第17話 一難去ってまた一難
森を、駆ける。
枝が頬を掠めるたび、スイウンは顔を傾けてそれを避ける。
全力で地を蹴っているというのに、その所作にはどこか舞うような滑らかさが残っている。
湿った土が靴底で沈み、跳ね上がる泥さえ、彼女の白い霧の裾に届く前に、霧へ呑まれて落ちていく。
額の左右から後ろへ流れる漆黒の角が、走るたびに鈍く光を弾く。
磨き上げた黒曜石のような、冷たい艶がある。
深緑を溶かし込んだようなアクアブルーの髪は、霧の結露を銀色に滲ませながら、背の後ろで尾のようになびいている。
霧はもう晴れていた。それでも、足を止めるわけにはいかない。
背後には、無傷の二つの影が続いている。
ミルザに与えられ、ヤグの手で組み替えられた、スイウンの目であり腕でもある《霧幻五指》。
そのうちの三体は、すでに壊れかけていた。
カルミラにやられた個体は一体だけ。
残りの二体は冒険者にやられた。ミルザを苛立たせていた男に違いない。
見たことのない、異国の衣を纏った、不思議な目と力を扱う男、とその仲間。
《霧幻五指》は強い。それなのに、カルミラはともかく、あの冒険者たちも、ものともしなかった。
「……ゲドーマルとか言っておった」
やられた三体は身体の半分が崩れ、意識が回復していない。
別の二体がそれらを分担して担ぎ、無言でついてくる。
足並みこそ揃っているものの、速度はどうしても落ちている。
手の中で、閉じたままの《芭蕉扇》の柄を、ひと撫ですると、万年氷を編んだその扇が、彼女の指先に冷たく応えた。
「……想定外といえる」
走りながら、スイウンは小さく呟く。
肺はすでに限界が近いはずなのに、息ひとつ荒げないのが、この女の業を表している。
それに《巡道教の聖女》。
あの女の出現だけは、読みの外にあった。思い出すだけで、背の芯がひやりと冷える。
森を貫いた、あの光の一撃。
雅に磨いたスイウンの霧を、たった一度の攻撃で蒸発させた、あの白い熱。
「……力の格が、違いすぎる」
まともに相手取れる存在ではない。瞼を半ば伏せ、スイウンは胸の内でそう断じた。
それでも、とアクアブルーの睫毛が、わずかに持ち上がる。
カルミラが先に逃げてくれたのは、皮肉にも幸いした。
もしあの場にあの女が残っていれば、スイウンの身体は、スイウンの意思とは関わりなく、カルミラへ向かっていただろう。
ヤグの魔道具に刻まれた《狂智》は、そういう仕組みでできている。
カルミラが視界に入れば、ただそれだけで、誇りも思考も置き去りにして、身体が勝手に獲物を選んでしまう。
『殺すな、捕らえよ』その一行が、骨の髄にまで焼きついている。
だからこそ、カルミラが視界から消えてくれたおかげで、結果として、聖女からも距離を取ることができた。
《羅刹》ともあろう、この身が敵の逃走に救われる。
「……皮肉なものじゃな」
唇の端だけで、笑う。
息を整えるようにひと吸いした、その時。
走る視界の端を、別の光景が掠めていく。
抱き合っていた、二人。どこまでも不思議な男。
魔力など、そこいらの人族の冒険者と変わらぬ、見るからに弱そうな男。
それでいて、それだけではないと、肌のどこかが告げている。
隣にいたのは、九つもの尾を背に広げた”狐の獣人”、と呼ぶしかない女。
あんなものは、生まれて初めて見た。
そして、あの光景。胸の奥で、削いだはずの何かが、わずかに揺れた。
扇を握る手に、知らず力がこもる。
「……」
スイウンは、瞬きひとつせぬまま、目を細めると、遠い記憶が、頭の片隅から滲み出してくる。
随分と昔……まだ、人であった頃、スイウンにも、愛した男がいた。
夫だった。だがその男は、息を引き取るその間際に、スイウンではなく、別の女の名を呼んだ。
あの裏切りが、スイウンの中の何かを、根の方から折った。
愛は、裏切るもの。
そう思い定めることで、自分を守った。
修行を重ね、人としての情を一枚ずつ削ぎ落とし、知らぬ間に、《羅刹》になっていた。
それで、よかったはず。感情など捨ててしまえば、楽になれるはず……だった。
なのに、抱きしめ合う、あの二人。
互いを疑うことすら知らぬ、あの腕の中。
それを思い出すと、削ぎ落としたはずの場所が、ほんの少しだけ、軋む。
認めとうはない。
羅刹の身に、今さら要らぬ情だと、わかっている。
それでも、霧に溶けるように、声がこぼれた。
「……羨ましい、かぎりよのう」
誰の耳にも届かぬ、雨垂れほどの呟き。
アクアブルーの髪を伝った銀の雫が、一粒、頬を滑って、土へ落ちる。
それが涙か、霧の名残か。
スイウン自身にも、もう、わからなかった。
*
洞窟棲家。
窓枠に手をかけたまま、リラはしばらく言葉を失っていた。
洞窟の外、少し開けた場所で、ゴブリンたちが忙しそうに動いている。
柵の中には鶏がいて、さらに奥には乳牛までいる。
騎士として、戦場と陣形を読むために鍛えてきた目が、その光景をひと通り見て、結局、”農家”という二文字に行き着いた。
ゴブリンたちは、呆れるほど真面目で、もはや完全に農家だった。
「……」
リラが視線を窓の外へ戻すと、一匹のゴブリンが牛の背中を、いたわるように撫でていた。
その横で、ハルが腕を組んで立っている。
どんな部屋に入っても出口と人の数を真っ先に数える男が、今は何も数えられないまま、ただ外を眺めている。
しばらく黙っていたが、やがて、ぽつりと口を開く。
「……なあ」
「何?」
「玄関って、何だ?」
リラが振り返ると、ハルは冗談を言っている顔ではなかった。
本気で、わからないという顔をしている。
「家の入り口で靴を脱ぐのって、流行ってるのか?」
「流行ってない」
ハルは、組んだ腕をほどかないまま続ける。
「洞窟の中に、屋敷って作れるものなのか?」
「作れない……普通なら」
「じゃあ……そもそも__」
顎で、窓の外を示す。
「ゴブリンと共同生活って、成立するのか?」
リラは少し考えてみるが、考えても答えが出ないことを理解して、口を開く。
「……こんなの、他にあるわけないでしょ……あるわけない……普通なら」
ハルが安心するようにゆっくりと頷く。
「だよな。以前の隠れ家は、まだ普通だったのに……」
もう一度、二人して窓の外を見る。
ゴブリンが慣れた手つきで鶏小屋の戸を直しているのが、目に映る。
「……洞窟の中が__」
リラが、半ば呆然と呟く。
「実家より、広い」
「子爵家よりか?」
リラは、ためらいなく「うん」と頷いた。
三番目の子に与えられた狭い部屋を、ふと思い出す。
ハルがゆっくりと天井を見上げ、岩肌に並ぶ柱の穴を端から数えようとして……それきり、何も言えなくなった。
その時、背後に気配があった。
振り向くと、いつの間にかイバラキが立っている。
湯気の立つ見たことのないカップを二つ、トレイに乗せている。
「どうぞ」
声は静かで、それでいて、置かれたカップの位置は、二人の手のひらがちょうど届くところへ、寸分の狂いもなく揃えられている。
嗅いだこともない、温かい茶の香りが、ふわりと立ちのぼった。
リラはそのカップを両手で包みながら、ふと尋ねる。
「……イバラキさん」
「はい」
「アルティシア様は?」
「レオン、ドゥール、アウルと一度、こちらへ戻られてから、ゴブリンの子供たちを連れて近くの湖に水遊びに向かったそうです」
リラは状況が飲み込めず、きょとんとした表情で瞬きを繰り返す。
「……王女が、湖で、古竜とゴブリンの子供たちと水遊び」
そう呟いたハルの口は、閉じることなく開いたままになった。
「……王族が湖で水遊びなんて……誰が見ているかもわからないのに。なんだか、はしたない……でも、少し羨ましいかも」
リラの顔が少し赤くなる。
ハルが開いたままの口を一度閉じてから、イバラキに尋ねる。
「ゲドーマルとタマさんはどこに行ったんですか?」
イバラキは表情ひとつ変えずに答えた。
「先ほど採取した薬草を納品しに、タマと一緒に冒険者ギルドへ」
リラは小さく頷き、カップの中に目を落とす。
ゲドーマルとタマがうまくいったことは、ちゃんと、嬉しい。
それなのに、カップを包む手のひらの奥が、湯の温かさから、少しだけ取り残されている。
恋が終わってしまったような……それも、恋をする前に。
この歳で、初恋というわけでもない。
ただ、自分でもうまく名前のつけられない、胸がぽっかりと空いたような感情。
湯気がゆっくりと揺れる。
リラは顔を上げると、イバラキをまっすぐ見る。
「……ねえ、ゲドーって……何者なの?」
イバラキは、少しだけ考えた。
そして、カップを下げる手も止めぬまま、当たり前のことのように答える。
「鬼です」
「……は?」
リラの動きが、ぴたりと止まった。
横で、ハルが両手で顔を覆い、そのままずるずると項垂れる。
「……あー……」
それ以上は、言葉にならないらしい。
イバラキは、二人の反応を別段気にする様子もなく、空いた盆を手に、また音もなく下がっていった。
洞窟の外では、ゴブリンが牛を連れて、のんびりと畑のほうへ歩いている。
そこに在ったのは、ただただ、平和な光景でしかなかった。
*
冒険者ギルド、併設された食事処には、夜の熱気が満ち溢れていた。
酒の匂いに、焼いた肉の脂の香りが幾重にも重なり、笑い声と木のジョッキがぶつかる音が、天井や壁にいつまでも反響している。
何百回と繰り返されてきた、この場のいつもの夜の顔。
その喧騒の一角、丸い木のテーブルに、俺とタマが座っている。
向かいにいるのは、薬草の納品の際、リーネのカウンター前で偶然鉢合わせたラグスとセイン。
卓の上には、肉と野菜と酒。
人参はない。いつもの店員が気を利かせて外してくれた。
……悪くない。
俺を見た、タマの眉の角度が、ほんの少しだけ吊り上がっている。
「みんな待ってるから、少しだけだよ?」
俺は頷き、盃を持ち上げる。
傾けると、酒が舌の上を滑り、喉の奥へゆっくりと流れていく。
舌に残る甘みが落ち着いた頃、木樽に染みた香りが遅れて追いかけてきた。
向かいでは、ラグスとセインが、にやにやとこちらを窺っている。
先に口を開いたのは、セインのほう。
「……なんか、二人の距離、前より近くないっスか? いや、距離っていうか、雰囲気というか……距離感っスよ、距離感」
言葉を探しあぐね、同じ単語を三度も転がしている。
ラグスがそれに乗っかるように卓に身を乗り出す。
「前より明らかに近い。間違いない」
タマがすっと視線を横へ逃がすが、その頬が、灯りの下でもはっきり分かるほど赤い。
卓の下で、タマの手が膝の上を一度、ぎゅっと握り締めたのが、俺には視えた。
隠したいものほど、正直に反応する。それは昔から変わらない。
俺は盃を置き、聞かれたことにそのまま答えることにした。
「思いを伝えた」
一瞬、卓が静まり、次の瞬間、爆ぜた。
「おおおおお!?」
ラグスが勢いよく立ち上がり、椅子を後ろに蹴り倒す。
隣の卓に座る冒険者たちが、なぜか一緒に立ち上がり叫んでいる。
「ついに!?」
セインも卓に両肘を突き、ぐいと顔を寄せてくる。
「マジっスか!? いつっスか!? どっちからっスか!?」
タマが両手で顔を覆い、指の隙間からさらに赤い頬を覗かせる。
「ちょ、ちょっと……!」
声は必死に咎めているのに、耳の先まで赤い。
店の一角だけが、妙に他とは質の違う温度を上げていく。
そのざわめきの中、入り口に、一人の男が、ふらりと現れる。
灰色のマントに、つばの広い帽子。
帽子の影が、ちょうど顔の上半分を覆い隠していて、目元が見えない。
杖を提げたその立ち姿は、どこにでもいる流れの魔導士にしか見えない。
その男が一歩を踏むたび、周囲の空気が、目には映らぬまま、男の方に流れていく。
魔力や圧とは違う何かが、静かに場の雰囲気を確実に変えた。
タマの頬から赤みが引いていき、目つきは、すっと鋭くなる。
そのまま、何かを言おうと唇が開きかけたが、男はその目を一度だけ見返し、それからゆっくりと、ラグスとセインへ視線を流した。
余計なことは言うな、と目だけで釘を刺しているらしい。
先に気づいたのは、ラグス。
「お、ガグン!」
セインもジョッキを離さないまま、反対の手を振る。
「久しぶりじゃないっスか!」
「最近ちっとも見ねぇから、心配してたんだぞ」
ガグンは、帽子の影の下で、穏やかに笑う。
「最近は、少し忙しくてな」
自然な足取りで歩いてきて、俺たちの卓へ迷いなく腰を下ろし、その流れで、通りかかった店員へ、片手を上げる。
「ワインを」
タマが、俺に視線だけで、警戒を寄越してくる。
分かっている、と眼で返し、俺はガグンを視る。
「酒を飲むのか」
立ちあがろうとしていたタマが、額を押さえて俯く。
どうやら、また踏んではいけない場所を踏んだらしい。
ガグンが、喉の奥で低く笑った。
「俺は、酒しか飲まん」
俺は盃を卓に置き、野菜の載った皿をガグンの方に押し込む。
「それは身体に悪い。飯を食え」
互いの視線だけが静かにぶつかった。
その様子をラグスとセインが黙って見ている。
突然、ガグンが声を上げて笑った。帽子の影が揺れるほど、心底おかしそうな笑い方で腹を抱える。
「……お前は、本当に面白い男だな」
やがてワインが運ばれてくると、ラグスがジョッキを持ち上げる。
蹴り倒したはずの椅子は、いつの間にか元の位置に直っている。
「よし! 今日は祝いだ!」
セインも、ジョッキを掲げる。
「乾杯っス!」
全員が盃やジョッキを手に取り、まさに掲げかけた瞬間。
ギルドの扉が、勢いよく開いた。
店の空気が色を変え、皆の視線が、自然と入り口へ吸い寄せられていく。
そこに立っていたのは、白い外套を纏った女。
琥珀を帯びた淡い茶色の長い髪が、開いた扉から流れ込む夜風にふわりと揺れる。
その後ろから、息を切らした声で、男が慌てて追いついてきた。
「だから言ってるだろ!」
カイラン。帝国で、一度顔を合わせた、タマの恩人の聖騎士。
「大司教に、止めるよう言われてるんだからな!」
女が、肩越しに振り返る。
「一杯だけ」
胸の前で、ちょこんと両手を合わせ、首をわずかに傾けた。
年頃の娘がねだるような、あどけない笑顔を向ける。
「ね?」
そこで、タマがカイランに気づき、強張っていた表情が、ぱっと和らぐ。
「カイラン!」
手を振ると、カイランも顔を上げた。
「あ、タマ!」
苦笑混じりに、手を振り返してくる。
その一方で、白い外套の女の冷たい視線が、ゆっくりと、こちらの卓へ移ってくる。
ラグス、セイン、タマ、そして俺。
指を折るように、一人ずつ、丁寧に値踏みしていく。
俺とも、ほんの一瞬、目が合う。朱の混じった、琥珀色の瞳に、どこか不満を含んでいるように視えた。
だが、そこでは、何も引っかからない。
視線は滑らかに、次へと流れていき、その視線が、ガグンの上で、ぴたりと止まった。
その瞬間。
ガグンが、帽子の影の下で、ゆっくりと口角を上げる。
挑むような、薄い笑みをじっくりと時間をかけて作りあげた。
応じるように、女の琥珀色の瞳が、すっと細くなっていく。
先ほどまでは娘のように笑っていた顔から、表情が完全に消えた。
刹那、空気が頬を刺した。
女の内側から、魔力が膨れ上がっていく。
水面に映る月明かりのように澄んでいるのに、底には触れたものを焼き切るほどの熱を含んでいる。
食事処の喧騒が、すっと凍りつく。
事情を知らぬ冒険者たちまでもが、本能だけでざわめき始める。
カイランの顔つきが、変わる。
つい今し方までの苦労人の苦笑が消え、迷いのない手つきで、剣の柄へと指がかかる。
「セレスティア」
女が、静かに頷く。
「うん」
穏やかな声、それでいて、その目だけは、欠片も笑っていない。
「乾杯の前に……残業みたいだよ」
カイランの魔力が、それに応えるように、同時に膨れ上がった。
*
冒険者ギルドマスター室。
王都リュシア冒険者ギルド、その最奥にあるギルドマスター室は、分厚い扉一枚で、表の喧騒から切り離されている。
机を挟んで、三人の冒険者が座っていた。
Sランクパーティー《残響の楔》。
中背に、白髪の混じった短髪。ギルドマスターのシオウは、聞こえないほど小さく舌打ちをした。
「本部め……」
先日、報告に上げた、ヴァンパイア対策。差し向けられた理由そのものは、理解できる。
「だが、よりによって、こいつらを寄越すか。普通」
胃の底をさすりたい気分で、シオウは目の前の三人を見回した。
竜人のゼノン。人族より頭ひとつ背が高く、深海を思わせる群青の髪を、一筋の乱れもないサイドパートに整えている。
襟の高いダークブルーのコートに手袋、胸元には魔力計測の機器をいくつも提げ、ただ座っているだけで研究室のような静けさを持ち合わせている。
ハイエルフのエルヴィナ。弟アウレオンの淡い緑とは少し違う、翡翠色の髪を持つ女。
その瞳もまた翡翠の色をしていたが、静かな森を思わせる弟のそれとは違い、こちらを射抜く光は強く、皇族としての気品さえ自分で台無しにしてしまうほど勝気で、鋭い。
銀狼のルヴィン。人族に限りなく近い姿だが、頭頂部には短い狼の耳、腰には尾。無口で、目立たず、青年風の佇まいの内側に、《血の血統》によって一族を滅ぼされた銀狼族の、最後の生き残りを隠している。
全員、椅子には座っているが、落ち着いているとは到底言い難い空気を醸し出している。
ゼノンとエルヴィナの手首には、暗示対策の必需品である世界樹の葉を編んだ紐が巻かれている。
ヴァンパイアを相手取るなら、最低限の備えだが、なかなか手に入るものではない。
エルフの元皇女という立場の代物といえる。
ゼノンが眼鏡の縁を指で軽く触り、口を開いた。
「それで?」
眼鏡の奥、爬虫類のような金色の瞳が、静かにシオウへ向く。
「そのヴァンパイアの特徴は?」
シオウは頷き、机の上の資料を指で叩いた。
「始祖級だ。クロウゼルと名乗っていた」
あまりゼノンの目を見ないように気をつけながら、説明を続ける。
三十代半ばの、整った顔立ちの男。深い紫とも紺ともつかない髪を、隙なくまっすぐ撫でつけ、古風ではあるが、一級品の黒いロングコートを纏っている……そこまで言いかけた、その時に。
「……《血の血統》……間違いない。名前も本名そのまま……馬鹿にしている」
ルヴィンが、俯いたまま、呟くように言うが、手には拳が握られている。
聞いたと同時に、エルヴィナが立ち上がり、翡翠の髪をかき上げ、肩に弓を担ぐ。
単純な動きのはずなのに、所作のひとつひとつに育ちの良さが滲んで見える。
「では、わたくしが片付けてあげましょう。お前たちは座って見ていればいい」
言ってから、思い出したように付け足す。
「……まあ、今のわたくしは、ただの気ままな冒険者だけれど」
シオウは、思わず腰を浮かせた。
「いや、待て、まだ場所も__」
その瞬間、空気が、変わった。
ルヴィンが俯いたまま、口角を静かに上げ、喉の奥から低く声を絞り出す。
「……ようやく、見つけた」
ルヴィンの身体から魔力が溢れ出したせいで、家具が軋み、机の上のカップが小刻みに震えて、淹れたてのコーヒーが、ふちから一筋こぼれた。
「おい、待て」
シオウの声に、ルヴィンは応えることなく、伏せていた顔が少し上がる。
銀色の獣の目には、怒りが添えられている。
「待っていろ……クロウゼル……カルミラ。世界のルールを教えてやる」
漏れ出した殺気が、ギルドマスター室の空気を、重く沈める。
その殺気を浴びて、エルヴィナが、嬉しそうに笑い出す。
「いいでしょう。わたくしも付き合ってあげます。お前ひとりでは、どうせ取り逃すでしょうし」
その小さな身から膨れ上がった魔力が、シオウの顔を完全に引きつらせた。
「やめろ! ここはギルドだぞ!」
シオウはすがるように、ゼノンへ視線を投げる。止めてくれ、頼むから止めてくれ……その祈りを乗せて。
当のゼノンは、優雅に一口コーヒーを飲み、それから、静かにカップを置く。
「二人とも」
場に似合わない穏やかな声で言う。
「落ち着きなさい」
エルヴィナが振り向き、ルヴィンの動きも止まる。
ゼノンは脚を組み、指を軽く振りながら続ける。
「ヴァンパイアは、別に逃げやしない」
エルヴィナが、片眉を吊り上げた。
「は? ゼノン。お前、本気で言っているの? 逃げるに決まっているでしょう」
胸を張るように腕を組み、鼻先で嗤うと、皇女の気品の下から、冒険者としての勝気がむき出しになる。
「カルミラは、もう百年以上も逃げ続けている女。そんなことも知らないで、よくも訳知り顔ができたものね」
ゼノンの指が、眼鏡の縁の上で止まる。
「……え?」
「あら。今の、わたくし何かおかしなことを言ったかしら」
その一言が、引き金となり、ルヴィンの魔力が、さらに大きく膨れ上がる。
ギルドマスター室が、揺れた。家具が悲鳴を上げ、窓ガラスが、びりびりと震える。
シオウの顔から、血の気が引いた。
「やめろ! ここはギルドだぞ!」
ゼノンが、ゆっくりと立ち上がる。
「だから、落ち着けと言っているだろうがッ!」
次の瞬間。
ドンッ、と重い音とともに、机が真っ二つに割れた。
ゼノンの踵が、それを叩き割っていた。
静寂が、ギルドマスター室を埋める。
ルヴィンとエルヴィナの膨れ上がっていた魔力が、嘘のように引いていく。
エルヴィナが固まり、ルヴィンも動きを止め、シオウは口を開けたまま、立ち尽くす。
「「「…………」」」
誰も、何も言わない。割れた机の断面から、コーヒーが、ぽたり、ぽたりと床へ落ちていく。
その音を破ったのは……別の、衝撃だった。
――ドン。
ギルドの奥、食事処の方向から、魔力が、膨れ上がる。
ゼノンが、顔を上げた。エルヴィナが、入り口を振り向く。ルヴィンの狼の耳が、わずかに、そちらへ向いた。
シオウは、ただ、ゆっくりと息を吐く。
「……嫌な予感しか、しねぇ」




