第8話 新しい秩序が芽吹く
天網の狂帝は感情の読めない金色の瞳で、勇者を見ていた。
その眼差しは、勇者を映しながら、勇者を勘定している。
狂帝の周囲では、二十四の刻印が静かに浮遊している。
それらは円を描くように空間へ浮かび、互いの距離を保ったまま、硬質な音を鳴らしながら回転していた。
夜の森の空気が、少しずつ乾いていった。
湿った土の匂いが薄れ、鉄を舐めたような嫌な気配が鼻の奥に残る。
「個の武と欲望__」
低く、冷めた声だった。
狂帝は勇者をじっと見据えたまま、淡々と続ける。
「やはり、お前も面白い」
狂帝の右手がゆっくりと上がった。
その手に握られていた黄金の長槍がかすかに光り、槍の周囲にある空間そのものが、無理やり形を変えられるように歪み始めた。
距離が曖昧になり、足元の草がそこにあるはずの位置から一瞬だけズレて見える。
普通の魔法とは違う。
魔法が世界から力を借り、形を与えるものだとすれば、これは借りるという過程を踏んでいない。
あらかじめ定められていたはずの前提を、後から別の文字で上書きしている。
勇者パーティーは得体の知れない気配に、皮膚の下を蟲が這うような錯覚を覚えた。
「勇者。お前のような者がいるから、世界から悲鳴が消えない」
告げる声には、先ほどの演説のような熱はない。
だが、風の向きが変わる。
勇者の肩にかかっていた外套の端が揺れ、その足元で乾いた葉が一枚、音もなく飛んでいく。
狂帝はそれすら見ていないまま、勇者という一点だけを見据えている。
「勇者という特異点を、ここで抹消し、無理矢理にでも俺の戦士にしてやろう」
勇者は笑った。
喉の奥が鳴り、奥歯が軋んだ。それでも、口角は上がっていた。
握り締められた”聖剣”の刃の周りに小さな雷が発生する。
「やってみろよ、化け物!」
地を蹴った瞬間、勇者が消えた。
勇者の身体が前へ出る。
踏み込みが、己の足音すら置き去りにし、聖剣の光が細い線となって狂帝の喉元へ迫る。
だが、天網の狂帝は瞼すら、ほとんど動かさない。
彼の前に浮かぶ刻印の一つが、赤黒く輝いた。
回転していた二十四の輪のうち、たった一つが前へ滑り出し、勇者と狂帝の間に薄く立つ。
空中に刻まれたのは、一つの文字だけだった。
“停止”。
”キィィィィン”と、耳ではなく骨の髄に響く音。
それは勇者が聴き慣れた、剣と何かが打ち合った音ではなかった。
勇者の剣は、狂帝のすぐ手前で止まっていた。
刃先はあと指一本分も進めば喉を裂ける位置で”停止”している。
見えない壁に阻まれているのではなく、進むという現象そのものが存在を消された感覚。
勇者の額に血管が浮いた。
「……勝手に止まったぞ、おい!」
怒声が夜の森に響き渡る。
その声に応じるように、背後で詠唱が始まった。
大魔導士が杖を掲げ、賢者が低い声で付与をパーティーに重ねる。付与を得た、戦士と武闘家が腰を落とし前へ出る。
森の空気が荒れ狂う。
本来ならば穏やかに流れているはずの風が、渦を巻き、勇者たちの周りでひとつの大きな潮になっていく。
幾つもの詠唱の節が唱えられ、杖の先に光が集まり、放たれる。剣や拳に刻まれた術式が激しく燃えた。
これまで、数えきれないほど繰り返されたであろう連携に乱れなど存在しない。
狂帝は最低限の動きの中、その光景を冷ややかに見下ろしていた。
左眼の奥で、金色の輝きがわずかに強まる。
「……無駄だ」
その小さな一言が置かれた瞬間、勇者たちの連携の間に小さな乱れが生まれた。
勇者たちの攻撃が途切れたのではない。気づいたら、その力をどこへ向ければよいのか、一瞬だけ迷った。
「俺のルールの中では、お前たちの正義も、魔力も、すべてはただの“現象”に過ぎない」
槍の穂先が、静かに下がると同時に、狂帝の周囲を巡っていた刻印がすべて音を変えた。
森の空気が重くなる。
勇者はニヤリと笑い、聖剣に宿る雷が激しくなる。背後に生まれた魔法陣が幾重にも広がる。
「おい、魔王! 気に入ったぜ。簡単に壊れてくれるなよ」
二つの巨大な力が、真正面からぶつかり合おうとしていた。
ひとつは、個として立ち、剣を振るい、仲間と共に世界へ殴り込みをかける力。
もうひとつは、個を誤差として捉え、世界の規則そのものを書き換えようとする者の力。
その先に何があったのかは、誰も知らない。
ただ、この森には、ほかにも息を潜めていた者がいた。獣も、はぐれものも、国の目を逃れた者も。
戦いが過ぎたあと、彼らは一人として戻らなかった。
勇者と魔王がぶつかったその場所は、生きるものの存在を許さない、絶死の空間へと変わり果てていた。
*
王城の一室は、静まり返っていた。
窓の外ではとうに夜の支度が進んでいるはずだが、分厚い石壁と、重い扉がその全てを遮っていた。
外の世界が遠い、と感じさせる静けさ。
机の前に立つハルが、短く息を吐き、その音が、室内に小さく溶けて消える。
「……本当によかったんですか?」
感情の温度をわざと抜いた、率直な意見だった。
ルキアスは書類から目を離さない。羽根ペンを走らせたまま、淡々と答えた。
「これが、私の選択だ」
ハルはそれを聞いて、わずかに眉を動かす。
わずかな間を置いて、ルキアスはもう一押しだけ言葉を足す。
「妹を守れない男が、国を守るなんて言ったら__」
ルキアスの手がそこで一度だけ止まり、それからまた、静かに動き出す。
「それは、ただのホラ吹きだよ」
言葉には、特に強い意志や感情が載るわけでもなく、ただ、淡々と口にされた。
ハルは今度こそ、黙った。
それでも、すぐに引き下がりはしない。彼が忠義を示す方法は、耳に痛いことを最後まで言い切ることだと決めている。
「……陛下は、実の息子だからといって、甘くはならない方ですよ」
ハルの言葉には、温度があった。ハルなりの不器用な気遣いだったかもしれない。
ルキアスはようやく顔を上げた。書類から目が離れ、ハルの顔に穏やかな視線が届く。
「自分の父親だ。誰よりも、理解しているさ」
ルキアスの表情には、恐れや迷いがないわけではない。ただその声は静かでよく通る。
ヴァルクスを帝国へ向かわせたのは、ルキアス自身の判断だ。
最終的に動くかどうかの裁量は、現場のヴァルクスに委ねた。
もし失敗すれば……その時は、ルキアス自身が腰を上げるつもりだった。
誰かに命じるのではなく、誰かに押しつけるのでもなく、自分が向かう。それだけのことだ。
”導く。選ばせる”。
ルキアスが自分に課した、静かな秩序だった。
*
川の流れは、もう穏やかだった。
つい先刻までこの一帯に張りつめていた魔族の圧は消え、川面には何事もなかったかのような月光が揺れている。
流れる川の音と匂いが、風に混じってゆっくりと流れていた。
だが、何も残っていないわけではない。
川原の石はところどころ砕け、濡れた砂地には不自然な線が刻まれたまま。
その川原に、三人の狂帝の騎士たちが倒れていた。
ひとりは岩のそばで仰向けに、もうひとりは浅瀬の手前で横向きに、最後のひとりは草むらに半ば身体を預けるようにして動かない。
意識はないが、胸はかすかに上下していた。
その他にも、帝国の騎士も数十人単位で倒れている。
ドゥールが念のために持ち込んだ紐型の魔力抑制の魔道具が、狂帝の騎士三人の腕と胴をそれぞれ縛っている。
見た目はただの細い紐に近いが、内側に通した魔力の流れが相手の魔力の巡りを押さえ、無理に動けば締めつけが強まる仕組みだ。
その少し離れた場所で、イバラキが新しい魔道具、《破邪の外套》についた埃を軽く払っていた。
外套の黒い布地が、川風を受けて静かに揺れる。
焦げ跡などの汚れや傷は一切なく、ただ、裾にこびりついた埃だけが、イバラキが戦ったことを示していた。
ドゥールはしばらくその光景を見てから、ゆっくりと息を吐いた。
肺の奥に残っていた緊張が、ようやく外へ抜けていく。
「こりゃあ、また……随分とあっさり終わったな」
飾るつもりのない、率直な言葉。
向かいに立つイバラキは、刀に手をかけることもなく、倒れた者たちを見ている。
その横顔には勝った者の昂りも、敵を退けた者の安堵も浮かんでいない。
「ドゥールが相手方の魔力を、抑えてくれたおかげです」
淡々とした声が返る。
ドゥールは、思わず倒れた狂帝の騎士たちへ視線を戻した。
いずれも、そこらの兵ではない。
槍や魔力の扱い、狂帝陣営の特殊な魔法の展開、そのどれを取っても、狂帝に前線を任されるだけの力量はあった。
普通なら、こちらが準備をしていても無傷で済む相手ではない。
それを、イバラキは鬼にもならず、刀も抜かず、必要な分だけの氣と体術のみで、潰していった。
極大魔法で倒したと聞いたほうが理解しやすい。
だが、大きな音を立てて吹き飛ばしたわけではない。
相手が踏み込む前に氣を当て、詠唱が終わる前に顎を蹴り上げ、槍の穂先の軌道を見切って拳を放つ。その繰り返しで、気づけば三人とも地に伏していた。
その後、ゲドーマルたちを追ってきたであろう帝国の騎士は口を開く前に鎮圧された。
「……理屈じゃ、説明できないな」
ドゥールの声はほとんど独り言だった。
確かに準備は万全にしてきた。
魔力抑制の魔道具も、《破邪の外套》も、”最悪”を想定して持ち込んだものだ。
相手が魔法を展開した場合、イバラキが敗れた場合、どう戦うか、どう逃げるか。
川の流れを利用して視界を切る方法まで、頭の中では組んでいた。
だが、実際に決定的だったのは、道具の出来などではない。
イバラキが、こちら側に立っていたことだった。
それだけで、戦いにもならない。
「なるほどな……」
ドゥールは、苦笑するしかなかった。
「大将が、普段あれだけ酒のことしか考えていないのに、生き延びてきた理由が……よくわかる」
イバラキはそこでようやく首を傾げ、その後、微笑む。
川音の中で、静かな声が聞こえる。
「……お館様は、あれでいいんです」
そこで一度だけ、イバラキの目が遠くを見る。
「そう望んだ方がいました……私も、同じです」
自分が支えているからだとも、守ってきたからだとも言わない。ましてや、ゲドーマルの苦手を補っているなどとは、欠片も思っていない顔だった。
あの人はあれでいい。
彼女は、ゲドーマルのいいところも悪いところも認めている。
それだけを、疑っていなかった。
ドゥールは何か言いかけたが、結局、口を閉じた。
この女にとって、強さは誇るものではないのだろう。
役割を果たすために、そこにあるものだ。
刀を抜くか抜かないかも、鬼になるかならないかも、すべてはその時に必要かどうかでしか決まらない。
イバラキは再び川へ視線を戻し、外套の裾についた最後の土を指先で払った。
その時、川面に大きな影が落ちた。
水の上を流れていた月光がふっと暗くなり、次いで、川風が逆巻く。
草が一斉に伏せ、ドゥールの髭の端が強く煽られた。
ドゥールは反射的に空を見上げる。
そこにいたのは、古竜の姿を取ったアウルだった。
巨大な翼が空をゆっくりと押し、風そのものを従えているように悠然と旋回している。
その背に、人影が見えた。
白銀の髪が風に流れている。
こちらに気づいたのだろう。タマは古竜の背の上で身体を少し乗り出し、片手を大きく振った。遠目にも分かるほど、楽しそうだった。
まるで、少し遠くまで散歩に出て、無事に戻ってきたと知らせるような仕草だった。
ドゥールは、肩の力が抜けるのを感じた。
「向こうも……無事、終わったようだな」
静かな呟きだった。
イバラキは空を見上げたまま、一度だけ頷いた。
静かに流れる川。
空を旋回する古竜と、その背で手を振る仲間。
ドゥールはもう一度だけ息を吐いた、自然と口元が緩むのを抑えられない。
川の匂いが、少しだけ濃くなった気がした。
*
帝国国境付近。
ゲートタワーから、十分に距離を取った。
街道を跨ぐように建てられた石造りの塔は、遠く背後で変わらずそびえ建っていた。
人の往来を管理し、国境を守るために築かれたはずのその姿は、離れた場所から見てもなお大きい。
だが最早、その巨大な建物が何を守っているのかわからない。
リラは、もう振り返らない。ゲドーマルやタマを助けるため、前へ踏み出す一歩一歩に力が入る。
アルティシアも前だけを見て歩いている。
その後ろに、ヴァルクス、ガルム、エルネストが続いた。
歩調に合わせて鎧の金具の擦れる音だけが小さく聞こえる。
国境付近の草は背が低く整えられており、風に揺れても匂いが薄い。
その背後から、足音が追いついてきた。
「待ってください!」
鎧の擦れる音が、乾いた道を通って近づいてくる。
息を切らした若い騎士が一人、必死に距離を詰めていた。
兜の下から漏れる呼吸は荒く、胸当ては上下に揺れ、土を蹴る脚は少し揺れている。
それでも足を止めないのは、伝えなければならないことがあるからなのだろう。
「エーベルハルト卿!」
呼ばれても、ヴァルクスは足を止めなかった。
「何だ」
短い返事だけが、肩越しに返る。
若い騎士は一瞬だけ言葉が詰まり、足を止める。
相手が振り返らないことに戸惑ったのか、それとも、言うべきことが言い出しづらいのか。
だが、彼はすぐに顔を上げ、声を強めた。
「いくら貴殿が侯爵といえど、今の行動は明確な王命無視です。直ちにお戻りください。処罰の対象になります」
その声には妙に温度がなかった。
自分の本心から出た言葉ではなく、命じられたものを、命じられた形のまま、ただ伝えた声。
ヴァルクスは歩きながら、わずかに肩を揺らした。
「休暇に、何をしようが……俺の自由なはずだ」
「そんな屁理屈、通りません! 今なら、無かったことに出来ますよ」
若い騎士の足音が、さらに近づく。
その瞬間、ヴァルクスがぴたりと足を止めた。
前を歩いていたリラの肩がわずかに上がる。アルティシアも立ち止まり、淡い金色の髪が風に小さく流れた。
ガルムとエルネストは、互いに視線を交わすこともなく、自然と周囲へ意識を散らす。
ヴァルクスは、ゆっくりと振り返った。
表情は変わっていない。
だが、その目の奥にあった温度だけが、すっと消えた。
「黙れ」
低い声が、地面を這うように響き渡る。
若い騎士の喉が動き、続く言葉がそこで止まる。
ヴァルクスは一歩も近づかなかった。
ただその場に立ち、相手を見据えるだけで、二人の間にある距離が急に広がったように感じられた。
「騎士としての誇りを捨てたものが、俺に近づくな」
それ以上は、何も言わなかった。
その横で、リラの中に押し込められていたものが、音もなく弾けた。
「……もう、いいわ」
低く、吐き捨てるように言い放つと同時に、リラが一歩、前へ出る。
赤い髪の奥で魔力が一気に跳ね上がり、空気が肌を痺れさせる。
次の瞬間、細い雷光が彼女の指先に集まり始めた。乾いていた草が、雷に反応するように小さく震える。
若い騎士が声すら出せないまま、腰を抜かし、尻を土につける。
「あんなゲート、吹き飛ばしてやる」
風向きが変わった。
ゲートタワー側から、明確な警戒の気配が届く。
見張りの者たちが息を呑み、魔導士が詠唱に入る準備をしているのが、遠くからでも分かる。
だが、リラの怒りは収まらない。
「そうすれば、王命も何も関係なくなるでしょ!」
雷が濃くなる。
指の間で光が弾け、空気に焦げた匂いが混じった。リラが詠唱に入ろうと唇を開く。
「隊長!」
エルネストが慌てて横から腕を掴んだ。
力ずくで押さえ込むには足りない。けれど、今ここで止まらなければ二度と引き返せないと、本気で引っ張る。
「流石に、それはやり過ぎです!」
反対側から、ガルムも慌てて身体を寄せる。
彼はリラの肩へ手を添え、押さえつけるのではなく、支えるように低い声で言った。
「落ち着け。今やったら、全部ぶち壊しだ」
リラは振り払おうとした。
雷が指先で跳ね、エルネストの衣をかすかに焦がす。焼けた布地の匂いがほんの少し立ち、エルネストの顔が強張ったが、それでも彼は手を離さなかった。
リラの腕が、途中で止まり、喉の奥が鳴る。
胸の奥で燃えているものも、そこにある正しさも、たぶん変わらない。
それでも、二人の声がリラの自制心を呼び戻した。
隊長を諫める部下の声ではなく、仲間として、それでも今は止まれと言う声がリラを引き戻す。
リラは歯を食いしばったまま、ゆっくりと息を吐く。
指先に集まっていた雷が、細かく弾けて消えていく。
風が戻り、草の揺れが止まった。
そのやり取りを、ヴァルクスは一切見なかった。ただ、アルティシアの方へ向き直る。
「殿下。先を急ぎましょう」
アルティシアは短く頷いた。
その時、空が鳴った。
頭上を大きな影が覆い、草原に落ちていた月明かりが一瞬だけ暗くなる。
風が巻き上がり、短い草が一斉に伏せた。
誰もが反射的に顔を上げる。
そこにいたのは、古竜、アウル=ヴェイル。
巨大な翼が空を押し、風そのものを従えるように、ゆっくりと高度を下げている。
その背には、いくつもの人影が見えた。
ヴァルクス、ガルム、エルネストが即座に構える。
ハルバードを握る手には力が入り、足は自然と間合いを測る位置へ滑る。
先ほどまでリラを止めていた二人の顔から表情が消え、臨戦の呼吸へと切り替わる。
リラがすぐに声を張った。
「待ってください!」
彼女は一歩前へ出て、空から降りてくる竜と、武器に手をかけた仲間たちの間に立つ。
「……仲間です」
その一言で、空気が止まった。
古竜を前にして、警戒を解ける者などいない。
それでも、武器は向けられなかった。
アウルは風を抑え、ゆっくりと草原へ降りてくる。
翼が最後にひとつ大きく揺れ、地面の砂が円を描いて舞い上がった。
風の向こうから、見慣れた気配が近づいてくる。
リラは小さく息を吐き、仲間たちの手が、わずかに緩むのを背中で感じていた。
*
草原に出た瞬間、空気が変わった。
この土地の草は、匂いが薄い。
踏みしめても青い香りはほとんど立たず、吹き抜ける風もどこか乾いていた。
背後にゲートタワーがあり、向けられた警戒の視線が振り返らなくても分かる。
だが、誰も塔のほうへ顔を向けようとしなかった。
気づけば、随分な人数が集まっていた。
タマが手を後ろに組み、微笑みながら俺を見ていて、レオンとカイランが何か話している。
ドゥールは荷物を抱え直しており、イバラキはいつものように俺の半歩後ろへ静かに在る。
アウルは少年の姿で短い草の上に立ち、ノクティスは俺の肩で小さな影を揺らしている。
そこへリラとアルティシア、ヴァルクス、ガルム、エルネストが加わった。
……多いな。
胸の内でそう思ったが、それでも不思議と騒がしくはなかった。
それぞれが互いの無事を確かめるように視線を交わし、必要な言葉だけを交わす。
安堵はある。けれど、笑い声が弾けるような軽さはなかった。
背後にそびえるゲートタワーの気配と、ここまでの出来事が、まだ全員の肩に残っている。
ノクティスはいつの間にかタマの肩の上にいて、俺がちらりと視ると、その影の輪郭がいつもより少しだけ尖っていた。
……少し、不満らしい。
タマもそれに気づいたのだろう、肩越しに小さく影を見やって、困ったように笑う。
「後でね」
ノクティスの影が、ほんのわずかに揺れた。
納得したのか、不満をひとまず飲み込んだだけなのかは分からない。
ただ、タマの肩から離れようとはしなかった。
無事を確かめ合う声が、静かに交わされていく。レオンがリラに短く頷き、リラもそれに返す。
カイランはヴァルクスたちを一度だけ見て頷き、すぐに周囲へ視線を戻した。
ドゥールは荷物の留め具を確かめながら、この辺りに味方でない者が潜んでいないかを探っている。
その中で、イバラキが一歩、前に出た。
向かう先はリラ。
リラもすぐに気づき、まっすぐに顔を向ける。
「あなたが……近衛騎士隊長リラ・ヴァン・ストライゼンですか?」
イバラキの声は静かだった。
「ええ。あなたは?」
リラがそう返した瞬間、空気が止まった。
風が消え、草の音も消え、肌に見えない圧が叩きつけられた。
”殺気”。
この世界で”初めて”放たれたそれは、生きるものの、ほぼ全てを絶望に落とす。
存在を正確につかみ、逃げ場を奪う、圧倒的な圧だった。
この場の者たちが、反射で距離を取る。
ヴァルクスの手がハルバードを強く握り、ガルムとエルネストもほぼ同時に間合いを変えた。
カイランは聖剣を抜いた。
リラの背後で、アルティシアの息が小さく止まる。
ゲートタワーの方からざわめきが走り、この場のほぼ全員が動けなくなっていた。
レオンとドゥールでさえ、息を詰めている。
リラは、微動だに出来なかった。
全員の額から汗が頬を伝う。
俺とタマ以外は、誰もこの密度を知らない。
イバラキは、ただ立っていた。
それでも、逃げ場はなかった。
「……二度と__」
イバラキの声は低く、澄んでいた。
「二度と、お館様に刃を向けないよう、お願いします」
リラの喉が小さく鳴る。
肩に力が入り、指先がわずかに震えていたが、それでも彼女は目を逸らさなかった。
「……は……い」
辛うじて喉から出た、掠れた返事が聞こえる。
イバラキはそこで殺気を引いた。
張りつめていた空気がゆっくりと草原へ戻っていき、止まっていた風が動き、誰かが遅れて息を吸った。
短い草が、思い出したように揺れる。
イバラキの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「失礼しました」
声が少し柔らかくなる。
「この方は……ただの一度でも仲間だと受け入れてしまった相手には、刃を向けられなくなります……」
リラはその言葉を受け止めたまま、動かない。
「たとえ……ご自分が、殺されそうになっても」
草原に、静寂が落ちた。
誰かを責めているわけではなかった。けれど、その言葉はその場にいた者の胸へ、静かに響く。
「だから、どうか……お願いします」
イバラキが静かに、深く頭を下げた。
リラは息を吸い、ゆっくりと吐く。それから顔を上げ、イバラキを見て、そして俺を見た。
「……約束します。何が起きても」
声に迷いはなかった。
「たとえ、世界を敵に回しても、私は二度とゲドーに刃を向けることはしません」
強く真っ直ぐな眼差しでイバラキをしっかりと見る。
次の瞬間、ゴン、と乾いた音が鳴った。
俺の拳骨が、イバラキの頭に落ちていた。
「……やり過ぎだ」
俺がそう言うと、イバラキは即座に背筋を伸ばした。
先ほどまでの圧が嘘のように消え、黒い瞳がこちらを見上げる。
その目が、少し潤んでいた。
「申し訳ございません……」
さっきまで周囲を縫い止めていた殺気は、もうどこにもない。
そこにいるのは、叱られた忠臣がほんの少しだけ肩を小さくしている姿だった。
その背に、タマがそっと腕を回す。
「ごめんね」
タマはイバラキを抱きしめた。
「次は、私が絶対に守るから」
イバラキは抵抗しなかった。ただ、少しだけ肩を震わせる。
タマの手が、ゆっくりとイバラキの背を撫でた。
その光景を見て、ドゥールが一歩前へ出る。
「……さぁ、帰ろう」
穏やかな声だった。
その言葉に、アルティシアが口を開く。
「……皆さんは、王国へ向かって下さい。私は__」
言い切る前に、俺は彼女の頭に手を置いた。
アルティシアが、心底驚いた顔で俺を見る。
灰青の瞳が大きく揺れ、喉の奥で言葉が止まっていた。
王女として何かを言おうとしていた顔が、ほんの一瞬だけ、ただの少女の顔になる。
「アウル、頼んだ」
アウルが頷いた。次の瞬間、少年の輪郭が風に滲む。
小さな身体が空気へ溶け、そこから竜の姿が立ち上がった。翼が広がり、草原に風が走る。
短い草が波のように伏せ、ゲートタワーの方からまたざわめきが上がった。
俺は仲間たちを見渡した。
「さあ、帰ろう」
誰も異を唱えなかった。
古竜の背へ、ひとり、またひとりと集まっていく。
リラは一度だけゲートタワーの方へ視線を向けたが、すぐに戻した。
カイランやヴァルクスたちも何も言わずに後に続く。
アルティシアはまだ何かを言おうとしていたが、タマに手を引かれると静かに足を進める。
イバラキは俺の半歩後ろに戻り、ドゥールは荷物を抱え直し、レオンは周囲を確かめながら最後尾へ回った。
世界の秩序から、また一歩、離れるために。
それでも、古竜の背に集まる足音の中で、誰かの息が少しだけ緩んだのを、俺は聞いた。
ここには、確かに居場所があった。




