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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第2章 世界の正体をみる
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第5話 秩序が刃になる

 

 リラが一歩、前へ出た。


 その足が地を踏んだ瞬間、彼女に纏っている雷が、張りつめた唸りのように周辺の空気を震わせ、彼女を中心に引き締められていく。


 赤い髪の先がわずかに浮き上がり、鎧の表面を稲光が走る中で、リラは剣を構え、背筋を伸ばした。


 「王女殿下の剣として、私はここに立ちます」


 声は抑えられていた。いくつもの感情を腹の底に抑え、アルティシアを守るために立っている。


 「レグナ王国近衛騎士団第三団隊長、リラ・ヴァン・ストライゼン。あなた方を王女殿下への危険とみなし、ここで排除します」


 その宣言を受けて、琥珀色の女騎士が笑った。


 笑い声は大きくない。だが、その目の奥に映るのは、強い者と刃を交えることに対する心からの悦びの色。


 「いいねぇ……その目」


 琥珀色の騎士は一歩前へ出ると、槍の穂先をわずかに下げ、地を這うような低い構えを取った。


 その低さの中に不用意な隙はなく、獣が獲物を狩る時に身を沈める時のような、威圧感を醸し出している。


 次の瞬間、雷が弾けた。


 リラの姿は視界から掻き消え、音よりも先に衝撃が走り、剣閃は一直線に琥珀色の騎士へ迫るが、その刃は届かない。


 甲高い金属音が周辺に響き渡り、槍が正確に剣の軌道を叩き落とした。


 「ははっ!」


 琥珀色の騎士は笑ったまま踏み込み、振るわれた槍がリラの剣とぶつかり合うたびに、雷と火花が細かく弾け、焼けた金属の匂いが少しずつ当たりに広がっていく。


 互角に見えるが、実際は違う。


 琥珀色の騎士は、ただ受け止めているだけではなく、しっかりと捌いていた。


 リラの連撃は十分に速く鋭い。

 一歩間違えれば鎧ごと身体を斬られるだけの威力も持っている。


 それにもかかわらず、あの騎士は嬉々としている。刃の流れを読み、受け流し、そのうえで次の踏み込みへ繋げていた。


 その背後で、紺色の女騎士が静かに魔道書を開き、詠唱を始める。


 途端に、空気の質が変わる。

 言葉にしづらい嫌な感じが場に広がった。


 開いた本の上に文字のような幾何学的な線が浮かび始める。


 それには見覚えがあった。ミルザが扱っていたものと同じ、魔法でありながら魔法とは少し違う質のものが、空気中に生まれる。


 考えるより先に、身体が動く。


 今回は氣を纏う。

 周囲の空気が焼け、焦げた匂いが立ち込めた。稲妻に近い鋭く青い光が、俺の周りをパチパチと響きながら、空間を自由に飛び跳ねる。


 弓を引いた。俺の氣に触れたまま軋みもせずにしなり、矢羽が指を離れた瞬間、空気が裂けた。


 矢は音を置き去りにして飛んだが、外れた。

 紺色の騎士の顔のすぐ横を掠め、背後の地面に突き刺さる。


 「……ッ!?」


 紺色の騎士が目を見開き、魔道書に置かれていた指が止まった。そのせいで文字が組めず、術式が消えてなくなる。


 矢そのものは身体を射抜いていないが、その矢が顔のすぐ横を通ったことにより指は震え、身体と表情は硬直している。


 その横で、金髪の騎士がこちらを見ていた。


 視線が合う。その周囲で、空間に浮かびかけていた”何か”が、ふっと消えた。まるで仕事を終えたものが静かに姿を消すように。


 俺はゆっくりと息を吐いた。


 結果を変えられたか。だが、ただそれだけのことだ


 ……決して、強がりではない。


 「……なるほど。わかりました。不思議な魔法……ですね」


 俺の背後で、アルティシアが静かに言った。

 その声に驚きは薄く、むしろ今、目の前で起きた現象を観察し、自分の中の魔法体系へ無理に当てはめるのではなく、別のものとして受け取るだけの冷静さがあった。


 その時、琥珀色の騎士の蹴りがリラの腹部を捉えた。


 鈍い衝撃音が響き、リラの身体が宙に浮いて地面を滑る。

 鎧が地面を滑る音が短く続いたが、それでも彼女はすぐに立ち上がった。剣を支えにして息を整え、ひびの入った鎧をそのままに、光を失っていない瞳で前を見据える。


 再び、雷と火花がぶつかり合った。


 リラは明確には押されてはいないが、琥珀色の騎士は笑みを崩さず、攻めと受け流し、そのすべてにまだ余裕を残していた。


 このままでは長引く、長引けば押され始めるやもしれない。

 

 そう判断した、その時だった。


 背後で魔力の流れが変わる。

 アルティシアの詠唱は短く静かだったが、リラの動きがはっきりと変わった。

 

 一歩が深くなり、踏み込みは速くなった。

 剣が振るわれるたびに雷がわずかに遅れて、刃の後ろに稲光の線が引かれていく。


 「……ッ!」


 琥珀色の騎士が初めて体勢を崩し、楽しげだった笑みが、ほんの少しだけ崩れる。


 アルティシアだ。彼女の立ち位置が変わっていた。


 場や相手の魔力の流れを肌で感じ取っている。

 魔女として魔法の構築を理解しているのだろう。

 三騎士の連携にわずかに生まれる隙を一つ一つ手のひらで、掬うように測り直している。


 「__熱の終焉を、理の停止を世界に求める――《凍結する世界(エターナル・ゼロ)》」


 アルティシアの次の詠唱で、この場の音が消えた。

 空気が急激に冷え、吐く息が白く滲む。


 琥珀色の騎士の槍に纏わりついていた炎が、音もなく消えた。


 「……冷やしたんじゃない。この場の全ての動きを止めたか」


 思わず、そう呟いていた。

 ただ冷やしただけなら、火はもう少し消えまいと足掻く。


 湿った薪に火を移す時のように、芯に熱が残っていれば、煙が上がり、赤いものがどこかに残る。


 だが、今の魔法は違った。

 火が消えたのではなく、”燃えようとする働き”そのものが止められている。


 熱が逃げたのではなく、熱になるための動きが閉じられた。


 山の朝、霜が草の葉を白く縛る時、葉は折れるまで自分が凍ったことを知らない。川面に薄氷が張る時も、水は声を上げず、ただ流れを忘れたように静まる。


 あれに近い。


 アルティシアの魔法は、この場を凍らせたのではない。

 この場にあるものへ、動くな、と命じたのだ。


 紺色の騎士が魔道書を開こうとするが、表紙が凍りついていた。指に力を込めても本は開かず、紺色の騎士が顔を赤くして歯ぎしりする。


 さらに、空中には氷の矢が浮かび始めた。一本、二本ではない。数える意味を失うほどの氷が、水と風を無理なく組み合わせた無駄のない形で次々と現れ、静かに標的を定めていく。


 この状況の中で、金髪の騎士が動いた。

 また、あの文字が空間に浮かぼうとする。


 させない。弓を引き、矢を放つ。


 俺の放った矢を、金髪の騎士は紙一重で躱した。

 ただ、そのせいで詠唱が成功せず、文字は消失した。


 「……条件反射も、異常だな」


 アルティシアの氷の矢が紺色の騎士へ降り注ぎ、それを金髪の騎士が前に出て捌くと、槍が動くたびに氷は砕け、細かな欠片となって冷えた空気の中へ散っていった。


 まるで何百回も同じ戦場に立ち、互いの欠けた部分を補ってきた者たちのように、連携に淀みがない。


 琥珀色の騎士の動きが、ほんのわずかに乱れた。

 身体強化されたリラへ意識を寄せた分だけ小さな隙が生まれた。決して大きな隙ではなかったが、すでに彼女の足運びの癖も掴んでる。


 氣による稲光を纏った矢が空気を裂き、琥珀色の騎士に襲い掛かる。


 矢は今度こそ外れなかった。

 空気を裂いた矢は、琥珀色の騎士が次の一歩へ移ろうとした瞬間、その太ももへ深く突き刺さり、彼女の重心がわずかに崩れた。


 頑丈だな。それなりの量の氣を纏わせたのに、突き抜けない。


 「……っ!」


 琥珀色の騎士の身体が傾き、その隙を逃さずリラが踏み込んだ。雷を纏った剣が振り上げられ、赤い髪が火花に照らされる。


 ……まずい!


 「リラ!」


 声が出たのはほとんど同時だった。

 彼女の身体が、刃を振り下ろす寸前でぴたりと止まり、次の瞬間、リラが踏み込むはずだった通り道を、白い光線が一直線に走り抜けた。


 金髪の騎士だ。

 止まっていなければ、リラは鎧ごと貫かれていた。リラは舌打ちもせず、ただの条件反射で即座に距離を取り、雷の残滓を地面に散らしながら剣を構え直した。


 琥珀色の騎士は片膝をついたまま、笑った。


 「……今のは、危ねぇなぁ」


 足には痛みがあるはずなのに、それを痛みとして受け取る気がない。


 琥珀色の騎士は足に刺さった矢を乱暴に引き抜き、血が弾けて土へ散ると、それを見もしないまま槍を握る手にさらに力を込めた。


 「……いいねぇ」


 歯を見せて笑う、その目に浮かんでいたのは苦痛ではなく、火がさらに強く燃え上がるための熱だった。


 その一方で、紺色の騎士は魔道書を再び開いていた。

 表紙を閉ざしていた氷を溶かし、頁がめくられ、そこから再び嫌な文字が浮かび上がろうとしている。


 金髪の騎士は何も言わず、ただこちらを観察するように、測るように見ていた。


 琥珀色の騎士が槍を引くと、腕に刻まれた文字が赤く光り始める。


 同時に金髪の騎士が動き、手のひらを突き出して詠唱を始めると、魔法陣の展開が始まり、光が一点へ集束していく。

 

 リラが剣を握る手に力を込めた。逃げる気はない、受けるつもりだ。


 俺は一歩前へ出た。


 「アルティシア、霧だ」


 彼女は即座に動いた。水と風が重なり、足元から白い霧が立ち上る。だが、それはただ視界を奪うために広がる霧ではない。


 「広げるな。層を作れ。外を濃く、中心を薄く」


 アルティシアの魔力がわずかに揺れ、霧は命じられたとおり空間に層を作り、濃い霧と薄い霧が重なり、目に見えない水の層が幾重にも重なった。


 次の瞬間、金髪の騎士から放たれた巨大な光の槍が霧に触れ、そして曲がった。


 金髪の騎士がわずかに目を見開いた。


 直進していたはずの光が濃淡のある水の層によって歪み、霧の奥で細く軌道を逸らされながら、そのまま空の彼方へ抜けていく。


 「燃やし尽くす! 覚悟しな!!」


 琥珀色の騎士が叫び、槍の先から炎が噴き出した。

 周囲の空気が一瞬で吸い込まれ、周囲の音が遠のき、匂いすら熱に押し潰されるように消えた。


 一瞬の真空の後、皮膚を焼くような熱の壁が押し寄せ、巨大な螺旋の炎の槍が形を成していく。その色は濁った琥珀で、中心だけが白く、世界を削り取りながら進もうとしていた。


 「《狂智・劫火殲滅槍(エトナ・プロミネンス)》!!」


 燃えているのは火だけではなかった。酸素も、水も、魔力も、この場に在るものすべてが槍のための燃料にされていく。


 アルティシアが詠唱に入ろうとしたが、その前に俺は言った。


「金髪を見ていろ」


 彼女の動きが止まる。


「これは、俺がやる」


 アルティシアは一瞬だけこちらを見たあと、小さく頷き、霧を維持したまま金髪の騎士から目を離さなかった。金髪の騎士もまた動かず、興味深そうにこちらを見ている。


 俺は弓を引いた。指輪に意識を集中させる。

 炎が熱いのは力と力が押し合っているからだ。その押し合いが、熱と光に化けて溢れている。


 ならば、逆にする。

 

 矢に逆向きの震えを纏わせ、炎の奥を視る。うねる熱の中に形を保つための密集点があり、支点があり、核があった。


 ……そこだ。


 矢は炎に触れる直前で空気を裂き、その芯へ突き刺さった。一瞬、すべてが止まり、爆発は起きなかった。

 

 炎が崩れ、形を保てなくなった熱が光の粉となって散り、音もなくほどけていく。


 「!?」


 琥珀色の騎士が呆然とした。

 

 俺も驚いた。

 上手くいきすぎた。だが今は、考える暇はない。


 「リラ!」


 リラの赤い髪が重力を無視して逆立ち、周囲の空気が細かく震えている。


 彼女は俺が炎を散らすより前に詠唱を始めていた。必ず相手の魔法が散ると、信じていたのだ。


 雷光が道筋を描きながら、三騎士へ向かって走り出す。


 「降り注げ、昏き世界を穿つ裁きの柱――《天雷墜撃》!!」


 紺色の騎士が魔道書を開き、必死に文字を浮かべようとした瞬間、俺は腰から銅銭を一枚抜いて指で弾いた。小さな金属が空気を切り、紺色の騎士の額へ当たる。


 「……痛っ」


 紺色の騎士の集中が切れ、文字が散る。


 空が落ちた。極太の雷が垂直に叩き落とされ、大地を貫き、三人の騎士を飲み込んだ。


 「やった……よね?」


 リラは肩で息をしていた。

 俺の矢はもうない。これで倒れなければ、厳しい。


 雷が収まり、焦げた空気と焼けた土の匂いが立ち込める煙の向こうに、琥珀色の騎士がいた。


 膝をつきながらも倒れていない。両腕は完全に焼け焦げ、足から流れる血も止まっていないが、その背後で紺色の騎士が必死に回復魔法をかけていた。


 「……あれを、耐え抜くか」


 思わず、声が漏れた。


 その時、金髪の騎士が槍をこちらへ向けた。その目には怒りも焦りもなく、淡々と仕事をする者の目だけがあった。仲間を下がらせ、自分が前に出る。


 「リラ、アルティシアを連れて逃げろ」


 口に出した瞬間、リラが即座に首を振る。


 「そんなの嫌! ゲドーを置いていくなんて出来ない!」


 彼女は一歩、前へ出た。

 この場で正しいのは退くことだ、護衛としても騎士としても。それでも彼女は前に出る。


 「自分の成すべき事を成せ」


 俺ははっきりと言う。ここで大事なのはアルティシアを魔族から守ることだ。


 アルティシアが俺の横に立つ。


 「私も下がりません。まだ、戦えます」


 その声に揺れはなかった。守られるだけの王女ではないという、強い意志が視える。


 だからこそ、俺は一歩踏み出した。


 「下がれ」


 声に、自然と氣が乗る。


 「ここは俺が抑える。お前らには……やらなくてはならないことがあるはずだ」


 リラの拳が震えた。


 「でも__」

 「大丈夫だ」


 俺は短く続ける。


 「ここで死にはしない。それに考えがある。お前たちはやるべきことを見失うな」


 アルティシアはそれでも動かなかったが、次の瞬間、リラが彼女の手を取った。


 「……いきましょう」


 その短い声に迷いはなかった。

 アルティシアは俺を見て、一瞬だけ目を伏せ、それから頷いた。


 二人が走り出すと、背中に殺気が走った。


 「逃すか!」


 琥珀色の騎士が踏み込もうとした瞬間、俺は視線を向けた。


 それだけで、琥珀色の騎士は身体を強張らせ、防御の形を取った。


 「ここから先は、お前らにとっての鬼門だ。通りたければ、それなりの覚悟をしろ」


 理由は分からないだろう。だが、本能は告げたはずだ、ここから先に踏み込むな、と。


 俺は前へ出た。


 意識を切り替え、丹田に力を入れる。

 周囲の空気が軋み、紫の稲光が皮膚の表面を走り、弾けた。


 「誤魔化しは、終わりにする」


 そう言って左腰へ手を伸ばし、太刀《終座》の隣に携えていた木刀を引き抜いた。


 「ここからは、本気だ」


 矢はもうない。退路もない。それでいい。


 紺色の騎士が下がり、琥珀色の騎士が歯を食いしばり、そして金髪の騎士だけが正面に立った。


 槍を静かに構えるその姿には怒りも昂りもなく、ただ冷めた目がある。


 霧の向こうで、逃げる二人の気配が遠ざかっていく。


 三騎士が構える。そして、俺も構えた。


 *


 森の空気が張りつめていた。


 いくつもの光の線が幾何学模様を空中に描き、物理も魔法も拒む完成された防御魔法がそこに展開されていた。

 

 騎士の周囲に正六角形の光の壁が重なり合い、衝撃を効率的に分散させている。


 タマはその光景を見つめながら、目を細めた。


 整いすぎている。

 精密で、正確で、無駄がない。だからこそ、と思った瞬間に、声が出ていた。


 「レオンさん、今!」


 声と同時に風が生まれる。

 タマの風は攻撃のためではなく、背中を押すために吹かせられた風だ。

 

 レオンの身体の周りに留まり、動きを軽くし、速くする。


 レオンが踏み込み、槍が光の数式のような符号の一角を叩いた。貫けないが、ひびが入る。


 先ほどまでは完璧だった壁が、わずかに揺らいだ。


 「よし!」


 レオンが気合を入れもう一度槍を頭上に持ち上げ、ひびの入った符号を完全に破壊しにかかる。


 騎士が反応する前に、タマはさらに風を幾重にも重ねた。

 風が騎士ではなく、足元の土を削る。騎士たちの体勢が崩れる。符号魔法を完成させている、正確で精密な配置を崩す。


 その中心でガグンが笑っていた。


 「ほう……なるほど」


 彼は一歩も動かなかった。

 足元から漆黒の魔力が溢れ始め、不快なほど自由に広がっていく。


 ただ、タマはガグンの周りにある小さな文字のような模様に気づく。


 「……あれは」


 ガグンはタマの視線に気づくが、すぐに静粛騎士の方に目を移す。

 

 「精密な符号ほど、入口は狭い」


 ガグンは楽しそうに言った。


 「なら、そこに魔力を大量に流し込めばいい」


 ドス黒い魔力が幾何学的な模様の隙間に染み込んでいく。

 

 美しく並んでいた光の設計図が歪み、色が濁り、輪郭が崩れ、まるで熱で溶ける玩具のように形を失っていった。


「計算が追いつかないほどの絶望を、注ぎ込んでやる」


 低く、愉悦を含んだ声が森に響く。


 「その小細工ごと、俺の魔力で塗り潰す――《深淵の氾濫(アビス・フラット)》」


 地面を這う黒い魔力が騎士を包む。


 符号が出口を抑えられ、魔力の発信源である騎士自身に逆流する。制御を失った白い光が鎧の隙間から漏れ出し、キィィィ、と空間が悲鳴を上げた。


 ガグンが拳を握る。

 次の瞬間、騎士を中心に巨大な魔力の柱が立ち昇った。

 自分自身の魔力を返され、自分を壊したのだった。


 森に静寂が落ちる。


 ガグンは倒れた騎士を一瞥し、鼻で笑った。


 「符号魔法……ふん。所詮は紛い物だな……ガッカリだ」


 肩をすくめ、それからその視線がゆっくりとタマへ向いた。


 「まあ、いい。本命は最初から別だ」


 タマは表情を変えない。

 最初から完全な味方ではない、と頭の中では分かっていたが、それよりも先に、ある確信が静かに固まっていた。


 風が静かに渦を巻いた。

 折れた枝、削れた地面が戦いの跡として残っている。

 消えきらない魔力の残滓が鼻の奥に刺さる。


 「……終わった、のか?」


 レオンが思わず息を吐き、肩の力がわずかに抜けたが、タマはその横で気を抜かず、治癒の魔法を静かに流した。


 レオンの腕に温かな光が灯る中で、タマの視線だけは前を離れなかった。まだ終わっていないと、そう告げるように。


 大きな岩の上に、男が座っている。

 ガグンは顎に手を当て、にやにやと笑いながら、まるで芝居を見終えた観客のような姿勢でそこにいた。


 レオンが眉をひそめる。


 「……ガグン?」


 名前を呼ばれた男は、楽しそうに視線を動かした。


 「獣の女よ。そろそろ正体を見せてはくれないか?」


 タマは即座に一歩前に出て、レオンを背に庇うように立った。


 空気が張りつめた、その瞬間だった。


 「――《虚空の爪》」


 一瞬だけ、黒い線が走った。

 音や風だけでなく、衝撃もない。だが時間差で、その線上にあった木々と岩が上下に分かれた。


 切断、空間ごと削ぎ落とされたかのような一撃だったが、ガグンは軽く身をずらしただけで、黒い線は彼の背後を通り過ぎ、髪の一房すら揺れなかった。


 「ほう」


 ガグンは感心したように、声を出す。


 「今のは、なかなか綺麗だ」


 タマとレオンが同時に空を見ると、そこから降りてくる影があった。


 白いマントが風を纏い、足元に固定された上昇気流に乗るようにして、ゆっくりと滑らかな降下で地に降り立つ男がいた。


 赤茶色で短めの髪に深い青の瞳、銀を基調にした鎧、右腰の聖剣、左腰の短剣、背に収まる小型の盾、そして白と金のマントが、風に静かに揺れていた。教会の飾りは外しているが、見る人が見ればすぐわかる。


 聖騎士カイラン・ブランク。


 「聖騎士が……なぜここに?」


 レオンが思わず声を漏らした。


 「カイラン?」


 タマの呼びかけに、カイランはタマの顔を見て、わずかに表情を和らげた。


 「間に合ってよかった」


 それだけ言って、前を見る。

 ガグンは目を細めた。口元に、歪んだ笑みが浮かぶ。


 「聖剣使いか……だが、教会の作った模造品だな」

 「本物は、過去の勇者が封印したらしいからね」


 淡々と返すその言葉に感情はない。


 ガグンは肩をすくめ、それからカイランをなぞるように視線を巡らせた。


 「聖騎士も久しぶりだ。力を見せれば……お前も使ってやろう」


 タマは低く息を吸った。


 「カイラン……彼は、何者なの?」


 カイランは視線をガグンから逸らさずに答えた。


 「そこの魔族こそ__」


 言葉は静かだったが、やけにはっきりと聞こえる。


 「《天網の狂帝》……三人いる魔王のうちの一人だよ」


 場の空気が凍りつく。

 風の音も、折れた枝の匂いも、湿った土の感覚も遠くなる。


 レオンは言葉を失い、タマも瞬きを忘れたが、その言葉をガグンは否定しなかった。


 むしろ、楽しそうに笑った。


 「ほう……」


 ゆっくりと、拍手する。


 「レグナにいて俺に気づく人間が出てきたか。素晴らしい情報共有だ」


 視線が一人一人移り、そして口元がほころんだ。


 「いいね。退屈しなくて済みそうだ」


 森の奥で風が鳴った。


 レオン、タマ、カイランの三人が臨戦態勢に入る。

 息を整え、間合いを測り、ガグンから視線を外さない。

 疲れはあるが、はいどうぞ、と逃がしてくれる相手ではないだろう。自力でどうにかするしかない。


 だが、ガグンは動かなかった。

 大きな岩に腰を下ろしたまま肘をつき、顎に手を添えた姿勢は、戦いを始める側ではなく眺める者のそれだ。


 そのガグンの余裕がかえって場の空気を重くした。


 「まぁ、落ち着け」


 軽い声音で、敵意も焦りもない。


 「俺が用があるのは、そこの狐の娘と魔女、それに今ちょうど俺の騎士と戦っている__」


 視線がタマに向く。


 「特別なオーガの男だ」


 次いで視線が外れ、レオンとカイランを一瞬だけ見て、興味を失ったように戻す。


 「お前らには手を出さん。少なくとも、今はな」


 空気がわずかに冷えた。

 「今は」というその一言だけで十分だった。


 この場の生殺与奪権がどちらにあるかを示すには、それ以上の言葉は要らなかった。


 カイランが一歩前に出る。


 「聖騎士の仕事の一つに、魔族の討伐がある」


 声は落ち着いているが、いつもより数段低い。


 「だから……お前をここで放置する選択肢は、俺にはない」


 ガグンはわずかに目を細めた。


 「ほう。職業倫理か……いや、それだけではなさそうだな」


 ガグンはそのまま何も言わずに待つ。

 カイランは短く息を吸い、詠唱を始めた。


 「大気よ、我が命に従い、その広がりを恥じよ。密なる檻となりて、救いなき虚無へと縮退せよ」


 足元の空気が歪み、圧が集まり、不自然な無音状態が場を広がっていく中で、レオンがタマに小さく問いかけた。


 「……奴を、信じていいな?」


 タマは一瞬も迷わず頷いた。


 カイランが言葉を切る。


 「この空間に、お前の居場所はもう無い……消えろ——《虚空の圧搾(アブソリュートボイド)》」


 突き出した手のひらを、握る。

 その瞬間、空中の光が歪み、空気が圧縮され、半径数メートルの世界が中心へと引き寄せられていったが、ガグンは楽しそうに口元を緩めた。


 「空気を豆粒ほどにまで魔力で超圧縮し、周囲に気圧差を生み、ブラックホールめいた引力で圧壊させる、か。中心部の重さは、山一つ分はあるな……」


 帽子の影に隠れた右目が淡く光り、杖を軽く掲げた。


 「面白い!」


 叫んだと同時に、文字が大気に浮かんだ。

 幾何学的な模様の文字が空に走ったかと思うと、空気が元に戻った。


 圧壊は起きない、まるで最初から存在しなかったかのように。


 カイランの目が見開かれ、タマも息を呑んだ。


 「……早い」


 理解するより先に、結果が出ていた。

 

 「これじゃあ、イバラキがミルザにやったやり方は無理だね」


 タマは苦笑いをしながらレオンをみる。

 レオンの目は見開いたまま動かない、ただ、頬を流れた汗が顎を伝わり地面に落ちる。

 

 カイランは乾いた笑みを浮かべた。


 「……格好良く登場したつもりだったんだけどね……すまない。これは……勝てないかもしれない」


 肩をすくめ、それでも退かない。

 タマは両手を腰に当て、首を傾け、微笑んだ。


 「大丈夫」


 口から出た言葉に揺れはなかった。


 「それでも、なんとかなるから」


 カイランが少しだけ目を細める。


 「相変わらずだ。どんな時も、君は笑っている」


 タマは肩をすくめた。


 「それが、私のやり方だから」


 その瞬間、レオンが低く言う。


 「……来るぞ」


 三人が構えた。ガグンはまだ座ったまま、楽しそうに三人を眺めていた。


 森の奥で、風が一度だけ大きく鳴いた。



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