第3話 魔族とか魔法
「なんだと?」
門前の空気が、音を失った。
鉄柵の向こうでざわめいていた声が、喉の奥に押し戻される。
さっきまで俺を笑っていた門番たちも、顔から余計な色を消し、こちらと、俺が顎で示した男とを見比べていた。
「尻尾だ」
俺は普段と変わらぬ声で言った。
「立ち方が違う。腰を庇っている。尻尾がある前提の重心だ。隠しているつもりだろうが、あの形は人のものではない」
この場の全員の視線が、ゆっくりと後ろへ向いた。
そこに立っていたのは、銀髪の細い男だった。
顔立ちは人のものに見える。肌の色も、耳の形も、ざっと見ただけならどこにもおかしなところはない。完璧な偽装と言ってよかった。
だが、疑われ慣れていない者ほど、視線に弱い。
集まった目の重さを受けた瞬間、男の喉が小さく上下した。
「何を馬鹿な」
先ほどタマに絡んでいた門番が声を荒げる。
「こいつはミルザだ。冒険者ギルドの従業員だぞ」
すぐ後ろに並んでいた、犬のような耳と尻尾を持つ男も眉を吊り上げた。
「あのミルザが魔族? そんなわけないだろ。困ってる新人にもちゃんと教えてやる奴だ。タマ、お前も散々助けられたんじゃないのか? 恩を仇で返すつもりか?」
視線がタマに集まる。
外套の奥で、タマの金色の目が細くなった。
「レオンさん」
タマは中央に立つ門番へ顔を向けた。
「私は、ゲドーマルを疑わない」
穏やかな声で、真っ直ぐにレオンと呼ばれた男を見る。
レオンが眉間に皺を寄せ、タマを見た。
「根拠は?」
「根拠?」
タマは一度だけ瞬きをした。
「そもそも、疑う余地があるような男に、私は私の後ろを歩かせたりしない。それに、私はそこのおどおどしている彼と話をしたことなんて一度もないわ」
犬の耳を持つ男と、嫉妬を顔に貼りつけた門番が、揃って苦い顔をした。
レオンはすぐには返さなかった。
顎に手を当て、タマを見て、俺を見て、最後に銀髪の男を見る。
「……調べれば分かることか」
その言葉が落ちた瞬間、空気が揺れた。
「門番レオン、あなたはそこの黒髪と私のどちらを信じるのです?」
ミルザと呼ばれた銀髪の男が一歩前に出る。
レオンはため息を吐く。
「軽い身体検査をするだけだ。やましいことがなければ問題ないだろう」
「お断りしますね。冒険者ギルドでの私の立場もある。彼のような黒髪に言われて、身体検査を受けたなどと噂されるだけで、私の立場は悪くなる」
レオンは俺の目をじっと見る。
俺も目を逸らさずレオンの目を見返す。
大きく息を吐き、レオンはミルザの方を向く。
「身体検査だ」
ミルザはレオンを指差す。
「門番レオン、これはギルドへの正式な侮辱として受け取りますよ。早く、その黒髪を捕まえてください」
「断る。問題にしたければ問題にすればいい」
レオンが一歩前に出る。
周りの門番たちは顔を見合わせて、それぞれレオンから少しだけ距離を取る。
その中で一人だけ、街の方へ走っていく門番がいた。
タマが俺の裾を軽く引っ張る。
俺が視線をタマに向けると、顎で門の外を指す。
……逃げようと言ってるのか。
だが、俺はタマから視線を外し、懐に指を入れた。
そこには、まだ残っていた古い銭がある。
こちらの通貨ではない。元の世界で、酒代にもならぬほど擦り減った、小さな金属の輪だ。
もはや、使い道などないと思っていたが、今はちょうどよかった。
ミルザと呼ばれた男の腰の辺りに薄い歪みがある。
尾を隠している場所だ。そこだけ、空気が遅れている。
歩く者の身体についていくはずの影が、ほんのわずかだけ遅れ、すぐに追いつく。人の目なら見逃す。門番のあの道具でも、おそらく拾えない。
けれど、俺には視える。
隠しているのではなく、世界にそこだけ嘘をついている。
俺は銭を指で弾いた。
力は込めない。氣も通さない。
ただ、歪みに当てると、乾いた音がした。
銭はミルザの腰の横、何もないはずの空間で、何かに触れて跳ねた。
その瞬間、銀色の髪の先が深い紫に変わり、それは墨が水に広がるように、ゆっくりと、しかし確実に髪全体を深い紫へ染めていった。
ミルザの目が見開く。
ミルザの肌の表面、空気の膜が一枚、裂けたように揺れた。
尾の形が、薄く浮かぶ。
それを見たレオンの槍が、音を立てて構え直された。
顔の皮膚が薄い膜のように剥がれ、人間らしい輪郭が崩れる。白灰色の肌の下で黒い血管が脈打ち、やがてそれは紋様のように浮き上がった。
衣服の縫い目が悲鳴を上げ、灰色の筋肉が裂け目から覗いた。
額には、黒い角が二本。
腰のあたりからは、隠されていた尾がぬめるように伸びる。
黄金色の瞳が、こちらを見た。
「魔族だ!」
誰かが叫んだ。
その一声で、門前に押し込められていた息が一気に弾けた。
通行人が悲鳴を上げ、荷物を抱えたまま後ろへ下がり、鉄柵に身体をぶつける。馬が鼻を鳴らし、子供の泣き声が混乱に混じった。
それでも、タマは動かなかった。
俺の隣で、ほんの少しだけ顔を上げる。
「……便利な眼ね。ちょっと羨ましいかも」
「そうか」
レオンが槍を構え、門番たちが散る。
法衣を着た者たちが短い棒を魔族へ向け、声を揃えた。
「王都リュシア式、拘束魔法展開!」
次の声は、さらに低く、はっきりと場に響いた。
「踏んだ地を証人とし、吸った空気を鎖とする。この場に留まり、離れるな――《地縛の誓い》」
淡い光が地面に円を描いた。
砂色の帯が魔族の足元へ走る。模様のようなものが、石畳の上に次々と浮かび、輪になり、繋がっていく。
少しだけ、陰陽師の使う五芒星の五行陣に似ている。
俺の知らない文字だったが、形は美しい。
細く、整っていて、まるで人の手で丁寧に結ばれた縄のように視えた。
ミルザは逃げずに、こちらをじっと見ている。
嫌な視線だった。
隠す気がない。俺の眼を見ている。いや、眼の奥にあるものを覗こうとしている。
陰陽師たちの目に似ていた。あの目を向けられると、どうにも、この場から離れたくなる。
「……眼、か」
ミルザが小さく呟いた。
その声が聞こえたのか、タマが半歩だけ俺の前へ出た。外套の裾が揺れ、俺とミルザの間に細い身体を滑らせる。
ミルザの口元が歪んだ。
「……そういう関係か」
次の瞬間、ミルザは自分から膝を折り、地面に腰を落とす。
拘束の帯が、空を掴んだ。
「……っ?」
レオンの息が詰まる。
光の縄はそこにある。術も発動している。
だが、縛るべきものを見失ったように、ミルザの周りでわずかに揺れていた。
俺は目を細める。
生き物ならあるはずの氣が、ミルザからは薄くなっている。消えたわけではない。隠すように何か別の膜で覆っている。
「拘束魔法は、生きて立って動こうとするものを縛るんだ」
ミルザは言った。
「今の僕は気配を消してるし、動いていない」
門番たちは、ミルザの言葉の意味を理解できない顔をしている。
ミルザは構わず続けた。
「拘束魔法は僕を見つけられないのさ」
門番たちは顔を見合わせる。
レオンが槍を構える。
「さっきお前たちが使った妖術と似たようなもので覆って、氣を隠してる。それから、右手に別の力を溜め始めている。気をつけたほうがいい」
初めて視る流れだった。だから、確かなことは言えない。
門番たちは、まだ理解が追いついていない。
それでも、右手の内側に集まるものだけは分かった。水が低い場所へ寄るように、見えない力がそこへ集まっている。
タマが俺の袖を引いた。
「……ちょ、ちょっと。氣なんて言わないで」
「なぜだ?」
「なんでも!」
小声なのに、妙に強かった。
レオンたちは俺たちのやり取りには構わず、ミルザの右手へ注意を向ける。
その瞬間、ミルザの顔から笑みが薄れた。右手を見られていると気づいたのだろう。
ミルザは地面を蹴った。
倒れていたはずの身体が、滑るように横へ逃げる。低い姿勢のまま人混みの隙間へ入り、悲鳴を上げる通行人の動きに紛れた。
「待て!」
レオンが叫ぶ。
門番たちが追う。
だが、ミルザは人の流れに逆らわなかった。押し返さず、跳ばず、力で薙ぎ払うこともなく、逃げ惑う者たちと同じ速度で、同じ向きに流れていく。
特別な力ではない。ただ、うまく混ざっただけだ。
そして、見えなくなった。
タマが小さく息を吐いた。
「ああいうの、魔法に強いんじゃないの。魔法の使われ方を知ってるのよ」
「そうか」
まほう、とは何だ。
「今のは、王国が決めた“正しい魔法”」
タマは、人混みの向こうを見たまま言った。
「言葉があって、順番があって、それを守る人が使える」
俺は黙って聞く。
「詠唱して、手順を踏んで、魔力を流す。ちゃんとやれば、ちゃんと発動する」
タマの口元に、少しだけ苦い笑みが浮かんだ。
「だから、ちゃんとズルもできる。魔法は完全じゃないの。ただ、世界の決まりを借りるだけだから」
「……そうか」
なんとも奇妙な力だ。
理解には、少し時間がかかりそうだった。
「でも、力の流れがそこまで視えるなんて……ねえ、ゲドーマル」
タマがこちらを見る。
「あなたの眼、ほんと反則」
褒めているのか、呆れているのか。
やがて、門前の騒ぎは少しずつ落ち着いていった。
人の流れが戻り、鉄柵の前に残っていた張り詰めた空気も、時間をかけて薄れていく。
倒れた荷物を拾う者がいて、泣いていた子供を抱き上げる者がいる。
門番たちはまだ警戒を解いていないが、混乱そのものは収まりつつあった。
レオンが戻ってきて、槍を立て、深く息を吐く。
そして、俺の正面に立った。
「レオンだ」
唐突な名乗りだった。
「すまなかった。君は魔族とは関係がないらしい」
言い訳ではなかった。声は短く、飾り気もない。
「疑った」
レオンは俺の目を見たまま言う。
「仕事とはいえ、不快だっただろう」
視線を逸らさない。
逃げず、誤魔化さず、ただ事実をこちらへ伝えるだけだった。
タマが横で目を丸くしている。
「いや。守る立場なら、当然だ」
レオンが、わずかに目を見開く。
「怒ってないのか?」
「怒る理由が見当たらない。ここで疑われるのは自然なことだろう。それに、レオン」
名前を呼ぶと、男の眉が少しだけ動いた。
「お前は、俺の話を聞こうとしてくれた」
その言葉を口にした瞬間、懐の盃が揺れた気がした。
本当に、どれくらいぶりだろう……人が俺の話を聞いてくれたのは。
レオンは思わずというように苦笑した。
「ゲドーマル、お前は変わってるな」
「そんなことはない」
レオンは目を点にして俺を見た。
だが、それ以上は言わなかった。槍を肩に担ぎ直し、一歩、道を開ける。
「王都リュシアへようこそ」
その声は、さっきまで門を守っていたものとは少し違っていた。
「何かあった時は、いつでも俺を訪ねてくれ。必ず力になる」
それは、ただ門を通す以上の意味を持つ言葉のような気がした。
隣で、タマがほっと息を吐く。
「……ありがとう、レオンさん」
「礼を言われるほどのことじゃない」
タマが笑った。
その笑みに嘘がないのは、本当に珍しい。
「行け。これ以上、引き止める理由はない」
俺たちは門を抜けた。
石畳の感触が、足裏に変わる。
背後ではまだ門番たちの声がしている。人の流れも、荷車の音も、遠くで鳴る鐘の音も、少しずつ王都の内側の響きへ混じっていった。
その中で、タマが少し嬉しそうな声を出した。
「ねえ、ゲドーマル」
「なんだ」
「こういうの、友とか友情って言うんじゃない?」
友。友情。
聞き慣れぬわけではない。
だが、自分に向けられる言葉として受け取るには、妙に据わりが悪かった。
「そうか」
俺は前を向いたまま答える。
「……悪くない」
タマが俺の肩を軽く小突いた。
「ふふ。今、ちょっと嬉しかったでしょ」
「そんなことはない」
「嘘」
これは不味い。
顔の筋肉が、勝手に緩もうとする。
慌てて口元を引き締める。タマに気づかれたら、絶対に笑われる。
王都の内側から、焼いた麦の匂いと、人の暮らす匂いが流れてきた。
その中に、ほんの少しだけ、門の外とは違う温かさが混じっていた。




