表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第2章 世界の正体をみる
42/51

第13話 厄介ごと


 金属の匂いが鼻を刺した。


 打ち付けられた鉄の音が、一定の間隔で店内に響いている。


 壁には剣、槍、斧が並び、防具は革から金属まで揃っているが、新品の輝きを放っているものは半分程度で、残りの半分は年季が入っていた。


 使われ、傷つき、それでもまだ使えると並べられているものたち。


 金に困り売り捌かれたものもあるだろうし、新品と引き換えに置いていかれたのもあるのだろう。


 リラは店の中央で立ち止まっていた。


 腰に、あの慣れ親しんだ、リラ専用の、リラのために造られた剣はない。


 あれは国がリラのために用意したものだったため、身分を剥奪された時に引き取られた。


 自分のものだと思っていた時間ごと、たった一枚の書類で片づいた。


 剣や鎧を返却した時、装備を渡しただけではなく、自分の存在意義そのものを持っていかれた気さえした。


 「……思ったより、物騒な顔してるな」


 横から肩をすくめながら、いつもの軽さを含んだ声のトーンでハルが言った。


 リラは視線を武器から外さなかった。


 壁に並んだ刃の一本一本が、こちらを見返しているように感じる。


 選ぶ側にいるはずなのに、むしろ自分の方が値踏みされているような感覚に陥る。 


 「こういう店、久しぶりだろ」

 「……うるさい」


 どう返していいか分からない中、喉を通って出てきた言葉はそれだけだった。


 ハルも笑わなかった。


 軽い声を出しながら、目だけは店の奥にいる店主の表情を静かに窺っている。


 「騎士団の装備は、全部返却済みなの」

 「そりゃそうだ。国の物だしな」


 ハルの返答は軽く、短いまま終わる。


 仕方がない、元気出せ、お前が選んだ道だ、などとありきたりな慰めを口にするつもりはないらしい。


 余計なことを言わない選択を、この男はいつも自然にやってのける。


 リラは、一本の剣の前で足を止めた。


 刃は薄く、鍔に細かい刻みが入っている。


 見た目は無骨で、壁に並べられている剣の中でも、特に飾り気が少ない。


 その剣に惹かれるように自然と出した手が止まる。


 だが、リラの目だけが刃の重心と鍔の構造を追っていた。


 騎士として、これまでそれなりに多くの武器に触れてきた経験が、この剣の潜在能力を測ろうとする。


 「……これ、雷、通せるかしら」


 独り言のように呟く。


 いつの間にか、すぐ近くまで歩み寄っていた店主が、その剣を見る。


 「この辺りに並べられているものなら、どれも通せるには、通せるが……どれだけ耐えられるかは、値段次第だな」


 店主は無造作にリラが興味を持った剣の値札を指で弾いた。


 「……高い」


 思わず言葉にするべきでないことを口にしてしまったと、リラは慌てて両手で口を押さえる。


 店主はフッと鼻で笑うように肩をすくめて、店の奥に戻っていく。


 「”元”子爵令嬢がそんなに金がないのか」


 ハルが腰に手をやりながら、呆れたように言う。


 「……退職金も出なかったし……」


 俯きながら溢れた呟きは、自分の耳にすら届かないほど小さかった。


 騎士として積み上げた時間は、一枚の書類で消えた。


 値札の数字が、その事実の重さをそのまま突き返してくる。


 「雷はな、武器を壊す属性だ」


 ハルが壁際に背を預けたまま言う。


 「安物でやると、一戦どころか、一撃で終わる」

 「……分かってるわ」


 誰よりも分かっているから、唇を噛む。


 才能と努力だけでは届かない場所がある。


 現実として、力を得るには、金が要ることも理解している。


 リラは剣から視線を引き剥がした。


 「じゃあ、まずは稼ぐしかないな。いくら必要かもわかったしな」


 ハルが寄り掛かりながら、いつもの軽い調子で言う。


 「冒険者ギルド、登録するか」


 リラはすぐには答えなかった。


 口に出す前に一度だけ、自分の中で確かめた。


 ”もう一度、剣を取るのか”。


 もう騎士ではない、貴族令嬢ですらない、民を守る義務もなくなった。


 平民の女という身分の中で、他にも幸せになる道があるかも知れない。


 実際にそうやって生きている人の方が圧倒的に多い。


 命をかけた戦いの場に身を置く必要はない。


 安全な場所で好きな人と過ごす未来も、それはそれできっと満たされるはず。


 そしてリラはゆっくりと頷く。


 「……やるからには」


 顔を上げるその目には、光が宿っていた。瞳には壁に並べられた剣が映っている。


 「Sランク、目指すわ」


 何も持たない手を握り締め、そう言ったリラの表情はもう揺らいでいない。


 ハルは少しだけ目を細め、そして小さく息を吐いた。


 「……そう言うと思った」


 言いながら、寄りかかった肩が少しだけ下がる。


 「無理はするなよ」

 「無理なんてしないわ……でも、諦めもしない」


 ハルはそう言うリラの目を見て、目を丸くし、一瞬だけ視線を下に落とす。


 けれどすぐに顔を上げ、上げた時にはいつもの力の抜けた顔に戻る。


 そして、すぐに踵を返し、店の出口に向かう。


 「なら、行こうぜ。冒険者ギルドに」

 「うん!」


 リラは店に入った時とは違い、床を強く踏みしめながらハルに続く。


 店を出る前、リラはふと口を開き、歩みを止めずに前を向いたまま言う。


 「……ルキアス殿下は」


 そう言いながら、言葉の続きを探す。


 「これから、どうなるの」


 ハルは歩みを止めなかった。前を向いたまま、言い切る。


 「すぐじゃない」


 そこで足を止め、振り返る。


 「だが、必ず国王になる」

 「……断言するのね」

 「それなりに長いこと、あのお方を見てきたからな」


 リラは少しだけ視線を落とし、それから前を向く。


 ハルはもう扉の向こう側にいる。


 次に手にする武器は、自分で選び、稼いで、掴み取る。


 *


 冒険者ギルドの扉が開いた瞬間、ざわめきが波のように押し寄せてきた。


 外にあった埃と焼いた肉や魚の匂いが、扉を境にして、酒、汗、革や鉄の鎧、それから掲示板に貼られた羊皮紙の匂いへと変わる。


 昼を少し過ぎた時間だというのに、ギルドの中には人が多かった。


 依頼板の前には所狭しと冒険者たちが集まり、休憩用の長机ではパーティー内での報酬の分け前を話し、酒場では大きな笑い声を上げている。


 その騒がしさの中心に、ひときわ人だかりができていた。


 「おかえり、リーネ!」

 「心配したんだぞ! 風邪はもういいのか?」

 「俺、言ってくれれば、晩メシ作りに行くぞ」


 人の肩と肩の隙間から、淡い桜色の髪が見えた。


 冒険者を一番集めているのは、受付嬢のリーネだった。


 彼女はいつもの受付の内側ではなく、入口に近い場所で大勢の冒険者に囲まれていた。


 困ったように眉を下げ、けれど拒むことはせず、一人ひとりに向かって丁寧に頭を下げている。


 声をかけられるたびに、両手を胸の前で小さく揃え、何度も頷いていた。


 「は、はい……ご心配おかけしました。もう、大丈夫です」


 その言葉に、また周囲から安堵の声が漏れる。


 リラはその様子を横目で見ながら、冒険者を避けるように奥へ進んだ。


 隣にいるハルは、人混みを避けるというよりも、混ざるように自然と隙間を抜けていく。


 「……すごい人気ね」


 リラが小さく言うと、ハルは前を向いたまま、軽い声で返した。


 「受付嬢の鑑だな」


 言い方はいつも通りだったが、ハルの視線はリーネではなく、人だかりを覗いている。


 誰が何を見ているのか、誰が何をしようとしているのか、を笑っているような顔で、目だけはしっかりと働いている。


 リラの視線は自然と下に落ちていく。


 もう騎士ではない。


 以前は、問題を起こした冒険者を取り締まったり、王城から派遣され、渡された指示や手紙を読むために、ここに来ていた。


 今日は登録をしに来た一人の新人。


 その事実は、扉をくぐり、受付へ向かう数歩の中で、少しずつリラの肩を重くしていった。


 受付のカウンターの前にリラは立つ。


 ハルはその一歩後ろで足を止めた。


 冒険者登録をするのはリラのみで、ハルはただの付き添い。手伝いはするが助けはしない、それぐらいの距離で立っている。


 「……登録を、お願いしたいです」


 リラが言うと、受付の職員が一瞬だけ顔を上げ、彼女の顔を見た。


 名を聞く前に気づいただろうが、受付のプロとして、その表情は崩れない。


 「冒険者登録ですね。では、こちらにお名前と適性の記入をお願いします」


 ハルの方にも視線が向く。


 「そちらの方は?」

 「付き添い。俺は登録しない」


 受付の職員は小さく頷き、用紙を一枚だけ取り出してリラの前に差し出す。


 だが、周囲はそれだけでは終わらなかった。


 視線が、少しずつリラに集まってくる。


 最初は、新人が登録をしに来たことへの、ただの好奇心。だが、王都リュシアには近衛騎士の顔を知っている者は多い。


 《近衛騎士団第三団》は特に顔が割れている。


 王都の防衛に関わる仕事を受ける冒険者なら、なおさらだった。


 実際に、第三団と一緒に働いたことのある者もいれば、取り締まりにあったことのある者もいる。


 そして、リラに気づいた者から、その好奇心は”新人冒険者の登録”からやがて”別の形”へと変わっていく。


 「……あれ、元近衛騎士隊長じゃなかったか」

 「落ちた騎士だろ。クビになったって話だ」

 「賄賂もらって、貴族を逃してたんだろ、じゃあしょうがねぇよ」

 「女を使って、隊長まで上がったんでしょ? 貴族令嬢がそんなにお金欲しがるなんて、一体何に使ってるのかしらね」

 「あの顔と身体なら、俺がいくらでも払ってやるのに」

 「お前の収入じゃ、無理だろ」

 「《緋髪纏雷》も落ちたな」


 声は小さいが、聞こえないほどではない。むしろ、聞こえる程度に抑えられていた。


 正面から言うほどの度胸はない、しかし、黙っているほど善良でもない。


 その半端な者たちの声が、ギルドのざわめきの内容を”リーネの復帰”から変えて、リラの背中に覆いかぶさってくる。


 リラの肩が、ほんの少しだけ強張った。


 書類を受け取った手が震えるのを抑えるために、紙の端を強く押さえる。


 もう片方の手は自然と腰へ行きかけ、そこに何もないことを思い出したように止まった。


 こうなることは、分かっていた。


 近衛騎士として働いた実績があればある程、酒のつまみとしての価値も上がる。


 ”落ちた”、このひと言が理解しやすく伝えやすい、そして事実よりも面白い方に人の興味は向かう。


 リラは震えそうになる手で、紙の端を押さえたまま、小さく息を吐いた。


 ハルは前を向いたまま、いつもの声の重さでリラにそっと呟く。


 「気にすんな」


 リラは唇を噛み締めたまま、返事をしない。


 「事実として、近衛騎士の中には、冒険者を見下す連中が多い」


 ハルの声は淡々としている。


 「だから逆もある。冒険者が近衛騎士を嫌うのは、別に不自然じゃない」


 リラの手が、紙の端から少しだけ離れた。


 「今は、立場が変わっただけだ」

 「……分かってる」


 リラはゆっくりと息を吸ってから、短く答えた。


 だが、分かっていることと、何も刺さらないことは違う。


 団長や親、兄姉から受けた叱責よりも、こうした半端な声の方が、かえって胸の内側を傷つける。


 聞いているだけで、自分の今の立場を何度も知らしめてくる。


 その時だった。


 ギルドの扉が、再び開いた。


 外の陽の光がギルドの中へ差し込んできて、入口近くのざわめきが少しだけ変わる。


 室内の視線が、ゆっくりと入口へ吸い寄せられていった。


 酒場の笑い声が一瞬だけ止まり、依頼板の前で紙を剥がしかけていた冒険者の手が止まる。


 羊皮紙が一枚だけ、床に落ちた。


 入ってきたのは、二人と一体。


 濃い墨色の衣を纏った青みがかった髪の男。


 音もなく寄り添う、静かな佇まいの濃褐色の衣の女、結い上げた髪は、湖の底のような色をしている。


 そして、男の肩に乗った金色の目をした小さな影。


 ゲドーマル。イバラキ。ノクティス。


 ギルドの空気は騒がしくならなかった。


 建物の扉が開いて、人が立っていた。たったそれだけのこと。


 それだけで、他は何も変わっていない。


 それなのに場の雰囲気が少し整った。彼がそこに立っただけで、冒険者たちが不用意に騒ぐのをやめた。


 ゲドーマルはゆっくりと中へ入ってきた。


 視線を順番に移していく。依頼板、受付、人だかり、長机、それから受付の前に立つリラを捉えた。


 一瞬、目が合う。


 リラはわずかに背筋を伸ばした。


 自分でも、なぜそうしたのかは分からないが、なんとなくその視線の前で、背を丸めたくなかった。


 大丈夫。ここに立つ覚悟は、もう決めた。


 ハルが隣でほんの少しだけ目を細めると、一瞬だけ口が開きかけたが、結局、何も言わなかった。


 代わりに、冒険者に向けていた警戒の線を少しだけ緩める。


 イバラキは入口をくぐった瞬間に、周囲を一瞥していた。


 ノクティスは肩の上で、きょろきょろと影の輪郭を揺らしている。


 酒場のテーブルの上の酒の入った木のジョッキに気づいたのか、長机の方へ細い影の手を向ける。


 ゲドーマルが反応し、そちらに足を向けた瞬間、イバラキの視線が刺さる。


 ノクティスはすぐに引っ込めた。ゲドーマルも足を受付に向ける。


 入口の近くにいて、冒険者に埋もれていたリーネもまた、ゲドーマルの姿に気づいた。


 冒険者に囲まれて胸の前で揃えていた指の力が少しだけ抜け、リーネの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 淡い桜色の髪の毛を揺らし、リーネがゲドーマルに向かってその場で頭を一度だけ下げる。


 ゲドーマルはそれを見て、わずかに頷いた。


 ギルドのざわめきが、少しずつ戻ってくる。


 さっきまでリラへ向けられていた半端な者の声は、完全に消えたわけではない。


 だが、リラの胸の内側を傷つける力は、もうない。


 リラは受付から渡された羽根ペンを使って名前を書く。


 リラ。


 自分で歩き出すための最初の一行。


 インクが紙に染みていく。


 ハルは黙って、それを見ていた。


 ゲドーマルは受付とは別の方へ視線を移し、リーネは自分を囲む冒険者たちへまた頭を下げる。


 イバラキはゲドーマルの一歩後ろに控え、ノクティスは小さく丸くなった。


 *


 王都から少し離れた森は、静かだった。


 木々の間を抜ける風には、湿った土と若い草の匂いが混じっているはずだ。


 枝の隙間から落ちる光は強すぎず、薬草を探すにはちょうどいい明るさ。


 時折、鳥のさえずりや虫の音が聴こえてくる。


 俺は籠を片手に持ち、足元へ注意深く視線を落としながら歩く。


 山にいた頃から、気分が落ち着かない時は、無心で身体を動かし続けてきた。


 無心で薪を割り続ける、洞窟御殿の周りに生えている雑草を無心で抜き続ける、採ってきた薬草を無心で纏め続ける。


 そういう小さな作業は、頭でこねくり回すのをやめ、五感や純粋な事実に立ち返るのに役立つ。


 出来るだけ大きく息を吸い、ゆっくりと吐く、そして、とりあえず、視る。


 地の底から吸い上げられた水が、茎を通り、葉の先から陽の光へと溶けていく。


 ……なぜか、いつまでも視ていたくなる。


 こういう作業は、嫌いではない。


 「……なあ」


 隣で屈んでいたハルが、ぼそりと言った。


 薬草の根元に指を添え、土を崩さないよう丁寧に引き抜いている。


 相変わらず、動きは軽く、無駄な力がない。


 「なんで俺まで来てるんだ?」

 「人手があった方が早い」


 俺が答えると、ハルは手元の草を籠へ入れながら、こちらを見ずに言った。


 「それ、俺じゃなくてもよくないか?」


 その言葉に答えたのは、イバラキだった。


 「ハルは手が器用です」


 イバラキは少し離れた場所で、慣れた手つきで、当然のように薬草を摘んでいた。


 草を見分け、根元を押さえ、必要な分だけ抜き取る動きに余計な間がない。


 ハルは腰を落としたまま、少しだけ顔を上げた。


 「……そうですか?」

 「はい。今の抜き方も、問題ありません」


 イバラキは見たものを、ただの事実として正確に言っただけだ。


 それでもハルの口元が、ほんのわずかに緩んだ。


 「……褒められた気がします」

 「事実ですので」


 イバラキはそれ以上続けず、次の草へ手を伸ばした。


 ハルは少しの間だけ、その横顔を見ていた。


 何かを言い返そうとしたのかもしれないが、結局言葉にはしない。


 それでも、先ほどよりも目つきは真剣になり、土を払う仕草が少し丁寧になった。


 少し離れた場所で、リラは屈みながら、眉をひそめていた。


 「……これ、どっち?」


 似た形の葉を、指先でつまんでいる。


 近衛騎士の頃とは服装も違うが、背筋は森の中でも真っ直ぐだった。


 ただ、指先だけが少し慎重すぎる。


 剣を握る時の力強さとは違い、草に触れている時の目に落ち着きがない。


 俺は近づき、彼女の手元を覗き込んだ。


 「縁の色を見ろ。薄い方だ」

 「……あ、ほんとだ」


 リラは素直に頷き、言われた通りに根元へ指を添えた。


 俺は少しだけ手を止めて見ていたが、リラはすぐに加減を覚えたらしい。


 リラは真剣な眼差しで、土を軽く崩し、根を切らないようにそっと引き抜く。


 「慣れると、匂いで分かる」

 「冒険者の先輩みたいな言い方ね」

 「薬草採取が長いだけだ」

 「ゲドーだって冒険者になって、そんなに経ってないでしょ?」

 「お前が生まれる前からやっている」

 「え?」

 「……冗談だ」


 そう答えると、リラは一瞬だけ手を止め、俺を見るが、すぐに視線を逸らした。


 それから、抜いた薬草を籠へ入れながら、小さく言った。


 「……ありがとう」


 声は小さく、森の風に紛れてしまいそうなほどだったが、届いた。


 頬がわずかに赤く、唇を少し噛み締めている。


 礼を言うことそのものに慣れていないのか、それとも今の自分が誰かに教わっていることが、少しだけくすぐったいのか。


 俺は何も言わず、別の草へ視線を戻した。


 ハルが薬草を採る手を止め、俺を見ている。


 「ゲドーマル、絶対分かってないよな。まぁ、俺としては、その方がいいけど」


 肩の上で、ノクティスが小さく揺れ、影の輪郭がふわりと丸くなる。


 俺の頬の近くで何かを確かめるように小さな手を伸ばしかけ、リラの方を見ているような形になり、すぐにまた俺の肩へ収まった。


 土を踏む感触があり、草を摘む音があり、誰かが籠へ薬草を入れる小さな音がある。


 少しだけ気分が落ち着いてきた。


 だが、風の流れが変わった。


 木々の間を通っていた風が、一度だけ行き先を迷ったように揺れた。


 先ほどまで、たまに聴こえていた鳥や虫の音が止まる。


 俺の肩の上にいるノクティスが、ぴたりと動きを止めた。


 さっきまで柔らかく揺れていた影の輪郭が、小さく固まり、形を保ったまま、じっと森の奥を向いていた。


 同時に、イバラキが顔を上げた。


 手は草に添えられたままだが、視線だけが先に動く。


 「……来ます」


 低い声だったが、この場の全員の耳にちゃんと届く。


 ハルの指が薬草から離れ、何気ない動きで腰の小太刀の位置を確かめる。


 リラは立ち上がった。腰に剣はなく、服装もただの私服。けれど、足の置き方だけはもう戦う者のそれに戻っていた。


 俺は籠を持ったまま、森の奥へ視線を向ける。


 木々の向こうから、軽い足音がする。しかし、その足音には迷いがない。


 姿を現したのは、一人の女だった。


 装飾は少なく、旅人や冒険者のものに近い服装。


 手に何も持たずに、森の中を突き進んできたはずなのに、衣の乱れが不自然に少なく、髪の流れが崩れていない。


 黒に近い深い紫色の髪が肩にかかり、胸元では小さな魔石がひとつ、かすかに揺れている。


 「どういうことだ。服装や髪に乱れがなさすぎる」


 腰の小太刀に触れたまま、ハルが小さく呟く。


 女は俺たちを見て、微笑んだ。


 「あら」


 取ってつけたような柔らかな声。


 まるで、夜更けの水面に月だけが浮くように、周りに馴染む気のない声だった。


 「薬草採取? ずいぶん平和ね」


 その透き通るような視線が、こちらを一人ずつ順番に測っていく。


 ハルで口元が動き、リラで目の色が変わり、イバラキの前でだけ少し止まった。


 ノクティスを見た瞬間、肩の影がぴくりと縮む。


 最後に、その目が俺で固定される。


 「あなたが、ゲドーマルね」


 すでに俺のことを知っていて、ただ確認のためにだけ口にした響きがある。


 「探したわ……聞いたところによると、もっと森ごと揺らすような人だと思っていたのだけれど。こうして見ると、ずいぶん静かね」


 森の空気が、静かに張りつめる。


 まだ、何も起きていないというのに、湿った土と薬草の青さに混じっていた穏やかな匂いは、いつの間にか遠のいていた。


 俺は籠を地面に置いた。薬草が中でかすかに擦れる。


 「……用件を聞こう」


 カルミラは人差し指を唇に当て、楽しそうに目を細めた。


「ええ。ちゃんと、お話ししましょう」


 柔らかい声のまま、彼女は一歩も近づかない。


 踏み込まなくても、すでに場の温度が彼女の方へ傾いている。


 ハルの呼吸が少しだけ浅くなり、リラの足が半歩だけ下がる。


 イバラキはいつの間にか俺の斜め後ろへ立っていた。


 ノクティスの影が、俺の肩の上で小さく丸くなる。


 どうやら……出かけても、留守番をしても……結局のところ、厄介ごとは向こうから来るらしい。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ