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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第2章 世界の正体をみる
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第14話 表と裏


 王都近くの高台に、彼女は立っていた。


 森と街道、その両方を見下ろせる位置取りは、偶然ではない。


 額の左右から後ろへと流れる二本の漆黒の角が、首をわずかに傾けるたびに鈍く光り、深緑を含んだアクアブルーの長い髪が、弱い風にあわせてゆるやかに揺れている。


 風そのものは弱いのに、その場に満ちる空気だけが、やけに重く感じられた。


 《羅刹らせつ》スイウン。


 その名で呼ばれる女は、手にした扇をゆっくりと開いていく。


 万年氷の結晶と龍の骨を組んで作られたという《芭蕉扇》は、開くたびに、空気そのものが軋むような気配を纏う。


 背後には、ミルザに与えられた五つの影が控えていた。


 オーガの変異種、五体。姿形はそれぞれ違う。


 けれど、その動きだけは奇妙なほどに揃っている。


 呼吸の間合いも、視線の向きでさえも、まるで一つの意志に貫かれているかのように。


 ヤグの手によってスイウンの”目”、”腕”そのものへと組み替えられた、この世界のオーガ《霧幻五指》。


 《芭蕉扇》が、わずかに揺れる。


 「……満ちなさい」


 囁くような声が、風に溶けるように消えていく。


 「天に隠れし滴、地に眠る湿り。わらわの指先に触れ、万象の理を、白く塗り潰せ」


 胸の前に伸ばした手の先から魔力の塊が生まれると、次には、自分の身体ほどもある大きさの扇を、ひと煽りする。


 「飽和せよ。殺しの庭――《白霧飽和・水鏡の檻》」


 扇で煽られた魔力の塊が重さを持った霧となり、世界が白く染まる。


 均一な密度を保ったまま、過不足なく空間を埋め尽くしていく。


 森も、街道も、高台の下に広がる地形も、もはや区別がつかない。


 五つの影のうち、一体が一歩前に出る。


 指先で霧に触れ、何かを"整える"ように魔力を流すと、それに呼応するように、空気がほんのわずかだけ冷えていく。


 霧は、あまりにも安定しすぎているせいで、その場に息づく者の呼吸の一つさえもが、やけに目立って聞こえてくる。


 スイウンはすっと瞼を下ろし、霧の呼吸に己の呼吸を重ねた。


 "熱"か、"魔力"か。そのどちらかがこの霧の中に紛れ込めば、必ず歪みが生まれる。


 蒸発、対流、目には映らぬ震え……それら一つひとつが細い糸となって、彼女の感覚の奥へと流れ込んでくる。


 「……見つけたぞ」


 スイウンは瞬きひとつしないまま、配下に気づかれないように、小さくため息を吐く。霧だけが、足元で静かに流れている。


 扇の端で、空をなぞるように一線を引く。


 「蜘蛛の糸に触れた羽虫のように、其方の震えは霧を伝い、ひとつ残らず妾へ届く」


 目を開き、一歩を踏み出すと、それに合わせ、五つの影も動いた。


 霧の中を、音もなく駆け抜けていく。


 *


 王都の中心街は、いつも通りの喧騒に満ちていた。


 露店の呼び声が響き、馬車の軋む音がそれに重なり、行き交う人々の笑い声が層をなして街路を満たしている。


 その流れを、白い外套が一筋、軽やかに切り裂いていく。


 大地の恵みを思わせる温かさを宿した、朱色がかった琥珀色の瞳。


 純白の法衣が翻るたび、隠しホルスターに収められた《世界樹の短剣アンチ・ヴァンパイア・ダガー》が揺れ、巡道教の紋章を記した金色の髪飾りが陽の光を弾く。


 セレスティアは、人混みの隙間を縫うように走っていた。


 その走り方さえ優雅で、肩から背へと流れ落ちる波打つ長い髪、琥珀を帯びた淡い茶色のそれが揺れるたび、甘い花の香りがふわりと漂う。


 右手には白木と金で飾られた《聖なる長杖ホーリー・スタッフ》。


 左手に握られている、小さな魔道具の表面は淡い光で瞬いている。


 「……やっぱり」


 走りを止めることなく、セレスティアは眉一つ動かさずに呟いた。


 その直後、背後から少し情けない声が飛んでくる。


 「ちょ、待ってって言っただろ……!」


 人混みの中、人に迷惑をかけないよう慎重に避けながら、息を切らして走ってくる聖騎士、カイラン。


 「いきなり全力疾走は反則だって……!」

 「ごめんね」


 セレスティアは振り返らず、軽やかに返す。謝罪の言葉とは裏腹に、速度は少しも落とす気はない。


 彼女は手の中の魔道具へと視線を落とし、その確実に強くなっている反応を確認する。


 「カイラン、急いで!」


 声は明るく、まるで近所に朝市の買い物にでも誘うような調子だった。


 「どこの勢力かわからないけど__」


 琥珀色の瞳がわずかに細くなり、その中心に、静かな熱が宿った。


 「この反応、絶対魔族よ!」


 カイランは奥歯を噛みしめる。


 「……王都の近くで、か」

 「そう。しかも、隠す気がない」


 それが何を意味するか、二人とも理解していた。


 セレスティアの髪が、熱せられた琥珀のように光を帯びていき、カイランは静かに風を纏う。


 通り過ぎる人々は、理由もなく一瞬足を止め、次の瞬間にはまた何事もなかったように歩き出していった。


 誰にも、本心は見せない。慈悲深い微笑み、礼儀正しい所作、完璧な聖女としての佇まい。


 その佇まいを、セレスティアは人の前では一片たりとも崩さない。


 だが、相手が魔族となれば話は違う。


 街道の外れに、森へと続く道が見え始めた。白い外套が、さらに速度を上げる。


 「今度は……間に合うといいわね」


 その声は今はまだ、どこまでも穏やかなままだった。


 *


 王都近郊の森は、静かだった。


 いや、静かになった。


 枝先にあった鳥の気配が一つ、また一つと減り、風が葉を撫でる音だけが妙に大きく聞こえる。


 木々の幹の揺れも、湿った土の感触も、まだ何一つ変わっていないのに、森の空気の重さだけが、急激に重さを変えた。


 「ええ。ちゃんと、お話ししましょう」


 カルミラはそう告げると、”圧”さえ飾りの一つにしているような顔で、静かに微笑んだ。


 赤い唇の端がほんの少しだけ上がり、白い肌に落ちた木漏れ日が、血の気の薄さをかえって艶やかに見せている。


 俺は返事をせず、周囲を視た。


 木々も、風も、匂いも変わっていない。


 それでも、足元には絡みつくものがあった。


 薄く重い靄が地表を這うように広がり、場所ごとの濃淡を作らず、同じ厚みで草の根元辺りを覆っている。


 「湿り気が、妙に揃っている」


 俺の声に合わせるように、肩の上でノクティスが小さく揺れた。


 いつものように丸くなるのではなく、影の手だけをそっと引っ込める。


 怖がっているわけではないが、その霧に触れられることを嫌がっている。


 「……おかしな霧、ですね」


 普段は淡々としているイバラキの声が、いつもより一段だけ低く、俺の斜め後ろから届く。


 イバラキは、まだ刀に手を置いてはいないが、指先はすでにいつでも動ける位置にある。


 「……魔力が混じっている。作られた霧だ」


 俺が言うと、イバラキは目を細めず、ただ薄い靄の流れだけを追った。


 「そこの女とは別の誰かの仕業です」


 俺は静かに頷いた。


 カルミラが俺の視線の先を追うように目だけを動かし、森の奥の”霧の発生源”の方に目を向ける。


 それから、赤い唇の端を、愉しげに持ち上げた。


 「不思議な眼を持っているって、聞いたわ」

 「……誰からだ」

 「さあ?」


 カルミラは困った子を見るようにわざとらしく肩をすくめた。


 しかし、柔らかく崩した仕草とは裏腹に、細めた瞳の奥には刃のような光が滲んでいる。


 「長いこと生きていると、色々なところに伝手が出来るものよ。特に、逃げ回っているとね」


 その口ぶりには、死地を越えてきた者の余裕があった。


 タマとは違い、この女は追われることに心を擦り切らせてきた者ではない。


 追われている身でありながら、背後に迫る誰かの気配を、まるで悦んでいる節がある。


 横で、リラが一歩前に出た。


 足運びは騎士のものだったが、いつもよりもほんのわずかだけ、相手との距離をとっている。


 視線はカルミラの顔から首筋、胸元へ、そこから身に纏う衣へと流れ、すぐに俺の方へ戻ってきた。


 「……綺麗な人ね」


 少しだけ頬を引き攣らせながらも、口元を片方だけ上げ、震えそうな声を抑えている。


 だが、剣を持たない手の指が、何度も握り直すように開いたり閉じたりしている。


 「ゲドーの知り合い?」

 「違う。《血の血統》とやらが探している、ヴァンパイアだ」


 たぶん、という言葉は飲み込む。


 詳しいことは知らないが、シオウが口にしていた女であるなら、目の前のこれで間違いないはずだ。


 こうしている間にも、足元の魔力を含んだ霧が、さらに揃い、そして広がっている。


 ただ漂っていたものが、ゆっくりと方向を持ち始めていた。


 木々の間を抜け、地面に生えている草を湿らせながら、こちらへ向かって薄く広がり、押し寄せてくる。


 風に運ばれているのではなく、霧自体が操られながら進む方向を決めている。


 魔力の発信源がこちらに向かっている。


 ハルは笑い損ねたように口の端だけを上げ、舌打ちを飲み込んだ。


 「……冗談だろ。それって“カルミラ”ってことか? 確かに、近衛騎士に入隊した時に教わった通りの見た目だが、あれって本当に実在するのか? 第四団ですら、何も掴んでないぞ。ほぼ都市伝説だろ?」


 ハルが気づかれないように視線を戻した先で、カルミラは薄い霧に衣を撫でられながら、ただ微笑んでいた。


 人懐こいほど柔らかな口元とは裏腹に、その視線だけが静かな重さを帯びて、一瞬だけハルに向く。

 

 ハルは「マジかよ」と息の奥だけで呟き、即座にマジックバッグへ手を伸ばした。


 取り出したロングソードの柄を確かめる間も惜しむように、リラへ投げ渡す。


 「持て。ただの安もんだが、ないよりマシだろ」

 「……うん、ありがと。助かるわ」

 「さっきの店で俺があの剣を買っとけばよかったよ」

 「……なんかそれは、嫌……」


 リラは剣を受け取り、鞘からロングソードを抜くと、無理に微笑む。


 口元はまだ少し引き攣っていたが、腰は引けていない。


 剣を握った手に力が入り、騎士として染みついた型が、身体の芯をどうにか支えている。


 カルミラはその様子を見て、人差し指を口元に当てると、くすりと笑った。


 「そんなに怖い顔しないで」


 その瞬間、空気が膨らんだ。


 皮膚の表面に感じていた空気の重さがまた一段変わり、漂っている霧がわずかに沈む。


 山で見る朝霧なら、冷えた谷底からゆっくり立ち上がり、朝日が射せば薄く消えていく。


 囲炉裏の煙なら、戸の隙間から入った風に押され、天井へ向かって流れる。


 だが、この霧は違う。


 白く均されていた靄の網目が、内側から乱れる。


 細かく張られていた網が、濡れて重みを持った時のように、霧の縁だけがたわみ、草の葉先へ小さな露となって落ちていった。


 カルミラの口元から白い牙が覗き、瞳の奥に宿る色が、人のそれからゆっくりと外れていった。


 「……思わず、噛み殺したくなるわ」


 リラの頬が引き攣り、喉が小さく鳴った。


 ハルの肩も、一瞬だけ上がる。冗談で紛らわしていた空気が、そこで限界を迎えたのだろう。


 だが、カルミラの視線は俺から離れない。


 まるで皮膚の内側を、血の流れに沿って指先でなぞるような視線。


 獣が獲物を見定める視線ともまた違う。


 血の気配を感じさせる魔力がそっと皮膚から身体の内側に流れてくる。


 ……これは、腹がたつ。


 「いいのか?」


 俺は思わず大声になってしまわないように、出来るだけ声を抑えるように低く言った。


 「お前を探している男が、もう動いている。それにこの霧もお前が目当てだろう」

 

 「そう」


 カルミラは、困った子の言い分を聞くように小さく息を漏らし、それから目元だけを柔らかく細めた。


 「レオンから聞いた通りね」


 カルミラはそう言って、唇の端に残った笑みを指先でなぞるように動かす。


 「全く動じない。どんな時も、冷静沈着……なんでしょう?」


 その瞬間だった。


 「ぷっ」


 イバラキが吹き出し、即座に両手で口元を抑える。


 同時に、肩の上のノクティスが、くすくすと笑うように影の腹を震わせた。


 丸い輪郭が小さく波打ち、俺の肩口を軽く叩く。


 ……今朝の俺を思い出しているのだろう。


 腹の底で、何かがじり、と音を立てた。


 俺は即座にイバラキを睨む。


 イバラキは何事もなかったように姿勢を正し、深く頭を下げた。


 「失礼いたしました」


 だが、その口元はわずかに緩んだままだった。


 俺はそれ以上見ず、カルミラを正面から捉え直した。


 「動じない? そんなことはない」


 声が、俺の意志とは関係なく低く沈む。


 足元の霧が、俺の声に触れたように薄く乱れた。


 「今も、ヴァンパイアの暗示とやらにかかったせいで……大切な者との仲が、壊れかけている」


 「……へえ」


 冷えた愉悦が、カルミラの瞳の奥で静かに揺れていた。


 「正直に言うと」


 言葉を発しているうちに、森の匂いと音が自然と遠のいていく。


 「最高に、機嫌が悪い」

 「あら? そうなの?」


 カルミラは首を傾げた。黒に近い深い紫の髪が肩に流れ、牙の先がほんの少しだけ覗く。


 「全然、そうは見えないわ」

 「本当のことだ」


 胸の奥で、ずっと押さえていたものが音を上げて軋むのが聞こえる。


 《鬼の衝動》。


 だが、今は押さえる理由を探す気にもなれない。


 「……不動の怒りは、迷いを焼くためのものだと言う」


 カルミラが目を細め、首を傾げる。


 一筋の蒼い稲光が俺の皮膚の上を走る。


 「鬼のこれは、そんな綺麗なものじゃない」


 言いながら、左手の指をゆっくりと開くと、地表の霧が沈む。


 「いい加減__」


 言葉が地面に落ちる前に、周囲の空気がひとつ鳴った。


 「そのくだらない暗示をやめろ」


 森が、息を止めた。


 「……潰すぞ」


 紫色の細い火花が、バリバリと音を鳴らしながら湿った空気を裂いていく。


 枝の先に残っていた露が一瞬で震え、葉裏が白く裏返り、足元の霧が押し潰されるように地面へ沈む。


 止まっていた森が悲鳴を上げる。

 

 幹の内側が軋み、根が土を掴み直すような低い音が足裏に伝わる。


 風は吹いていないのに、木々の影だけがぶれる。


 空気の重さが増し、喉の奥に石を詰められたような圧が場を覆う。


 指先で、紫色の火花が、また一つ弾ける。


 湿った空気が焼ける前の匂いがそこにあり、雨の前に似た鋭さと、鉄を舐めたような薄い味が、舌の奥に残る。

 

 ハルの呼吸が乱れた。


 リラも膝を抜かしかけ、ロングソードの柄を握る手に血の気が引く。


 カルミラですら、微笑みを保ったまま、頬から色を失い、一歩後ろに下がる。


 その中で、イバラキだけが立っている。


 「お館様」


 イバラキのはっきりとした声が鼓膜に響く。


 「お館様!」


 ……もういい。止めるのも面倒だ。


 紫の火花がさらに濃くなり、森全体が軋み、足元の草が一本ずつ地面に伏せる。


 ノクティスが肩の上で丸く縮み、それでも離れずに俺の襟元へ影を絡める。


 紫電が走る俺の手首を、白い手が掴む。


 じ、と小さな音がした。


 濃褐色の直垂の裾が焦げ、白い指の皮膚に細い焼け跡が入る。


 「……離しません」


 それでも、イバラキはじっと俺の眼を見たまま、手は離さない。


 俺はイバラキの目を視る。


 「”茨木”、邪魔をするな」


 イバラキは《鬼》になってはいないが、目だけは既に真紅に変わっている。


 「その手は、このような女を潰すための手では、ございません」


 紫の火花が、彼女の指の間で小さく弾け、更に彼女の手を傷つける。


 「盃を持つ手です!」


 森の圧が、ほんのわずかに緩んだ。


 ノクティスが肩の上で小さく震え、影の端を俺の袖に絡める。


 その小さな影も、離れなかった。


 その声で、すっと、すべてが収まった。


 紫の火花が空気の中に消え、沈んでいた霧がかろうじて形を取り戻す。


 木々の震えが遠ざかり、森は遅れて息を吐いたように静まる。


 イバラキが深く息を吐く。


 俺は静かに目を伏せ、それからイバラキを見る。


 「……すまない。少し感情的になった」

 「いえ、戻ってきてくれたのなら構いません」


 カルミラは額から汗を流し、胸元を押さえている。


 白い喉が上下し、指先が衣の布をわずかに掴んでいる。


 「……どうして」


 先ほどまでの柔らかい声ではなくかすれた声。


 「どうして……暗示が、効かない?」


 魔力がないからだ。


 答えは、喉の奥まで来ていた。だが、言わない。


 カルミラはじっと俺を見ている。


 だが、今度の視線には、先ほどまでの余裕が欠けている。


 その時、霧がこちらへ寄ってくる。


 こちらの呼吸の間隔に合わせるように、じわじわと距離を詰めてくる。


 イバラキが静かに言う。


 「……お館様」

 「ああ」


 この霧を作り出している何者かが、近づいている。


 そして、その背後には、霧と同調する複数の氣がある。


 *


 森を抜け、さらに奥へと続く道は、エルフの国へ至る古い境界線に近い場所だった。


 先頭を歩くのはドゥールで、時折、アウレオンと連絡をとり、その歩幅は終始一定を保ち、迷いというものが一切ない。


 後ろに続くのはレオン、アルティシア、アウル、それにタマ。


 木々の密度がわずかに変わり、風に乗る匂いが少しだけ先ほどまでとは違う。


 ドゥールが、不意に足を止めた。


 「……ここだ」


 全員が足を止め、顔を上げ、辺りを見回す。


 「ここ? ドゥールさん、ここには何も__」


 レオンが首を傾げ、ドゥールに質問しようとする。


 だが、その言葉が終わるより早く、前方の木々が静かに揺れた。


 人影が一つ、前方からこちらへ歩いてくる。


 それは、最初から"そこに在る"と森が認めているような足取り。


 「……アウレオン!」


 タマは両手を上げ、思っていたよりも大きくなった自分の声に、ほんの少しだけ目を瞬かせた。


 長い耳と鋭く整った顔立ち、落ち着いた佇まい。


 淡い翠色の長髪を持つエルフ、アウレオンは、穏やかに微笑んだ。


 「久しぶりだな」


 その声に、レオンも槍を下げ、息を吐く。


 「無事そうで何よりだ。こっちは色々あったけどな」


 二人は目を合わせ、握手を交わしながら挨拶を交わす。


 「……顔を見れば分かる」


 軽い会話だったが、再会の安堵は確かにそこにあった。


 ドゥールが整えた髭を摩りながら、アウレオンを一瞥する。


 「調子は?」

 「……正直に言えば、良くはない」


 視線が、わずかに森の奥へと向く。


 「今のエルフの国は、内側がかなり荒れている。外の者を招く余裕はない」


 レオンが眉を寄せた。


 「じゃあ……」


 「すまない」


 はっきりとした謝罪だった。そのやり取りを、アルティシアは静かに見ていた。


 やがて、アウレオンと目が合う。


 アルティシアは何も言わずに一礼した。深く、丁寧に。


 アウレオンは一瞬だけ目を細め、同じように頷きを返す。


 そして、もう一度目を合わせた二人には、同じような笑みがある。


 「……とはいえ__」


 アウレオンが、外套の内側から小さな革袋を取り出す。


 「手ぶらで来たわけじゃない」


 中から、透明な小瓶がいくつか現れ、中では淡い緑の液体が揺れている。


 「世界樹の葉を使ったポーションだ。飲めば、心に巻きついた他人の意志が、本来の流れへ戻る」


 レオンが、受け取って匂いを嗅ぎ、顔を顰める。


 「……苦そうなんだが」

 「とても苦い」


 アウレオンの返事は、少し言葉が重なるほど早かった。


 「……ッ……」


 声のした方へレオンが視線を移すと、タマの頬が引き攣っている。


 さらに、アウレオンが細い紐を数本、革袋から取り出す。


 一見すると自然な緑色だが、よく見れば葉の繊維が練り込まれているのが分かった。


 「こちらは、世界樹の葉を粉末にして編み込んだものだ。身につけていれば、暗示は通らない」


 全員が、黙ってそれを受け取る。


 「手首に巻き、結ぶだけでいい。魔法陣も、詠唱もない」


 「……こんなので?」


 手に紐を巻きながら、レオンが呟く。


 「世界樹とは、そういうものだ」


 ドゥールがそれを受け取りマジックバッグに詰めていき、いつまでもポーションを睨んでいるタマとレオンを見て、呆れたように言う。


 「お前ら、粘ってても甘くなったりはしないぞ」


 レオンとタマは顔を見合わせ、ポーションを一気に飲み干した。


 「……っっっ!!」


 レオンが、顔をしかめる。


 「苦っ……! に、苦い……」


 タマも涙目になりながら、それでも一息に飲み干していた。


 次の瞬間だった。


 レオンの目つきが変わる。霧が晴れるように、視線が鋭さを取り戻していく。


 「……あ」


 飲み干したと同時に、思わず小さな声を漏らすタマ。


 胸の奥に、何かが落ちていく感覚がある。


 ずっと靄のかかっていた場所、そこにあった違和感が、音もなく消えていく。


 代わりに、記憶が鮮明になり、正確な意味を持ち始める。


 言った言葉。向けた視線。突き放した態度。そのすべてが持つ、意味が一息に戻ってくる。


 「……どうしよう」


 タマの声が、震えた。


 「私……」


 両手で口元を押さえる。


 「私、ゲドーマルに……酷い態度をとっちゃった__」


 その場にしゃがみ込み、頭を抱える。


 「傷つけた……絶対、傷つけた……」


 この場にいる誰もが、すぐには声をかけられなかった。


 ただ、目を逸らさずにタマを見ている。


 「行かなきゃ……」


 タマはゆっくりと顔を上げた。


 吸い込んだ息が胸の奥で静かに収まり、揺れていた瞳の焦点が、まっすぐ前に定まる。


 「今すぐ」


 さっきまで胸元で迷っていた手が、静かにほどける。


 白い指先が衣の端から離れ、腕が下りると、その動きに合わせるように、彼女の周囲の空気が揺れる。


 タマは右手首の水色のブレスレットに指をかけ、ためらいなく外した。


 続けて薬指の金の指輪を抜くと、抑え込まれていた魔力が、息を取り戻すように背後へ広がった。


 外した二つを左手に握り込んだまま、タマは息を吸った。


 タマの輪郭だけが、淡い光を帯びて森の薄暗さの中で静かに浮かび上がり、九つの尾がゆっくりと広がる。


 先ほどまでなら、その尾は怯えに散っていたかもしれない。


 けれど今は違う。一本一本が背後で揃い、風に逆らうのではなく、風を受け止めるように後ろへ流れている。


 転移の魔法陣が、地面に一瞬だけ輝いた。


 「……っ!」


 誰かが声を上げる前に、タマの姿は消えていた。


 残されたのは、静寂だけだった。


 レオンがぽつりと言う。


 「……行っちゃったな」


 「ええ」


 アルティシアは目を少しだけ細めた。


 心なしかいつもよりも少しだけ、目尻が下がり口元が上がっている。


 ドゥールもアウレオンも何も言わずに微笑んでいるが、アウルだけは、わずかに頬を膨らませ、その足元で小さな風が拗ねたように丸く回っていた。


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