第5話 秩序が刃になる
リラが一歩、前へ出た。
その足が地を踏んだ瞬間、彼女に纏っている雷が、張りつめた唸りのように周辺の空気を震わせ、彼女を中心に引き締められていく。
赤い髪の先がわずかに浮き上がり、鎧の表面を稲光が走る中で、リラは剣を構え、背筋を伸ばした。
「王女殿下の剣として、私はここに立ちます」
声は抑えられていた。いくつもの感情を腹の底に抑え、アルティシアを守るために立っている。
「レグナ王国近衛騎士団第三団隊長、リラ・ヴァン・ストライゼン。あなた方を王女殿下への危険とみなし、ここで排除します」
その宣言を受けて、琥珀色の女騎士が笑った。
笑い声は大きくない。だが、その目の奥に映るのは、強い者と刃を交えることに対する心からの悦びの色。
「いいねぇ……その目」
琥珀色の騎士は一歩前へ出ると、槍の穂先をわずかに下げ、地を這うような低い構えを取った。
その低さの中に不用意な隙はなく、獣が獲物を狩る時に身を沈める時のような、威圧感を醸し出している。
次の瞬間、雷が弾けた。
リラの姿は視界から掻き消え、音よりも先に衝撃が走り、剣閃は一直線に琥珀色の騎士へ迫るが、その刃は届かない。
甲高い金属音が周辺に響き渡り、槍が正確に剣の軌道を叩き落とした。
「ははっ!」
琥珀色の騎士は笑ったまま踏み込み、振るわれた槍がリラの剣とぶつかり合うたびに、雷と火花が細かく弾け、焼けた金属の匂いが少しずつ当たりに広がっていく。
互角に見えるが、実際は違う。
琥珀色の騎士は、ただ受け止めているだけではなく、しっかりと捌いていた。
リラの連撃は十分に速く鋭い。
一歩間違えれば鎧ごと身体を斬られるだけの威力も持っている。
それにもかかわらず、あの騎士は嬉々としている。刃の流れを読み、受け流し、そのうえで次の踏み込みへ繋げていた。
その背後で、紺色の女騎士が静かに魔道書を開き、詠唱を始める。
途端に、空気の質が変わる。
言葉にしづらい嫌な感じが場に広がった。
開いた本の上に文字のような幾何学的な線が浮かび始める。
それには見覚えがあった。ミルザが扱っていたものと同じ、魔法でありながら魔法とは少し違う質のものが、空気中に生まれる。
考えるより先に、身体が動く。
今回は氣を纏う。
周囲の空気が焼け、焦げた匂いが立ち込めた。稲妻に近い鋭く青い光が、俺の周りをパチパチと響きながら、空間を自由に飛び跳ねる。
弓を引いた。俺の氣に触れたまま軋みもせずにしなり、矢羽が指を離れた瞬間、空気が裂けた。
矢は音を置き去りにして飛んだが、外れた。
紺色の騎士の顔のすぐ横を掠め、背後の地面に突き刺さる。
「……ッ!?」
紺色の騎士が目を見開き、魔道書に置かれていた指が止まった。そのせいで文字が組めず、術式が消えてなくなる。
矢そのものは身体を射抜いていないが、その矢が顔のすぐ横を通ったことにより指は震え、身体と表情は硬直している。
その横で、金髪の騎士がこちらを見ていた。
視線が合う。その周囲で、空間に浮かびかけていた”何か”が、ふっと消えた。まるで仕事を終えたものが静かに姿を消すように。
俺はゆっくりと息を吐いた。
結果を変えられたか。だが、ただそれだけのことだ
……決して、強がりではない。
「……なるほど。わかりました。不思議な魔法……ですね」
俺の背後で、アルティシアが静かに言った。
その声に驚きは薄く、むしろ今、目の前で起きた現象を観察し、自分の中の魔法体系へ無理に当てはめるのではなく、別のものとして受け取るだけの冷静さがあった。
その時、琥珀色の騎士の蹴りがリラの腹部を捉えた。
鈍い衝撃音が響き、リラの身体が宙に浮いて地面を滑る。
鎧が地面を滑る音が短く続いたが、それでも彼女はすぐに立ち上がった。剣を支えにして息を整え、ひびの入った鎧をそのままに、光を失っていない瞳で前を見据える。
再び、雷と火花がぶつかり合った。
リラは明確には押されてはいないが、琥珀色の騎士は笑みを崩さず、攻めと受け流し、そのすべてにまだ余裕を残していた。
このままでは長引く、長引けば押され始めるやもしれない。
そう判断した、その時だった。
背後で魔力の流れが変わる。
アルティシアの詠唱は短く静かだったが、リラの動きがはっきりと変わった。
一歩が深くなり、踏み込みは速くなった。
剣が振るわれるたびに雷がわずかに遅れて、刃の後ろに稲光の線が引かれていく。
「……ッ!」
琥珀色の騎士が初めて体勢を崩し、楽しげだった笑みが、ほんの少しだけ崩れる。
アルティシアだ。彼女の立ち位置が変わっていた。
場や相手の魔力の流れを肌で感じ取っている。
魔女として魔法の構築を理解しているのだろう。
三騎士の連携にわずかに生まれる隙を一つ一つ手のひらで、掬うように測り直している。
「__熱の終焉を、理の停止を世界に求める――《凍結する世界》」
アルティシアの次の詠唱で、この場の音が消えた。
空気が急激に冷え、吐く息が白く滲む。
琥珀色の騎士の槍に纏わりついていた炎が、音もなく消えた。
「……冷やしたんじゃない。この場の全ての動きを止めたか」
思わず、そう呟いていた。
ただ冷やしただけなら、火はもう少し消えまいと足掻く。
湿った薪に火を移す時のように、芯に熱が残っていれば、煙が上がり、赤いものがどこかに残る。
だが、今の魔法は違った。
火が消えたのではなく、”燃えようとする働き”そのものが止められている。
熱が逃げたのではなく、熱になるための動きが閉じられた。
山の朝、霜が草の葉を白く縛る時、葉は折れるまで自分が凍ったことを知らない。川面に薄氷が張る時も、水は声を上げず、ただ流れを忘れたように静まる。
あれに近い。
アルティシアの魔法は、この場を凍らせたのではない。
この場にあるものへ、動くな、と命じたのだ。
紺色の騎士が魔道書を開こうとするが、表紙が凍りついていた。指に力を込めても本は開かず、紺色の騎士が顔を赤くして歯ぎしりする。
さらに、空中には氷の矢が浮かび始めた。一本、二本ではない。数える意味を失うほどの氷が、水と風を無理なく組み合わせた無駄のない形で次々と現れ、静かに標的を定めていく。
この状況の中で、金髪の騎士が動いた。
また、あの文字が空間に浮かぼうとする。
させない。弓を引き、矢を放つ。
俺の放った矢を、金髪の騎士は紙一重で躱した。
ただ、そのせいで詠唱が成功せず、文字は消失した。
「……条件反射も、異常だな」
アルティシアの氷の矢が紺色の騎士へ降り注ぎ、それを金髪の騎士が前に出て捌くと、槍が動くたびに氷は砕け、細かな欠片となって冷えた空気の中へ散っていった。
まるで何百回も同じ戦場に立ち、互いの欠けた部分を補ってきた者たちのように、連携に淀みがない。
琥珀色の騎士の動きが、ほんのわずかに乱れた。
身体強化されたリラへ意識を寄せた分だけ小さな隙が生まれた。決して大きな隙ではなかったが、すでに彼女の足運びの癖も掴んでる。
氣による稲光を纏った矢が空気を裂き、琥珀色の騎士に襲い掛かる。
矢は今度こそ外れなかった。
空気を裂いた矢は、琥珀色の騎士が次の一歩へ移ろうとした瞬間、その太ももへ深く突き刺さり、彼女の重心がわずかに崩れた。
頑丈だな。それなりの量の氣を纏わせたのに、突き抜けない。
「……っ!」
琥珀色の騎士の身体が傾き、その隙を逃さずリラが踏み込んだ。雷を纏った剣が振り上げられ、赤い髪が火花に照らされる。
……まずい!
「リラ!」
声が出たのはほとんど同時だった。
彼女の身体が、刃を振り下ろす寸前でぴたりと止まり、次の瞬間、リラが踏み込むはずだった通り道を、白い光線が一直線に走り抜けた。
金髪の騎士だ。
止まっていなければ、リラは鎧ごと貫かれていた。リラは舌打ちもせず、ただの条件反射で即座に距離を取り、雷の残滓を地面に散らしながら剣を構え直した。
琥珀色の騎士は片膝をついたまま、笑った。
「……今のは、危ねぇなぁ」
足には痛みがあるはずなのに、それを痛みとして受け取る気がない。
琥珀色の騎士は足に刺さった矢を乱暴に引き抜き、血が弾けて土へ散ると、それを見もしないまま槍を握る手にさらに力を込めた。
「……いいねぇ」
歯を見せて笑う、その目に浮かんでいたのは苦痛ではなく、火がさらに強く燃え上がるための熱だった。
その一方で、紺色の騎士は魔道書を再び開いていた。
表紙を閉ざしていた氷を溶かし、頁がめくられ、そこから再び嫌な文字が浮かび上がろうとしている。
金髪の騎士は何も言わず、ただこちらを観察するように、測るように見ていた。
琥珀色の騎士が槍を引くと、腕に刻まれた文字が赤く光り始める。
同時に金髪の騎士が動き、手のひらを突き出して詠唱を始めると、魔法陣の展開が始まり、光が一点へ集束していく。
リラが剣を握る手に力を込めた。逃げる気はない、受けるつもりだ。
俺は一歩前へ出た。
「アルティシア、霧だ」
彼女は即座に動いた。水と風が重なり、足元から白い霧が立ち上る。だが、それはただ視界を奪うために広がる霧ではない。
「広げるな。層を作れ。外を濃く、中心を薄く」
アルティシアの魔力がわずかに揺れ、霧は命じられたとおり空間に層を作り、濃い霧と薄い霧が重なり、目に見えない水の層が幾重にも重なった。
次の瞬間、金髪の騎士から放たれた巨大な光の槍が霧に触れ、そして曲がった。
金髪の騎士がわずかに目を見開いた。
直進していたはずの光が濃淡のある水の層によって歪み、霧の奥で細く軌道を逸らされながら、そのまま空の彼方へ抜けていく。
「燃やし尽くす! 覚悟しな!!」
琥珀色の騎士が叫び、槍の先から炎が噴き出した。
周囲の空気が一瞬で吸い込まれ、周囲の音が遠のき、匂いすら熱に押し潰されるように消えた。
一瞬の真空の後、皮膚を焼くような熱の壁が押し寄せ、巨大な螺旋の炎の槍が形を成していく。その色は濁った琥珀で、中心だけが白く、世界を削り取りながら進もうとしていた。
「《狂智・劫火殲滅槍》!!」
燃えているのは火だけではなかった。酸素も、水も、魔力も、この場に在るものすべてが槍のための燃料にされていく。
アルティシアが詠唱に入ろうとしたが、その前に俺は言った。
「金髪を見ていろ」
彼女の動きが止まる。
「これは、俺がやる」
アルティシアは一瞬だけこちらを見たあと、小さく頷き、霧を維持したまま金髪の騎士から目を離さなかった。金髪の騎士もまた動かず、興味深そうにこちらを見ている。
俺は弓を引いた。指輪に意識を集中させる。
炎が熱いのは力と力が押し合っているからだ。その押し合いが、熱と光に化けて溢れている。
ならば、逆にする。
矢に逆向きの震えを纏わせ、炎の奥を視る。うねる熱の中に形を保つための密集点があり、支点があり、核があった。
……そこだ。
矢は炎に触れる直前で空気を裂き、その芯へ突き刺さった。一瞬、すべてが止まり、爆発は起きなかった。
炎が崩れ、形を保てなくなった熱が光の粉となって散り、音もなくほどけていく。
「!?」
琥珀色の騎士が呆然とした。
俺も驚いた。
上手くいきすぎた。だが今は、考える暇はない。
「リラ!」
リラの赤い髪が重力を無視して逆立ち、周囲の空気が細かく震えている。
彼女は俺が炎を散らすより前に詠唱を始めていた。必ず相手の魔法が散ると、信じていたのだ。
雷光が道筋を描きながら、三騎士へ向かって走り出す。
「降り注げ、昏き世界を穿つ裁きの柱――《天雷墜撃》!!」
紺色の騎士が魔道書を開き、必死に文字を浮かべようとした瞬間、俺は腰から銅銭を一枚抜いて指で弾いた。小さな金属が空気を切り、紺色の騎士の額へ当たる。
「……痛っ」
紺色の騎士の集中が切れ、文字が散る。
空が落ちた。極太の雷が垂直に叩き落とされ、大地を貫き、三人の騎士を飲み込んだ。
「やった……よね?」
リラは肩で息をしていた。
俺の矢はもうない。これで倒れなければ、厳しい。
雷が収まり、焦げた空気と焼けた土の匂いが立ち込める煙の向こうに、琥珀色の騎士がいた。
膝をつきながらも倒れていない。両腕は完全に焼け焦げ、足から流れる血も止まっていないが、その背後で紺色の騎士が必死に回復魔法をかけていた。
「……あれを、耐え抜くか」
思わず、声が漏れた。
その時、金髪の騎士が槍をこちらへ向けた。その目には怒りも焦りもなく、淡々と仕事をする者の目だけがあった。仲間を下がらせ、自分が前に出る。
「リラ、アルティシアを連れて逃げろ」
口に出した瞬間、リラが即座に首を振る。
「そんなの嫌! ゲドーを置いていくなんて出来ない!」
彼女は一歩、前へ出た。
この場で正しいのは退くことだ、護衛としても騎士としても。それでも彼女は前に出る。
「自分の成すべき事を成せ」
俺ははっきりと言う。ここで大事なのはアルティシアを魔族から守ることだ。
アルティシアが俺の横に立つ。
「私も下がりません。まだ、戦えます」
その声に揺れはなかった。守られるだけの王女ではないという、強い意志が視える。
だからこそ、俺は一歩踏み出した。
「下がれ」
声に、自然と氣が乗る。
「ここは俺が抑える。お前らには……やらなくてはならないことがあるはずだ」
リラの拳が震えた。
「でも__」
「大丈夫だ」
俺は短く続ける。
「ここで死にはしない。それに考えがある。お前たちはやるべきことを見失うな」
アルティシアはそれでも動かなかったが、次の瞬間、リラが彼女の手を取った。
「……いきましょう」
その短い声に迷いはなかった。
アルティシアは俺を見て、一瞬だけ目を伏せ、それから頷いた。
二人が走り出すと、背中に殺気が走った。
「逃すか!」
琥珀色の騎士が踏み込もうとした瞬間、俺は視線を向けた。
それだけで、琥珀色の騎士は身体を強張らせ、防御の形を取った。
「ここから先は、お前らにとっての鬼門だ。通りたければ、それなりの覚悟をしろ」
理由は分からないだろう。だが、本能は告げたはずだ、ここから先に踏み込むな、と。
俺は前へ出た。
意識を切り替え、丹田に力を入れる。
周囲の空気が軋み、紫の稲光が皮膚の表面を走り、弾けた。
「誤魔化しは、終わりにする」
そう言って左腰へ手を伸ばし、太刀《終座》の隣に携えていた木刀を引き抜いた。
「ここからは、本気だ」
矢はもうない。退路もない。それでいい。
紺色の騎士が下がり、琥珀色の騎士が歯を食いしばり、そして金髪の騎士だけが正面に立った。
槍を静かに構えるその姿には怒りも昂りもなく、ただ冷めた目がある。
霧の向こうで、逃げる二人の気配が遠ざかっていく。
三騎士が構える。そして、俺も構えた。
*
森の空気が張りつめていた。
いくつもの光の線が幾何学模様を空中に描き、物理も魔法も拒む完成された防御魔法がそこに展開されていた。
騎士の周囲に正六角形の光の壁が重なり合い、衝撃を効率的に分散させている。
タマはその光景を見つめながら、目を細めた。
整いすぎている。
精密で、正確で、無駄がない。だからこそ、と思った瞬間に、声が出ていた。
「レオンさん、今!」
声と同時に風が生まれる。
タマの風は攻撃のためではなく、背中を押すために吹かせられた風だ。
レオンの身体の周りに留まり、動きを軽くし、速くする。
レオンが踏み込み、槍が光の数式のような符号の一角を叩いた。貫けないが、ひびが入る。
先ほどまでは完璧だった壁が、わずかに揺らいだ。
「よし!」
レオンが気合を入れもう一度槍を頭上に持ち上げ、ひびの入った符号を完全に破壊しにかかる。
騎士が反応する前に、タマはさらに風を幾重にも重ねた。
風が騎士ではなく、足元の土を削る。騎士たちの体勢が崩れる。符号魔法を完成させている、正確で精密な配置を崩す。
その中心でガグンが笑っていた。
「ほう……なるほど」
彼は一歩も動かなかった。
足元から漆黒の魔力が溢れ始め、不快なほど自由に広がっていく。
ただ、タマはガグンの周りにある小さな文字のような模様に気づく。
「……あれは」
ガグンはタマの視線に気づくが、すぐに静粛騎士の方に目を移す。
「精密な符号ほど、入口は狭い」
ガグンは楽しそうに言った。
「なら、そこに魔力を大量に流し込めばいい」
ドス黒い魔力が幾何学的な模様の隙間に染み込んでいく。
美しく並んでいた光の設計図が歪み、色が濁り、輪郭が崩れ、まるで熱で溶ける玩具のように形を失っていった。
「計算が追いつかないほどの絶望を、注ぎ込んでやる」
低く、愉悦を含んだ声が森に響く。
「その小細工ごと、俺の魔力で塗り潰す――《深淵の氾濫》」
地面を這う黒い魔力が騎士を包む。
符号が出口を抑えられ、魔力の発信源である騎士自身に逆流する。制御を失った白い光が鎧の隙間から漏れ出し、キィィィ、と空間が悲鳴を上げた。
ガグンが拳を握る。
次の瞬間、騎士を中心に巨大な魔力の柱が立ち昇った。
自分自身の魔力を返され、自分を壊したのだった。
森に静寂が落ちる。
ガグンは倒れた騎士を一瞥し、鼻で笑った。
「符号魔法……ふん。所詮は紛い物だな……ガッカリだ」
肩をすくめ、それからその視線がゆっくりとタマへ向いた。
「まあ、いい。本命は最初から別だ」
タマは表情を変えない。
最初から完全な味方ではない、と頭の中では分かっていたが、それよりも先に、ある確信が静かに固まっていた。
風が静かに渦を巻いた。
折れた枝、削れた地面が戦いの跡として残っている。
消えきらない魔力の残滓が鼻の奥に刺さる。
「……終わった、のか?」
レオンが思わず息を吐き、肩の力がわずかに抜けたが、タマはその横で気を抜かず、治癒の魔法を静かに流した。
レオンの腕に温かな光が灯る中で、タマの視線だけは前を離れなかった。まだ終わっていないと、そう告げるように。
大きな岩の上に、男が座っている。
ガグンは顎に手を当て、にやにやと笑いながら、まるで芝居を見終えた観客のような姿勢でそこにいた。
レオンが眉をひそめる。
「……ガグン?」
名前を呼ばれた男は、楽しそうに視線を動かした。
「獣の女よ。そろそろ正体を見せてはくれないか?」
タマは即座に一歩前に出て、レオンを背に庇うように立った。
空気が張りつめた、その瞬間だった。
「――《虚空の爪》」
一瞬だけ、黒い線が走った。
音や風だけでなく、衝撃もない。だが時間差で、その線上にあった木々と岩が上下に分かれた。
切断、空間ごと削ぎ落とされたかのような一撃だったが、ガグンは軽く身をずらしただけで、黒い線は彼の背後を通り過ぎ、髪の一房すら揺れなかった。
「ほう」
ガグンは感心したように、声を出す。
「今のは、なかなか綺麗だ」
タマとレオンが同時に空を見ると、そこから降りてくる影があった。
白いマントが風を纏い、足元に固定された上昇気流に乗るようにして、ゆっくりと滑らかな降下で地に降り立つ男がいた。
赤茶色で短めの髪に深い青の瞳、銀を基調にした鎧、右腰の聖剣、左腰の短剣、背に収まる小型の盾、そして白と金のマントが、風に静かに揺れていた。教会の飾りは外しているが、見る人が見ればすぐわかる。
聖騎士カイラン・ブランク。
「聖騎士が……なぜここに?」
レオンが思わず声を漏らした。
「カイラン?」
タマの呼びかけに、カイランはタマの顔を見て、わずかに表情を和らげた。
「間に合ってよかった」
それだけ言って、前を見る。
ガグンは目を細めた。口元に、歪んだ笑みが浮かぶ。
「聖剣使いか……だが、教会の作った模造品だな」
「本物は、過去の勇者が封印したらしいからね」
淡々と返すその言葉に感情はない。
ガグンは肩をすくめ、それからカイランをなぞるように視線を巡らせた。
「聖騎士も久しぶりだ。力を見せれば……お前も使ってやろう」
タマは低く息を吸った。
「カイラン……彼は、何者なの?」
カイランは視線をガグンから逸らさずに答えた。
「そこの魔族こそ__」
言葉は静かだったが、やけにはっきりと聞こえる。
「《天網の狂帝》……三人いる魔王のうちの一人だよ」
場の空気が凍りつく。
風の音も、折れた枝の匂いも、湿った土の感覚も遠くなる。
レオンは言葉を失い、タマも瞬きを忘れたが、その言葉をガグンは否定しなかった。
むしろ、楽しそうに笑った。
「ほう……」
ゆっくりと、拍手する。
「レグナにいて俺に気づく人間が出てきたか。素晴らしい情報共有だ」
視線が一人一人移り、そして口元がほころんだ。
「いいね。退屈しなくて済みそうだ」
森の奥で風が鳴った。
レオン、タマ、カイランの三人が臨戦態勢に入る。
息を整え、間合いを測り、ガグンから視線を外さない。
疲れはあるが、はいどうぞ、と逃がしてくれる相手ではないだろう。自力でどうにかするしかない。
だが、ガグンは動かなかった。
大きな岩に腰を下ろしたまま肘をつき、顎に手を添えた姿勢は、戦いを始める側ではなく眺める者のそれだ。
そのガグンの余裕がかえって場の空気を重くした。
「まぁ、落ち着け」
軽い声音で、敵意も焦りもない。
「俺が用があるのは、そこの狐の娘と魔女、それに今ちょうど俺の騎士と戦っている__」
視線がタマに向く。
「特別なオーガの男だ」
次いで視線が外れ、レオンとカイランを一瞬だけ見て、興味を失ったように戻す。
「お前らには手を出さん。少なくとも、今はな」
空気がわずかに冷えた。
「今は」というその一言だけで十分だった。
この場の生殺与奪権がどちらにあるかを示すには、それ以上の言葉は要らなかった。
カイランが一歩前に出る。
「聖騎士の仕事の一つに、魔族の討伐がある」
声は落ち着いているが、いつもより数段低い。
「だから……お前をここで放置する選択肢は、俺にはない」
ガグンはわずかに目を細めた。
「ほう。職業倫理か……いや、それだけではなさそうだな」
ガグンはそのまま何も言わずに待つ。
カイランは短く息を吸い、詠唱を始めた。
「大気よ、我が命に従い、その広がりを恥じよ。密なる檻となりて、救いなき虚無へと縮退せよ」
足元の空気が歪み、圧が集まり、不自然な無音状態が場を広がっていく中で、レオンがタマに小さく問いかけた。
「……奴を、信じていいな?」
タマは一瞬も迷わず頷いた。
カイランが言葉を切る。
「この空間に、お前の居場所はもう無い……消えろ——《虚空の圧搾》」
突き出した手のひらを、握る。
その瞬間、空中の光が歪み、空気が圧縮され、半径数メートルの世界が中心へと引き寄せられていったが、ガグンは楽しそうに口元を緩めた。
「空気を豆粒ほどにまで魔力で超圧縮し、周囲に気圧差を生み、ブラックホールめいた引力で圧壊させる、か。中心部の重さは、山一つ分はあるな……」
帽子の影に隠れた右目が淡く光り、杖を軽く掲げた。
「面白い!」
叫んだと同時に、文字が大気に浮かんだ。
幾何学的な模様の文字が空に走ったかと思うと、空気が元に戻った。
圧壊は起きない、まるで最初から存在しなかったかのように。
カイランの目が見開かれ、タマも息を呑んだ。
「……早い」
理解するより先に、結果が出ていた。
「これじゃあ、イバラキがミルザにやったやり方は無理だね」
タマは苦笑いをしながらレオンをみる。
レオンの目は見開いたまま動かない、ただ、頬を流れた汗が顎を伝わり地面に落ちる。
カイランは乾いた笑みを浮かべた。
「……格好良く登場したつもりだったんだけどね……すまない。これは……勝てないかもしれない」
肩をすくめ、それでも退かない。
タマは両手を腰に当て、首を傾け、微笑んだ。
「大丈夫」
口から出た言葉に揺れはなかった。
「それでも、なんとかなるから」
カイランが少しだけ目を細める。
「相変わらずだ。どんな時も、君は笑っている」
タマは肩をすくめた。
「それが、私のやり方だから」
その瞬間、レオンが低く言う。
「……来るぞ」
三人が構えた。ガグンはまだ座ったまま、楽しそうに三人を眺めていた。
森の奥で、風が一度だけ大きく鳴いた。




