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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第2章 世界の正体をみる
33/50

第4話 秩序は、守るためにある


 森は深かった。


 枝と枝が重なり合い、葉が視界を遮る。まるで直線というものが存在しないかのように、獣道が入り組んでいて前方の見通しは悪い。

 足元の土や岩は苔に覆われて滑りやすく、歩くといった当たり前のことすら困難な状況だ。岩陰に潜む三つの気配は、それぞれの息を意識的に抑え、じっと動かずにいた。


 馬は、ここへ来る手前で放していた。蹄の音が、いつ命取りになるか分からなかった。


 先頭に立つのはレオンで、槍を両手に構えたまま姿勢を落とし、森の奥を目を細め見ている。


 その少し後ろにはガグンが位置し、体内に流れる魔力を抑えながら、周囲の気配を測るように探っていた。


 そして最後尾、岩に背を預けているのは、アルティシアの姿をした"タマ"だった。


 ゲドーマルがいない。


 ただそれだけのことが、森の中の緊張感を一段上げる。葉が幾重にも重なる。届くはずの光が、ずいぶん遠くに感じる。


 呼吸音がやけに大きく耳に響く。

 それだけで森に存在を漏らしてしまいそうな気がして、タマは精一杯、息を殺す。


 来ている、と思った。足音が聞こえる。

 数は掴めないが、踏み込みに迷いがなく、一定で揺らがない。声を交わさない。合図を送るわけでもない。それでいて、動きは完全に連動していた。


 森の中を"探している"足取りではない。

 逃げ道を外から潰していき、範囲を段階的に絞り込み、じわりと対象を追い詰めていく。


 あの街で感じた、あの圧が、森の中でも少しも薄れていなかった。


 タマは意識を内側へと向けた。

 アルティシアの輪郭を糸ほどの細さに絞った魔力で縁取る。緩めれば崩れるし、締め過ぎれば漏れる。その間を、意地でも保ち続ける。


 変身そのものは難しくない。難しいのは変身していることを気取らせないでいることだ。


 それでも解かなかった。理由は単純だった。

 見つかるなら、"王女"として見つかった方がいい、とタマは思っていた。


 レオンが、ほんの一瞬だけ視線を後ろへ流した。タマと目が合い頷く。

 レオンは何も言わず、視線を静かに前へ戻した。ガグンも、黙ったまま動かない。言葉にしなくとも、三人の間に同じ見解が共有される。


 足音が近づいてくる。


 岩陰のすぐ向こう、土を踏む振動が地面を伝って、確かな距離として皮膚に届いた。

 

 一瞬、足音が止まった。


 気づかれている、という確信に近い感覚が、背中をゆっくりと流れる。

 だが、声は上がらない。剣も魔法が放たれる気配もない。

 しばらくして、足音は横へと逸れ、さらに森の奥へと消えていった。


 逃げ切れたというよりは、"今"は、ただ通り過ぎただけだ、という感覚だけが残った。


 森に静けさが戻る。レオンは槍を下ろさず、タマは変身を解かなかった。少し間を置いて、ガグンが低く、押し殺した声で言った。


 「……次は、誤魔化しが効かないかもな」


 誰も否定しなかった。


 *


 川の音だけが、耳に残っていた。

 水が石によって分かれ、また混ざり、しばらく行ったところで闇に消えていく。


 月の光は、水面の上で帯のように揺れている。

 苔と濡れた砂利の匂いが、ひんやりとした夜気に乗って肌に触れる。

 

 俺は手綱をゆっくりと引き、馬を岩陰へ寄せた。

 ここまで来れば、ひとまず追っ手の気配はない。

 

 ……ないというのが、かえって落ち着かない。

 

 山で獣を待っている時、近くから物音が消える瞬間というのがある。鳥が鳴かなくなり、虫の声がやみ、葉擦れだけが残る。そういう時の山は、たいてい、自分より大きな何かを抱えている。

 

 リラは馬を降りるなり、すぐに周囲へ意識を向ける。

 剣の柄に手を添えたまま耳を澄まし、視線を走らせている。違和感を一つ残さず拾い上げるための、訓練された行動だった。

 

 帝国の騎士が、これで終わるはずがない。

 それは、ここにいる誰よりも、リラ自身が分かっている。

 

 馬から降りた瞬間、アルティシアの身体がわずかに揺らいだ。

 張り詰めていた糸がここで一度だけ緩んだのだろう。鞍に手を残したまま膝が落ちかけたところを、リラが横から腕を取り、慣れた所作で体重ごと引き受ける。

 

 「ご無理はなさらないでください」

 

 声は柔らかかった。護衛としての声ではなく、横にいる一人の人としての声だった。

 

 「ここまで耐えてくださっただけで、十分です」

 

 アルティシアは何も答えなかった。

 代わりに、息を細く長く吐き、岩に背を預けた。

 鞍に慣れた身体ではない。それでも夜通しの距離を持ちこたえたのだ。それだけで、賞賛してもよかった。

 

 俺は自分が羽織っていた外套を肩から外した。

 

 「これを。風邪をひくといけない」

 

 そのまま、アルティシアにかける。

 アルティシアが驚いた顔を作り、視線が外套と俺の顔を往復した。

 

 「心配するな、ちゃんと洗濯済みだ」

 

 昨日の宿でも、ちゃんと洗った。洗わないと、イバラキとタマが五月蝿い。

 

 「……いえ、そういうことでは……ありがとうございます」

 

 正面からかけられた布に、彼女はそっと顔を埋め、目を細める。

 

 しばらく、川の音だけが夜の中に響き渡っている。

 リラが、ぽつりと言った。

 

 「……おかしいわ」

 

 俺は川面を見ながら応じた。

 

 「タマがアルティシアの姿に変化していた。帝国の目は王女に向いている。今は、その影に追っ手が引かれている」

 

 アルティシアが目を見開いた。

 

 「だが、それで全部が逸れたわけじゃない」

 

 起こりうることを、ただ目の前に並べているだけだ。

 

 「別働隊が、もう動いているかもしれない」

 

 リラの肩がほんのわずかに上がり、剣の柄に置かれていた手に力が入る。

 アルティシアは膝の上で外套を握り、それから呼吸を整えた。

 俺は、川辺の闇へ向かって短く声を投げた。

 

 「だから手を打つ」


 二人が顔を上げ、俺の顔を見る。


 「……ノクティス。出てこい」

 

 空気の一角が、たわんだ。

 

 いつもの場所、俺の肩の上に影が形を作っていく。

 半透明の輪郭が紺と漆黒の間で揺れ動き、小さな角が二つ、ふっ、と頭の左右に立った。金色の瞳が、半分眠そうな光を残したまま、俺を見上げてくる。

 

 どうやら寝起きを叩き起こされたのが気に入らないらしい。口元がわずかに尖っているが、文句は言わない。

 

 「悪いな」

 

 俺は短く詫びてから、続けた。

 

 「イバラキを呼んできてくれ。急ぎだ」

 

 ノクティスは眠そうな金の目を一度だけぱちりと開き直し、それから、しょうがないなとでも言いたげに、影の尾を一度だけ振った。


 輪郭がほどけ、闇の中へ溶けるように消えていく。

 

 川の音がまた戻ってくる。

 

 二人の視線が俺に固定されている。

 リラの目には驚きが、アルティシアの目には、戸惑いに近い静けさがあった。

 

 リラが口を開きかけて、言葉を選び直す。

 

 「……闇の精霊を、呼び捨て?」

 

 声には咎める色ではなく、ただ純粋に不思議がっている。

 

 「そもそも、闇精霊は人前に出ない存在のはずです。契約があっても、姿を見せないことの方が多いと聞きました」

 

 俺は少し首を傾げた。

 

 「仲間だ」

 

 それ以上に、言うことが見つからない。

 特別なことを頼んだつもりも、特別な相手を呼んだつもりもない。

 ただ、世間ではそうではないらしい、ということが、二人の表情で分かる。

 

 アルティシアはそれきり何も言わなかった。

 川面に視線を戻し、流れの上で揺れる月光の欠片を、目で追っている。横顔は、月明かりに片側だけ照らされ、もう片側は岩の影に沈んでいた。

 

 その横顔は、硬かった。

 彼女はようやく気付いたのだろう。

 いま自分がここで守られているのは、王女だからではない、ということに。守られている理由に肩書きは関係ない。

 

 その事実を理解し、目を逸らさずにいる。

 

 俺は、それでいいと思った。

 羽織らせた外套の襟元を、アルティシアの細い指が一度だけ整える。寒さからではない。何か、自分の存在を確かめるような所作だった。

 

 リラは剣を腰から外さないまま、地面に片膝をついた。

 休んではいるが、気は一切抜いていない。

 

 俺は立ったまま川を視ていた。


 イバラキが来る。それは、もう、隠れる段階ではないということでもあった。

 

 守ると決めた以上、線の手前で立ち止まっていても、何も守れない。


 *


 王城には巡回と巡回の間に人が途切れる廊下がある。


 灯りは少ない。石畳を踏む音が石壁に跳ね返り、やけに響く。

 ルキアス・セリウス・レグナはその回廊の途中で立ち止まる。


 背後から気配が近づいてくる。

 足音はわざと雑で、踵をやや強く石畳に落とすような歩き方をしていた。隠す気がないのではなく、むしろ意図的に音を立てているのだ、とルキアスには分かった。


 「殿下」


 軽い声だった。緊張のかけらもない。


 「ちょっと、面白くない話です」


 ルキアスは振り返らず、石畳の先を見たまま、短く返す。


 「……聞こう」


 ハルが肩をわずかにすくめ、そのまま淡々と続ける。


 「さっきまで、上で会議やってました」


 "上"という言葉だけで、どの場を指しているかは分かる。


 「……結論から言いますね」


 声の質は軽いが、その目は笑っていない。


 「王女殿下は、切られました」


 間を置かなかった。言葉を柔らかくしようとする素振りも、ない。


 「魔族と繋がってるって噂、ありますよね。あれ、国王陛下自身が流してます。帝国に匿わせないためです。正義を掲げる帝国は魔族との関係を持つ王女を許しはしない、たとえ噂レベルの話だとしても」


 ルキアスの手が、無意識に握られた。関節が、わずかに白くなった。


 「で__」


 ハルは、最後だけほんのわずかだけ声を落とした。


 「__"確実に死ぬよう、手は打ってある"そうです」


 それは、どこかで聞いたことのある種類の言葉だった。あまりにも事務的で、感情の入り込む余地がなく、だからこそ打ち消すことができない。


 ルキアスは、すぐには言葉を返さなかった。

 視線が石畳へと落ち、呼吸が、ほんの一瞬だけ途切れた。怒りではなかった。悲しみとも、少し違った。

 

 ただ、理解してしまった。


 ハルはその沈黙を待たなかった。


 「早い話がさ、妹君は、"王国の都合"で処分対象になりました」


 ルキアスは、低く問い返した。


 「……どこまで、知っている人間がいる?」


 ハルは、ほんの少しだけ口角を動かした。


 「少なくとも、俺は知ってます。たぶん……俺以外にも、いますね」

 

 「……報告ご苦労」


 ハルは軽く一礼し、踵を返した。


 去りながら、振り返らずに言った。


 「選ぶ時間は、あんまり無さそうですよ。殿下」


 足音が遠ざかり、回廊の暗がりに飲まれる。


 残されたルキアスは、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。

 

 兄として守るべきか。王子として従うべきか。


 問いとして並べてみれば、どちらもまだ選べるように聞こえた。


 *


 街道には人影がなかった。


 舗装された道を、馬の蹄が規則正しく鳴らし続け、景色は後ろへ流れていく。


 黄昏時。夕暮れとも夜の入り口ともつかない光が地面をぼんやりと照らしていて、どちらへ進んでも同じように暗くなっていきそうな、そういう時間の中にいた。


 カイラン・ブランクは馬を走らせていた。


 装備は聖騎士のものだったが、飾りはすべて外し、最低限だけを残していた。遠目には武装した冒険者にしか見えない。今はただ、一人で動いている。


 馬の背に揺られながら、ふとした拍子に記憶がよぎる。

 大司教の話、聖騎士として注意を促された存在、そして書物の中でしか見たことのない古い記述。


 先程の酒場でのことを思い出す。


 ラグスとセイン。ニヤニヤと笑いながら話しかけてくる、レグナ王国で初めてできた友達と呼べる人間たちだった。


 酔い混じりの声で、ラグスが言っていた。

 『どこで会ったか思い出せないんだよな』、『魔物が勝手に転んだりしてな、"幸運のおじさん"みたいな感じだ』。

 

 確信があるわけではない。

 だが、胸の内側に、何かが引っかかったままだった。


 そして今現在、その引っかかる男と行動をともにしている人物が、もう一人いる。


 タマ。


 どこから見ても普通の、Dランク冒険者だった。派手な装備もなく、強い者が持つような張り詰めた空気もない。愛想がよく、誰に対しても距離感が自然で、よく笑う。


 それなのに、気になった。


 恋ではない。守らなければという気持ちでもなかった。ただ、笑顔の奥で、ほんの一瞬だけ何かが消える瞬間がある。そして、決して踏み込ませない線を引いている。それがどうしても頭から離れなかった。


 これは教会の指示でも、聖騎士としての任務でもない。


 ただ、あの子はこんなところで死ぬ人間じゃない、とそう思ってしまった。それだけのことだった。


 カイランは魔力探知の魔道具に触れ、魔力を流した。

 ヴァルクスの使っていたものに近いものを、本部に相談して届けてもらった。

 

 まだ魔力の反応はない。距離が開きすぎている。

 カイランは小さく呟いた。


 「……間に合え」


 馬の腹を蹴ると、速度が上がる。それが正しい選択かどうかは分からなかった。聖騎士として正しいかどうかも、分からなかった。ただ、見過ごせないものを見過ごさなかった、それだけのことだった。


 街道の石畳の上を、蹄の音が遠ざかっていった。


 *


 迷いの森の奥にある洞窟は、棲家として息づいていた。


 岩壁には補修の痕が残り、刻まれた印が淡く光を返す。

 魔道具による灯りが揺れ、岩肌の凹凸を照らす。


 ゴブリンたちが、外でも中でも騒がしく動いている。道具を運び、部材を組み、崩れかけた箇所を補っていく。


 人の姿のイバラキは、洞窟の奥で作業に加わっていた。

 袖をまくり、ドゥールが作った結界用の杭を、金具と木材で組み上げている。


 空気がわずかに揺れ、影がひとつ増える。

 

 イバラキの肩に気配が乗る。

 ノクティスだった。


 その気配を察した瞬間、アウル=ヴェイルが反応した。少年の姿のまま、背に羽が浮かび、震えるように広がる。


 作業音の中で、ドゥールが手を止めずに言った。


 「……早いな、おい。まだ3日だぞ」


 イバラキはノクティスを見ると、ほぼ同時に外套を手に取り羽織りながら言った。


 「急ぎましょう」


 ドゥールを見る。


 「お館様がこちらを呼ぶ時というのは__」


 外套の留め具を留め、視線を上げる。


 「__十中八九、ギリギリの状態です。もっと早く連絡を寄越せと、何度言っても……毎回……ギリギリです」


 右手に力を込めながら、イバラキは小さく息を吐いた。

 ゴブリンたちが作業を止め、無言で道を開ける。


 アウル=ヴェイルが、小走りでイバラキの横に立ち、裾をしっかりと握る。


 ドゥールは外套を掴み、布に包まれた長細い魔道具を手に取る。


 外は、まだ静かだった。

 風は弱く、だが、夜の気配は近い。



 森は、息を潜めていた。


 岩陰に潜む三つの気配は、それぞれの息を限界まで抑えながら、じっと動かずにいた。


 前にレオン。槍を低く構えたまま、全身で森の奥を睨んでいる。少し離れた位置にガグンがいて、外套の内側で魔力を丁寧に抑え込んでいる。その後ろに、王女アルティシアの姿をしたタマが腰を落としている。


 やはり戻ってきた、とタマは思った。


 鎧が擦れる、ほとんど音とも言えないほど微かな音がする。森の中にあっても、その在り方は変わらない。


 低い声が森に響く。


 「そこだ」


 その声と同時に、気配が一気に増える。

 木々の影、岩の陰、斜面の上から、複数の静粛騎士がまるで最初からそこに配置されていたかのように姿を現した。


 弓はすでに引き絞られ、槍や剣は既に抜かれている。そして指揮官が、前に出るでも下がるでもなく、全体を制御できる位置に静かに立っていた。


 タマが一歩前に出た。


 「……もういいね」


 息を一つ吐き、魔力の固定を解いた。

 王女アルティシアの姿がほどけ、冒険者の少女、タマへと戻った。


 森にわずかな動揺が走った。

 騎士たちの視線が一斉に集まり、指揮官が目を細めた。


 「……魔女ではない、だと?」


 タマは構えなかった。


 「私たちは敵じゃない。王女殿下も、ここにはいない。戦う意味はないよ」


 声は静かで、揺れがなかった。


 だが、指揮官は表情を変えないまま短く告げる。


 「危険因子を確認した」


 それだけで、次の瞬間、森の空気が変わった。


 幾何学的な光の符号が、空中に浮かび上がった。

 木々の幹に、枝に、地面にある影に、森そのものに”刻まれていく”。


 レオンが思わず息を呑んだ。


 「……なんだ、あれ……?」


 魔法陣ではなく、詠唱もない。空間そのものが陣になっている。


 その問いに、ガグンが即座に答えた。


 「符号魔法だ」


 その声は戦闘の最中とは思えないほど落ち着いていた。


 「魔法を放つんじゃない。世界の振る舞いを定義する」


 ガグンは杖に魔力をこめながら言う。


 レオンが槍を構え直しながら問い返す。


 「定義……?」


 「"ここはこう動く""ここではこうなる"と、先に決める魔法だ。護符などに魔力と魔法陣を封じ込め、決められた場所に配置する。詠唱はいらない。だから速いし、崩しづらい。世界のルールそのものを、書き直す」


 ガグンの視線は符号の配置を追い続けていた。

 タマは黙って聞いていた。レオンは歯を食いしばった。


 「……そんなの、反則だろ」

 「だから帝国が使う」


 ガグンは淡々と言った。


 その瞬間、符号が起動した。足元に拘束の光が走り、木の影から無音の魔法が飛んだ。


 「レオンさん!」


 タマの声と同時に、レオンが踏み込んだ。


 「貫けーー《旋穿》!」


 槍が唸り、符号の結界に叩きつけられた。鋼が硬いものに弾かれる音ではなく、空間そのものに刺さり、しかし通り抜けず、宙に止まる感覚。

 

 結界は破れない。だが、確かな歪みが残った。


 「巡れ、風。道を断ち、視を奪えーー《風断・旋》!」


 風が森を裂き、木々が折れ、視界が白く飛んだ。


 だが静粛騎士は止まらなかった。

 符号が再配置され、距離感が狂わされる。

 レオンの動きが、目に見えて鈍くなった。


 その時、ガグンが前に出た。


 符号の外に立ち、長い詠唱に入った。


 「……大地よ、静まれ。重ねられた規則を剥がし、元の形を思い出せ」


 騎士たちが即座に反応し、符号がガグンへ向けて集中していく。

 だがガグンは止まらなかった。


 「ここにあるのは秩序などではない。人が置いた、仮初のものだ。世界(おれ)は、そんなものを許可していない」


 地面が低く唸りを上げ、土と砂が逆流し、符号の一部を物理的に押し潰す。


 ガグンは最後に言った。


 「《大地干渉・剥離》」


 符号の一角が、崩れた。静粛騎士の攻撃が乱れる。

 レオンが目を見開いた。


 「……壊せるのか、あれ」

 「壊してない……戻しただけだ」


 それでも指揮官は止まらなかった。


 「追撃を続行する」


 迷いはなく、引き返す素振りは見せなかった。

 

 タマは一瞬、息を詰め、そして大きく息を吐く。

 身体に巡る魔力を高めていく。


 「タマ!」


 レオンが叫んだ。

 我に返ったタマがレオンを見ると、首を横に振り、目線だけでガグンを示した。ガグンがいる、ということだった。


 タマは頷いた。越えない、と思った。


 「応えよ、巡る風。隔てよーー《風域・封》!」


 風が吹き、土砂や木の枝、土を巻き上げ、壁になる。

 走り出すタマ、レオン、そしてガグン。

 時間を稼ぐための、限界の一手だった。


 土埃の向こうで、指揮官の声が響いた。


 「……追撃を継続する」


 タマは歯を噛みしめた。


 *


 川は、静かすぎた。


 流れそのものは止まっていない。浅瀬に触れた水が細く砕け、丸い石の間を抜けるたびに、かすかな音を立てている。


 川沿いの平地は見通しがよく、敵が潜むには不向きに見える。だが、逃げるには狭かった。身を隠す木立も、地形の窪みも、咄嗟に背を預けられる岩もない。


 俺たちはそこで足を止めていた。


 前にリラが立ち、その背後にアルティシアがいる。

 俺は二人の背後で川を見ていた。


 水の揺れは細かく、月の明かりが水面に浮かんでいる。

 だが、同じ揺らぎの中に、ほんのわずかな不自然が混じっていた。流れの向きと、空気の重さが合っていない。


 山で獣を待つ時にも、こういう瞬間がある。水は動いているのに、周囲の生き物だけが先に黙る。音よりも早く、匂いよりも深く、静けさが何かを告げてくる。


 その静けさの中で、アルティシアが口を開いた。


 「……国王は……父は、私を守ろうとしたのではありませんでしたね」


 川の流れる音に負けてしまいそうなほど静かだった。

 ただ、弱くはない。長く目を逸らしていたものに向き合う響きだった。


 リラがわずかに振り返る。

 アルティシアは続けた。


 「王城での態度も、線の引き方も……帝国への輿入れも……すべて、“魔女”を処分するためだった」


 リラの息が止まった。

 鎧の内側で何かが軋んだように視える。怒るよりも先に現実として理解してしまったのだろう。


 アルティシアは顔を上げた。


 その横顔に何もないわけではなかった。

 灰青の瞳は川の向こうを見ているようで、もっと遠いものを見ていた。


 「……それでも」


 静かに、しかしはっきりと、彼女は言った。


 「私は、帝国に行きます」


 リラが即座に振り向いた。


 「ふざけないでください!」


 声が川辺に弾けた。


 それは、リラには珍しい荒さだった。

 近衛騎士としての言葉ではなく、近くにいる者の声だった。

 

 空気の中に見えない糸がぴんと引かれたように、草の先がかすかに震えた。


 「それでは、向こうの思う壺です! 殿下が帝国に行けば__」


 「分かっています」


 アルティシアが遮った。

 声は鋭くないが、その先を聞かなくてもよいほど、彼女の中ではもう完結していた。


 「でも、逃げ続ければ、“仲間”が削られる。私が“標的”である以上、それは避けられない」


 リラの唇がわずかに開き、言葉にならないまま閉じる。


 アルティシアは、リラを見ていた。

 王女が騎士を見る目ではない。その目は既に”仲間”を見る目に変わっていた。


 「だから、行きます」


 その言葉は、自己犠牲の響きではなかった。


 父に棄てられ、国に利用され、魔女と呼ばれる血を抱えたまま、それでも自分の足で立とうとする声の響き。


 俺はそのやり取りを背に、川面を見ていた。

 水の揺らぎが、ほんのわずかに乱れる。


 風はないのに、岸辺の草の先だけが、わずかに遅れて傾いた。


 空を見上げる。


 黒い影が三つ、川の上を大きく旋回していた。

 本物の鳥ならば、流れに沿ってもう少し低く飛ぶ。餌を探すなら、水面を見る。だが、その影は俺たちの頭上を離れなかった。羽ばたきの間隔も、鳥のそれではない。


 ……来たか。


 俺は弓を取った。


 弦を引く音が、妙にはっきりと聞こえる。

 川の音も、リラの息遣いも、アルティシアの沈黙も、その一瞬だけ遠くへ退いた。


 矢を放つ。


 音より先に、矢は空間を裂いた。


 黒い影が旋回を終える前に、その胴を貫かれた。羽毛がほつれ、黒い点が空から崩れ落ちる。鳥の形をしていたものは水に落ち、音を残して沈む。


 リラが振り返る。

 アルティシアの目も、川へ向いた。


 俺は弓を下ろさず、川沿いの空気を視た。


 沈んだ位置の水面が、静かに波立つ。落ちた形が、水の下で解け、別の輪郭を取り戻していく気配がした。


 「……ようやく、姿を現したか」


 川の中、影の落ちた位置が歪んだ。


 見られていた。最初から、ずっと。この静けさは、何者かが息を潜め、こちらとの間合いを測っていた沈黙だ。


 空気が変わった。


 だが、川辺の重さだけが増していく。川の音が低くなったように聞こえる。


 リラが剣に手をかけ、アルティシアの呼吸が一度だけ深く沈んだ。


 川沿いに、三つの気配が立った。


 黒と銀を基調にした装備。どれも人の形をしているが、そこに人の気配は薄かった。武器はまだ向けられていない。殺気も露骨ではない。だが、立っているだけで、そこだけ空気の質が変わっている。


 戦場の匂いがした。


 血の匂いではない。斬り合いの前に立ちのぼる、鉄と汗と恐怖の匂いでもない。


 冷えた圧だった。


 中央に立つ女は、月の光を受けたような金色の長髪を背に流していた。瞳も同じ色をしている。


 全身を覆う鏡面磨きの黒と銀のプレートアーマーは、周囲の光を映しながらも、その中にある身体の温度を一切感じさせなかった。


 手にしている槍は、彼女の身長をゆうに超えている。だが、その長さを持て余す気配はない。


 その女騎士が、淡々と告げる。


 「狂帝の御前より、伝言です」


 声には感情がなく、ただ、乾いている。


 「魔女を引き取る。抵抗は不要です。対話も不要です。魔女を置いて去りなさい」


 人を見ていない。


 王国は、政治の駒としてアルティシアを見ている。

 帝国は、処分すべき血として彼女を見ていた。


 だが、目の前の魔族たちは、会話すべき相手としてさえ扱っていない。


 手のひらに自然と力が入る。

 俺は一歩、前に出る。


 草履の下で砂利がわずかに沈む。

 リラが横目でこちらを見たが、止めなかった。アルティシアも何も言わなかった。


 「おい、魔族……お前らは腹が立つ」


 川の音が言葉の後ろを流れていく。


 俺は三人を視る。


 「二度と、俺の仲間の前に姿を現すな」


 中央の女騎士の金色の瞳が、初めて俺を捉えた。

 俺は、その女の目を視て言う。


 「これが最後通告だ、去れ」


 右側の女騎士が、琥珀色の目をギラつかせながら、口の端を上げる。


 「……随分と、上から物を言う」


 琥珀色の長髪を後ろの高い位置で一つに結び、革と金属を組み合わせた、動きを殺さない造りの鎧を身につけている。


 露出した腕には模様が刻まれている。その線は刺青にも視えたが、皮膚の下で、熱を持つように微かに揺れている。手にした槍の刃先には炎が纏わりつき、ゆらりと燃えていた。


 「……無駄な争いがお好みのようね……」


 左側の女が、静かに呟いた。


 深い紺色の長髪をまっすぐ下ろし、紫色の瞳は伏せ気味なのに、こちらの呼吸の間隔まで測っている。


 軽やかな魔道服の上に、最低限の装飾鎧を纏っているだけだ。片手には大きな魔導書、もう片方には杖。彼女は一歩も動いていないのに、川辺の空気だけが少し重くなる。


 その瞬間、リラが前へ出た。


 赤い髪の先が、見えない風を受けたように揺れる。まだ雷鳴はない。だが、彼女の周囲で空気が細く震え、肌に触れるほど小さな電気の粒が散り始める。


 怒りに任せた雷ではない。王女を守るために、自分で選んだ雷だった。


 「雷、応えよ。ーー《近衛迅雷・ストライゼン》」


 低く、鋭い声。


 詠唱が終わるより先に、彼女の鎧の縁を稲光が走った。髪の赤が、雷光を受けて一瞬だけ緋に輝く。


 「二度と、王女殿下に近づくな」


 三人の女騎士が、同時に構えた。


 金色の女は長槍をわずかに傾け、琥珀の女は炎の穂先を地面から離し、紺の女は魔導書に指を置いた。


 動きはわずかだが、そのわずかさだけで、川沿いの空気が張り裂ける寸前までいく。


 川の音だけが、変わらず流れていた。


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