所で、すっと引いた。


 タマは静かな声で、詠唱を紡ぐ。


 「風よ、集いて防壁となれ。大気の盾よ、ここを塞げ」


 風が渦を巻いて集まり、冒険者たちの前に、目に見える防波堤を築く。


 押し寄せていた冒険者たちが、風の壁に阻まれ、進めなくなる。


 結果として、その壁は、セレスティアとカイランを守っていた。


 ガグンが、この夜、初めて驚いた顔をした。


 カイランも、セレスティアさえも、目を見張っている。


 「彼女……冒険者じゃ、ないの?」


 セレスティアが、障壁の内から漏らす。


 「そのはず、だが……」


 ガグンの視線が、すっと下りていき、タマの手首に巻かれた、世界樹の葉の紐へ辿り着く。


 彼は口角を上げて顎をさする。


 「なるほど……エルフ皇族の、護りか。いい知り合いが、いるな」


 その時だった。


 バン! と激しい音を立てて、ギルドマスター室の扉が開いた。


 飛び出してきたのは、翡翠色の髪を持つエルフの女。


 「わたくしが行くと言っているのよ、そこをおどきなさい! これ以上わたくしを待たせるなんて、いい度胸ね。……まあ、今のわたくしは気ままな冒険者だから、別に構わないのだけれど」


 その後ろで、眼鏡をかけた長身の男が、頭を抱えている。


 「はぁ……せっかくの作戦が」


 さらにその背後から、銀色の耳と尻尾を持つ獣人の男が、足音もなく滑り出てくる。


 ……犬……いや、あの尻尾は狼か。


 最後に、シオウ。扉の影からは、リーネが顔半分だけ覗かせている。


 シオウが、振り返りもせずに言った。


 「お前は、出てくるな」


 リーネがすっと引っ込み、扉が、ばたんと閉まる。


 ギルドの中は、それに気づかない者たちが大半だった。


 魔法の閃光、剣戟、怒号が吹き荒れている。


 洗脳された冒険者たちが、風の壁越しに、なおも聖女へ攻め続けている。


 その混沌の中で、今しがた出てきた四人だけが、まったく慌てていなかった。


 まるでこの場を検分するように、静かに状況を測っている。


 エルフの女が小さく息を吐き、そして、告げる。


 「アクアリス、空気を鎮めなさい」


 空間が静かに歪み、水が一点へ集まるように光が揺れ、そこに、一人の女が現れる。


 濡れたような質感の白い髪が、肩のあたりで柔らかく波打ち、瞳は氷の結晶を思わせる深い青。


 陶器のように白い肌は、体温というものを感じさせない。


 その身を包むのは、水の流れをそのまま形にしたような薄衣で、淡い水色と白が、光を屈折させながら、ゆらゆらと揺れている。


 荒れ狂う戦場の只中にあって、その存在だけが、異様なほど静けさを保っている。


 ……精霊、か。


 アクアリスと呼ばれた精霊が、両の手を、ゆっくりと広げる。


 次の瞬間、場の熱が、根こそぎ奪われていく。


 ギルドの空間から温度が消え、白い霧が生まれた。


 だが、視てみれば、”硬い”。


 正確には、霧ではなく、霧に見えるものの正体は、無数の、細かな氷の粉。


 それが空気の揺れに応えて漂い、動く者の体表へ、吸いつくように張りついていく。


 足に、腕に、鎧の継ぎ目に、凍りつかせ、動きを縫い止めていき、そのまま、ギルド内そのものを、氷の内側へ塗り替える。


 冒険者たちは、動けなくなった。


 その霧の中で、エルフの女が弓を引き絞ると、弦に魔力が通る。


 霧の中に散っていた水気が、弓弦に引かれるように次々と集まり、細い糸となって連なっていく。


 やがてそれは一本の矢の形を取り、先端へ向かうほどに細く、重く、触れたものを穿つためだけの水の圧を宿していった。


 「観念なさい」


 水の矢が、放たれる。一直線に、ガグンへ。


 ガグンが、笑った。


 彼の身体を、光が走り抜けると、旅装が剥がれ、黄金の装甲と兜が、音を立てて展開した。


 夜空をそのまま裁ち落としたような外套が、重さを持たぬかのように翻る。


 そして、その周囲の空間に、二十四の文字が、浮かぶ。


 ひとつひとつが意味を孕んでいるであろう刻印が、浮かび、巡り、消えては、また現れる。


 手の中の杖が形を変え、黄金の長槍となる。


 水の矢が、ガグンに届く前に弾けて、ただの水となり床に落ちた。


 ギルドの空気が、完全に止まる中、ガグンが声を上げる。


 「全員、頭が高い」


 刹那、床が軋み、目に見えない圧が、店内の全員へのしかかる。


 冒険者が、次々と膝から崩れていき、武器はそれぞれの手から滑り落ちた。


 それでも、立っている者がいた。


 俺。タマ。セレスティア、カイラン、シオウ、そして、ギルドマスター室から出てきた、あの連中。


 ガグンが喉の奥で笑い、槍を軽く回すと、黄金の装甲が、低く軋む。


 「さて、仕切り直しだ。始めよう」


 まだギルド内に漂っている冷え切った空気、倒れた椅子、散乱した武器、床に膝をついたままの冒険者たち。


 その静けさの中を、俺は一歩、前へ出る。


 黄金の装甲を纏った男、ガグンを正面から視る。


 「目的を、聞こう」


 ガグンは、少しだけ目を細め、力むことなく答える。


 「規則に、なるためだ」


 短い言葉だが、それだけで、場の空気が、わずかに重くなる。


 セレスティアが、口を開いた。


 「そんな規則なら、いらない」


 その横で、エルフの女が、鼻先で嗤う。


 「そもそも規則なんて、お前ごときが名乗るものではないでしょう。思い上がりも、たいがいになさい」


 眼鏡の男が腕を組み、少し考える顔をしてから、言った。


 「それなら、私が規則になればいいだろう」


 狼の獣人は、何も言わないまま、ただ静かに、獣の目でガグンを見据えている。


 タマが、俺の隣で小さく呟いた。


 「なんか……微妙」


 俺は、肩をすくめる。


 「だ、そうだが?」


 ガグンは、しばらく黙ってこちらを眺めていたが、少しして、ふっと笑う。


 「なるほど。なら、続きをやろう……力ずくも、嫌いじゃない」


 空気が一気に張り詰め、全員が構えると、俺は言った。


 「少し、ピリッとするぞ」


 木刀を逆手に持ち替え、床へ突き立てると、氣が、床板を伝い、波のように広がっていく。


 跪いたままの冒険者たちの足元へ届き、触れた瞬間、彼らの身体が、びくりと震えた。


 あちこちで、うめき声が上がる。だが、それは苦痛の声のままでは終わらない。


 冒険者たちが、一人、また一人と、ゆっくり立ち上がっていく。


 濁っていた瞳には光が戻り、誰もが夢から覚めたような顔で、周囲を見回す。


 ガグンが目を限界まで見開いた。そして、そのあと大きく、声を上げて笑い出す。


 「ははは……!」


 肩を揺らして、腹を抱える。


 「一日に二度も笑わされるとはな。何十年ぶりだろう」


 槍を軽く肩へ担ぎ、顎を少し上げた。


 「褒美だ。今日は、こちらが引こう」


 その言葉が終わるか終わらないかの、瞬間、聖属性の光が一直線の奔流となり、卓や椅子を跡形もなく消し飛ばしながら、ガグンへ殺到する。


 だが、ガグンは身体を全く動かさないまま、ニヤリとする。


 ガグンの周りを巡っている文字がひとつ消え、光は消失した。


 魔法が消される頃には、セレスティアは焼け焦げた床を踏み込み、杖を構えたまま、距離を詰めていた。


 「逃がさない!」


 ガグンが、笑う。


 「まだ、甘いな。これなら、帝国の勇者のほうが面白かったぞ」


 言うと同時にガグンの身体が、動いた。


 決して、目で追えぬ速さではない。それは、少しだけ大きく踏み込んだだけの一歩。


 踏み込んだセレスティアの脚が床に触れる、ほんの一瞬の間、誰であろうと動けない、その時を、正確に選ばれる。


 拳が振られると、鈍い音がギルド内に響くと同時に、杖が床を転がる音がする。


 「ぐっ……!」


 セレスティアの鳩尾へ、拳が深々と埋まっていた。


 彼女の息が漏れ、背中が丸くなり、脚が宙に浮いている。


 動きが止まり、ガグンは、その一瞬を逃さない。


 彼女の襟を掴み、遠慮というものを削ぎ落とした連撃を叩き込む。


 細い身体が宙を舞い、床を二転、三転と転がって、壁へ叩きつけられ、石壁が鈍くへこむ。


 崩れ落ちたセレスティアが息を吸うより早く、空気が重さを持ちはじめ、圧が彼女の身体一点へ集中していく。


 床が一気に沈むと、骨の軋む音が聞こえ、そして、セレスティアの身体は床へ押しつけられたまま、動かなくなった。


 「セレスティア!」


 カイランが叫び、駆け寄ろうとする、その横で、エルフの女の水の圧を宿した矢が、放たれた。


 一直線に、ガグンの胸へ。


 だが、ガグンは手を伸ばし、水の矢を形作っていた魔力の輪郭ごと、片手で掴んだ。


 圧を失った水が、彼の指の間でびくりと震え、行き場を探すように滲み出す。


 押し固められていた力が、捕まえていた手を離れた途端、ただの雫へと戻っていく。


 指の隙間を伝い、手首を濡らし、ぽたり、ぽたりと地へ落ちた。

 

 ガグンは濡れた手を一度だけ、軽く振った。


 「これくらい、帝国の騎士でなくても出来る」


 そして、槍をエルフへ向け、小さく詠唱する。


 「……燃え尽きろ」


 ガグンの周りの文字がまたひとつ消え、白い炎が、エルフの足元から生まれた。


 瞼の裏へ焼きつくような白い炎が舞い上がり、彼女の全身を襲う。


 白い炎が立ち上がった瞬間、アクアリスの身体が水膜となってエルフの女を包んだ。


 それでも、足りず、守りごと呑まれ、エルフの女が悲鳴を上げた。


 水は炎に触れた端から音もなく消え、白い熱は、守りごと彼女の身体を包み込む。

 

 エルフの女の膝が崩れ、そのまま、床へ倒れ伏す。


 俺の知る火ではない。燃えるものがないのに、熱だけがそこに生まれた。


 薪に移る赤も、囲炉裏の中で炭が息をするような、あの柔らかい熱もない。


 匂いも違う。


 熱した石と鉄を同時に近づけられたような、乾いた臭いが薄く混じっている。

 

 ギルドの中が、凍りついた。誰も、動けない。


 「……Sランクが、一瞬で……圧倒的だ」


 誰かの小さな呟きが、この場に残った。


 俺が一歩、前へ出ようとした、その腕を、タマが掴む。


 振り返ると、俺の腕を掴む指に力がこもっていた。


 掴んだのに、引き止めきれない、そんな半端な強さで。


 俺は少しだけ笑い、頷いた。


 タマの手が、そっと離れると、俺は、木刀を構えた。


 壊れた卓。倒れた椅子。まだ立ち上がりきれない冒険者たち。


 戦いの熱だけが、冷えた空気の中に残っている。


 床では、カイランが、気を失ったセレスティアを抱き起こしていた。


 眼鏡をかけた男が翡翠色の髪のエルフに回復薬をかけている。


 そして、もう一人、シオウが、少し離れた場所に、じっと立っている。


 全員の視線の先で、黄金の装甲の男は、槍を肩に担いだまま、こちらを眺めていた。


 まるで、戦いの終わった酒場でも見回すような、そんな目をしている。


 「こちらが引くと言っているが__」


 わずかに、首を傾ける。


 「いいのか? まだ、殺してはいない。だが、ここで全員、消しても構わんのだぞ」


 その静かな声だけで、空気が、もう一度張り詰める。


 俺は、木刀を下ろさないまま答えた。


 「放っておくと」


 氣を、練り上げる。


 「被害者の数が、増えすぎそうだ」


 纏った氣が、空気を細かく震わせ始めた。


 ガグンが、わずかに目を細める。


 「お前が、そんなことに興味を持つとは思わなかったが」


 俺は肩をすくめながらも、木刀の刀身にも、氣を薄く這わせていく。


 「一人で飲んでも、つまらないだろう」


 刀身の周りで、蒼白の火花がバチバチと爆ぜ、徐々に紫を帯びていき、細く空気を引き裂いた。


 ガグンの口元が、歪む。


 「なるほど……それも一理ある……のか。俺には、わからない感覚だ」


 その時、シオウが、前へ出た。


 足取りは重いが、それでも、止まらないまま、ガグンの槍の間合いの内側まで進む。


 そして、深く、頭を下げた。王都のギルドマスターが、魔王に。


 「……頼む……今回は、引いてくれ」


 ギルドの空気が、さらに止まった。もう、この場では呼吸の音すら拾えない。


 ガグンは、しばらく無言で、その下げられた頭を見ていた。


 それから、突然、笑い出す。


 「はははは!」


 声を上げ、肩を揺らし、槍を軽く回す。


 「面白い。いいだろう、お前に免じて今日は去る」


 俺に向けたその視線だけが、笑いの中で、少しだけ鋭くなる。


 「ゲドーマル、もっと強くなれ……俺が、引けなくなるほどにな」


 ガグンが、手のひらをこちらへ向け、聞き取れぬほど小さな詠唱を、ひとつ紡ぐ。


 そして……手のひらを、握り込むと、彼の周囲を巡っていた文字が、またひとつ、消える。


 俺の胸の奥が、軋んだ。


 咄嗟に、視た。何が来た。どこから来た。断つべき軌道を、壊すべき媒介を、眼が探す。


 氣は、いつでも走らせられる。


 だが、そこには、何もなかった。


 斬りかかってくる刃もなければ、練り上げられる魔力の淀みも、空気の歪みひとつ、ない。


 壊すべきものが、初めから存在しない。


 まるで、とうに潰れていた臓腑が、たった今それを思い出したかのように。


 肺が内側から握り潰されていく。


 喉の奥を、熱いものが逆流してきた。


 「……っ」


 口から、血が溢れる。膝が折れ、床に手をついた。


 「外道丸!」


 タマが、すぐ横にいた。腕を掴まれ、身体を支えられる。


 視覚が揺れ、意識が朦朧とする。


 ガグンは、それを静かに見下ろし、それから、心底楽しそうに言う。


 「これは……散らせなさそうだな」


 満足げに笑い、踵を返し、ゆっくりと歩く。


 ギルドの扉が開き、月夜の光が差し込む。


 黄金の装甲が、月明かりの中へ溶けていった。


 ガグンは、一度も振り返らなかった。


 扉が、閉まり、その音だけが、やけに大きく、店内に響いた。


 タマが俺の肩を、強く抱いた。


 「しっかりして」


 声が、震えている。温かい光が、身体を包んでいく。


 だが、俺は、答えられなかった。


 視界が端から暗くなり、身体から力が抜けていく。頬に、タマの涙を感じた、その瞬間。


 意識が、落ちた。



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