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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第2章 世界の正体をみる
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第11話 奪われたもの


 朝日が昇り始めていたが、光は路地の奥まで届かない。


 王都の外れの区画。


 石畳の隙間をネズミが走り抜け、路地の隅ではカラスがゴミをつついている。


 建物は古く、欠けた石畳が続くこの区画を、治安がいいと言う者はいない。


 安い宿の一室。古い窓枠が隙間風に鳴り、薄い壁越しに隣の部屋の音がくぐもって聞こえてくる。


 ベッドの上に、リラは腰掛けていた。騎士の服ではなく、ただの私服。


 背筋だけは伸びているが、立ち上がろうとはしない。


 膝の上で組んだ手が、静かなままそこにある。


 コン、コン、コン。


 控えめなノックの音がした。


 リラは顔を上げたが、返事をしなかった。


 しばらくして、鍵のかかっているはずの扉が軋みながら開く。


 「……おはようさん」


 入ってきたのは、ハルだった。


 いつも通りの軽い足音で、いつも通り嘘っぽい笑顔を浮かべている。


 ただ、その目だけは笑っていない。部屋の中を、目だけで素早く見回した。


 「カギ、かけてたはずなんだけど」


 リラが顔だけハルに向けて、静かに言う。


 ハルは肩を大袈裟にすくめた。


 「こんなの、カギとは呼べねえ代物だ。二秒で解錠出来た。本気で安全を確保するなら、もっとマシなとこに泊まれ」


 声音は淡々としている。


 「……他の宿は、全部断られた」


 リラは視線を落としたまま言った。


 「……騎士を”剥奪”されたから」


 ハルは黙り、それ以上は突っ込まなかった。唇の端を噛み、視線を斜め下に落とす。


 部屋の隅へちらりと目を向けると、そこには剣が壁に立てかけられている。


 ずっと腰に在った物ではなく、どう見ても安い粗悪品が、ベッドに座るリラの手の届かない場所に置いてある。


 ハルの視線はすぐにリラに戻った。


 「朝だ。飯、行くぞ」

 「食欲、ない」


 ハルは眉をひそめ、腕を組む。


 「早く、立ち上がれ」


 一歩、床を踏み鳴らした。


 「立たねえなら……この宿ごと、吹き飛ばす」


 声に熱はなかった。だからこそ、本気かどうかを測る物差しがどこにもない。


 膝の上で組んだ指が、ほんのわずかだけ強張った。


 そういえば、ハルが過去に任務中に、激怒して対象の宿を吹き飛ばしたことがあるのを、リラは聞いた事があった。


 ハルが宿を壊せば、こんな自分を泊まらせてくれている、あの無愛想な老婆にも申し訳が立たない。


 それに、ここが無くなると、本当に寝る場所がない。


 少しの間、リラは自分の組んだ指を見ていたが、じきに小さく息が漏れた。


 「……分かった」


 ゆっくりと立ち上がると、ベッドがまた軋んだ。


 ハルはそれを確認しながら、何も言わずに待っている。


 「……着替えたいんだけど」


 ハルは踵を返し、ヒラヒラと手を振る。


 「外で待ってる」


 それだけ言って、扉を閉める。


 足音が廊下を遠ざかっていくが、しっかりとリラの耳に届く。


 部屋に残ったのは、隙間風の音とリラ一人だった。


 彼女は一度だけ、壁際の剣に目を向けた。


 手は伸ばさず、ただ少しの間だけ見て、それから視線を外す。


 粗い麻に腕を通すと、隙間風が首筋を撫でて抜けていった。


 窓の外でカラスが鳴いた。


 その声が壁越しとは思えないほど大きく、部屋に響く。


 *


 冒険者ギルドの扉を開いた瞬間、ざわめきが肌にまとわりついてきた。


 いつもより、明らかに人が多い。


 受付前には列ができ、苛立った声がいくつも飛び交っている。


 書類を抱えた冒険者たちが落ち着きなく視線を彷徨わせ、慣れていない受付係が必死に捌こうとしていた。


 受付を順に見渡すが、淡い桜色の髪が、どこにも見当たらない。


 「……リーネがいないな」


 思わず口に出ると、隣でタマも受付の方へ目を細めた。


 「ほんとだ……」


 少し眉を寄せて、もう一度、受付を見る。


 「おっ、久しぶりじゃないか」


 聞き覚えのある声に振り返ると、ラグスとセインが人混みをかき分けながらこちらへ歩いてくるところだった。


 ラグスが顎をしゃくる。


 「ここ数日、顔出さなかったな」

 「何かあったんスか?」


 セインが続ける。


 タマが一歩前に出た。


 「レオンさんを探してたの。もう1週間も戻ってこなくて」


 二人は顔を見合わせ、それからラグスが「レオン? ああ……」と言いながら腕を組んだ。


 「さっきまで、王都中心の噴水の前にいたっスよ」


 セインが補足する。


 噴水。その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがわずかに動いた。


 嫌な予感というほど形のあるものではないが、見過ごせるものでもない。


 俺はもう一度、受付へ目を向けた。


 「……ところで。リーネは、どうした」


 ラグスが顎を掻き、視線を逸らす。


 「……あぁ、なんかそれが……どうやら無断欠勤らしい」

 

 「だから、こんな有様っス」


 セインはいつもと変わらない表情で、肩をすくめた。


 ラグスが頭の後ろを手で掻きながら、受付を見渡す。


 「受付が回ってないんだよな、ここ数日。ちょうど、お前らが顔見せなくなった次の日くらい……だったな」


 無断欠勤。その言葉に、引っかかりを覚えた。


 あの娘は、そういうことをするタイプではない。


 明るく、仕事が丁寧で、どんなに混雑した日でも定刻前には席についていた。


 「今まで、一度もなかったはずだ」


 俺が言うと、ラグスは腕を組み、低く唸った。


 「……だよな。だから、ちょっと噂になってる。それに__」


 セインが周りを見渡して、声を落としながら引き継ぐ。


 「最近の……行方不明事件っスよ。この五日で、分かってるだけでも十人超えてるらしいっス」


 「……五日で、十人?」


 タマが腕をさすりながら、俺の顔を見る。


 数字として聞くと、どう考えても多い。


 偶然や噂で片付けられる数ではない。


 その時、奥の扉が開き、シオウが姿を現す。


 いつもと変わらない落ち着いた足取りだったが、その目が受付全体を一瞬で見渡し、そして俺たちのところで止まった。


 「……ゲドーマル、タマ……少し、いいか」


 ギルド内の空気が、張りつめた。


 タマが俺の袖を引っ張り、一瞬だけ口を引き結んでから、はっきりと言った。


 「私、噴水に行ってくる。レオンさんを」


 迷いのない声だった。


 「頼む」


 短くそう返すと、タマはすぐに人波の中へ消えていった。


 その後ろ姿が雑踏に紛れ、視えなくなるのを待って、俺はシオウの方へ向き直った。


 混雑するギルドのざわめきが背中に残る中、ギルドマスター室へ向かう足取りが、自然と早くなっていた。


 *


 ギルドマスター室は、外の喧騒が嘘のように静かだった。


 分厚い扉が閉まる音が、やけに重く響く。


 机の上には書類が積まれ、魔道具の淡い光が室内を照らしていた。


 シオウは椅子に腰を下ろし卓の上で指を組むと、俺を正面から見た。


 「……リーネが、無断で姿を消した」


 淡々とした声だったが、その言い方が、事態の異常さをそのまま物語っている。


 「何か、心当たりはあるか」


 俺は首を振った。


 「ない。俺たちもギルドに来たのは久しぶりだ」


 シオウは短く息を吐き、机の上で組んだ指を動かす。


 「街に、ヴァンパイアが入った」


 俺は言葉の意味を、一瞬測りかねた。


 「……ヴァンパイア?」


 眉間に皺を寄せながら、シオウは頷いた。


 「すでに近衞騎士団には連絡している。行方不明事件との関連は、ほぼ間違いないだろう。冒険者ギルド本部にも通達済みだ」


 俺は黙った。正直に言えば、その名を俺はよく知らない。


 いま、この場にはタマもドゥールも、もちろんレオンもいない。


 「……すまない。俺は、その存在を詳しくは知らん」


 シオウは少しだけ目を細めた。


 「そうか。なら、ここからは重要だから、よく聞け」


 椅子の背にもたれず、俺の眼を見てまっすぐに言う。


 「三人いる魔王のうちの一柱……《血の血統》」


 《魔王》。その名を聞いた瞬間、二人きりだというのに、室内の空気がわずかに変わった気がした。


 「そいつは、ヴァンパイアだ。いや……正確には、ヴァンパイアそのものが、奴の軍団だ。眷属はすべてヴァンパイア。洗脳、契約、暗示……人の意思を奪うことに長けている」


 ”洗脳”、”暗示”という言葉が耳に届いた瞬間、手に自然と力が入るのがわかる。

 

 俺はそっと右手を懐に入れ、そこにある手拭いに触れる。


 そうすることで、肩から力が抜けていくのがわかった。


 シオウはそれを気にすることもなく、静かな口調のまま続ける。


 「そして、そいつは……百年以上、ある”女”を探している」


 その一言で、なぜか胸の奥がざわついた。


 『お館様が都に出るだけで、配下どもが忙しくなります』


 大昔、イバラキたちに言われた言葉が頭の中を反芻する。


 「その女の特徴は、深い紫の髪。妖艶なヴァンパイアだ」


 瞬間、すべてが繋がった。


 馬車から降りて、レオンの隣に立っていたあの女の姿が、視界に浮かぶ。


 深い紫の髪。どこまでも柔らかい声。レオンの顔が、気づかないうちに緩んでいたこと。


 何故、あの時すぐに、違和感に気づかなかった。


 油断、甘え、気の緩み………気を抜いていたのは、タマだけではなかった。


 気づけば、立ち上がっていた。


 椅子が後ろへ倒れる音が、室内に響く。


 考えるより体が先に動いていた。


 「その女……今、レオンと一緒にいるかもしれない」


 言葉にした瞬間、背筋が冷える。


 タマが噴水へ向かっている。


 二人とも、何も知らないままだ。


 「待て!」


 シオウが立ち上がりながら、声を上げた。


 だが、足はもう扉へ向いていた。


 廊下へ踏み出す拍子に脚がもつれ、肩が壁を掠め、それでも止まれなかった。


 情けない、と思う。思いながら、走った。


 「……危ない」


 それだけを背後へ残して、廊下を駆ける。


 後ろで椅子が倒れる音がして、シオウの足音もすぐに続いてきた。


 「ゲドーマル、待て!」


 今はすべてのことがどうでもよかった。


 頭の中にあるのはただ一つ、間に合え、という言葉だけで、それ以外は何もなかった。


 *


 王都の中心広場では、噴水の水音が一定の調子で空気を刻んでいた。


 息を切らして人混みを抜けてきたタマが、噴水の前で立ち止まった。


 行き交う人々の声と足音が絶えない広場の中で、石造りの縁に腰掛けたレオンは、一人で包み紙を広げていた。


 中身は屋台で買ったと思われるサンドウィッチで、具は多くもなく、特別な匂いもしない。


 「おーい! タマ!」


 タマに気づいたレオンが、サンドウィッチを食べる手を止めて、屈託なく手を振った。


 その笑顔に、タマは一瞬だけ呼吸が止まる。


 無事でよかったという安堵と、うまく名前のつけられない違和感が、同時に胸の中で湧いた。


 「……もう!」


 駆け寄り、レオンの前に立つ。


 「心配したんだよ? 一週間も戻ってこないんだから」


 レオンはきょとんと目を瞬かせ、手の中のサンドウィッチを包み直しながら首をかしげた。


 「一週間? そんなに経ってたか?」


 その反応に、タマの胸がざわつく。


 「……何してたの? ずっと」

 「ん? この近くの宿に泊まってたけど」


 あまりにも自然な答え。レオンの表情からは嘘をついている気配はない。


 タマは視線を逸らし、少し言いづらそうに言葉を選ぶ。


 「……綺麗な女性と、一緒だったんでしょ?」


 レオンが首を傾げ、目を点にする。


 「いや、ずっと一人だけど?」


 その言葉が、空気を切り裂き、タマの思考が一瞬遅れる。


 「……ひとり?」

 「ああ。宿も、一人部屋だし」


 タマが見る限り、やはりレオンには誤魔化している気配はない。


 タマは背中に冷たいものが走るのを感じながら、もう一歩踏み込んだ。


 「じゃあ……どうして、帰ってこなかったの?」


 レオンはそこで初めて黙り込んだ。


 視線を石畳に落として、しばらく考え、それから困ったように口を開いた。


 「……分からない。帰らなきゃいけないとは思うんだけど……ここに残った理由が、思い出せない」


 レオンの言葉は穏やかで、表情におかしいところも見当たらない。


 だが、その言葉の中身は空っぽだった。


 何かが根こそぎ抜け落ちているような、そういう空っぽさだった。


 タマは少し息を吐き、強めに言う。


 「……とりあえず、帰ろ? ゲドーマルもドゥールも、他のみんなも待ってる」


 その瞬間、レオンの表情が変わった。


 静かな、しかし揺るぎない確信が顔に浮かぶ。


 「……ここを動くわけにはいかない」

 「え? どうして?」


 レオンは答えようとして、口を閉じた。そして、首を傾げ、眉を顰める。


 「さぁ?」


 その時、噴水の向こうから、二人連れが歩いてくるのが見えた。


 腕を組んだ男女で、淡い桜色の髪の女性は首元にスカーフを巻いている。


 タマはその顔を見た瞬間、息を呑んだ。


 「……リーネ?」


 楽しそうに笑いながら、隣の男に街を案内しているように見える。


 どっからどう見ても、休日の散歩だった。


 そしてその隣に、光の加減で深い紫にも紺にも見えるストレートヘアの男がいる。


 整った顔立ちに、穏やかな微笑み。


 次の瞬間、隣でレオンが勢いよく立ち上がった。


 手に持っていたサンドウィッチが石畳の上に落ちるが、レオンは気にもとめない。


 「レオンさん!?」


 タマの呼び止める声は届かない。


 素手のまま魔力を込め、レオンは一直線に紫髪の男へと駆け出した。


 噴水の水音が、変わらず鳴り続けている。


 *


 噴水の広場に、俺とシオウの駆け込む足音が重なった。


 視界に飛び込んできたのは、すでに始まっている暴力だった。


 レオンが素手のまま男に襲いかかっている。狙いは一直線で、そこに迷いは視えない。


 深い紫にも紺にも見える髪のその男は、即座にリーネの前へ、一歩だけ庇うように出た。


 レオンの拳をわずかに身を捻ってかわし、逆に腕を払う。


 鋭い一撃だったが、紙一重だった。


 まずい。


 俺は踏み込み、レオンの腕を掴んだ。


 「よせ!」


 レオンの腕を引き戻すと、男の反撃が空を切り、その拳圧で噴水の水飛沫が跳ねた。


 「ゲドーマル、離せ……!」


 レオンの身体が、まだ前へ出ようとする。


 俺は背後から力を込めて抑え込みながら、叫んだ。


 「レオン、聞け。相手を見るな」


 タマがすぐ横に来ていた。


 「レオンさん! お願い、落ち着いて!」


 身体を抑えられ、声をかけられても、レオンの視線は男から離れない。


 憎しみというより、衝動に視える。


 「……そいつが、邪魔なんだ」


 レオンの口から漏れたのは、低く掠れた声だった。


 「知り合いか」

 「こんな奴知らん! 見たこともない!」


 その一言で、確信した。


 これは”刻まれた動き”だ。


 頭でなく身体そのものに、誰かが直接教え込んだものだろう。


 その時、シオウが紫の髪の男の前に出る。


 「……説明してもらおうか、クロウゼル」


 額からは汗が垂れているが、低くはっきりとした声で男に話しかける。


 男は困惑したように眉を寄せ、両手を広げて答える。


 「こちらが聞きたいですね。いきなり殴りかかられては」


 声音は穏やかで、挑発も嘲りもない。


 「……その女性を、解放してもらいたい」


 シオウは一度だけ喉を鳴らし、そして視線を逸らさずに言った。


 クロウゼルと呼ばれた男は一瞬だけリーネを見て、それから静かに言う。


 「解放? 何のことでしょう。私たちは、ただ散歩をしていただけですが」


 その言葉に合わせるように、リーネがクロウゼルの腕に絡みついた。


 「そうです、マスター。彼は……運命の人なんです」


 頬を赤らめ、幸福そうな声で話す。


 シオウの表情が、一瞬だけ歪んだ。


 彼は無言でリーネの首元に手を伸ばし、襟巻きをするりと外した。


 そこにあったのは、赤く、はっきりとした二つの痕跡。


 狼とは違う……猿、とも違う……もっと小さな牙の痕。


 「……ヴァンパイア?」


 タマが息を呑む。


 その一言で、場の空気が、一段冷えた。


 「この傷は、どういうことだ」


 シオウがリーネの痕跡を指差し、クロウゼルを真っ直ぐに見据えた。


 クロウゼルは少しだけ目を細め、リーネの頭を優しく撫でる。


 リーネは撫でられた猫のように、目を細め頬をクロウゼルの腕に擦り付ける。


 「……彼女が、望んだことです」


 真っ直ぐにシオウの目を見て、口の端を上げる。


 「私は、強要していない」


 リーネが目を見開き、慌てて口を挟む。


 「そうです! 私が、お願いしたんです!」


 「リーネ……目を覚ませ」


 シオウが低く言ったが、彼女は一歩下がり、クロウゼルの背後に隠れた。


 「……マスターには、分からない……です」


 ……これは、少し腹がたつ。この世界の連中はなぜ二言目には洗脳などと……そんなに自由を奪いたいのか。


 その瞬間、タマの魔力が膨れ上がった。


 広場の風が揺れ、周囲の空気が変わっていた。


 露店の幕布が大きく煽られ、積まれた果物が転がり落ちる。


 石畳の隙間から砂埃が立ち、建物の窓枠がかたかたと鳴る。


 広場にいた人々が足を止め、何事かと空を見上げた。


 「……解放して」


 静かな声だった。


 「リーネも、レオンさんも。それができないなら……力ずくでいく」


 「タマ、待て」


 俺はレオンを抑えたまま、視線だけで制した。


 ここで壊せば、取り返しがつかない。


 俺はクロウゼルに向き直った。


 「目的を聞こう」


 クロウゼルは少しだけ驚いたように俺を見て、それからすぐに微笑んだ。


 「女を探しています」


 淡々とした口調だった。


 「その女が、私の家宝……赤い魔石の嵌ったペンダントを盗んだ。家族との、唯一の絆です」


 「そんなの、この街の人には関係ない!」


 タマが噛みつくように言う。


 俺はクロウゼルの胸元にある赤い石へ目を向けた。


 欠けている。


 「その胸にあるのは偽物か?」


 「これは本来の形ではない。彼女が砕いて、その欠片を持っていってしまった。私には、それがどうしても必要なのです」


 シオウが一歩前に出た。


 「……その女の情報が入り次第、必ず伝える」


 クロウゼルを見据えたまま続ける。


 「だから、この街の人間には、もう手を出すな」


 噴水の水音だけが、しばらく響いた。


 やがて、クロウゼルはゆっくりと頷いた。


 「それで、構いません。だが、その男の方は無理です」


 「どういうことだ?」


 「そちらの男には、私は関与していない」


 そう言いながら、リーネの目を覗く。


 次の瞬間、リーネの身体から力が抜けた。


 目の焦点が揺らぎ、その場に立ったまま、呆けたように瞬きをする。


 「……あれ?」


 クロウゼルは彼女の腕をそっと解き、静かに後ずさった。


 「約束は、守りますよ」


 立ち去る直前、その視線がタマを捉えた。


 「それと、そちらの白銀のお嬢さん、また、近いうちに会いましょう。楽しみにしていますよ」


 逃げ場のないほど静かで、深い視線だった。


 心の奥を量るような、そういう目だ。


 それだけを残して、クロウゼルは人混みの中へ溶けるように消えていく。


 タマの呼吸が浅くなり、胸を手で押さえている。


 しばらくして、クロウゼルが視界から完全に消えるとレオンの身体から力が抜けた。


 「……もう、大丈夫だ」


 冷静な声だった。


 「手を、離してくれ」


 俺はゆっくりと腕を解いた。


 広場には噴水の音と、遠いざわめきだけが残っている。


 *


 カイランが息を切らして広場へ駆け込むと、噴水の前は、さっきまで騒ぎがあったであろう場所にもかかわらず、どこまでも普段と変わらない顔をしていた。


 水は変わらず落ち、人は行き交い、子どもが笑う。


 当事者の姿だけがもうどこにもない。


 その噴水の縁に、セレスティアが先に立っていた。


 白い外套のフードを下ろし、この辺り一帯を一望するように広場を見渡している。


 「……遅かったみたい」


 石畳を蹴りながら、振り向きもせずに、セレスティアが言った。


 《巡道教の聖女》ともあろう者が、と胸の内で苦笑しながら、カイランは荒い息を整えた。


 噴水の周囲を一目見て、何があったかを悟ったように、ゆっくりと息を吐く。


 「……《血の血統》」


 その言葉に、セレスティアはむっと頬を膨らませ、長杖の石突きを石畳に軽く当てた。


 「もう! 本部の話が長いから、逃しちゃったじゃない」


 振り向き様にカイランを睨みつける、セレスティア。


 カイランはとぼけた様な顔で肩をすくめる。


 「……元々、無断で君が王都に来たからな。説教が長くなるのは、分かってただろ」


 「だからって、あんなに引き止めることないじゃない」


 セレスティアは鼻を鳴らした。


 「あれは、私の獲物なんだから」


 本来は勝ち負けの話ではない。だが、彼女にとっては、そうなのだ。


 噴水の水音が、二人の間をしばらく流れた。


 セレスティアは興味を失ったように踵を返し、フードを被り直しながら歩き出した。


 「ま、いいや。どうせ次、あるでしょ?」


 「おい、どこへ__」


 「帰るの。準備しないと」


 セレスティアはカイランの方を振り返りもせず、軽く手を振る。


 「今回は、私の出番じゃなかったってだけの話」


 白い外套が、人混みに紛れていく。


 長杖を持つ手は、指が少し白くなるほど強く握られていた。


 カイランはその背中をしばらく見送り、それから深く息を吐いた。


 「……本当に、やれやれだ」


 噴水は、何事もなかったかのように水を落とし続けている。


 *


 洞窟棲家の奥は、深い静寂に包まれていた。


 囲炉裏の火の爆ぜる音すら、どこか遠い。


 アルティシアはレオンと向かい合って座り、真剣な表情そのもので指先に淡い光を宿していた。


 レオンの中に埋め込まれたものを確かめるように、魔力をそっと流している。


 レオンは身じろぎもせず、視線を伏せたまま待っていた。


 しばらくして、アルティシアの指先の光が静かに消える。


 「……おそらく、ですけど」


 その声に、口を挟まず、行方を見守っていた全員の意識が集まった。


 「その"クロウゼル"という男の特徴を視認すると、強い衝動が発生するよう、”暗示”をかけられています。身体だけではなく、思考も"襲う"と判断する」


 思考まで弄られるとなると、これまで視てきたもの以上に危険だ。


 タマの指が無意識に握りしめられる。


 「……治せるの?」


 問いというより、願いに近い声だった。


 アルティシアはわずかに視線を落とし、それからはっきりと言う。


 「……私が使った洗脳魔法より、はるかに強力です」


 場の空気が、沈んだ。


 タマもドゥールも、そしてレオンも皆が揃って俯く。


 「これは、魔力を通して"行動"を上書きしているわけじゃない。思考の前提……"そう考えるしかない"という脳の絶対そのものを、書き変えられています」


 在り方そのものの書き換えだ。


 「だから……私には、解除できません」


 タマが手を胸に抱えながら、俺とイバラキを縋るように見た。


 イバラキは視線を一度だけ落とし、静かに首を横に振る。


 「外部から氣を注入して強制的に回路を繋ぎ直そうとすれば、おそらくレオンの精神が負荷に耐えきれず焼き切れます」


 タマは唇を噛んだ。


 「そんな……じゃあ……どうすれば……」


 「《世界樹の葉》が必要です。それで薬を配合さえできれば……」


 アルティシアはタマとレオンを交互に見て、答える。


 俺は首をかしげ、イバラキに視線を送る。


 イバラキは静かに首を横に振る。


 タマが俺とイバラキのやりとりを見て、小さな声で教えてくれる。


 「エルフの国にあるって話は聞いたことがある。でも……その国自体、どこにあるかも分からない。エルフは排他的だから」


 また沈黙が落ちた。


 それを破ったのはドゥールだった。自分の腹をポンと叩いて言う。


 「なら、探すしかない! アウレオンに連絡を取る。エルフの国に入るなら、正式な伝手が要る」


 「うん! そうだね! 探そう! アウレオンならきっと助けてくれるよ」


 タマはレオンの方を見て、続けて口を開く。


 「……それに、レオンさんが一緒にいた"女の人"も、探さないと」


 ドゥールは短く整えた髭を触りながら、タマに確認を取る。


 「魔王のゴタゴタに、首突っ込むことになるぞ」


 「レオンさんのためなら、仕方ない」


 タマは腕を大袈裟に組み、フンと息を吐く。


 レオンは手を真っ直ぐ下に伸ばし深く頭を下げた。


 「……すまない。迷惑をかける」


 その様子を見て、俺は小さく息を吐いた。


 「誰も行ったことのない国の酒が飲めると思えば……悪くないな」


 「でも、今回はゲドーマルは留守番だよ」


 タマが俺を見て真顔で言う。


 「なぜだ?」


 俺にはタマの言ったことの意味が理解できなかった。


 タマは少しだけ視線を外してから、それからまっすぐに俺を見た。


 「私、あなたとはもう居たくない……それだけ」


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