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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第2章 世界の正体をみる
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第2話 羅刹 VS 魔族


 大陸南部の地図にすら名を刻まれないこの土地には、常に湿り気を孕んだ白い霧がはれることなく広がっていた。


 谷とも盆地とも判別のつかない浅い窪地には、長い年月を風雨に削られた岩肌がむき出しになり、その表面へ張り付いた苔が水を吸って黒く沈んでいる。


 風はほとんど吹いていないが、空気だけが異様に重い。


 息を吸うたび湿った冷気が喉の奥へ絡みつき、肺の内側に不快な感覚が消えない。


 その白い霧の奥に、一人の女が静かに立っていた。


 スイウン。


 ”羅刹(らせつ)”と呼ばれる存在。


 この世界における鬼、すなわちオーガ種の中でも頂点に立つ一種であり、単純な膂力だけではなく、強大な魔力操作を兼ね備えている。


 額の左右から伸びた漆黒の角は、磨き上げられた黒曜石のような鈍い艶を帯びながら後方へ流れ、その下では深緑を溶かし込んだようなアクアブルーの髪が、霧に含まれた結露を銀色に滲ませながら揺れていた。


 彼女が纏っているものは白い霧そのもの。


 魔力によって縫い留められた霧が、薄絹のように身体へ絡みつき、肩から腰へ、腰から脚へと静かに流れている。


 裾は常に輪郭を曖昧に揺らし続け、見る角度によって距離感すら狂わせていた。


 その手には巨大な扇――《芭蕉扇》。


 万年氷の結晶と龍骨によって組み上げられた異形の武具は、静かな魔力の脈動を刻み続けている。


 そして次の瞬間、谷の霧が濃くなるというより、増えた。


 空間そのものへ微細な水滴が滲み出し、視界のあらゆる場所へ漂い始める。肌には冷えた湿気がまとわりつき、髪の表面には小さな水珠が浮かび、呼吸するたび肺の奥まで水を飲まされるような重さが残った。


 スイウンは静かに《芭蕉扇》を構え、その細い指先が柄を握り込んだ直後、扇はためらいなく振るわれる。


 轟音が窪地に鳴り響く。


 極限まで湿度を孕んだ暴風が圧縮され、爆ぜるような勢いで前方へ解き放たれた。


 叩きつけられた岩肌が砕け、地面が抉れる。巻き上がった石片すら白い霧の中へ飲み込まれていく。


 霧を伴った暴風雨が一気に谷を満たした。


 その霧の中に影が生まれる。


 二つ、三つと霧の中で映り重なるスイウンの姿が幾重にも浮かび上がり、残像と実像の境を曖昧にしていく。


 湿った空気が幾重にも層をなし、音は本来の方向を見失って散っていく。


 距離も方位も感覚そのものを狂わせていた。


 ここまで踏み込んで、なお正気を保っていられる魔族は過去にはいなかった。


 普通であれば、霧の入り口で意識から方向感覚が抜け落ち、自分の腕が今どこにあるかも分からなくなる。


 だが、霧の奥から笑い声が響く。


 「……いいねぇ」


 愉悦を隠そうともしない声音。


 その笑みだけが、霧の中で異様なほど鮮明に浮かび上がる。


 暴風の中を、一つの影が悠然と歩いてくる。


 白灰色の筋肉が鋼のように盛り上がった巨躯。


 額から天を突く二本角に夜を溶かしたような深紫の長髪。


 黄金色の瞳だけが、霧の奥で獣のように細く光っている。


 ミルザ。


 その手には、棘付きのメイスが握られている。

 

 柄は短く、片手で扱える長さで、先端は三叉に分かれた金属製。


 それぞれの棘は微妙に形が異なり、左右非対称。


 表面に細かな溝。傷のような線が、無数に走っている。


 棘付きのメイス。


 一目で理解できる。


 突き込んだ先に、二度と動けぬ者を縫い止めるための武器。


 「霧と水……なるほど。力は十分。見た目も上等だ」


 ミルザは喉を鳴らすように笑いながら、一歩前へ踏み出す。


 その瞬間、スイウンの《芭蕉扇》が連続で振るわれ、湿った突風が幾重にも重なりながら谷を削り始めた。


 岩が砕け、地面が裂け、巻き上がった霧が嵐となって空間を覆い尽くしていく。


 だが、ミルザの足は止まらない。


 「効かないんだよねぇ、この《狂智の錨》がこの手にある限りはさ」


 暴風がミルザにたどり着く前に消失する。


 霧が霧として成立できなくなり、風が風の形を維持できず、ただの湿気となって散っていく。


 消されているのではなく、こちらの攻撃自体がなかったことにされている。


 ミルザが《狂智の錨》を軽く地面へ触れさせた。


 詠唱はしない。


 ただ、文字のような異様な模様だけが空中へ浮かび上がり、それが組み替わるたび、空気そのものが軋む。


 そして、霧が落ちた。


 漂っていた水滴が、一斉に霧であることをやめ、ただの重い雨へ変わって地面へ叩きつけられていく。


 暴風雨は勢いを失い、残像は消え、谷は唐突に静まり返った。


 スイウンの視界が一気に開ける。


 「……まずい」


 だが、その危機感より速くミルザはすでに眼前へ踏み込んでいた。


 巨体とは思えない速度で地面を砕き、《狂智の錨》が躊躇なく振るわれる。


 身体の内側へ巨大な杭を打ち込まれたような衝撃が走り、その瞬間、スイウンの魔力の流れが強制的に停止した。


 魔力の巡りを奪われたため、霧は散り、指先から力が抜け落ちていく。


 地面へ倒れ込んだ瞬間、頬に湿った土の冷たさだけが妙にはっきりと伝わる。


 「……へぇ」


 ミルザは笑い、倒れたスイウンを足で踏みつけ、その顔を覗き込みながら心底楽しそうに目を細めていた。


 ひとしきり笑ったあと、独り言のように呟く。


 「違うねぇ。やっぱり若様の言う通りか。特別なのは、あいつらだけってわけだ」


 《狂智の錨》が再び振り上げられ、その影がスイウンの視界へ落ちた瞬間、意識はゆっくりと闇へ沈み始める。


 その直前、彼女の胸を過ったのは恐怖ではなかった。


 ようやく終われる。


 そんな、安堵にも似た感情が内側を満たす。


 霧は再び静かに谷を覆い直していく。

 

 担ぎ上げられた羅刹の手が、ミルザの肩で力なく揺れた。


 漆黒の角が白い霧の中へゆっくりと吸い込まれていく。


 *


 出発から、半日ほどが過ぎていた。


 街道は一本、迷いのない線のように北へ延びており、その両側には低い草原が広がっている。


 空は高く、流れる雲も少ない。


 馬の蹄の音だけが一定の間隔で街道の硬い土を叩き続けていた。


 遠くで、カラスが鳴いていた。


 カァー、カァー、と間延びした声が空の高さに薄められ、風に乗って流れていく。


 俺とタマ、それにレオンとガグンは馬に乗り、いつの間にか自然と横並びになっていた。


 前後には護衛の騎士たちが散り、中央にはアルティシアの乗る馬車がある。


 隊列としては、よく整っていた。


 街道の左右へ視線を送る者や後方を警戒する者、馬車の周囲を一定の間隔で周る者、それぞれが声を掛け合わなくても自分の役目をまっとうしている。


 その流れに大きな乱れはなく、王女を運ぶ隊列として不足はない。


 その中で、リラはよく動いていた。


 前方へ馬を出して周囲を確認し、少しして戻ってくると馬車の横へ寄り、アルティシアの様子を確かめる。


 それが済むと、今度は隊列の外側へ出て、街道の先や草原へ目を配る。


 護衛として忙しいはずなのに、リラの横顔には妙な明るさがあった。


 緊張がないわけではない。


 近衛騎士として、他の騎士に指示を出し、周りへの警戒も怠ってはいない。


 それでも赤い髪が風に揺れるたび、どこか楽しげな空気が彼女の周囲に感じられる。


 張り詰めた任務の中にいるというより、遠くへ向かう道そのものを、少しだけ待ち望んでいたように見える。


 「ねえゲドー、”オルドリス帝国”ってね」


 唐突に、リラがこちらへ馬を寄せながら声をかけてきた。


 距離が少し近い。


 馬の肩が並ぶほどではないが、こちらの声を拾いやすい位置で、リラは手綱を軽く握り直している。


 「とにかく騎士団が強いの。《秩序騎士(オーダーナイツ)》って呼ばれていて、公的な護衛とか治安維持とか、国境付近の防衛とか、そういう秩序を担う部隊なんだけど……もう、見た目からして“正義”って感じなのよ」


 説明しているというより、語りたくて仕方がない様子。


 リラ自身、騎士という立場に誇りを持っているのだろう。


 好きなものを語る時にだけ声に熱があり、言葉を選びながらも、それを隠す気配はない。


 馬上の姿勢は崩れていないのに、目だけが少し明るくなっていた。


 「皇帝も前に出る人らしいの。飾りじゃなくて、本当に戦えるんだって」


 「それは……すごいな」


 俺がそう返すと、リラは満足そうに頷く。


 「でしょ? だから帝国って、魔王ともかなり強気にやり合ってるのよ。王国みたいに、魔王領から距離を置いて守るんじゃなくて、実際に戦うの」


 その様子をタマが横目でちらりと見ている。


 何も言わずにいるが、金色の瞳が一瞬だけリラを映し、それからこちらをかすめるように動き、すぐに前へ戻った。


 風が外套の端を揺らす中、タマは何事もなかったように手綱を引いている。


 レオンがその空気を自然に散らすように口を挟んだ。


 「ただ、冬は相当厳しいらしいけどな。北へ行けば行くほど雪が深くなるから、帝国軍も雪が本格的に降る前には引き返す運用だとか」


 「そそ。魔王領はもっと北だから」


 リラが頷き、前方へ一度視線を投げる。


 「帝国は攻めるのも得意だけど、守るのはもっと得意なの。あそこ、簡単には落ちないわ。城も、街も、砦も、最初から長く耐えるために作られてるって聞いたことがある」


 なるほど、と俺は小さく頷いた。強いが、万能ではない。


 人がどれほど剣を鍛え、騎士団を揃えたとしても、雪の重さや寒さまでは簡単に打ち破れない。


 「王国とは……」


 呟きながら、リラは少しだけ考えるように視線を前へ向ける。


 乾いた風が吹き、赤い髪が横へ流れる。


 リラはその髪を手で押さえもせずに前を見ている。


 「正直、どうなるか分かんないよね。味方って言い切るには微妙だし、敵ってほどでもないし。どっちも魔王とは戦ってるけど、だから仲良くできるかっていうと、それは別の話だし」


 蹄の音だけがしばらく一定の間隔で続く。

 

 馬車の車輪が小さな石を噛み、乾いた音が一度だけ隊列の中へ転がっていった。


 そのための今回の政略結婚か。


 王女を乗せた馬車が帝国へ向かっている。

 

 王国と帝国の間にある微妙な距離を埋めるために、一人の女の行き先が決められている。


 いつの世も変わらない。


 ガグンが低い声で口を開く。


 「オルドリス帝国には、表に出ない騎士もいる」


 淡々とした声音だったが、言葉の意味は重い。


 「秩序を守るために、人に見えないところで仕事をする者たちだ」


 遠くでまたカラスが鳴く。


 「《静粛騎士(サイレントナイツ)》そう呼ばれている」


 空気がほんのわずかに張った。


 レオンの視線が一瞬だけガグンへ向き、タマの指が手綱の上で少しだけ止まる。


 リラはすぐに肩をすくめた。


 「……噂の域を出ません」


 きっぱりと言った。


 「公式には存在しないことになってます。少なくとも、騎士団じゃ誰も見たことないです」


 見たことがないのに名だけが残っているものは、たいてい面倒だ。


 陰陽師、武者、妖、その中でも有名だが見たことがない者たちの方が苦戦させられる。


 しばらくして、タマがふっと小さく息を吐いた。


 「帝国って、いろいろあるんだね」

 「あるある」


 リラが軽く笑う。


 その笑いは明るかったが、先ほど帝国の騎士団を語っていた時とは少しだけ響きが違った。


 「でもさ、タマさんが一緒なら安心じゃない? ゲドーもいるし」


 タマは一瞬だけ言葉に詰まり、曖昧に笑う。


 「……どうだろうね」


 けれど、目だけは少し遠くを見ていた。


 日がゆっくりと傾き始め、街道の先には小さな街影が見え始めている。


 石壁の向こう側から覗いている煙突から細い煙が立ち上っている。


 まだ遠いが、人が暮らしている場所の匂いが、風の向きによってはわずかに感じる。


 会話は自然と途切れた。

 

 蹄の音だけがまた街道を満たしていき、遠くの空では、二羽のカラスが旋回している。


 その下を進むリラの馬は、いつの間にか少しだけこちらへ寄っている。


 本人は気づいているのかいないのか、前を向いたまま、時折馬車の位置を確認している。


 タマは口を開かなかった。


 時々こちらへ視線が流れる。


 何かを言いたそうにして、結局飲み込み、すぐに前へ戻る。


 手綱を握る指が、ほんの少し、いつもより固く絡み直された。


 俺は、それに気づいていないふりをしたまま、ただ前を見ていた。


 *


 夜の酒場は、いつも通りだった。


 冒険者たちの声は少し大きく、仕事を終えた安堵と疲れと酔いが入り混じって、笑い声も愚痴も、どれも珍しくない夜の空気を作っていた。


 その喧騒の奥まった一角、小さなテーブルに三人が座っていた。


 カイラン、ラグス、セイン。卓上には空きかけの木のジョッキがいくつか並んでおり、酒の力が声を自然と大きくさせていた。


 「ま、命があるなら上出来だろ」


 カイランがジョッキを片手に軽く言う。

 

 特に慰めるでも突き放すでもない、いつもの調子。


 「昇格なんて、逃げやしない」


 カイランの言葉にラグスは肩をすくめた。


 「分かってる。今回は、判断ミスじゃねぇ」

 「……はいっス」


 セインは残りわずかになった麦酒を見つめながら小さく頷く。


 悔しさはあるが、納得はしている顔に見える。


 他愛のない話がしばらく続いたあと、ラグスがふと思い出したように言う。


 「そういやさ」


 ジョッキを置き、カイランの顔を見る。


 「ゲドーマルとタマちゃん、王女の護衛に行ったらしい。いつの間にそんなコネ作ったんだ?」


 その一言で、カイランの動きが一瞬だけ止まった。


 表情は変わらない。だが、ジョッキに伸ばしていた手が静止した。


 「……帝国か」


 呟くような声。

 

 頭に浮かぶのは場所と距離、そして、タマ。

 

 帝国に巡道教の教会は一つもない。そういう国だ。


 ラグスは気づかず続ける。


 「なんか、極秘らしいけどな……なんか全然、極秘になってない」


 セインが付け足す。


 「ゲドーマルさんもタマさんも、あと、ガグンさんも一緒っス」


 カイランはジョッキを口に運び何も言わなかった。


 「そうだ、ガグンさん」


 そういうとラグスの声が少し明るくなる。


 「最近、すげぇ助けられててな」


 セインも頷く。


 「強いし、教え方も上手いっス。一緒にいると、魔法の通りも良くて」


 セインは首を傾げながら続ける。


 「なんて言うか……運がいい、みたいな」


 ラグスが笑う。


 「魔物が勝手に転んだりな。"幸運のおじさん"って感じだ。カイランにも今度紹介する」


 どちらにも悪意はなく、むしろ感謝の意味が強い。


 カイランは少し間を置いてから、何気ない口調で聞く。


 「……そのガグンって、どこで知り合った?」


 ラグスが口を開きかけて、止まる。


 「……あれ?」


 セインも視線を宙に泳がせている。


 「……いつから、でしたっけ」


 二人とも、考えている。必死に思い出そうとしているが、答えが出てこない。


 「ダンジョン……だった気がするんスけど」

 「いや、街だったか?」


 どちらも確信がなく、それでいて不安そうでも怖がってもいない。

 

 ただ、思い出せないだけ。


 カイランの青い瞳が細くなる。


 「見た目は?」


 セインが、思い出せない代わりに答える。


 「灰色のマントで、つばの広い帽子っス。顔の上半分、いつも影で……」


 ラグスが続ける。


 「ニヤニヤしてる。なんつーか、余裕ありすぎるって感じだな」


 カイランは二人の話を黙って聞いていた。

 

 話を聞きながら、以前、大司教に聞いた話を思い出していく。

 

 そして、カイランの中で何かが結ばれた瞬間、彼はジョッキを置いた。

 

 音が少しだけ大きく響き渡り、隣のテーブルに座る冒険者たちがこちらに視線を向けた。


 ラグスとセインが目を合わせる。


 「……そうか」


 そう言うと銀貨を数枚、卓の上に置き、そのまま立ち上がる。


 「悪い。急用だ」


 ラグスとセインが眉を上げる。


 「え? 今からか?」

 「どうしたんスか?」


 二人の声が重なったが、カイランはすでに歩き出していた。


 扉が閉まる音が酒場に響く。


 残された二人は顔を見合わせた。


 「……なんだったんだ?」

 「さあ……?」


 答えの出ないまま、二人はジョッキに手を伸ばす。


 酒場は変わらず騒がしく、誰も異変だとは思っていない。


 ただ一人だけ、気づいた者が、席を立った。


 *


 最初の街は、まだ王国の内側だった。


 夜になっても人の気配がある。


 通りには灯りが残り、笑い声と、焼いた肉の匂いが流れてくる。


 遠くで楽器の音もした。


 平常だ。


 王女一行が泊まったのは、領主邸ではなかった。


 街で一番格式の高い宿だが、そこに歓迎の色はない。


 形式だけが、きちんと整えられている。


 線を引かれている。 それだけは、はっきりしていた。


 *


 部屋は、静かだった。

 

 宿の二階に取られた部屋は広くはないが、旅の途中で一晩身体を休めるには十分で、古い木材と磨かれた机の匂いが、閉め切った部屋にほんのり香っている。


 それでも街の音は完全には遮れず、遠くで誰かが荷車を引く音や、すでに酒に飲まれて騒ぐ人の声が、壁と床を伝ってかすかに届いていた。

 

 レオンとガグンは外を巡回している。


 異変があったとしても二人ならば見落とすことはないだろう。


 俺は椅子に腰を下ろし、机の上に置かれた酒瓶へ視線を落としていた。


 同じ王国の都市でも王都の酒場で飲むものとは違う。


 ”エール”。漂う香りには素朴で粗い甘さがあり、土地の水と穀物がそのまま残っているような匂いがした。

 

 「はい、終わり」

 

 タマの声が、机の向こうから軽く届いた。


 差し出された魔道具の指輪には、魔力の気配が戻っている。


 指先に近づければ、内側に込められたものが静かに巡っているのが分かる。

 

 「助かる」

 

 礼を言って受け取り、一つずつ指に付け直す。


 タマは何でもないことのように肩をすくめたが、ほんの少しだけ得意そうに、口元が上がっている。

 

 俺は盃を手に取り、瓶から酒を注ぐ。


 少しだけ口に含むと、舌の上に穀物の甘みが残った。


 香りは強くないが、素直な味だった。しばらく味を楽しむ。

 

 「この街の酒も、悪くない」

 

 タマが笑う。


 「うん。素直な味だね」

 

 その言い方が妙にしっくりきた。


 王都から離れ、街道を進み、見知らぬ街に入り、予定されていた領主邸ではなく宿へ落ち着いた夜。


 すべてが穏やかとは言えないが、それでも盃を置く場所があり、隣にタマがいて、酒の味を確かめる時間がある。


 それだけで、部屋の空気は少しだけ柔らかくなっていた。

 

 少しして、扉が控えめに叩かれた。


 強くはなく、こちらを急かすでもなく、入ることを当然とする音でもない。


 タマが立ち上がり、一度こちらを見てから扉へ向かった。


 開かれた扉の向こうにいたのは、アルティシアとリラ。

 

 護衛は付いておらず、廊下の灯りを背に受けたアルティシアは、旅装のまま静かに立っていた。

 

 王女らしい整った姿勢は崩れていないが、その肩には昼間よりも疲れが視える。

 

 隣のリラも鎧こそ乱していないものの、口元は何か言いたげそうなものが出てこないよう固く紡いでいる。

 

 タマが何も言わずに身を引き、二人は部屋へ入る。


 アルティシアは部屋に数歩だけ進み、静かに頭を下げた。

 

 「……また、巻き込んでしまいました」

 

 声は小さいが、謝罪を形だけにする者の声ではない。


 自分の言葉が相手に届くことを恐れながら、それでも伝えなければならないものとして、彼女はそれを口にする。

 

 「すみません」

 

 タマは迷いなく首を横に振る。

 

 「約束したでしょ。ちゃんと守るって。だから、大丈夫」

 

 アルティシアが王女だからでも、弱っているからでもない。


 約束を受け取り、それを守ると告げる言葉。


 アルティシアの表情がほんの少しだけ緩み、目元にあった硬さがほどけて、下げた頭をゆっくりと上げる。


 彼女の肩から静かに力が抜けていくのがわかる。

 

 俺は盃を机に置いた。机の上に盃が触れる小さな音が、部屋の静けさの中でやけに澄んで聞こえた。

 

 「本来は、領主邸に泊まる予定だったんじゃなかったか」

 

 そう聞くと、リラの眉が一瞬だけ動いた。


 抑えていたものが、言葉になるより先に顔へ出たのだろう。

 

 「……居留守よ」

 

 短い言葉だったが、苛立ちが滲んでいる。


 「間違いなく。態度で分かる。王女殿下と距離を置きたいのよ。今の殿下を迎えれば、王城の中でどちらへ顔を向けているのか見られるから、だから宿へ回した。保身よ、保身」

 

 言葉を重ねるほど、リラの声は強く大きくなっていく。


 近衛騎士としての立場を理解した上で、その奥にいる年相応の彼女が怒りを飲み込みきれていない。


 俺が何か言いかけたところで、タマが視線だけをこちらへ向けた。


 今は、言わない方がいい、とその目が告げていた。

 

 アルティシアは静かに息を吸い、リラの怒りを遮るでもなく庇うでもなく、そっと言う。

 

 「それが、今の私の立場です」

 

 状況に揺らされることなく、声は落ち着いていた。


 「……自分で蒔いた種です。誰かを責めることはできません」

 

 リラが唇を噛む。反論したいのだろう。そんな言い方をしないでほしいと。


 けれどアルティシアは、誰かを責めることで自分を軽くすることを選ばなかった。


 かつて王女として命じ、守るという名目で多くを縛った自分から、彼女は今も逃げないと決めている。

 

 部屋の外から、遠く人の声が聞こえた。

 

 俺は少し間を置いてから、まっすぐに聞いた。

 

 「これから、どうしたい」

 

 アルティシアがどう答えるか、そのまま待つだけの問い。


 彼女はすぐには答えなかった。


 視線は逸らさないが、瞳の奥で言葉を探しているのが分かる。

 

 「どうなりたい」

 

 アルティシアの指がわずかに動いた。


 王女として何をすべきかではない。国のために何が正しいかでもない。


 自分が、どう在りたいか。


 それを問われたのだと、彼女は理解している。

 

 彼女の呼吸は一度だけ深くなった。

 

 「……それでも、国を守りたいです。国民を守りたい。今度は、国を"もの"としてではなく……」


 アルティシアは自分の言葉を確かめるように視線をわずかに落とし、それからもう一度顔を上げる。

 

 「人を守りたい」

 

 リラがはっとしたように息を吸った。


 大きな音ではなかったが、部屋が静かだったから誰の耳にも届いた。

 

 「国民は、宝物です」

 

 その言葉は、飾りではなかった。


 王女として美しく言ったのでも、許されるために選んだのでもない。


 かつて彼女が"所有するもの"として見ていたものを、今は大切に守るべき存在として見ようとしている。

 

 リラの表情が明るくなる。


 自分が信じた王女はまだそこにいる。あるいは、ようやくそこへ辿り着こうとしている。

 

 その事実が、リラの目に小さな光を戻していた。

 

 タマは何も言わずにアルティシアへ歩み寄り、そのまま抱きしめた。


 アルティシアの身体が一瞬だけ固まる。けれどタマは離れない。


 旅装の布越しに伝わる体温を確かめるように、彼女はアルティシアの背へそっと腕を回した。

 

 「大丈夫」

 

 短い一言だったが、はっきりと聞こえる。


 「アルティシアは間違ってない」

 

 アルティシアの肩が、わずかに緩む。


 張り詰めていた糸が少しだけほどけ、しかし切れることなく、ただ呼吸を取り戻す。

 

 俺は二人を見ながら静かに言った。

 

 「それでいい。迷うな、とは言わない」

 

 迷わない者などいない。迷わないまま選ぶ者は、たいてい何かを見落とす。

 

 だから、迷うことそのものを否定する必要はない。

 

 「だが、嘘はつくな。自分に」

 

 アルティシアはタマの腕の中で小さく頷いた。

 

 声は出なかったが、その頷きだけで十分、伝わる。

 

 部屋の外では、街の音がまだかすかに続いている。


 机の上の盃には、まだ少し酒が残っていて、灯りを受けた液面が、静かに揺れていた。



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