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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第2章 世界の正体をみる
32/51

第3話 秩序は誰のためにあるのか


 平原は、どこまでもよく見渡せた。


 腰ほどまで伸びた草が風に吹かれるたびに揺れる。

 起伏は緩く、遠くまで見えるが、よく見えるということは、隠れる場所も逃げ込む場所も、ほとんどないということだった。


 見上げると、空の高いところに黒い影が緩やかに円を描いていた。その影の外側に、もう一つ、さらにもう一つと黒い点が加わっていく。


 カラスだ。

 羽ばたきは少なく、ただ風に乗りながら、地上の動きを観察するように旋回している。


 死の気配、というにはまだ早い。


 だが、山で生活していた頃から、こういう鳥の集まり方には意味があった。何かが動く前や何かが倒れる前、空に生きるものは地上のものよりも少しだけ早くそれを知る。


 俺は足元へ視線を落とした。


 土の上には生き物の足跡が幾重にも重なっていた。

 柔らかかったはずの地面は踏み固められ、草は根元から潰れて寝ている。


 群れが一度通っただけの跡ではない。

 同じ場所を何度も通り、何度も踏み、餌場と水場を往復した痕跡がそこに残っていた。


 ……大きく、重い。


 そう思った次の瞬間、遠くからごく微かな震えが足裏に伝わってきた。


 「……来るね」


 タマが声を張らずに言った。

 俺が頷くのとほとんど同時に平原の向こうで草が割れた。


 最初に見えたのは黒ずんだ角だった。

 岩を削って付けたような硬い角が、草を押し分けながら前へ出てくる。続いて、分厚い皮膚に覆われた巨大な肩が見え、低い唸りのような鼻息が聞こえる。


 ”ストーンバッファロー”。


 体の一つ一つが小さな岩の塊を思わせる。

 動きそのものは俊敏なわけではないが、一度走り出せば止めるのは容易ではないだろう。


 速さではなく、体重が違う。その勢いを正面で受ければ、剣であれ盾であれ人の身体であれ、押し潰される。


 その群れの先頭に、ひときわ大きな個体がいた。

 一回り、いや、それ以上に大きい。


 周囲の個体が草を揺らしているなら、その個体は地そのものを押していると言える。

 その個体の唸り声と血走った目がこちらを威嚇し、いつ飛び込もうかと様子を伺っている。


 「……キングバッファロー」


 誰かの口からこぼれ落ちる。

 馬の鼻息が短く乱れ、誰かの剣の柄を握り直す音が幾重にも重なった。


 「配置!」


 リラの迷いのない声が平原に響き渡る。

 そこには驚きも、恐れも、過剰な昂ぶりもない。

 

 リラの声が届いた瞬間、護衛たちの肩から強張りが抜けた。

 馬の鼻息が落ち着き、剣の柄を握る手の位置が、それぞれの定位置へと収まっていく。


 「前衛、左右に散開! 正面で受けない! 馬車はそのまま、円陣を維持!」


 一行は、一瞬で形を変えた。


 護衛たちは前へ出すぎず、しかし遅れることもなく、規律を保ったまま、草を踏み分けて左右へ流れていく。

 

 剣を抜く音、盾を構える音、馬が鼻を鳴らす音が重なりながらも、その動きに乱れはなかった。


 護送隊が軍へと形を変えていく。


 バッファローの群れが地を蹴り地面が揺れる。


 草が踏み倒され、土が飛び跳ね、唸り声が平原に広がっていく。

 だが、その突進は真正面から馬車へ向かったわけではなかった。


 護衛たちが声と動きで進路を作り、群れの進路をずらしている。

 止めるわけでも、ぶつかるわけでもない。進路を逸らし、群れの塊を少しずつ解していく。


 「レオンさん!」


 タマがレオンに合図を送る。


 「分かってる!」


 レオンの槍が走る。

 穂先はバッファローの喉でも心臓でもなく脚元を掠めるように走る。

 ストーンバッファローの皮膚は硬い。だから、ほんのわずかだけ足運びを乱す。

 踏み込みの流れをずらせば重い体が自分の勢いを持て余す、その瞬間を作るだけでいい。


 タマの詠唱が後ろから聞こえてくる。


 「風よ__」


 強くない風だった。


 風の刃や嵐にはならず、ただ草の先を撫でるような柔らかい流れが、バッファローの進路に入り込む。

 その風がバッファローの走りを歪める。

 

 大きな体ほど、わずかな角度の狂いを取り戻すのに時間がかかる。

 タマの風はその狂いを無理に作るのではなく、バッファローが自分で選んだ一歩を、少しだけ別の場所へ置かせていた。


 後方で、ガグンが詠唱を始めた。


 土が揺れ始め、草の下から盛り上がる。

 平らだった地面に小さな隆起が生まれ、バッファローの着地点が乱れる。

 

 砂が舞い、視界を奪う。

 その隙間を縫うように薄い氷が地表を覆った。厚く凍らせる必要はない。ただ、踏んだ瞬間に滑る程度だけ。


 先頭の一頭が足を取られ、巨体を前へ投げ出した。


 その後ろの個体が止まりきれずにぶつかり、さらに後ろの群れが波のように崩れる。体が宙に浮き、地面が揺れる音が続いた。


 馬車の中でアルティシアの魔力が動いた。


 馬車の周囲に薄く整えられた魔力の流れが広がり戦場へ染み出していくのが視える。


 倒れかけた護衛の膝に、即座に力が戻る。

 誰かの詠唱が途切れかけた瞬間、補助が入り魔法が完成する。

 疲労で視線が下がった者の意識が、もう一度だけ前へ引き戻される。


 それは目立たないように作られていた。

 強引に誰かを支配するのではなく、”助け合うため”の魔法。


 すべてが“ちょうどいい”。

 守られているだけの存在ではない。あれもまた、この陣形の一部だった。


 群れはなお荒く鼻息を吐き、何度か向きを変えようとした。

 キングバッファローが低く唸るたび、周囲の個体が身を固くし、再び前へ出ようとする。


 だが、進めば足元を乱され、曲がれば風に流され、速くなればレオンの槍と俺の矢が削った。


 しばらくして、キングバッファローが足を止めた。


 巨体が動きを止めると、平原そのものの揺れが少し落ち着いたように感じられた。キングバッファローは低く鳴き、その声に群れが呼応する。


 怒りを伴った視線が馬車に向いている。

 後ろには残りのストーンバッファローが全て集まっている。


 ……突撃するつもりか。


 リラが護衛たちの先頭に立ち、詠唱を始める。

 草原に焦げ臭い匂いが広がると、同時にリラの周りを雷が走る。


 キングバッファローの腰が落ちる。

  

 俺は軍から少し離れたところに移動し、弓を引いた。

 弦が指に沈み、木のしなりが手の中で落ち着く。


 キングバッファローが吠える。

 後ろのストーンバッファローたちも唸り声をあげ、足で地面を何度も叩く。


 氣は使わず、急所も狙わない。

 キングバッファローが下がれば、他も下がる……はず。

 殺す必要はない。


 狙うは脚。硬い皮膚と皮膚の隙間。足が地を踏んだ瞬間を狙う。

 呼吸を止め、風の流れを視る。


 放つ。


 矢は風を裂きながら飛び、正確にキングバッファローの脚を射抜く。


 キングバッファローは走るための勢いをつけることなく、最初の一歩で地面を揺らすように倒れた。

 後ろのストーンバッファローも走り出すことなく、その場に留まる。


 息を整えるように、キングバッファローが脚を曲げて起き上がろうとする。脚は震え、何度も地を探り、ようやく四本で立った。


 巨体が立ち上がり切ると、平原を支配していた振動が消えた。

 

 キングバッファローは低く鳴き、その声に群れが呼応する。

 群れはゆっくりと向きを変えた。


 「追わない!」


 リラが即座に言った。

 誰も異論を出さなかった。


 やがて、草の波の向こうへ群れが消えていく。


 音は遠ざかり、地面の震えも薄れていった。

 土埃がゆっくりと風に流され、草の匂いだけが平原に残る。


 空のカラスはまだ旋回していた。

 だが、降りてはこなかった。


 誰かが深く息を吐いた。

 それを合図にしたように、護衛たちの肩から張りつめていた力が抜けていく。剣が鞘に戻り、槍の石突が地面に触れ、流れが静かに収まる。


 死者も重傷者もいない。

 馬車も無事だった。


 俺は倒れた草の向こうを見ていた。


 *


 王城の会議室は、石壁でできていた。


 壁は厚く、窓は高い位置にあって外の景色は見えず、光だけが上から静かに落ちてくる。


 長いテーブルを囲む宰相と重臣、貴族たちは誰も無駄な動きをせず、この部屋そのものが、感情を持ち込むことを最初から禁じられているようだった。


 玉座側に、ワイス・クラウディア・レグナが座っている。

 その背後に、グラウ・アイゼンが鎧姿のまま、微動だにせずに立っていた。視線は前に据えられ、その表情からは感情も見えない。


 年配の宰相が書類に視線を落としたまま、淡々と報告を続けていた。


 「……王女殿下の輿入れは、概ね予定通り進行しております」


 声に感情は込められない。


 「王国内の反応も想定の範囲内です。噂は各地に広がり、過剰な混乱は見られません」


 誰も口を挟まなかった。

 報告は確認作業に過ぎず、会議室の空気には緊張がない。あるのはただ、予定通りに進んでいるという、事実の共有だけだった。


 「帝国側の対応も、概ね予測通りかと」


 宰相は一通りの報告を終えると、咳払いを挟み、最後に質問をする。


 「……本当に、よろしかったので?」


 声色は変わらない。


 ワイスは即座に答えた。


 「構わん」


 その退屈そうな目に変化はなかった。


 宰相はワイスの方に顔を向け、もう一歩踏み込む。


 「間違いなく、殺されますが?」


 表情や声色に変化があるわけではない。念のための確認だ。

 

 ワイスは、少しも表情を変えずに言った。


 「確実に死ぬよう、手は打ってある」


 会話の内容に対して、会議室の誰一人として顔色を変える者はいない。


 宰相は静かに続ける。


 「王女殿下が魔族と繋がっている、という噂ですが……流布の経路、影響範囲ともに、想定内です」


 それが誰の手によるものか、この場ではすでに共有されている。


 ワイスが言った。


 「帝国に、匿う理由を与えないためだ。正義を掲げる国ほど扱いやすい。だが、あくまで噂は噂だ。こちらが認めなければ、問題はない。時は稼げた。春までの間、帝国はまた”冬眠”に入る」


 誰も反論しない。

 宰相は深く一礼し、そして核心だけを口にする。


 「承知しました。魔女が他所に奪われないのであれば、それで問題はございません」


 その言葉にためらいはなかった。


 会議室の隅でグラウは動かない。


 この部屋では、誰も血を流していない。

 だが、命の行方は、すでに決まっていた。


 *


 その拠点は王国領内にあった。


 街道から外れた岩の下、崩れかけた廃砦のさらに奥へと続く地下空間に、結界が張られている。


 拠点の中は静かで血の匂いはほとんどしない。

 代わりに薬品と魔力、それに錆びた鉄の匂いが、動かない空気の中に重なっていた。


 一歩足を踏み入れた瞬間、ここが研究室であることが分かる。


 石で作られた台の前でヤグが作業をしていた。

 透明な容器に入った血液、魔力の測定器、魔力の流れを細かく記した記録。

 どれも丁寧に整理されており、ヤグは視線を落としたまま、数値を確認しながら淡々と言った。


 「魔力量は、どれも非常に高い」


 指先が、別の記録へ移る。


 「だが、戦闘結果が伴わない。出力と成果が釣り合っていない。効率が悪い。再現性もない。やはり、あれらは突然変異の域だな」


 壁にもたれかかっていたミルザが、肩をすくめながら鼻で笑った。


 「要するにさ、全部ハズレってこと?」


 背後で鎖の擦れる音が小さく鳴ったが、ミルザは気にしない。


 「オーガも、ハイオーガも、アンシェント・オーガも、数値だけは立派だけどさ」


 視線を巡らせながら続ける。


 「結局、"あいつら"とは別物なんだろ?」


 ヤグは指で目頭を抑える。


 「雷を操る個体は確認されていない。魔法の構造が違う。あいつらが見せたものと、同系統ではない。全くの別物だ」


 ミルザは少し考えるように顎を掻く。


 「じゃあ、あの羅刹も無駄足か」


 視線の先、壁に複数の”生き物”が貼り付けられていた。

 オーガの他に魔族、亜人、男女の区別なく鎖で拘束されている。共通するのは角を持っているということだけ。

 

 大きな傷はなく、血も流れていない。

 だが、誰一人として、目に生気がなかった。

 魔力を抑制する鎖が静かに光っていて、生かされてはいるが表情はない。


 その中に、スイウンの姿もあった。

 霧の衣は失われ、角だけが残っており、羅刹としての威厳はもう感じられなかった。


 少し離れた場所に、別の区画がある。

 狐の獣人や狐型の魔物がガラス張りの個室に別々に閉じ込められている。

 拘束の形が違い、結界の層も厚く、観察の頻度も明らかに多い。


 ミルザが壁に背を預けたまま、そちらを一瞥した。


 「こっちは、扱いが違うね」


 ヤグはようやく顔を上げた。


 「別の研究対象だ」


 ミルザはため息混じりに続ける。


 「で、どうする? これ。処分しておこうか?」


 壁に並ぶものを顎で示す。

 ヤグは間を置かずに答えた。


 「使い道はある」


 価値があるか、ないか。それだけが基準だった。


 魔族の拠点は、静かなままだった。

 誰も叫ばず、誰も血を流さない。


 *


 国境を越えて、その先にあった街は奇妙なほどに整っていた。

 

 石畳は隅々まで均一に敷かれ、道幅もどこを取っても同じ間隔で区切られている。

 建物の高さは定規で線を引いたように揃っている。

 

 ……匂いがない。

 

 人が暮らす場所であれば必ず存在する、煙や食物などの生活が生み出すはずの匂いというものが、ここにはない。


 視界を遮るものは何一つなく、広場は最初から人が並ぶための場として設計されている。


 完璧、と言ってよかった。まさに、”正しい街”だ。

 

 だが、人がいない。


 ただ、石畳には重い荷車を引いた無数の轍が幾重にも重なり、道端には積み込みから外されたであろう日用品が落ちている。


 街全体が力ずくでどこかへ持ち去られたような痕跡が視える。


 俺の中で違和感が言葉になるより早く、タマが口を開いた。

 

 「……逃げよう」

 

 声は低く、短い。

 すぐにレオンが頷いた。

 

 「だな」

 

 少し遅れて、リラが呟く。

 

 「……変ね。音が……ない」

 

 帝国の案内人と合流するはずの広場には、誰一人として姿がない。

 風の音さえ、街から連れ去られたように途絶えていた。

 

 ゆっくりと進んでいた隊列が止まる。

 

 俺は辺りの氣を探す。

 広場の縁、屋根の連なる影、路地の奥、そこに、無音の氣と魔力の塊がいくつも感じ取れる。

 

 すでに包囲は完成しているな。


 動き出すきっかけを、向こうが選んでいる状態だ。

 

 その瞬間、ガグンが低く呟いた。

 

 「……遅かったみたいだな」

 

 次の瞬間、四方の魔力が一斉に爆ぜた。

 

 屋根の上から、建物の影から、路地の奥から、武装した騎士たちが同時に姿を現す。


 弓の弦が引き絞られ、空中には魔法陣の光が浮かび上がり、近接装備の騎士たちはこちらが構える前に距離を詰めていた。

 

 配置に無駄がなく、そして、感情がない。

 

 ガグンが淡々と告げる。

 

 「《静粛騎士(サイレントナイツ)》だ」

 

 直後、空気を裂く音が幾重にも重なった。


 矢だ。

 

 「巡れ、風。私の前に集い、刃を拒め。流れよ、散れよ、形をもてーー《風壁・展》!」

 

 タマの詠唱に合わせて、前方の空気が密度を上げ、透き通った壁の形を取った。


 飛来した矢はその壁に触れた瞬間に弾かれ、続けて打ち込まれた魔法弾もまた、本来の軌道から逸れて石畳を破壊していく。

 

 だが、その弾幕の内側で、ここまでの道のりを共にしてきたはずの護衛の騎士達が、馬車に向かって剣を抜いていた。

 

 合図はなく、迷いもない。

 

 「裏切りだ! 殿下を守れ!」

 

 レオンの咄嗟の叫びが響く。俺は同時に踏み出していた。

 

 裏切った騎士の懐に踏み込み、手のひらの付け根を胸骨の下、息の溜まる場所へ叩き込む。相手の体が浮きかけたところを、伸びてきた剣腕の肘へ自分の体重ごと預け、関節を逆へ折って、そのまま投げ落とした。骨の軋む音が短く鳴り、騎士の体が石畳の上を一度跳ねて転がる。

 

 次の一人は、踏み込みの速さは悪くない。だが、甘い。

 その剣を避けるではなく払い、踏み込みの向きをそのまま流して隣の騎士へぶつける。二人分の体勢が一度に崩れたところを、肘で側頭を打ち落とす。


 武器を抜かなくても、こいつらの動きは潰せる。

 冒険者を下に見ている騎士では、俺の動きは止められない。

 

 「雷、纏えーー《近衛迅雷・ストライゼン》!」

 

 リラの詠唱が短く区切られて炸裂した。

 赤い髪が逆立ち、全身を青白い雷光が包み込む。

 地面を蹴った瞬間、リラと帝国騎士との距離が消えていた。

 

 剣と剣がぶつかった刹那、雷が走って空気を裂き、火花が広場の高い位置まで飛び散る。

 

 あれを受けるか。帝国の騎士も、人離れしているな。

 

 だが、リラの足元、石畳の継ぎ目を縫うように、淡い光の線がすっと走った。それは円でもなければ壁でもない。地面に予め敷かれていた騎士たちの配置そのものが、輪郭を持って一つの陣形を成し、その陣形そのものが防壁の役目を果たしている。

 

 次の瞬間、雷を纏ったままのリラの剣が、陣形ごと押し返されるように弾かれた。

 

 詠唱ではなく、配置で魔法陣を完成させているのか。

 

 「はぁっ!」

 

 レオンが息を引き、槍を低く構えたまま間合いに踏み込む。

 

 「《穿突・旋槍》!」

 

 穂先が螺旋を描いて伸び、構えていた騎士の盾を貫きながら、その体ごと後方へ弾き飛ばした。

 

 その背後で、馬車の扉がゆっくりと開く。

 降りてきたのは、アルティシアだった。

 

 「この身は王家に連なり、この声は民に届く。守ると誓ったものの前に、理を掲げ、境を引くーー《王律防壁》展開」

 

 淡い金色の光が広場に静かに広がり、馬車と俺たちの陣を、一つの繭のように包み込んでいく。

 

 タマがすかさず詠唱を重ねた。

 

 「《風陣・護》!」

 

 風が渦となってアルティシアの結界に絡みつき、外側からその守りをさらに編み込んでいく。

 

 その間、ガグンは一歩も動かなかった。腰の杖を地面に突き立てたまま、低い声で、長い詠唱に入っている。

 

 「大地よ、応えろ。天と地の狭間に在る力よ、重さを忘れた世界に__」

 

 足元の石畳そのものから魔力が滲み出し、ガグンの杖の先へ、異様な密度で集まり始めていた。

 

 俺は息を整え、戦場全体に神眼を少し強めに開いた。

 個々の騎士の踏み込みの速さ、魔法を構築するまでの間の取り方、その動きが向かう先を、一筋ずつ辿っていく。


 やがて、無音の指揮系統の中心が、ゆっくりと浮かび上がった。

 

 広場の中央付近、一段高い場所に立つ男が、ただ指を一本立てた。

 

 それだけだった。

 

 それだけで、弓が引かれ、魔法が光り、剣が走っていく。誰一人として声を出していないのに、全員が同じ一つの動きを共有していた。

 

 ……なるほど、これが、整うということか。

 

 俺は背中の弓を抜き、矢をつがえた。

 深呼吸はしない。山で獣を待つ時の呼吸は、もうとっくに整っている。

 弦を放した瞬間、矢は音を後ろに置き去りにして、指揮官の喉元へ飛んだ。

 

 だが、指揮官は動いた。

 常人の反応速度ではない。矢が弦を離れた瞬間、軌道を見るのではなく、来ると分かった場所へ、すでに手が伸び始めている。鋼の手袋が、矢を空中で正面から掴み取った。

 

 「……ほう」

 

 指揮官が口元を歪める。

 

 「いい射だ。だが__」

 

 その言葉の途中で、横手からリラの雷が鞭のように走った。

 

 「しゃべってる暇はないわよ!」

 

 指揮官は身体を半身に開き、雷を纏った剣を自分の剣の腹で受け流す。

 雷が逸れた瞬間、リラの踏み込みの勢いがそのまま体勢を崩し、彼女の背中が指揮官の正面に晒された。

 指揮官の剣が、その背中へ向かって振り上げられる。

 

 その動きは、視えていた。

 

 俺はすでに二の矢をつがえていた。

 一の矢で死ぬ相手とは、最初から思っていない。

 

 一の矢は、こいつの腕を自分の動きで塞がせるための囮だ。剣を構え直したいま、こいつの脇の下と肩の継ぎ目だけが、鎧の外に晒される。

 

 二の矢が、無防備に晒されたその一点を狙って走る。

 

 だが、矢が届く寸前、何もなかったはずの空間に薄い光の膜が生まれる。


 離れた位置にいた別の騎士が、指揮官の死角を埋めるために展開した防壁だった。連携が一つの生き物のように動いている。

 

 矢は防壁に触れて軌道を失い、石畳の上を硬い音を立てて転がっていく。

 

 そして、俺の神眼が、ふと、ガグンの杖そのものを捉えた。

 

 ただの木の柄だと思っていたその表面に、文字のようなものが、内側から滲み出している。文字でもなく、印でもない。輪郭を組み変えるたびに、それぞれが別の意味を為しているようにも視える。

 

 ……大地ではない。

 

 あれは、大地に”何か別のもの”を孕ませている。

 

 俺がそう思った瞬間、ガグンの低い声が背後から届いた。

 

 「……準備ができた。集まれ」

 

 俺はすぐに広場の地中を視た。

 

 石畳の下、ガグンの杖の足元から縦に深く魔力が伸び、そこから放射状に、見えない波の根が外へ広がりかけている。


 これが地表に届く前にガグンの足元の内側に入らなければ、巻き込まれる。

 

 「全員、馬車のところまで下がれ!」

 

 俺の声に、リラもレオンも一瞬の躊躇なく踵を返した。

 

 ガグンの杖の文字が一つ、明確に像を結ぶ。

 

 「本来の秩序を思い出させろ。引け。押せ。歪めーー《重力干渉・波動展開(グラビティ・ウェーブ)》」

 

 世界が沈んだ。

 

 広場の石畳が、中心から外へ向かって音を立てて沈み込み始めた。

 継ぎ目が裂け、敷石がひしゃげ、整っていたはずの広場全体が、皿のように陥没していく。目には見えない重さが、波の形になって、ガグンの足元から放射状に広がっていった。

 

 上から押し潰すのではなく、下から引きずり落とす。

 

 帝国騎士たちの身体が、声を上げる暇さえ与えられぬまま、地面に叩きつけられていく。

 

 リラが呆然と呟いた。

 

 「……なに、これ……」

 

 レオンも息を呑む。

 

 「冗談だろ……」

 

 俺は思わず口に出していた。

 

 「池の面に、石を放り込んだ時の波紋によく似ているな」

 

 二人が俺を見る。タマが目を見開き、俺の袖を引っ張る。

 

 「特に、あの大きな波だ。岩を放り込むと、外へ広がる前に一度だけ中心が深く沈み込む。あれと、同じ動き方をしている」

 

 ガグンが目を細めて、低く笑った。

 

 しまった。

 

 「ほう……なかなか、いい眼をしている」

 

 タマを横目で見ると、額に手を当てたまま、深く息を吐いていた。

 

 崩れた石と土埃の中から、ゆっくりと指揮官が立ち上がるのが視えた。

 

 無傷だった。

 

 指揮官が無言で右手を上げた、たったそれだけの動作に応えるように、街の奥、それまで見えていなかった建物の影の奥から、新たな気配が音もなく動き出していく。

 

 リラの判断は早かった。

 

 「とにかく、逃げるわよ!」

 

 馬車は捨て、馬に分散して街を突破する。

 俺はアルティシアの細い手首を掴み、有無を言わせず自分の馬の後ろに引き上げた。彼女の重みは、思ったよりも、ずっと軽い。

 

 街は、最後まで静かだった。

 悲鳴も、怒号も、追手の足音さえ、必要以上には響かない。

 

 帝国の秩序は、ただ、正確に機能していた。

 危険と判断されたものを、誰かが考える前に排除する。

 

 それが、ここで言うところの、正義だった。


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