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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第2章 世界の正体をみる
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第12話 留守番


 洞窟棲家の奥、天井が開けていて吹き抜けになっている場所、そこに朝の陽の光が優しく差し込んでいる。


 そこには、イバラキによって《天穿ちあまうがちにわ》と名付けられた、洞窟内にもかかわらず”中庭”と呼べる場所があった。


 その《天穿ち庭》に面した、回廊で俺は立っていた。


 いつもなら、そこには匂いがある。


 湿った石の匂い、囲炉裏で燃えた薪の匂い、誰かが淹れた茶の残り香、イバラキが磨き上げた床のわずかな木の匂い。


 吹き抜けから風が入れば、畑の土や若い草の青さまでが入って来る。


 「……匂いを感じない」


 匂いが消えたのではなく、俺の方がそれを拾えていないのだろう。


 中庭を眺めているつもりでいたが、景色を楽しめてはいない。


 俺の視線はどこにも焦点が合わず、ただ外の明るさを眺め、胸の奥の鈍い痛みだけを、ぼんやりと感じ取っていた。


 頭の中では、あの声がまだ残っている。


 『私、あなたとはもう居たくない』


 タマの突然の降って湧いたようなひと言。


 言葉としての意味は分かる。


 誰かと居たくないという言葉が何を示すのか、そんなものは誰にだって理解できる。


 けれど、これまでのタマとの関係を思い出すたびに、その言葉は胸の中で形を変え、受け取ろうとすると胸の奥が詰まる思いがする。


 考えないようにすると、なぜかもっと深い場所が静かに痛む。


 俺の肩に、ふわりと軽い重みが乗った。


 ノクティス。


 小さな影の身体は、俺の肩の上をゆっくりと動き、そのまま俺の首元へそっと猫のように寄ってきた。


 直垂の上で丸くなると、その小さな影の手が俺の頬に触れ撫でてくる。


 こちらを見上げる金色の目には、言葉を持たないものなりの気遣いが感じられる。


 ……慰められているのか。


 そう気づいた瞬間、俺は短く息を吐いた。


 「……情けないな」


 背後で、先ほどから布の擦れる音がする。


 イバラキ。


 振り返らなくても分かる。足音はないが、箒で床を掃く音や、棚の上の道具を一つずつ整える小さな音が、彼女のいる場所を知らせていた。


 洞窟棲家の一室で、いつも通りに掃除をしているのだろう。


 誰かの気持ちが沈んでいようと、誰かが立ち尽くしていようと、埃は隅に集まり、汚れは溜まる。


 イバラキはそういうものを放っておかない。


 箒を使って、急がず、力むこともなく、慣れた手つきで一定の早さを保ちながら、床の目に沿って埃を集めていく。


 余計な音を立てないその規則正しさを、なんとなく背中で聞いていた。


 聞いているうちに、かえって自分だけがこの場所に取り残されているような気がして、俺は中庭に向けた視線を動かせないまま立っていた。


 やがて、箒の音が止まった。


 「……お館様」


 イバラキの静かな声が、背中に届いた。


 「そこに立たれていますと、掃除が進みません」


 イバラキの言っていることは至極真っ当だった。


 けれど、そのまっすぐさが今は妙に冷たく聞こえて、俺は外を見たまま、低く返した。


 「……ずいぶん、冷たい言い方だな」


 口にした瞬間、拗ねていると言うことが自分でも分かった。


 自分で気づいていながら、吐いてしまった言葉を引っ込めることもできず、俺は洞窟の上から差し込む光を見続けた。


 イバラキはすぐには答えるわけでも、ため息を吐くわけでもなかった。


 かといって、こちらへ歩み寄ることもなく、箒を握ったまま立っている気配だけが背後にある。


 その沈黙が、肩に重くのしかかり、呼吸がしづらくなる。


 「そのように聞こえたのであれば、申し訳ありません」


 やがて返ってきた声はいつも通りの声の重さだった。


 「ですが、私の言い方が冷たいのではなく……今のお館様が、そう受け取っておられるのだと思います」


 正しい。正論だ。


 俺は何も言えず、視線だけを日差しの明るさへ向け続けた。


 「……優しくないな」


 ぽつりと零れた声は、自分でも聞きとれないほど、か細かった。


 肩の上で、ノクティスが小さく首を傾げる。


 影の耳のような輪郭がぴくりと揺れ、俺の眼を覗き込むように身を乗り出した。


 その俺を心配する仕草があまりにも真面目で、かえって何も言えなくなる。


 イバラキは箒を壁へ立てかけた音がして、この場の空気が少し変わる。


 彼女は近づいてこなかった。


 距離は保ったまま、ただ身体をこちらへ向け、視線だけを真っ直ぐに据えたのが背中越しに分かった。


 「お館様」


 「……なんだ」


 「タマの言葉を、そのまま受け取る必要はございません」


 慰めや俺を鼓舞する言葉ではなかった。


 イバラキはいつもそうだ。


 俺が聞きたい言葉ではなく、必要だと思ったことを、そのまま伝えてくる。


 「本心ではない、とは申しません。しかし、“本来の意志”とも限らない」


 「……洗脳だとか、暗示だとか、そういう話か」


 「ええ」


 イバラキは静かに頷いた。


 「“血の血統”とかいわれるものたちが使う異能は、言葉や感情をその場で直接ねじ曲げるものではないのでしょう。もしそうであれば、もっと乱暴で、もっと跡が残ります」


 その言葉に、俺の指先がわずかに動いた。


 イバラキは続ける。


 声は淡々としているが、言葉の一つひとつが、刀の刃のように研ぎ澄まされていた。


 「おそらく、判断の前提をずらすのです」


 「……前提」


 「はい。“こう感じるのが自然だ”、“こう選ぶのが正しい”、そう思わせるだけで、人は自分の意志だと信じてしまいます。糸で手足を引くのではなく、歩くべき”道の見え方”を変える。そういう類いのものではないかと」


 俺の胸の奥に溜まっていた重苦しい空気が、ほんのわずかに動いた。


 イバラキの言葉は、この世界の魔導師の理屈とは違った。


 彼女はこの世界の魔法を学問として知っているわけではない。


 けれど、人がどう縛られるか、どう自分を縛るかは知っている。


 命令、忠義、恐れ、恩、誇り、噂、そして、”決めつけ”。


 形のないものがどれほど人の思考を変えるかを、彼女は俺よりも細やかに見て、”感じる”。


 「”玉藻”は、強い」


 イバラキは少しだけ間を空け、続ける。


 「お館様と一緒に居ると気分が悪くなる、そう見せられたとすれば、これ以上、お館様を嫌いにならないために、好きでいるために、離れようとするでしょう」


 俺は自然と腰に在る徳利を手で撫でた。


 「強いからこそ、心配するほどに、大切にしようとするほどに……“離れる”という選択肢が、正しいものとして浮かび上がる」


 ようやく、俺はゆっくりと振り返った。


 洞窟の薄暗がりの中で、イバラキはいつもの場所に立っていた。


 濃褐色の衣は相変わらず乱れておらず、その目だけが、わずかに深い色を帯びている。


 「……それでも」


 俺は言葉を選ぶのに、少し時間がかかった。


 「あれが本心じゃないと……俺は、言い切れない」


 イバラキはすぐには答えず、ほんの少しだけ目を伏せる。


 その動きは、俺の言葉を退けるのではなく、一度、俺の意見をそのまま受け取るため。


 「そうでしょうね」


 彼女は静かに言った。


 「それでよろしいかと」


 「……よろしいのか」


 「はい」


 イバラキは俺の眼をしっかりと見る。


 「信じる、というのは“疑わないこと”ではありません。疑いがあるなら、そこに蓋をするより、確かめた方がよろしい」


 洞窟の中庭で、風が一度だけ葉を揺らした。


 「信じられないと感じるなら、確かめに行けばよろしいのです」


 「……会いに行け、と?」


 「はい」


 どこまでも簡潔な答えだった。


 「言葉ではなく、距離でもなく……“在り方”を見れば、分かります」


 その瞬間、俺の肩からノクティスがふわりと飛び立った。


 小さな影は空気を掻くように宙を進み、くるりと一度、俺の目の前で回った。


 まるで今のイバラキの言葉に同意するように、影の輪郭が一度だけ小さく膨らむ。


 それから洞窟の出入り口の方角へ進み、途中で振り返った。


 影に浮かぶ金色の目の中に、小さな光がある。


 来い。


 言葉はないが、そう言っているのがわかる。


 だが、一歩踏み出そうとするたびに、もう一歩分だけ足が重くなった。

 

 会って、もし……確かめて、もし……。


 その先に続くものを考えた途端、足が重くなる。


 鬼になる前、寺で経を写した頃、一字書き損じると最初から書き直しだと言われた。


 書き始める前の、筆を持ったまま止まっているあの時間が、一番長かった。


 始めてしまえば、もう戻れないと知っていたから。


 ノクティスはもう一度、身体を上下に揺らした。


 それでも俺が動かないのを見ると、影の輪郭がぺたりと床に落ち、ため息のような小さな鳴き声を漏らした。


 「……お館様」


 イバラキの声にも、わずかに呆れが混じった。


 「動かれないのであれば、少なくとも、掃除の邪魔はなさらないでください」


 何も言えなかった。


 ノクティスは翼をたたみ、俺の前に降り立つ。


 小さな身体を見上げるように反らし、じっと俺を見てくる。


 その視線は責めるというより、どうしてまだ動き出さないのだ、と不思議がっているようだった。


 イバラキは再び箒を手に取った。


 布が擦れ、竹が床を撫でる音が戻ってくる。


 俺が動けずにいても、箒は動き、床の埃は寄せられる。


 「本当に離れたいのであれば__」


 背を向けたまま、イバラキは静かに言った。


 「タマは“理由”を口にされます」


 一定の早さで動いていた箒の音が、ひと掃きだけ止まる。


 「理由がないままの言葉は……往々にして、外から与えられたものです」


 それだけ言うと、掃除の音はまた規則正しく響き始めた。


 陽の光は変わらず洞窟の吹き抜けから差し込み、岩肌を白く照らしている。


 その光の中に細かな埃が浮かび、イバラキの箒がそれを少しずつ脇へ追いやっていく。


 ノクティスは俺の足元で丸くなりかけ、しかしすぐに思い直したように起き上がって、また出口の方を見た。


 進むべきなのは、分かっている。


 洞窟棲家の奥で、掃除の音だけが淡々と続く。


 ノクティスの小さな影と、イバラキの背中から滲む「やれやれ」という空気が、ゆっくりと、しかし逃げ場なく洞窟の中に満ちていった。


 *


 王城の奥。


 厚い石壁が外の喧騒を完全に断ち切り、その一室には限られた人の気配だけがある。


 香は焚かれていない。


 余計な匂いを嫌うのは国王自身の意向であり、この部屋に入る者はそれを弁えている。


 机の向こうにワイスは立っていた。


 そして部屋の中央に、”国王”に跪かない者がいた。


 旅人の外套にくたびれた革靴、顔立ちも声も、翌朝には思い出せないほど地味だ。


 それなのに、今現在、そこにいるという事実だけが、現実より重くそこに在った。


 「久しいな、ワイス王」


 声は低く、静かに言葉が置かれる。


 ワイスは王座に腰を下ろした。


 この男と向き合う時、少なくとも高さだけは譲れない。


 心理的な優位などというものは脆いが、それでも手放すことができない。


 玉座の背もたれに身体を預け、指先だけを肘掛けの上に置いた。


 「……ああ」


 《天網の狂帝》ガグンは、興味なさそうに室内を一瞥した。


 視線が石壁、天井と流れ、最後に窓の外へと抜ける。


 石壁の向こうに誰が隠れているかを見るように、あるいはすでに知っている上で確認する仕草を見せつけるように。


 「第四団がよく働いているようだな」


 それだけで、巡道教の”聖女”の件だということがワイスには分かった。


 「……王都に聖女が来ると知っていたのだな」


 ガグンはわずかに口角を上げた。


 それが笑みなのかどうか、判断する前に次の言葉が来る。


 「"留まっている"な。逃げも隠れもしていない。本気で《魔王》を狩りに来ている」


 ワイスの喉が、「くくっ……」とかすかに鳴った。


 「第四団は情報収集部隊として正常稼働中だ。聖女セレスティア、確かに王都にいる」


 第四団に聖女を監視させていることに気づかれたことに驚きはなかった。


 それでも、玉座の肘掛けを握る指先に、知らぬ間に力が入っていた。


 「それと」とガグンは続ける。声の温度は変わらない。


 「いつまでも"あれ"を放置していると、いつか自分の首を絞めることになるぞ。金よりも価値のあるものに目を向けろ。司教や貴族などに振り回されるなよ」


 じっとワイスの目を見る。


 「まさか、お前が貴族も平民も同じ人だとか抜かすのか」


 ガグンはそれには応えず、視線を移す。


 部屋の隅、控えるように立つ男へ。


 近衛騎士団第一団団長、グラウ・アイゼン。


 腰に差した剣から、静かだが確かな魔力が滲んでいた。


 王から下賜された宝具だ。一度、敗北を喫した男へ、それでも立てと言うように渡されたもの。


 グラウはその剣に触れもせず、ただ壁と同じ密度でそこに在った。


 「……ほう、以前より随分と"整った"な」


 褒め言葉だったが、声に感情は乗っていない。


 グラウは一礼した。背筋の伸び、角度、全てが近衛騎士として過不足のないもの。

 

 「務めを果たしているだけです」


 「それで十分だ」


 ガグンは必要な確認が終わったように、視線をワイスへ戻す。


 「少しばかり王都周辺が騒がしくなる」


 声の重さは変わらずに淡々とした宣告だった。


 「選別を加速させる。どうやら時間がない」


 ワイスの背筋が、ほんのわずかに固まった。


 「戦士が要る。それと、帝国の勇者は予想以上だったよ。レグナももう少し戦力を固めたほうがいいな」


 まるで天気の話をするように続ける。


 「優秀な者ではない。生き残る者でもない……"踏み出す者"だ」


 ワイスには、その意味が分からなかった。


 分からないまま聞いている自分に気づき、口を閉じた。


 「面白い連中が、王都に集まり始めている。放っておくのは惜しい」


 ガグンは外套の裾をわずかに整え、最後に付け加えた。


 「それと……ヴァンパイア共がうろついている。自分を守りたいのなら、警戒は怠るな」


 ワイスは即座に頷いた。


 「わかっている。第三団団長ヴァルクス、ならびに同団の謹慎を解除する。王都周辺の見回りを即時強化させる」


 言い切った後、ほんの一瞬だけ言葉が詰まった。


 本当に、それでいいのか。


 玉座の肘掛けを一度だけ指が叩き、ワイスはゆっくりと息を吐いた。


 ガグンはその様子を黙って見ていた。


 「帝国の動きは引き続き、こちらで抑えておこう」


 それだけ言い残し、ガグンは踵を返した。


 歩く音が静かで、足音が廊下へ消えてからも、扉の前の空気がしばらく重いままだった。


 部屋に残ったのは、何かが決まったという感触だけだった。


 ワイスはゆっくりと立ち上がった。


 「……備えを進めよ」


 それが誰に向けた命令だったのか、彼自身にも、もう分からなかった。


 *


 森を抜けると、街道の音は少しずつ遠ざかっていった。


 人や馬車が踏み固めた大きな道から外れ、木々の間へ続く細い道へ入ると、そこにはもう石畳も轍もない。


 ただ長い年月のうちに誰かの足で押し固められた土と、ところどころ地表へ浮き上がった木の根だけが伸びていた。


 地図にすら載らない道。


 知らない者が見れば獣道と見分けもつかない。


 けれど、その険しいのに頼りない細さが、かえってエルフの国へ向かう道なのだと告げているようでもある。


 先頭を歩くのは、ドゥール。


 背は高くないが、工具と魔道具を収めた鞄を背負い、外套の裾を揺らしながら進むその歩き方には、道に迷うことなく進んでいく。


 無理に急がず、足で土の状態を確かめながら一定の歩調で前へ進んでいく。


 ときおり腰の工具ベルトの金具が小さく鳴り、その音が、森の奥へ向かう一行の目印となっていた。


 その少し後ろを、レオンが歩いている。


 槍を片手に、門前に立っていた頃の癖なのか、視線は自然と左右へと向けられている。


 さらにその隣にアルティシアがいて、旅装の外套を纏った姿は王女というより一人の若い女性の旅人に近い。


 それでも背筋は崩れず、足を一歩踏み出すたびに衣の裾が静かに揺れるが、決して乱れたりはしない。


 彼女の一歩後ろには、アウルがいた。


 水色の髪を持つ少年の姿で何も言わず、ただ時折振り返り、タマから離れすぎないよう調整をしながら歩いている。


 風がたまに吹いても、アウルの周りだけ流れる空気が少し柔らかく、木の枝や草も彼を避けて通っているように見えた。


 そして最後尾にタマがいる。


 人族の軽装のまま、普段の生活と比べて少しだけ歩幅を抑えて進んでいた。


 足音は小さく、冒険者の斥候として森を歩き慣れた者の足取りで、湿った土の上に跡を残さない。


 だが、ふとした拍子に彼女の手が胸元へ近づき、外套の布を軽く掴んでは離すのを、レオンは何度か見ていた。


 タマの後ろに在るはずの存在……ゲドーマルがいない。


 それを、ここに来るまで誰も口には出さなかった。


 しばらく進んだところで、ドゥールが足を止めた。


 合図はなかったが、一定だった歩調が止まったことで、後ろの者たちも自然と足を止める。


 ドゥールは外套の内側へ手を差し入れ、小さな魔道具を取り出した。


 それは、手のひらに収まるほどの水晶で、内部には普通は透明なはずの奥行きの中に細い金属線が幾重にも仕込まれている。


 光を受けた表面が淡く光り、彼が親指で縁の凹凸の一部を押すと、水晶の奥に小さな波紋が走った。


 「……接続、確認」


 低い声で呟くと、ドゥールは水晶へ微量の魔力を流した。


 水晶の内側を巡る光は派手ではなかった。


 水面へ落ちた一滴が輪を広げるように、淡い青白さが内部からゆっくり満ち、やがて中央に細かな波が生まれる。


 『……あ……あ……、こちら、アウレオン。聞こえるか』


 水晶から声が響いた。


 森の中に、そこにいない男の声がはっきりと落ちる。


 レオンはアルティシアが目を見開くのを初めて見た。


 「な、何ですか、それ……?」


 思わず漏れた声に、ドゥールは水晶から視線を外さないまま答えた。


 「携帯型の通信水晶だ。距離制限はあるが、今は問題ない」


 あまりにも平然としていた。


 「……そんなものが存在するなんて。王城ですら、遠方との連絡は大掛かりな水晶や専門の魔導士を何人も介して行うものです」


 それが今、ドゥールの手のひらほどの道具から、何事もないように声が届いている。


 「俺が作ったものだ。一般には回らない。それにこれより少し大きくて携帯はできないが、巡道教にもせがまれて作ってやったことがある。あっちの方が距離は長い」


 それだけ言うと、ドゥールは水晶へ短く応答した。


 アウレオンの声がさらに何かを告げ、ドゥールは数度頷き、返事を繰り返しながら必要なことだけを確認していく。


 会話は長くなかった。互いに無駄を省いたやり取りで、森の奥に待つ者とこれから向かう者との間に、道が繋がれる。


 アルティシアは言葉を失ったまま、その水晶を見つめていた。


 「ドゥールさんの手にかかれば、王城の書庫にも、議会の記録にも、正式な魔道具目録にも載らない技術も個人で使用できるんだから、信じられないですよね」


 レオンが未だにその場で固まっているアルティシアに話しかける。


 「世界は私が知っているよりもずっと進んでいる。人は必要に応じて道具を作り、道具は知らぬ間に世界の距離を縮めている、それが知れただけでもいい勉強になりました」


 アルティシアは視線を自分の手のひらに移しながら、レオンに答える。


 通信を終えたドゥールが水晶をしまい、再び歩き出そうとした。


 その時、レオンが、ふと後ろを振り返りタマを見る。


 一度だけ息を吸って、それから口を開く。


 ずっと飲み込んでいたものが、我慢の限界を超え、ようやく言葉として口から溢れ出てくる。


 「……なあ、タマ」


 タマが足を止めかけ、少しだけ首を傾げた。


 「ん? 何? レオンさん」

 「俺さ__」


 眉を寄せたレオンは、そこで言葉を選び、慎重に質問する。


 「タマは、ゲドーマルのことが好きだと思ってた」


 森の空気がわずかに止まり、音が消えた。


 葉擦れの音が消えたり、鳥が鳴きやんだなんてことはない。


 けれど、全員の耳がその会話に集中し、他の音をそれぞれの耳から遮断した。


 タマは笑顔ですぐに答えた。


 「うん。好きだよ」


 想像していたものとは違い、あまりにも自然で、あまりにも真っ直ぐな答え。


 ゲドーマルの名を出された時に耳まで赤くなるような、いつもの小さな照れすらない。


 レオンの眉がさらに深く寄る。


 「……じゃあ、何で今回は留守番なんだ?」


 これまで重さを感じさせなかったタマの足が、その場に止まる。


 レオンは門番だった頃のように、一挙一動を見逃さないよう、タマの表情の動きを測りながら続ける。


 「心配だから、だろ。ゲドーマルを危ない目に遭わせたくないとか、一緒にいると何かが起きるかもしれないとか……そういうことなんだろ?」


 タマの外套の胸元に触れていた指が、布を軽く掴む。


 強く握っているわけではないが、その指は一度掴んだまま、なかなか離れなかった。


 「……それは……」


 タマの胸元を押さえた指が、布の上でわずかに動いた。


 「ただ……何となく」


 言葉として口にすることが苦しそうに、タマは言った。


 「一緒に行動することに嫌悪感を感じる、気がする。近くにいればいるほど嫌になる、気がする。だから、離れていたほうがいい、と思う」


 その瞬間、全員が気づいた。


 ”気がする”。


 説明も理屈もない、にもかかわらず、タマの声はそれを受け入れて、”そういうもの”として口にしている。


 自分で決めたと思っている。


 感情が壊れた訳ではなく、今まで通りゲドーマルへの好意も消えていないのに、選んだ道だけが、知らぬ間に別の方角へ傾けられている。


 アルティシアはその綺麗な顔を苦虫を噛み潰した表情に変え、静かに息を吸った。


 姿勢は変わらず崩れてはいないが、指先は外套の袖口を軽く押さえている。


 「……レオンさんだけではなかったですね。間違いなく、タマさんもヴァンパイアの暗示にかかっています」


 タマは一瞬だけ目を点にして、すぐに首を振った。


 「違うよ。私、ちゃんと分かってる。ゲドーマルのことは大切だし……今も変わらない」


 レオンの目には、タマが嘘をついている様子は感じ取れない。


 だからこそ怖かった。


 タマの中には、確かにゲドーマルがいる。


 そこに触れれば温もりもあり、名を呼ばれれば胸が震える。


 それなのに、彼の傍に在るという選択だけが、遠ざけられている。


 「感情は残っています」


 アルティシアは袖口を押さえていた指にわずかな力を込めたまま、静かな声で淡々と続けた。 


 「好意も、信頼も、絆も……変わらずに。ただ……"選択"だけが歪められている」


 その言葉が、細い道の上に重く落ちた。


 レオンが奥歯を噛みしめた。


 「俺の時と、同じだ……」


 自分では正しいと思っていた。疑わなかった。疑う理由すら浮かばないほど自然だった。


 けれど後から説明されれば、そこには誰かの都合が混じっていた。


 その気持ち悪さは、外から操られる恐怖よりもずっと深い。


 自分の足で歩いていたはずの道が、いつの間にか他人の手で敷かれていたと知る感覚だった。


 今でも、あの紫の髪の男に会えば、殴りかかってしまう気配を消すことが出来ないでいる。


 タマは立ち止まったまま、俯いた。


 森の細道の上で、彼女は止まったままでいる。


 アウル=ヴェイルもすぐそばまで近づき、何も言わずにタマの袖へ手を伸ばしかけたが、触れる直前で止めた。


 タマは俯いたまま、表情を変えずに胸元を押さえた手も動かない。


 レオンには、その手の意味が分かったような気がした。


 そこに何かを確かめるように触れて、離せないでいる。


 息も浅いまま、肩が小さく上下するだけで、いつもの軽さがどこにもない。


 斥候として森を歩く時のタマは、足音すらほとんど消して周囲を警戒するはずなのに、それが今は、自分の足元すら見ていなかった。


 俯いた顔は、レオンからは半分しか見えない。


 それでも分かった。何か大切なものを探そうとして、探すことすら出来ないでいる。


 タマは顔を上げなかった。唇だけがわずかに動いて、声にならないまま閉じた。


 レオンは奥歯を噛んだ。何か言えばよかった。言えるはずだった。


 しかし、喉の奥で言葉が形を失う。今のタマには何を伝えても届かない気がした。


 ドゥールが低く息を吐き、工具ベルトの金具がわずかに鳴る。


 彼は魔道具を取り出すこともせず、ただタマを見ていた。


 技術者の目で何かを測ろうとしても、そこにあるのは器具で検出できる単純な異常ではない。もっと深い場所へ入り込んだ歪みだった。


 整えた髭の端に指が触れ、すぐに離れた。


 「……ここまで、深いのか」


 ドゥールの声は重かった。


 「奪われた自覚すら、ない」


 アルティシアが目を伏せた。


 「これが……ヴァンパイアの始祖の暗示です」


 その声は静かだったが、彼女自身にも刃のように返っているのが分かった。


 レオンはもう一度、俯いたまま動けないでいるタマを見た。


 息苦しそうなのに、その理由に気づいていない。


 大切なものを失ったわけではないと、自分の内側が告げているから、苦しいとすら言えない。


 それが一番たちが悪いと、レオンには分かった。


 傷ついていると叫べるなら、まだ楽だった。気づかないまま、正しいと思いながら、遠ざかっていく。


 森の道は、まだ先へ続いている。


 エルフの国へ向かう細い道は、落ち葉と木の根の間を縫いながら、静かに奥へ奥へと伸びていた。


 ドゥールが再び前を向く。


 レオンは一度だけタマを見て、それから唇を引き結んだ。


 アルティシアは袖口を押さえていた指を離し、アウルはタマの半歩内側へ立つ。


 タマは少し遅れてようやく顔を上げたが、笑おうとはしなかった。


 ただ、歩くために足を前へ出した。


 誰の歩幅も、先ほどよりわずかに速くなっていた。


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