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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第2章 世界の正体をみる
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第6話 秩序の外にいる存在が”顔を出す”


 森の中には、まだ戦いの名残が残っていた。


 湿った土の匂いに、焼けた草木の焦げた残り香が薄く広がっている。葉と葉の隙間を抜けていく風までもが、音を立てないようにして通り過ぎていった。


 その中心で、一人だけ、何ひとつ乱れていない男がいた。


 ガグンは、苔の生した岩の上に腰を下ろしたままだった。


 片足をゆるく組み、膝に預けた杖の柄を、指先がときおり、退屈を誤魔化すように撫でている。


 視線は前を見ているのに、そこに焦点はない。戦場に中心に身を置きながら、戦場の熱から一歩離れたところにいる。


 タマの肩が上下していた。


 額に貼りついた白銀の髪の先から、汗が一筋、頬を伝って落ちる。指先には魔力がまだ巡っているが、その流れが空回って、芯まで届かない。


 その隣で、カイランの呼吸も浅い。


 握っている剣の柄が、汗で滑りかけている。聖騎士として鍛えた身体が、ここまで言うことを聞かないのは、初めてだった。剣を振り抜いたはずなのに、その剣が、いつ、どこから、戻ってきたのかが分からない。


 レオンの槍先は、辛うじてガグンを捉えていた。


 立っているというよりは、倒れないために全力をつくしているという有様だ。それでも穂先だけは下ろさない。


 三人とも、刃を下ろしていない。

 だが、刃を下ろさないことが抵抗の形になっていないことも、心のどこかで知っている。


 ここまで、すべての攻撃がほどけていた。


 斬りつけたはずの刃は、肌に届く前に逸れる。

 放った魔法は、ガグンに届く手前で、流れの向きを変えてしまう。


 距離を詰めたと思った瞬間、足が踏み出した位置を忘れる。気がつけば、最初の間合いに戻されている。


 戦っているのに近づけない。

 その一点の異常だけが、静かに三人の身体を重くする。


 ガグンの視線は、ずっとタマに向けられていた。


 鋭い視線。だが、そこに殺意はなかった。

 深い、底の見えない井戸の水の底を覗き込むような目だった。


 タマが何を選び、何を捨て、何を守ろうとするのか。

 その選び方の奥にある、その根底を見極めようとする目だった。


 タマはゆっくりと息を吸った。


 胸の奥にまだ残っていた小さな迷いを、吐息と一緒に静かに吐き出す。額に貼りついていた白銀の髪が、その吐息でほんの少しだけ揺れた。

 

 唇の端がゆるんだ。


 その気配を、レオンが真っ先に拾った。


 「タマ! ダメだ!」


 条件反射で飛び出た声だった。


 ここで妖狐としての本質を晒すこと。

 その意味は誰よりもタマ自身が一番よく知っている。


 一度、観察され、骨組みまで解析されれば、この相手に次は同じ手が通じない。タマの中身を理解している者として、次は対峙してくる。


 一瞬だけ下がったタマの顔は、笑みを作ったまま上がる。


 「大丈夫。そのまま……倒しちゃうから」


 いつもの口ぶりに、肩を大袈裟にすくめて見せる。けれど、その目の奥には、今までにはなかった緊張感がある。


 タマの魔力がゆっくりと巡り始めた。


 ガグンの目が鋭くなり、口角がはっきりと上がる。


 その時、ふっと、タマの肩口に影が静かに落ちた。

 小さな夜が、ひとかけら、生まれていた。


 半透明の輪郭は薄く、風が吹けばほどけてしまいそうだった。黒紫の体は光の加減で紺へ、漆黒へと色を移しながら、タマの肩に寄り添うように身を丸めている。

 

 その闇の中で、金色の瞳だけがはっきりと灯っていた。


 「……?」


 タマが瞬きをし、肩に視線を落とす。


 「ノクティス? ここ、危ないよ。早く戻って」


 剣を構えた者も、槍を握っている者も、岩の上で見物を決め込んでいた者ですら、視線はその精霊に奪われる。


 ガグンが目を細め、腰を浮き上がらせる。


 「……闇精霊、ノクティス……だと」


 ガグンの声には、驚きよりも歓喜に近いものが混ざっていた。書物の中にだけ存在を許していたものが、思いがけず、自分の前に立っている。


 「……闇精霊なんて」


 カイランは、乾いた笑いを、息に混ぜて吐き出した。


 「御伽噺の中にしか、いないと思ってたよ」


 聖騎士として知識はある。古い書物の片隅にだけ名は残っている。


 けれど、それは現実の森で、少女の肩に乗って、心配されながら身を丸めるようなものではなかった。


 だが、そこにいるのは、ただの闇精霊ですらなかった。


 ノクティスという存在の本来の質は、静止に近い。

 光を吸い、動きを鎮める。


 ノクティスの小さな身体には、本来、”夜“そのものが静かに宿っている。


 けれど今、その奥で、まったく別のものが、息をしていた。


 肩越しに、わずかに伝わってくる気配がある。

 ”彼”が纏っている氣。

 

 雷の落ちる前、山の奥で空気の匂いが甘くなる、あの時の張り詰め方によく似ていた。


 ノクティスはそれを己の内側へ静かに招き入れていた。


 止まる質と震える質。


 本来であれば、相容れないはずの二つが互いを打ち消すのではなく、奇妙なほど穏やかに、釣り合いを取りはじめていた。


 密度を増していき、そのまま、別の形へ姿を変えはじめる。


 半透明だった影の輪郭が、ゆっくりと濃くなっていった。


 最初に変わったのは、肩の線だった。霧のように曖昧だった輪郭が鋭くなる。

 

 次に、尾が伸びた。

 影の尾は地面に落ちることなく、空気の中でゆらりと揺れ、闇が獣の形を思い出していくようだった。


 そして、頭の上にいつもの角に加えて、新たな小さな角が、三つ、生えた。全部で五つ。


 黒い。けれど、その先端には、ほんのわずかに紅い光が滲んでいた。


 大きさは比べ物にならない。形もまだ完全とは言えない。


 それでも、その佇まいだけは、あの鬼の角を、たしかに思い出させた。


 「……嘘だろ?」


 レオンの口から、ひどく間の抜けた声が漏れた。


 タマも何度か瞬きをした。

 肩にいる小さな影と、そこから生え出ている小さな角とを、行ったり来たり、見比べる。


 ガグンだけが楽しそうに喉を鳴らした。


 「……これは、面白い」


 岩の上で身じろぎひとつしなかった男の目に、初めて、はっきりとした熱が灯った。


 「精霊が、オーガの真似事か」


 世界には、まだ自分の知らない組み合わせがある。そう言わんばかりに、ガグンはノクティスを見ていた。


 カイランは、もう笑えなかった。

 擦れた息だけが鳴り、握った剣の柄が汗で滑り落ちそうになる。

 

 目の前のものが危険なのか、奇跡なのか、その両方なのか、判断する物差しを、自分が持っていないと気づいてしまった。

 

 ただひとつ、はっきりしているのは、この場の空気が、先ほどまでとは違うものに変わっている、ということだった。


 小さな影はタマの肩の上で、まっすぐにガグンを見ていた。

 

 金色の瞳には、孤独を知る者の優しさがあった。ひとりでいる時の寂しさを知っているから、大切な誰かが傷つくのを、黙って見ていられない。


 同時に、怒りや衝動がどれほど苦しいものなのかも、その小さな身体で知っている。だからこそ、その力は暴れなかった。


 ゲドーマルが、いま、自分にどう振る舞ってほしいか。


 守るために、壊さない。止めるために、呑まれない。


 その小さな佇まいは静かだった。

 怒りを胸の奥に沈めて、それでも一歩も引かないと決めた、()の立ち方だった。


 「……これ、タマが傷つけられて、怒ってんじゃないのか?」

 

 レオンがノクティスを見ながら呟く。


 「え?」


 タマが振り向く。

 ノクティスは、こくり、と頷いた。


 角を生やし、影を濃くし、得体の知れない力を内側に溜め込みながら、それでもタマに返す反応だけは、いつもの、肩の上の小さなノクティスのままだった。


 その釣り合わなさが、張り詰めていたタマの息を、ふっ、と緩める。


 「……ありがとう」


 タマは後ろから、そっと、ノクティスを抱きしめた。

 白銀の髪が、小さな角に触れ、影の身体がほんの一瞬だけ揺れる。


 金色の瞳は、まだ、ガグンを見ていた。

 けれど、タマの腕の中で、その光はわずかに穏やかになっていく。


 その光景を、ガグンは最後まで黙って見ていた。

 それから、ゆっくりと、立ち上がった。


 膝に乗せていた杖を手に取り、岩の上から静かに地面へ降りる。

 足音は、驚くほど小さかった。

 それでも、その一歩で、森の空気は、はっきりと変わった。


 *


 川沿いに、絶え間ない水の音が流れていた。


 岩肌を削るように走る水は、白く泡立ちながら夜の風と混じって細かい飛沫を散らしている。濡れた石の匂いが、足元から立ち上がってくる。


 俺の前に金髪。右手側の岩陰に琥珀色。少し下がった位置に紺色。


 三方向の位置はもう測り終えていた。槍が届く間合い、詠唱が形を持つまでのわずかな間。


 そのすべてが川の流れる音の中で凍りつき、あとは誰が最初に動くかだけが残されている。


 「ここからは本気だ」


 俺はそう口にした。

 だが、実のところ、最初から本気ではあった。


 正直……はったりだ。


 金髪の騎士が、一歩前に出た。

 川風に揺れる髪の下で、その目だけが冷たい。肩に力みはなく、槍を握る手にも余計な緊張はなかった。

 

 鍛えられている。


 「狂帝の御方には殺すなと言われていますが、危険と判断しました。あなたは、処分いたします」


 声は冷静だった。


 来る、と思った瞬間には、金髪の騎士の足が地を蹴っていた。


 踏み込みは速く、水辺のぬかるみをものともせず体幹をまったく崩さないまま距離を殺してくる。


 それと同時に背後で魔力が膨らみ、紺色の騎士が魔導書を開いて詠唱を終わらせる。


 付与魔法の流れが金髪と琥珀色の騎士へ走り、騎士を包む。


 二人分、速度も強度も、すべてが無駄なく重ねられていた。


 金髪の鋭い突きを受け流していると、琥珀色の騎士が歓喜の声を上げながら突っ込んでくる。

 

 槍の穂先に炎がまとわりつき、ただ真っ直ぐではない軌道を描いた。火は刃の位置を隠し、熱は距離の感覚を狂わせる。


 肩に一筋、熱が走る。

 次に脇腹。浅い、だが確実に皮膚を削っている。致命傷だけは避ける。


 炎が広がり槍の軌道を覆い隠そうとした瞬間、俺は人差し指の指輪を起動した。


 指輪に溜められていた魔力を熱へと変え、薄く前へ流す。


 火というのは、固まっているからこそ燃え盛る。より合わさった縄を、一本ずつ解いてやれば、もう束ねた力は出せない。


 琥珀色の槍を纏った炎は、煙のように、形を保てなくなって薄れていった。


 「……なっ!?」


 琥珀色の騎士が、一瞬だけ固まった。


 「ゲル、止まるな!」


 金髪の声が飛ぶ。判断は速い。仲間の隙を見た瞬間に、それを埋めようと動いている。


 だが、遅い。


 俺は反対の手を伸ばし、叩かず、殴らず、ただ腹部へ触れるように手のひらを置いた。そこへ、氣を流す。


 「……?」


 琥珀色の騎士が笑った。手応えがなかったのだろう。

 鎧は砕けず、皮膚も裂けず、骨の折れる音もない。

 

 外から見れば、ただ触れられただけに過ぎないため、彼女は勝ち誇るより先に呆れたような顔をした。


 「何をした? 全然__」


 言葉が、途切れた。喉の奥で何かが詰まり、笑みが崩れ、次の瞬間、琥珀色の騎士は胸を押さえて身体を折った。


「……ごふっ」


 吐き出された血が、濡れた地面に落ちる。

 外側は壊していない、だが内側は違う。

 氣は鎧の上で止まらず身体の奥へ入り、暴れる。


 水を含む臓腑は外から殴られた時とは違う揺れ方をする。逃げ場のない震動は内側で重なり、臓腑を破壊する。


 膝が落ちた瞬間、倒れきる前に蹴りを入れると、琥珀色の騎士の身体が宙へ吹き飛ぶ。鎧が鈍い音を鳴らして川面に飛んでいく。水柱が立ち、流れが大きく割れた。


 紺色の騎士が歯を噛みしめ、魔導書を開いて文字を浮かべようとしている。


 「させない」


 俺は足元の小石を一つ拾い、指で弾いた。

 石は小さな音で飛び、紺色の騎士の額にこつんと当たった。文字は完成する前に空気に滲んで消える。


 「さっきから……こればっか。馬鹿にして……!」


 声がわずかに高くなる。先ほどまでの冷静さが失われる。

 魔導書に浮かぶ文字は確かに正しいが、それを扱う者の呼吸が乱れれば魔法はわずかに濁り、濁った魔法は形になる前に崩れる。


 「見てなさい……後悔させてやる……!」


 言葉が幼くなっていく。彼女は長い詠唱を始めたが、その声には相手を倒すための冷静さよりも、自分が馬鹿にされたことを許せない怒りが混じっていた。


 その間にも、金髪の騎士の攻撃はさらに鋭さを増していく。

 仲間が崩れ、魔法使いが怒りに呑まれかけている状況でも、金髪だけは自分の役割を見失っていなかった。


 槍の切っ先は俺の呼吸の切れ目を探り、足運びは川辺のぬかるみを避け、短く、速く、確実にこちらの動きを削ろうとしてくる。


 そして、不意に距離を取り、槍を構えて短く詠唱すると、光が集束した。


 「ーー《聖なる光の槍(ホーリー・ランス)》」


 放たれた光の槍は精度が高く、しかも速かった。

 魔力の輪郭に乱れは少なく詠唱も短い。狙いは俺の胸の中央で、避ければ次の斬撃へつながり、受ければ貫かれる、そういう組み立てだった。


 火は燃やすだけのものではない。

 炉の前に立てば、向こうの柱が揺れて見える。夏の石畳の先では、人影の輪郭が揺れる。


 熱を持った空気は、ただそこにあるだけで、目に映るものの輪郭をずらす。


 ならば、光も同じだ。

 俺は指輪の熱を、前へ薄く散らした。炎ではなく陽炎を置く。

 

 光の槍がそこへ入った瞬間、真っ直ぐだったものが、真っ直ぐでいられなくなる。


 胸を貫くはずだった白い線は、霧のように俺の前で静かに散った。


 金髪の騎士が目を見開いた。

 その驚きが消えぬうちに、紺色の騎士が魔法を放った。


 「ーー《紺碧の(アズール・)断頭刃(ウォータージェット)》!」


 川の音が、一瞬だけ細くなった。

 凄まじい圧力をかけられた水の線が、刃というより細い断絶となってこちらへ走ってくる。


 俺はすっと半歩だけ避けた。それだけで水の刃は俺の横を抜け、背後の岩を細く削る。


 石が裂け、水滴が散り、川辺の草が斜めに断たれて落ちる。


 俺は紺色の騎士を見て、フッと笑った。


 「……はぁ!? また、馬鹿にして!」


 紺色の騎士の声が跳ねた。


 その時、川の中から琥珀色の騎士が飛び出してきた。

 水を撒き散らし髪を額に貼りつかせ呼吸を荒くしながら、それでも槍を握る手だけは離していない。


 三人が一度距離を取り、改めてこちらを囲む。


 俺は、ゆっくり息を整えた。夜風が傷口を撫で、浅く裂けた肩がわずかに熱を持つ。


 俺は息を吐き、わずかに口の端を持ち上げた。


 「時間切れだ」


 氣を、引く。身体の奥へ戻すように、場に広げていた感覚を少しだけ閉じると、俺の肌の上を走っていた稲光が落ち着き、紫色に滲んでいた空気が元の色へと変わる。


 琥珀色の騎士はその変化を疲労と見たのだろう。血を拭い、口元を歪めた。


 「お疲れかい? じゃあ__」


 彼女は突っ込んできた。


 「ゲル、待ちなさい!」


 金髪の制止が飛んだが、届かなかった。


 「死ね!」


 槍が、俺へ伸びる。


 その瞬間、俺の前に影が落ちた。


 水の音が遠のいた気がした。


 人の姿だった。

 濃褐色の直垂が夜風を受けながら揺れもせず、ただそこに立っている。


 迫り来る穂先の勢いに手を添え、ほんのわずかに軌道をずらす、ただそれだけで、琥珀色の騎士の全力は行き場を失い、身体だけが前へ流れた。


 刹那、足が跳ね上がり、顎を蹴り上げられた琥珀色の騎士の身体が鎧ごと浮いた。口から血が飛び散り、視線が空に飛ぶ。


 そのまま右手を向けた。

 手のひらの先から氣が放たれ、琥珀色の騎士の身体は抵抗する間もなく弾かれ、再び川へ吹き飛ばされた。


 大きな水の音が上がり、白い飛沫が川風に散り、濡れた石の上へ降った。


 虚飾のない濃褐色の衣の奥に研ぎ澄まされた圧があり、そこに立つことが初めから決まっていたかのような現れ方だった。


 イバラキだ。


 イバラキはしばらく川面を見ていたが、すぐに冷めた目でこちらを振り返った。


 「少し目を離すと、すぐに女が寄って来ますね」


 俺は何か言おうとして、やめた。

 川の流れる音だけが、少し長く耳に残る。


 金髪の騎士は表情を変えずに槍を構え直し、紺色の騎士は魔導書を握る指に力を込めたが、先ほどまでとは違う。


 戦場の中心が、俺だけではなくなっていた。空気が変わり、ここから先は、もう次の段階だった。


 * 


 国境が見えた。


 街道の先、空に届くのでは、と錯覚しそうなほど巨大な石造りの塔が立っていた。


 左右へ伸びる城壁と繋がり、塔というより、もはや要塞のようだった。


 積み上げられた石壁は月明かりに照らされても、光を反射するというよりも、空気の全てを呑み込んでいるような重さがある。


 暗い夜の森や街道とは違った乾いた緊張がそこにある。隠す気のない、人の視線や魔道具による監視が街道の奥にまで張り巡らされている。


 そこへ、リラとアルティシアは駆け込んだ。


 身体はもう限界に近かった。

 走るたびに脚が重くなり、肺は冷えた空気を受け入れることを拒絶する。


 額に滲んだ汗は乾く暇もなく頬を伝い、リラの肩はわずかに上下していた。アルティシアは足を止めると、手で胸の辺りの衣を握り締める。倒れていないことが不思議なくらい、息が荒い。


 ゲートタワーの周囲がざわついた。


 数人の警備騎士が慌てて駆け寄ってくる。鉄の鎧が鳴り、石畳を叩く足音が響き渡る。

 

 王女が息を切らして国境塔へ駆け込んできたという事実を、彼らはまだ処理できずにいた。


 リラは乱れた呼吸を押さえ込むように息を吸い、背筋を正した。


 「こちらは、アルティシア王女殿下です」


 疲労が溜まっていても、声は揺れることなく、まだ騎士のそれだった。


 喉は乾いているはずなのに、言葉は切れなかった。

 命令系統に従い、身分を明かし、緊急性を告げる。

 彼女が積み上げてきた騎士としての習性が、疲労の中でも職務を全うさせる。


 「すぐに通してください。それと、近衛騎士を呼んで。仲間が帝国軍に襲われています」


 警備騎士たちは、顔を見合わせた。


 一人がリラを見て、次にアルティシアを見た。別の一人は塔の上へ視線を走らせ、さらに別の一人は視線を地に落とす。


 緊急性にも関わらず、誰もがすぐに口を開かない。


 やがて、全員の視線が同じように下がった。


 「……本日は、誰も通すなと」


 なんとか聞き取ることができるといった大きさの声だった。

 

 次の言葉を彼は、ただ伝令を読むように淡々と伝える。


 「国王陛下の、命令です」


 リラが目を見開いた。


 アルティシアは静かに手を握りしめた。細い指の先の爪が手のひらに食い込む。だが、彼女はすぐには口を開かなかった。


 王女として命じることもできた。

 けれどそれが、今この場で何かを動かす力を持たないことを、彼女はもう知っていた。


 代わりに、リラが詰め寄った。


 「どういうこと? 王女殿下よ」


 警備騎士は、顔を上げない。


 「本日は、誰も通すなと」


 下を向いたまま、決して視線を合わせようとはしない。


 事情を説明しようとする気配すらない。実際に詳しいことは知らないのだろう。

 ただ王命という事実だけでこの場を凌ごうとしている。


 リラが言葉を荒らげかける。

 怒りで震えるリラの肩に、アルティシアの手がそっと添えるように触れる。


 その手の重さに気づいたリラは、唇を噛みながらも一歩だけ引いた。


 アルティシアは警備騎士たちを見る。


 「……せめて、援軍を出していただけませんか?」


 冷たい夜の空気に消えてしまいそうな、静かな声だった。


 「彼らは仕事で私を守ってくれただけです。彼らが死ぬ必要は、ないでしょう?」


 警備騎士たちは答えなかった。


 塔の上を吹く風と、兵たちの鎧がわずかに擦れる音だけが耳に届く。


 リラは唇を噛みしめ、目の奥に熱を滲ませたまま、誰かが何かを言うのを待っていた。


 「なんで……それも、命令なの?」


 一人の警備騎士がようやく重い口を開いた。


 「近衛騎士隊長が倒せない相手に、我々が出来ることはありません」


 リラはその警備騎士に一歩詰め寄り即座に返す。


 「国境警備なんだから第二団が常駐しているでしょう?」


 警備騎士の喉が、上下に小さく動いた。


 「……本日は、この塔から動くなと、王命が出ています」


 アルティシアは目を伏せ、奥歯を噛み締める。


 伏せた視線の先にあるのは、自分が王女として信じてきたもの、その裏側にあるただの仕組みだった。


 王命は国民を守るためにあるはずだった。

 だが今、その王命は、助けを求める者の前で扉を閉ざしている。


 アルティシアは顔を上げた。


 「戻りましょう」


 声は落ち着いていた。

 諦めたわけではない。怒りを飲み込んだあとに残る、生まれたばかりの信念だった。


 「彼らを死なせるわけにはいきません」


 リラが首を振る。


 「アルティシア様は、ここでお待ちください。私が__」


 「どこにいても、同じよ。ここが安全とは言い切れない」


 アルティシアは静かに言った。


 「だったら、自分に正直にいさせて」


 その言葉は短かったが、今のアルティシアのすべてを含んでいた。


 ゲドーマルの声が聞こえる。


 『嘘はつくな。自分に』


 王女として命じるのではなく、守られるべき者として隠れるのでもなく、自分の足で立つ。たとえ何もできなくても、そこから目を逸らさない。


 リラは息を目一杯吸い、出来るだけゆっくりと吐いた。


 怒りも焦りも消えてはいないが、それらを全て飲み込み、彼女は騎士としての顔を戻した。


 「……わかりました。必ず、お守りします」


 その時、一人の若い警備騎士が、一歩、前に出た。


 石畳を踏む音は小さかったけれど、この場では不思議なほど大きく聞こえた。


 周囲の騎士たちが一斉に彼を見る。塔の上にいた見張りさえ、わずかに身を乗り出した。


 若い騎士の声は震えていた。


 「あの……自分、今日は、もう仕事上がりです!」


 周囲の空気が凍りついた。


 その声はあまりにも拙かった。だが、心に響く。


 「仕事は、終わりです……自分は、強くないです」


 彼は拳を握りしめた。

 手甲の下で指が軋むほど強く握っているのが、リラには見えた。

 

 怖いのだろう。


 王命に逆らえば仕事を失うだけではすまないかもしれない。


 行けば死ぬかもしれない。自分が戦場で何かを変えられるとは、彼自身が一番思っていない。


 それでも、何もしないままここに残ることの方が、きっと耐えられなかった。


 「ただ……でも……そんな自分でよければ!」


 誰も動かなかった。


 しばしの沈黙が、冷たい塔の下に落ちる。


 その肩に、大きな手が置かれた。


 「よく言った。それでこそレグナ王国の騎士だ」


 低く、そして落ち着いた声だった。


 「だが、今回は……俺らが、行こう」


 若い騎士が振り返る。


 リラも、アルティシアも、声の主を見て驚きで固まる。


 そこに立っていたのは、近衛騎士団第三団団長、ヴァルクス・エーベルハルトだった。


 赤い外套は旅塵に汚れ、鎧にはいくつかの傷がある。それでも、立ち姿は崩れていない。戦場を知る者だけが持つ、決して揺れない落ち着きがあった。


 その背後から、二人がゆっくりと歩いてくる。


 重装のガルム・アイゼンハルトは、大きな槍を肩に掛け、石畳を踏むたびに金属音を鳴らしていた。


 魔道士エルネスト・カリオンは、杖を片手に、いつもの冷静さを少しだけ緩めた顔で若い騎士を見ている。


 リラは口元が緩むのを感じる。


 胸の奥に詰まっていたものが、ほんの少しだけ緩み、別の熱が生まれる。誰かと共に立つ時にだけ生まれる、言葉にしがたい熱だった。


 彼女は、目一杯、頭を下げた。


 アルティシアの瞳が滲む。


 塔の影は、なお冷たく街道に落ちている。王命は変わらず、門は開かず、無言のまま立ちはだかっている。


 それでも、進む理由はここにあった。


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