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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第2章 世界の正体をみる
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第9話 静かな夜に芽吹くもの


 王城の離れに、一本の塔が立っていた。


 窓もなく、装飾も全くない。王族の居城にあるものとは思えないほど、無骨な円筒が、王城の外れに立っている。


 《隔離の円塔》。


 外界との接触を、物理的にも魔法的にも断つために設けられた場所。


 外からは風が通らず、内側は夜の寒さで冷やされた石壁が室温を下げている。


 魔力の流れも薄く、声も、足音も、人の温度も、分厚い石壁一枚で遮られている。


 世界から切り離された隔離棟。


 処刑することの出来ない身分をもつ者、曰く付きの者などを、気が触れるまで閉じ込めておくためだけに建造された場所だった。


 その中心で、ルキアスは静かに座していた。


 背筋は真っ直ぐ伸び、膝の上に組まれた両手も動かない。


 目は閉じられ、呼吸は乱れることなく、ただ一定の間隔で胸を上下させている。


 鎖で繋がれたり、見張りに監視をされることもない。


 それでも、石壁に刻まれた術式は複雑に組まれており、ここから自力で出ることは最初から考えていなかった。


 やがて、壁の向こうから声が届いた。


 「……状況を、報告します。今日は……マジなやつです」


 ハルの声だった。いつものような軽さが取り除かれた低い声。

 

 扉のすぐ向こうにいるのか、塔からは離れたまま、特殊な手段を使っているのか、定かではない。


 声は石を伝うように響き、余計な感情を削ぎ落としたままルキアスに届く。


 「王国近衛騎士団第三団団長、ヴァルクス・エーベルハルト。同じく騎士、ガルム・アイゼンハルト、エルネスト・カリオン__」


 そこで、短い沈黙が置かれる。

 だが塔の内側では、その一拍の間が妙に長く感じられる。


 「王命違反により、謹慎処分です」


 ルキアスは動かなかった。指先も、呼吸の間隔も変わらない。


 ただそこに座って受け止めていた。


 「リラ・ヴァン・ストライゼンは……近衛騎士の資格を、正式に剥奪されました」


 その言葉が耳に届いた瞬間、塔の中の空気がほんのわずかに動いた。


 ルキアスの呼吸が一瞬だけ乱れ、眉間に少し皺が寄る。


 それでも彼は何も言わなかった。


 ハルは声の調子を変えず、ただ淡々と報告を続ける。


 「アルティシア王女殿下は__」


 そこで声がわずかに低くなる。

 淡々と並べられていた報告の中に、消しきれない揺れが混じった。


 「輿入れから逃亡。加えて、魔族内通罪により、指名手配となっています」


 塔の石壁に、その言葉だけが妙にはっきりと響いた。


 ルキアスの瞼はまだ閉じられたままだった。


 「王国が公表した公式見解は、以下の通りです」


 紙を開く乾いた小さな音がした。


 「王女アルティシアは最初から魔族と通じており、帝国との同盟を破綻させるため、魔王の手を借りて帝国騎士と衝突、逃亡した。」


 よく考えられた文章だった。筋も通っている。


 国民が聞けば理解しやすく、王国の混乱に理由が与えられ、帝国への顔も保たれ、魔族という名がすべての要因を引き受ける形になっている。


 誰かの人生でも名誉でもなく、国が体裁を守るために作られた文だった。


 報告が終わると、塔の中に沈黙が落ちた。


 ハルはすぐには締めなかった。言おうとして止めたのか、あるいは言葉にすべきではないものを自分の胸の奥に押しとどめたのか、しばらくの間だけ壁の向こうが静かだった。


 やがて、声が続いた。


 「……以上です」


 それ以上は何もなかった。


 隔離の円塔に、再び音が消えた。


 ルキアスは目を閉じたままだった。


 ハルに問い返すことも、怒りを言葉に乗せることもなかった。


 ただ、膝の上に置かれていた手が、静かに握られた。


 石の冷たさが、塔の底から這い上がってくる。


 王子であることは、今ここでは何の力にもならなかった。兄であることも、同じだった。


 この塔の内側からでは、誰の肩にも触れられない。


 王国は秩序を守り、真実はそのために切り捨てられた。


 ルキアスの拳は、しばらくそのままだった……だが閉じた目がわずかに開かれる。


 *


 ギィィ、と低い軋みが石畳を這った。


 子爵邸の門が、ゆっくりと閉じられていく。

 鉄と木で組まれた扉は、一度動き出すと止まらなかった。


 いつも笑顔で手を振ってくれる門番も、屋敷の奥に控える使用人も、こちらへ視線を向けることない。


 重い音だけが石畳の上に残り、最後に鈍い響きを立てて、門は完全に閉じた。


 見送りはなかった。


 リラは石畳の上に一人で立っていた。


 背後には生まれ育った家がある。

 幼い頃から見上げてきた門、何度も通った玄関への道、遊んで泥を落とし叱られた石段。


 けれどリラは振り返らなかった。


 振り返ったところで門が閉じているという現実は変わらないと、自分に言い聞かせる。


 リラはゆっくりと息を吸い、乱れかけた呼吸を整えると、閉ざされた門へ向かって静かに頭を下げた。


 自分の立っていた場所へ別れを告げるための礼。

 騎士として、子として礼をすれば、これからの道を進むことはできない。


 頭を下げたまま、リラはしばらく動かなかった。


 門の向こうからは何の音も返ってこない。


 胸の奥に生まれる熱を唇を噛み締めることで抑え込む。


 斬られなかった。

 その一つだけが、せめてもの情けだったのだと分かる。


 辞任ではなく剥奪という形で近衛騎士の資格を失ったこと、そして魔族と通じたと公にされた王女の側に最後までいたこと。


 貴族にとっては致命的ともいえる重い枷を作ってしまった。


 子爵家が選べる道など初めから限られていた。


 父が冷たかったわけではない。母が自分を捨てたわけでもない。


 家を残すために切るべきものを切る、それは感情ではなく、貴族として生きる者たちの論理だった。


 子爵令嬢として、リラはそれを理解している……つもりだった。


 それでも、思っていたよりも……つらい。


 覚悟はしていたつもりだった。

 アルティシアと共に在ると決めた時から、自分の立場が危うくなることも、家に迷惑が及ぶことも、頭では分かっていた。


 分かっていたはずだった。


 けれど、門の閉じる音は、想像していたどの状況よりもきつく、簡単には消化できない。


 その中で、涙も滲まず、喉も詰まらない。ただ、呼吸だけが、何事もなかったように胸を出入りしている。


 リラは自分の手を見下ろした。剣を握り慣れた手だった。


 近衛騎士として幾度も前線に立ち、戦場へ向けてきた手が、空っぽになる。


 剣も、肩書きも、家の後ろ盾もなく、ただ指先だけがわずかに冷えていた。


 冷えた指を、ゆっくりと握り込む。

 握り慣れたはずの拳が、今は妙に頼りない。


 親に守られ、家に守られ、近衛騎士として前に立っているつもりでいて、ヴァルクス団長が、ガルムが、エルネストが、いつも自分より一歩前で風を受けてくれていた。


 その背中があったから、騎士としていられた。その場所があったから、正しさを信じて剣を抜けた。


 もうこれからは、その背中に頼れない。


 石畳に落ちた自分の影が、夕方の光の中で細く伸びている。


 リラはもう一度だけ息を吐いた。


 そして、足を前へ出した。一歩目は、思っていたよりも重かった。けれど、止まらない。


 ここから先は誰にも守られない場所で、自分の選択を自分で引き受けていくしかない。


 ”リラ・ヴァン・ストライゼン”は、ただの”リラ”となった。


 *


 洞窟の外は、やけに賑やかだった。


 昼過ぎの太陽の光に負けない、元気な掛け声が飛び、土を踏む小さな足が行き来するたびに、地面の匂いと、木の匂いが風に乗って洞窟の奥まで流れてきた。


 ゴブリンジェネラルはその真ん中に立って腕を組み、はっきりとした声で指示を飛ばしていた。


 木材が運ばれ、石が積まれるたびに、骨組みだけだったはずのものが、少しずつ完成に向けた”形”として見え始めている。


 仕上げはまだまだ荒いが、それは雨風をしのぐだけの仮小屋ではなく、誰かが帰ってくるための場所として、彼らはそれを組み上げようとしていた。


 その様子を、イバラキは少し離れた場所からじっと眺めていた。


 指示を出すわけでも急かすわけでもなく、ただそこに立っているだけだった。


 それでも、通りかかるゴブリンが一瞬だけ姿勢を正し、彼女の頷きを受けてまた慌ただしく作業へ戻っていく。


 イバラキの目には心なしか優しさが浮かんでいる。


 守るべきものがようやく手で触れられる形を持ち始めていた。


 外から吹いた風が、濃褐色の直垂の裾を静かに揺らす。


 そこで、イバラキの視線が一瞬だけ洞窟の方へ向けられた。


 *


 洞窟の奥は、外の喧騒が嘘のように静かだった。


 岩壁の内側に入ると、木を打つ音も、ゴブリンたちの声も少し遠くなる。


 自然の岩壁に嵌め込まれた小さな窓から外を見下ろすと、ゴブリンたちの働く姿がよく見えた。


 小さな背中が忙しなく動き、木や石を皆で協力して担ぎ、転んでしまった仲間に誰かが手を差し伸べる。


 笑い声が上がり、すぐにまた作業へ戻っていく。


 アルティシアはその窓の前に立っていた。


 白い指先が窓枠の石に軽く触れている。


 石は冷たく、洞窟の奥に残る湿り気を含んでいた。


 それは王城の窓辺で触れてきた磨かれた石とは違い、まだ自然の土と岩の温度を残している。


 ”魔物と共同生活をしている”。


 信じられない、というのが正直なところだった。


 否定したいわけではないが、ただ、王城で幼少の頃より学んできた常識が、アルティシアの中でこの状況を簡単には受け入れさせないでいる。


 「お茶、入ったよ」


 背後から穏やかな声が聞こえ、振り返ると、タマが盆を持って立っていた。


 湯呑みから白い湯気が立ち上り、その隣には少年の姿をしたアウル=ヴェイルが当たり前のように寄り添っている。


 ”風の古竜”と呼ぶにはあまりに幼く見え、子供と呼ぶには、内に秘める存在感が強大すぎる。


 タマが慣れた手つきで、窓辺の小さな台に湯呑みを置いた。


 「熱いから、気をつけてね」


 アルティシアは小さく頷き、もう一度窓の外へ目を戻した。


 「……すごいですね」


 言葉は、思ったよりも自然にこぼれた。


 「魔物たちが、家……を作っている」


 タマは盆を胸に抱えたまま、窓の外を覗き込み、それから少しだけ口元を緩めた。


 「私もね、少し前までは想像すらしてなかったよ」


 隣に立ったタマの肩が、アルティシアの視界の端に入る。白銀の髪が洞窟内の魔法灯の光を受けて柔らかく揺れた。


 「追われて、逃げて、隠れて……そんな毎日だったから」


 湯呑みの湯気が、二人の間をゆっくりと上がっていく。


 木槌で何かが叩かれる音が岩壁を越えて響くのが聞こえた。


 タマはその音を聞きながら、困ったように肩をすくめた。


 「でも、ゲドーマルと一緒にいるとね__」


 そこで、タマは外で木材を担いでいるゴブリンたちに目を向ける。


 「想像もつかないことが、当たり前のように起こるの……昔から」


 その声音には、呆れや諦めと同時に優しさが混じっているように聞こえた。


 「しかも、本人はそうなることを望んでいるわけでも、ましてや、狙ってやってるわけでもないし」


 タマは小さく息を吐く。


 「ただ、気づいたらこうなってる」


 アルティシアは窓の外を見たまま、その言葉を聞いていた。


 ゴブリンたちは忙しなく動いている。


 主様や外で指示を出している(あね)さんと呼ぶ存在を得て、自分たちがいる場所を自分たちの手で整えようとしている。


 その事実は、王女としてのこれまでの知識では測りきれないものだった。


 「……それが、皆の糧になるんですね」


 タマは少し驚いたようにアルティシアを見た。


 それから、ふっと笑う。


 「うん。案外ね」


 アルティシアは湯呑みに手を伸ばした。両手で包むと、温かさが指先にゆっくりと移ってくる。


 王城で出されるティーカップのような薄く整ったものではなく、少し厚みのある歪な形の湯呑みだった。


 「……これからのこと」


 その声は湯気に溶けてしまうのでは、と思うほど小さかった。


 タマは急かさなかった。


 湯呑みを持つアルティシアの手を一度だけ見て、それから窓の外へ視線を戻した。


 「……ゆっくり考えよ」


 アルティシアの指先から少しずつ力が抜けていく。


 「ここでは、それでいいと思う」


 アウルが隣で小さく頷いた。


 アルティシアは仕草に一瞬だけ目を向け、すぐに湯呑みへ視線を落とした。


 初めて嗅いだ茶の香りが、優しく鼻の奥を撫でる。


 しばらく、三人は窓の外を見ていた。


 梁の位置を直すために数匹のゴブリンが木材を持ち上げ、その端でイバラキが何か言うと、動きがすぐにまとまった。


 アルティシアはその光景を見つめたまま、ふと口を開いた。


 「……ゲドーマルは?」


 タマの指が盆の縁でほんの少し反応した。


 一瞬だけ視線が横へ逃げ、けれどすぐに何でもないふうを装って肩をすくめた。


 「……どうせ、酒場でしょ。いっつも、そればっか」


 軽い声だったが、伏せた目に、ほんのわずかな影が落ちている。


 「放っておいても、そのうち戻ってくるよ」


 そう言いながらも、タマは窓の外ではなく、洞窟の入口の方へ目を向けていた。


 タマは盆を持ち直し、わざとらしく息を吐いた。


 「まあ、帰ってきたらまた何か言うよ。お酒買いすぎ、とか」


 その言い方が普段の調子に少し戻っていて、アルティシアは目を伏せたまま、小さく頷いた。


 湯呑みを口元へ運ぶと、熱はまだ残っていた。


 舌に触れる茶は淡く、少しだけ渋い。けれど茶が喉を通るころには、アルティシアは呼吸がわずかにしやすくなっていた。


 外で木槌の音が鳴る。その音に合わせるように、洞窟の空気がほんの少しだけ揺れた。


 アルティシアは目の前の小さな台に茶の入った湯呑みを置き、自分の手のひらを静かに見つめた。


 *


 王都リュシアの近く、平原を抜ける街道を、俺たちは棲家へ向かって歩いていた。


 風が横から抜けていく。


 最初にこの世界へ来た頃には、鼻に残る草の匂いの一つひとつがどこか違って感じられたが、今ではそれも、ただ道を歩くときのいつもの匂いになっている。


 肩には酒の入った袋をかけていた。反対の手には、包みを何重にも重ねた小さな箱がある。


 薄い紙と柔らかい布で丁寧に包まれたそれを、俺はここに来るまで、歩きながら何度か確かめていた。


 新作のチョコレート、リーネに聞いて選んだものだ。


 壊れれば味が変わるわけではないと言われても、タマに渡すものだと思うと、それを持つ手が自然と慎重になる。


 俺の肩の上で、ノクティスがじっとその小さな箱を見ていた。


 いや、見ているというより、狙っているな。


 影の端が、その箱の方へ少し伸びる。


 「これは、駄目だぞ」


 先に言うと、ノクティスが小さく首を傾げた。


 見ていただけだ、と言いたいのかもしれないが、その視線はまだ箱の方へ向いたままだった。


 「これは、タマのだ」


 そう言い切ると、ノクティスは不満そうに影を揺らして俺の肩の上で小さく丸まった。


 その様子を見ていたドゥールが、声を上げて笑った。


 「ほんと、分かりやすいな」


 レオンも槍を肩に担いだまま、少しだけ肩を揺らしている。


 空気は穏やかだった。


 王都で買うべきものは買った。酒もある、甘味もある。


 ドゥールは必要な道具を仕入れ、レオンも門番だった頃の知り合いに顔を出していた。


 あとはこのまま、何事もなく棲家に帰るだけだと、俺もそう思っていた。


 それなのに、違和感ははっきり分かった。


 風の流れが、少しだけ乱れた。


 顔を上げると、街道の先から一台の馬車がこちらへ向かって走ってくるのが見えた。


 あれは、ただ急いでいるといった速さなどではない。


 車輪が石を踏むたびに車体が大きく揺れ、御者の腕は手綱にしがみつくように強張っている。


 馬の口元には泡が浮き、蹄が街道の土を荒く叩くため土煙が舞っている。


 「……おかしいな」


 口に出した瞬間、馬車の背後から別の足音が響いた。


 オーガの群れが草を踏み潰しながら、馬車に迫っている。


 獣と鉄の混じった荒い匂いがこちらまで届く。


 そのオーガの先頭に、ひとりだけ明らかに気配の違う女がいる。


 深緑がかったアクアブルーの長い髪が、走るたびに背で揺れていた。


 鋭い目は馬車ではなく、馬車の先にある逃げ道を測っている。


 手にしているのは女の背丈ほどもある巨大な扇で、鈍い光を放っている。


 漆黒の角が二本生えているが、気配が俺やイバラキとは違う。何よりも、身体の内側に魔力が巡っているのが視える。


 この世界で鬼と呼ばれるものなのだろう。


 女が足を止め、詠唱を始めると、霧が広がり始める。


 白いものが草の根元から滲むように生まれ、街道を覆い、馬車に迫る。


 自然に生まれた風に流されるものではなく、魔力で形を造られ、行く先を阻む重さを持っている。


 「追われてる! 助けるぞ!」


 レオンが槍を握り直し、前に出た。俺とドゥールも同時に動く。


 「下がれ!」


 ドゥールが叫びながら腰の袋から小さな魔道具を取り出し、地面へ投げた。


 転がったそれがかすかな音を立てて開くと、周囲の魔力がすっと薄くなり、霧の輪郭が力を失っていく。


 そして、白い幕が草の上で散り始めた。


 鬼の女が、わずかに眉を動かした。


 「今だ!」


 レオンが踏み込む。短い詠唱の後、身体強化の魔力が身体の中心から巡り始め、腕や足に流れる。


 次の一歩で地面が鳴り、槍の穂先が風を裂く。


 最後の霧が一気に吹き飛ばされ、視界を奪われていた馬が嘶き、御者が必死に手綱を引いた。


 追っていたオーガたちの足並みが一瞬だけ乱れる。


 その隙に、俺は前へ出た。


 手に持つ小さな箱を潰さないよう集中する。


 氣を薄く纏い、距離を詰める。


 最初の一体が棍棒を振り上げたが、遅い。


 一気に加速し、懐へ入り、腕の内側から肘で顎を打ち上げる。


 続けて腹へ膝蹴りを入れると、オーガの息が詰まり、膝が折れる。


 次の一体が横から来るのを視てから、拳を避けて脇の下へ肘を差し込み、足を払った。


 倒れかけたところへ肩を当てると、巨体は思ったよりも簡単に地面へ転がった。


 レオンも続いていた。


 正統派の槍術で間合いを取り、踏み込みを潰し、膝や肘を正確に崩していく。


 「おいおい……」


 後ろでドゥールが苦笑し、腰の袋へ手を入れた。


 取り出されたものを見て、俺は一瞬だけ眉を顰めた。


 大きなハンマーだった。どう見ても、袋よりハンマーの方が大きい。


 マジックバッグだとは聞いていたが、実際に目の当たりにすると、妙な光景だ。


 以前、リラの弁当が小さな袋から次々と出てきたのを思い出した。


 「こういう時のための、切り札だ」


 ドゥールが足を開き、両手で柄を握る。


 一振りすると、鈍い音が平原に響き、オーガの身体が後ろへ吹き飛んだ。


 鎧ごと叩き、勢いごと持っていく重い音が草原に響いた。


 形勢が一気に変わり、残ったオーガたちの足が止まる。


 鬼の女は、動いていなかった。


 巨大な扇を片手に下げたまま、俺の動きを目で追っている。


 怒りでも焦りでもなく、何かを測るような目だった。


 しばらくして、女の口元がほんのわずかに動く。


 女は残ったオーガたちを一瞥し、扇を振ると、霧が再び立ち上る。


 白い幕が地面から広がり、倒れたオーガたちの輪郭まで飲み込んでいく。


 「撤退だ」


 低い声が霧の奥から聞こえ、少しすると、群れの気配が薄れていく。


 足音は遠ざかり、霧は風に流されるように薄れていき、街道には馬車と、荒く乱れた土だけが残った。


 御者が息を切らしながら馬を宥め、揺れの残る車体の扉が内側から静かに開いた。


 中から、一人の女が降りてくる。


 黒に近い深い紫の長い髪が、肩から胸元へと流れていた。


 胸元の大きく開いた黒いドレスは旅装としては目立ちすぎるが、不思議と彼女自身の気配から浮いていない。


 首元には、砕けた赤い魔石を嵌め込んだネックレスが揺れている。


 右手の小指には銀色の指輪。右耳だけに、赤いピアスが光っていた。


 一瞬、彼女と目が合った。深い瞳が、こちらを捉える。


 しかしその視線はすぐに逸らされた。


 女はドレスの裾を軽く押さえ、静かに頭を下げた。


 「……助けていただき、ありがとうございます」


 声は澄んでいて、柔らかかった。


 レオンが、一瞬だけ言葉を失う。槍を持つ手がほんの少し下がり、喉が一度だけ動いた。


 「い、いや……無事でよかった」


 少しだけ、声が裏返っている。


 ドゥールがそれを見て何か言いかけたが、結局やめた。


 俺は箱の包みがずれていないかだけ、指先で確かめていた。


 壊れていない。よし。


 女は、カルミラと名乗った。


 名乗り方も礼の角度も、整っている。


 旅の途中で襲われた者にしては、呼吸が落ち着いている。


 「この恩は、忘れません」


 カルミラはそう言って、もう一度丁寧に頭を下げた。


 レオンは視線を王都の方へ向ける。城壁はすぐそこにある。


 「王都はすぐそこだ」


 それから少しだけ考えるように槍を握り直した。


 「よければ、護衛します」


 カルミラは微笑んだ。


 「心強いです」


 俺とドゥールも馬車の方へ近づこうとしたが、レオンが首を振った。


 「いや」


 軽い調子に戻そうとしているが、目はまだカルミラの方を気にしていた。


 「遅くなると、またタマが心配する。それに門はすぐそこだ。ここからなら俺だけで十分だ」


 タマを心配させたくないというのも、門が近いというのも、どちらも嘘ではないだろう。


 俺は少し考えてから、頷いた。


 「……分かった」


 ドゥールがレオンの肩を軽く叩いた。


 「気をつけろよ。《羅刹》が出たのは、気になる」


 「分かっています。門番とギルドにも報告しておきます」


 レオンは槍を担ぎ直し、馬車の横についた。


 カルミラは乗り込む前に、もう一度こちらへ目を向ける。


 その視線が一瞬だけ俺の手元の箱へ落ち、それから何も言わず、静かに馬車の中へ消えた。


 御者が手綱を引き、馬車は再び動き出す。


 俺はしばらくそれを見送ってから、棲家の方へ歩き出した。


 街道には、先ほどまでの霧の名残がわずかに残っていた。


 草の先が濡れ、踏み荒らされた土の匂いが少し強くなっている。


 「……甘味は無事だな」


 思わず、口に出た。


 さっきまで影に消えていたノクティスが、いつの間にか肩に現れ、また箱を見つめている。


 その視線は、どこまでもしつこかった。


 「駄目だ」


 言うと、ノクティスは小さく影を揺らした。


 *


 教会の奥、外からの光の届かない部屋に、水晶の淡い光だけが浮かんでいた。


 祭壇の前に置かれた通信専用の水晶の前には、ひとりの男が立っている。


 カイラン・ブランク。


 銀色を基調とした鎧には傷があり、靴にも泥が飛んだ跡が残ったまま。


 口を開く前に一度だけゆっくりと息を吐く。


 それでも彼の視線は、水晶から逸らされない。


 「……天網の狂帝と、接触しました」


 カイランの声は淡々としていた。


 水晶の向こう側にいる者たちは、誰も言葉を挟まない。


 「俺では、勝てませんでした」


 そこで、誰かの息を呑む音が水晶を通して小さくこちら側に漏れる。


 カイランは表情を変えることもなく報告を続ける。


 「帝国の勇者パーティーは……天網の狂帝と、引き分けたようです。本部の情報と照合すべきですが、少なくとも討伐には至っていません」


 向こう側で椅子が倒れる音が聞こえた。


 「以上が、現地の報告です」


 しばらくの間、沈黙が落ちる。


 やがて、向こう側からヒソヒソと話し声が漏れる。


 カイランは口を挟まず、その場で姿勢を正したまま、じっと待っていた。


 少しして、誰かが、呟くように声を漏らす。


 「……聖女を、呼んだ方がいいかもな」


 カイランの指がわずかに反応する。


 だがそのまま、挨拶もなく通信が途切れ、水晶の光は音もなく小さくなり、やがて完全に消えた。


 聖堂は先ほどよりも深く沈んだように静けさを取り戻す。


 カイランは手を握り締め、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。


 *


 食事の湯気が、洞窟の天井へゆっくりと溜まっていく。


 肉を焼いた匂いが部屋を埋め、そこへ煮込まれた野菜の甘さが重なっていた。


 卓を囲んでいるのは、俺、タマ、アウル、アルティシア、ドゥール。


 イバラキはいつも通り、皿を運んだり、酒をついだりと卓の周りで動いている。


 箸やフォークが器に触れる小さな音と、誰かが盃を置く乾いた音が、静かに広がっている。


 俺はふと、盃を手元に置き、湯気の向こうにいる皆を眺めた。


 タマはいつものように、まず甘い味のものがないか探すように皿を見ている。


 アウルはその隣で、タマの動きを真似るように箸をぎこちなく使っている。


 アルティシアは見慣れない道具を、まだ遠慮が残る手つきで触る。


 ドゥールは飯を食いながらも、酒を気にしている。


 イバラキは相変わらず姿勢が崩れず、食卓の上の減り具合まで自然に見ていた。


 この場の音が、耳を通って身体の内側を温かくする。


 「……レオンさん、遅いね」


 タマが、何気なく言った。声は軽い感じで発せられたが、目には不安が視える。


 「馬車の女性が美人だったからだろう」


 ドゥールが笑いながら言い、盃を傾ける手つきは雑だが、視線だけはタマの反応をそれとなく見ている。


 「そろそろ身を固めてもいい年だしな。放っとけ、放っとけ」


 アルティシアが、少しだけ困ったように微笑んだ。


 俺は口を開きかけた……が、その前に箸が止まった。


 いや、”止めた”。


 椀の中に、橙色のものが視えた。俺の椀には”絶対”に入っていないはずの物だ。


 俺はしばらく、それを視ていた。


 「……やはり、人参が、入ってる……俺の椀の中に」


 ぽつりと口にすると、タマが箸を止め、首を傾げた。


 「え? そう?」


 ドゥールも器を覗き込み、「分からんぞ?」と言う。


 アルティシアも同じように椀の中へ目を落としてから、少し不思議そうにこちらを見た。


 「ニンジンが入ってると、何か問題なんですか?」


 その問いに答えたのは、イバラキだった。


 「お館様は、人参が苦手です」


 ただ事実として淡々と伝えられた言葉。


 俺はゆっくりと顔を上げると、自分の頬がわずかに引き攣るのがわかる。


 「……なぜ入れた」


 イバラキは皿を運ぶ手を止め、少しも悪びれずにこちらを見た。


 「また、黙って出かけた罰です」


 タマが両手を組み、即座に頷く。


 「うん、それは仕方ないね」

 「はははは! 家庭内制裁だな!」


 それを聞いたドゥールが腹を抱えて笑い、洞窟の中に声が響いて、天井に溜まっていた湯気がその声に揺れたように視えた。


 俺は何も言わなかった。文句はある。大いにある。


 だが、ここで言い返しても勝ち目はない。


 イバラキは俺の体調管理という名分を持っており、タマは黙って出かけたことをまだ根に持っている。


 ドゥールはただ面白がっているだけだが、こういう時に余計な火を足す男だ。


 アウルがこちらを見上げ、そして俺に見せるように、匙でその料理をすくって口へ運ぶ。


 小さな口でゆっくり噛み、飲み込んでから、なぜか少し胸を張りながらこちらを見た。


 俺は視線を返すと、アウルの口角がわずかに上がる。


 場が和むのはいい。しかし、このままでは少し面白くない。


 俺は椀を置き、懐に手を入れた。


 何重にも包んでおいた小さな箱を取り出す。街道で何度も確かめた包みは崩れておらず、中身もおそらく無事だ。


 「……これ」


 タマに差し出す。リーネに聞いて買った、新作のチョコレート。


 タマの目が、少しだけ丸くなるが、すぐに手を伸ばしかけて、途中で一度だけイバラキを見た。


 まるでこの場で受け取っていいかを確認するような動きだった。


 イバラキは何も言わなかったが、ほんのわずかだけ目を細めた。


 タマは包みを受け取り、両手でそっと持った。


 「……ありがとう」


 声が少し柔らかくなる。それから今度はイバラキへ顔を向けた。


 「イバラキ、やり過ぎはよくないよ?」


 ドゥールがまた大声で笑った。

 

 アルティシアもこらえきれなかったのか、口元に手を添えて小さく吹き出す。


 肩の力が抜け、ほんの一瞬だけ、年相応の女の顔が覗いていた。


 食卓は、また動き出す。


 夜は静かだった。洞窟の外からは、風が草を撫でる音がかすかに聞こえる。


 俺は盃を持ち上げ、少しだけ酒を含んだ。


 皆で飲む酒の味は悪くない。だが、レオンはまだ戻って来ない。


 タマが、ふと窓の外を見た。箸を持つ手が止まっている。


 視線だけが洞窟の入口よりも遠く、王都の方角へ向いていた。


 「大丈夫かな……」


 その声は、先ほどよりも小さかった。


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