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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第2章 世界の正体をみる
30/50

第1話 新しい流れが動き出す

  

 冒険者ギルドは、昼前だというのに、すでに一日の半ばを過ぎたような騒がしさだった。


 依頼板の前には人が溜まり、肩と肩がぶつかるたびに鎧の金属や皮の擦れる音が鳴り、仲間同士の相談や言い合いの声が響いている。


 ギルド併設の酒場が本格的に混み始める時刻ではないはずなのに、鼻をくすぐる酒樽の空いた香りはもう空気に混じり始め、焼いた肉の脂の匂いが受付の方まで薄く流れてきていた。


 いつも通り、と言えば、いつも通りの光景だ。

 人が集まり、紙が剥がされ、声が重なり、誰かが笑い、誰かが舌打ちをする。


 冒険者ギルドとはそういう場所だ。


 だが、その騒がしさの中にほんのわずかいつもと違うものが混じっていた。リーネのカウンターの前に、ラグスとセインが並んで立っている。


 俺とタマは少し離れたところから見ていた。

 ガグンは酒場の近くで二人を見ている。


 ラグスとセインはいつもの陽気な雰囲気が息を潜めている。


 二人ともこの三日間のダンジョン探索の泥と埃を完全には落としきれていない。

 ラグスは背筋を伸ばしているが、背中には疲れが視える。セインは隣に立っているだけで、いつものように前へ出ようとはしない。


 視線は下げていないが、何かを噛み締めるように口が重い。


 リーネは書類を静かに整えた。

 その紙の端が揃う小さな音が、周りの喧騒の中で妙にはっきり聞こえた。


 「北のダンジョンは、途中撤退です」


 ラグスの一言目は簡潔だった。


 無理に明るくすることも、失敗を隠すような言い訳もなければ、情状酌量を求める気配もない。


 ただ、自分たちがどこまで進み、どこで判断し、なぜ戻ったのかを、必要な順番で淡々と話していく。


 魔物の数や種類、通路の状態、自分達の限界、そしてそれ以上進めば引き返す余力を失うと判断したこと。


 リーネは途中で遮らなかった。


 羽ペンの先が紙に何かを書き込む音だけが続いている。

 時折、短く頷き、必要なことを確認する。

 その顔に責める雰囲気はなく、だが、曖昧な慰めや同情もなかった。

 

 受付としてのリーネが、冒険者として生きて戻ってきた二人を、きちんと見ているだけだった。


 報告が終わると、リーネは書類から視線を上げ、少しだけ息を吐いた。


 「昇格は見送りになります」


 セインの肩がほんの僅かに動いた。

 リーネは続ける。


 「でも、評価は落ちません。無理に突っ込まなかったのは、正しい判断だと思います」


 その言葉ははっきりと事実を伝える。

 だからこそ、二人に届いた。


 取り返しのつかない失敗ではないが、成功でもない。


 セインがゆっくりと肩の力を抜く。

 握り込んでいた手の力が少し緩んだ。


 「……次は必ず、っス」


 落胆を見せない落ち着いた声だった。


 ラグスは何も言わず、いつもの調子で頷く。


 そのやり取りの向こうで、別の声が聞こえてきた。


 「なあ、知ってるか。王女が魔族と繋がってたって話」


 酒場側の壁に寄りかかった男が、数人の冒険者に向かって、杯を片手に息を押し殺すようにして言った。


 その声は大きくないが、声を潜めるという行為そのものが、周囲の気を引く。


 「俺も聞いた。だから国が荒れてるんだってさ」

 「なんかガッカリだよな。信じてたのにさ」

 「結局、王族や貴族なんてそんなもんってことだろ」

 「無能でも顔がいいってのは羨ましいわぁ。それだけで人気が出るんだもん」

 「お前だって顔はいいじゃんかよ」

 「えー、そんなことないよぉ」

 「お前、自分が可愛いって知ってて言ってるよな」


 話が逸れながらも盛り上がり始める。


 誰かが見たわけでも、確かめたわけでもない。

 ただ、話が回っている。

 誰が最初に言い出したのか分からないまま、誰かの口から誰かの耳へ渡り、通るたびに少しずつ形を変えながら、それでも妙な真実味だけを増していく。


 リーネは聞こえていないふりをしながら羽ペンを動かす手を止めない。


 ラグスもセインも振り返らない。


 噂を広める者達にとって、正しいかどうかは、さほど興味はないのだろう。

 

 事実がそこにあるのではなく、人が受け取りたい形がそこにあり、その形へと噂が勝手に姿を変えていく。


 王女であり、整った容姿であり、だが、失墜した者である。

 誰かにとって都合のよい形へ変わり、彼女を世界の隅に追い込んでいく。


 昔、都で”人喰い鬼”と呼ばれたことを思い出す。


 それにわずかとはいえ、彼女と関わりを持った者としても気分は悪い。


 だから顔に出す。

 

 隣にいたタマが黙って俺の衣の袖を引っ張る。

 俺はそれを無視した。


 先程の連中が俺の視線に気づく。

 最初に声を出した男が俺の方へ一歩踏み出す。


 「おい兄ちゃん、俺の顔に何かついてるか?」


 酒臭い息を吐き出しながら俺に近づいてくる。

 タマが隣でため息を吐くのが聞こえる。


 「その噂、どこまでが本当でどこからが嘘だ?」

 「はぁ? 何だよ、盗み聞きか? ダセェことしてんじゃねぇぞ、こら」


 男は俺の目の前に立ち、顔を近づけてくる。

 鼻と鼻が触れそうなほどに近づいたところで、隣から声が聞こえる。


 「ゲドーマル、約束に遅れちゃう。行きましょう」


 タマが出口に足を向け、俺の衣の袖をひいた。

 だが、俺は動かない。


 「おい、かわいい姉ちゃん連れてっからと調子に乗ってると痛い目みるぞ」


 リーネがカウンターから出てくる気配を感じる。


 「そこまでにしてください。冒険者同士の喧嘩はご法度です」


 リーネが俺と男の横に立ち、はっきりとした声で言う。

 

 チッと舌打ちをして離れる男。

 一緒にいた連中がこちらをチラッと睨み出口に向かう。


 「おい」


 俺は連中に声をかけた。

 怪訝な顔で振り返り、それぞれの眉が寄る。


 「まだ、何かあんのか__」


 そこで俺はほんの一瞬だけ圧をかける。

 殺気ではない。

 殺気とも呼べないほどの小さな圧、だが空気を確実に押し潰す圧。

 

 ギルド内の空気が止まる。

 冒険者の笑い声も怒鳴り声も含めた全ての音が、消える。


 連中の身体が凍りつき、額から汗が顎に向かって垂れる。

 声を上げていた女が、膝から崩れ落ちた。


 リーネが俺の隣で固まり、ラグスとセインはこちらから視線が動かせない。


 その輪の外でタマだけが片手で額を押さえていた。


 「ゲドーマル」


 少し離れたところから声が耳に届き、俺は我に帰る。


 振り返ると、俺らの様子を無言で見ていたガグンが先ほどと同じ位置で立っている。


 目が合うと無言で併設された酒場の方を顎で指す。

 その先には、樽があり、卓があり、まだ昼前だというのに注がれた酒があった。


 甘い果実酒ではない、少し濁った苦みを含んだ麦酒の匂いがこちらまで届いた。


 俺は、反射的に頷きかけた。


 少し早いが、悪くはない。

 そう思った、その瞬間だった。


 袖を再度、引かれた。


 強い力ではない。

 今度は、逃げるという選択肢をこちらに思い出させない距離で、タマが立っていた。


 白銀の髪が柔らかく揺れている。

 まっすぐにこちらを見て、少しも逸らさない。


 「新作のケーキ、食べに行く約束したよね」


 声は静かだったが、その静けさには、先程、俺が放った圧よりも強い圧を感じた。


 酒かケーキか。

 いや、酒かタマか。

 ……酒か……タマ、か。


 そのあたりまで考えたところで、答えはもう決まっていた。


 迷ったのは、一瞬だった。

 本当に、一瞬だった。


 口を開きかけた時、ギルドの止まった空気の中に軽い足音が覗く。


 「お、見つけた」


 聞き慣れた声だった。

 ハルが人の流れの間を縫うように近づいてくる。


 「あれ? なんかやけに静かだな」


 いつも通りの雑な歩き方で、片手を軽く上げ、肩の力も抜けているが、その目は笑っていなかった。

 口元だけがいつもの形をしているせいで、かえって目の奥に何かを感じる。


 タマの手が俺の袖を掴んだまま、ほんのわずかに強くなった。


 「殿下から伝言」


 ハルは周囲を一度だけ見た。


 「場所、変えるか?」


 *


 ギルドを出て少し進んだところにある、人通りの少ない路地裏。

 すぐ近くの大通りからは八百屋の店主の呼び込みの声がこちらにも響き渡り、昼時に合わせた穀物や肉、魚の焼ける匂いが鼻に届く。


 路地裏に入り少し進んだところで、ハルの足が止まる。

 そのままハルの視線が、ガグンに向いた。


 空気が変わり、それまで雑に立っていたはずの男の背筋が、いつの間にか別人のそれになっている。


 「……失礼します」


 ハルの声の調子がそれまでとは変わった。


 ハルがしっかりと頭を下げる。

 丁寧すぎるほどの挨拶だった。

 俺が知っているハルは、王子の前でさえ肩をすくめるような男だ。その男が、今は礼の角度まで正確に整えている。


 「元・近衛騎士団第一団団長殿ですよね」


 ガグンは帽子の影の下で静かに頷いた。


 「随分前の話だ」


 はっきりとした声だった。

 否定するわけではないが、それについて特に言及するつもりはないらしい。


 ハルは頭を上げたが、すぐには言葉を発さなかった。視線がほんのわずかにガグンの帽子の影を測っている。


 ガグンの視線が、こちらへ向く。

 帽子の影のせいで目はよく見えないが、見られていることだけは分かった。


 「少し、観察させてもらっていた。不快にさせたなら謝るが、悪意はない」


 帽子の縁から、澄んだ色の眼差しが覗いた。


 「君たちに興味があった。それだけだ」


 言い訳も弁明もしない。

 それがかえって言葉に重みを持たせていた。

 何に興味があったのか、なぜ興味を持ったのかはわからないが、嘘ではないのがわかる。


 俺はハルに視線を移す。


 「大事な話があるんじゃなかったのか」


 ハルは一度だけ頷き、一瞬だけ周りを確認するがすぐに視線を俺とタマに戻す。


 「極秘依頼だ」


 その一言で、タマの視線がわずかに動いた。

 

 「アルティシア様の帝国皇子との輿入れ、その護衛に参加してほしい。ギルドマスターには話は通してある。正式依頼だ」


 輿入れ。


 本来は華やかな言葉のはずだ。


 だが、そこに祝福の雰囲気はなかった。

 一人の女である前に王女である彼女が、今度は別の場所へ動かされようとしている。


 それが例の噂と、どこかで繋がっているように思えた。


 タマと顔を見合わせた。

 タマは俺が言葉を探すより先に頷いた。


 「うん、行く」


 理由は要らなかった。

 考える前から決まっていることがある。


 「助かる」


 ハルは短く息を吐いて、その視線をゆっくりとガグンの方へ向けた。

 

 ガグンは俺へ向き直った。


 「俺も同行しよう」


 静かに言う。


 誰もすぐには反対しなかった。

 反対する理由が見つからないが、頷くだけで済むほど軽い話でもない。


 ハルは口を閉じ、タマは手を握り、俺に視線を送る。


 ガグンはただ立っていた。

 かつて近衛騎士団第一団を率いたという男が、古い帽子の影に顔を沈め、王都の裏路地の中で何の肩書きも掲げずにそこにいる。


 俺はガグンから目を離さずに言った。


 「……分かった」


 ガグンはそれだけで十分だというように頷いた。


 タマが、俺の手を握る。指先がわずかに冷えていた。

 俺もすぐには動かなかった。


 大通りでは昼時の喧騒が続いている。

 相変わらず、肉や魚の焼ける香りがこちら側まで届いている。

 

 それなのに、この路地裏の空気だけがどこか動かないままだった。


 *


 騎士団詰所の一室は静かだった。

 

 執務机と椅子、壁際に立てかけられた武具。

 どれも実用だけを目的として選ばれたものばかりで、余分な装飾は何一つない。


 光は窓から斜めに差し込み、埃一つない床を薄く照らしている。その清潔さが、この部屋の性格を何より雄弁に語っていた。

 

 リラ・ヴァン・ストライゼンは椅子に腰掛けていた。

 鎧を外した姿でも背筋は自然に伸びている。

 意識してそうしているのではなく、長年の鍛錬がそう命じているのだ。

 

 ノックは一度だけだった。

 

 「入るぞ」

 

 扉が開き、ヴァルクス・エーベルハルト第三団団長が部屋に入ってきた。

 

 彼の動きに無駄はない。

 歩幅も視線の据え方も、すべてが必要最小限だ。

 

 それがリラの背中に微かな緊張を走らせた。

 ヴァルクスは椅子には座らず、机の向こうに立ったまま、前置きを省いて用件に入る。

 

 「止めに来た」

 

 声に感情の起伏はない。

 しかしだからこそ、その言葉の重さがリラの胸に響く。

 

 「王女殿下は魔族と繋がっていた。そして今、世間はそう"信じ始めている"」

 

 感情のない声のまま続ける。

 

 「その護衛に付けば、お前も疑われる。騎士としての経歴にも、傷が付く」

 

 それは脅しでも感情論でもなく、上司が部下に伝えるべき事実を、粛々と並べているだけだった。

 

 「それに、帝国は王国とは何もかもが違う。目指している正義も秩序も向いている方向が違う。無事に帰れる保証は、ない」


 リラは黙って聞いているが、少しずつ視線が落ちていく。

 

 「ここは、手を引くのが正しい判断だろう」

 

 リラはすぐには答えなかった。

 少しして静かに息を吸う。

 窓を抜けて部屋に帯状に広がっている光がリラの目を照らす。

 

 「……王女は、本気でした」

 

 声は落ち着いていた。

 

 「王国を守ろうとしていました。方法が正しかったかどうかは、私には分かりません。それでも、本気だったということは、見ていたから分かります」


 ヴァルクスは遮らなかった。

 腕を組むでもなく、視線を外すでもなく、ただ聞いていた。

 

 「だから、私は王女殿下を信じると決めました。今回は命令ではなく、私が選んだことです」

 

 言い訳はない。理想を語ろうともしない。

 ただリラ自身の判断だけがそこにあり、それを支えるのは論理ではなく、あの日に自分の目が見たものへの一つの答えだった。

 

 ヴァルクスは、しばらく黙っていた。

 部屋の静寂の中で何かを測るようにリラを見て、やがて短く息を吐く。

 

 「……成長したな」

 

 リラはその声に、今まで気づかなかった何かを感じた。

 

 視線の捉え方も、声の質も、いつもと変わらないはずだった。

 でも、もしかしたら、それはずっとそこにあったのかもしれない。

 

 ただ、自分がそれを感じ取れる場所に立っていなかっただけで。

 

 「命令だから動く騎士じゃない。騎士として自分で考えて、選んでいる」

 

 視線はリラに向いたまま、ヴァルクスは続ける。

 

 「だが、危険なのは変わらない」


 ヴァルクスの視線がほんのわずかに和らいだ。

 それは彼にとって大きな変化ではないかもしれないが、リラには確かに届いた。

 

 「心配はする。上司としても、人としてもな」

 

 それだけ言って、彼は背筋を正した。

 

 「必ず、戻ってこい」

 

 命令ではなかった。叱責でも、激励でもない。

 言葉の形をしているが、実際は祈りに近いものだとリラには感じられた。

 

 「生きて帰れ。それが出来て、初めて一人前だ」

 

 リラは立ち上がり、迷いのない動きで敬礼した。

 

 「はい」

 

 はっきりとした声で返事をする。

 ヴァルクスはそれ以上何も言わず、来た時と同じ静かな足取りで部屋を出ていった。

 

 扉が閉まる音が、部屋に短く響いて消える。

 残された静けさの中で、リラは一人、前を向いたまま立っていた。


 窓から差し込む光が、彼女の赤い髪をそっと照らしていた。


 *


 王都リュシアの門前は、奇妙なほど整えられていた。


 門兵の立つ位置も、騎士たちの馬の鼻先も、まるで定規で測ったように揃っている。

 

 王国の旗は高く掲げられているのに、風がないせいで揺れず、布の重みで垂れ下がっていた。


 見送りのために集められた貴族や役人たちが門の内側に並び、それぞれが礼にかなった姿勢で立っている。

 

 匂いは薄かった。

 動かない空気の中に、王都の石畳の匂いと、外から流れてくる草の青い匂いが、薄く重なっているだけだった。


 静かなのではなく、静かにされている場所だった。

 

 王家の紋章を刻んだ馬車が、門へ向かってゆっくりと進んでくる。

 先頭の馬は手入れが行き届いており、毛並みに朝の光が反射していた。

 

 王女の輿入れならば、どこかに祝福の声が混じっていてもよかった。

 だが、この場にあるものが祝いでないことは、誰の目にも明らかだった。

 

 その中にリラがいた。

 

 馬上の姿勢は崩れていない。

 視線は前に据えられているが、ただ見ているわけではなく、門の上、馬車の脇、路上の濃い場所へと静かに動いていた。

 以前なら、それで終わっていたかもしれない。

 だが今のリラの目には何か他のものが視える。

 

 俺とタマ、レオン、それにガグンは門の内側に立っていた。

 

 馬車が止まり扉が開き、アルティシアが降りてくる。

 王女としての装いは、この場にふさわしかった。

 

 顔は落ち着いており、目元に揺れはない。

 だが、以前のように感情を奥へ押し込めて作った静けさではなかった。


 彼女はほんの一瞬だけ門の外を見た。

 それから俺たちへ向き直り、しっかりと頭を下げた。

 布がわずかに擦れ、髪飾りの金具が小さく鳴る。

 

 王女が、冒険者に頭を下げる。

 それだけのことが、この門前では止まっている空気に波を生む。

 

 並んでいた貴族たちや騎士の中に、眉を動かす者がいた。

 声には出さないが、不満は明確に表情として現れ、それを隠そうともしない。

 

 その時、リラが馬を降りた。

 

 周囲のざわめきが隠しきれずに広がる。

 護衛の騎士が列を乱し、しかも冒険者へ向かって歩く。

 リラはその声を聞いていないように進み、俺の前で止まると、深く頭を下げた。

 

 「……すみませんでした」

 

 理由も、説明もなかった。

 何に対しての謝罪かを言わない。

 

 俺は彼女を視る。

 肩がわずかに強張っているのが、鎧ごしにも視える。

 

 言い訳をすれば、自分の心を少しは軽くできる。

 操られていたことや命令に縛られていたこと、口にできるものはいくらでもある。


 だが、リラはそれをしない。

 視線がしっかりと俺に向けられている。

 

 俺はふっと笑い、イバラキの言葉を思い出しながら、背中の袋に手を入れた。


 『リラという騎士が謝罪して来たら渡してください』と、その時のイバラキの声はいつも通りで、特別な感情は乗っていなかった。だが、包みを渡してきた手つきは丁寧だった。

 

 小さな小包を取り出し、そのままリラへ差し出す。

 リラは少し戸惑ったようにそれを見たが、俺が何も言わずにいると、両手でそっと包みを受け取った。


 紐をほどき、布を開く。

 中を見た瞬間、彼女の綺麗な目が大きく開く。

 

 「……チョコレート」

 

 小さく呟いた声は、思いがけないことに対して不意に外へこぼれたようだった。

 

 リラはすぐに我に返り、包みを丁寧に閉じ直すと、もう一度頭を下げた。

 

 「……ありがとう」

 

 その視線が、俺の後ろに立つガグンに移る。

 リラの身体が一瞬固まったが、次の動作は早かった。

 包みを片手で崩さぬよう持ち直し、深く頭を下げる。

 

 「ご無沙汰しております……」

 

 声の響きが変わっていた。

 敬意と緊張が、その一言に含まれている。

 ガグンは、軽く頷いただけだった。

 

 「元気そうだ」

 

 それだけだった。

 リラも無理に続けなかった。

 ただ、頭を上げた後も、彼女の目の奥には驚きが残っていた。

 

 タマが俺の隣で小さく言った。

 

 「……ガグンって、すごい人なんだね」

 

 俺は答えず少し首を傾げた。

 

 「……酒を忘れた」

 

 言った瞬間、タマに腕を掴まれた。早かった。

 

 「今さら? これは護衛だからね。仕事だよ、仕事。旅行じゃないから」

 

 その時、レオンが横で誇らしげに手荷物から徳利を取り出した。

 

 「今朝、イバラキに渡された」

 

 タマが小さく息を吐いた。

 笑いを堪えているようにも、心底呆れているようにも聞こえた。

 

 「これが、長き時を酒に費やした者と、自己の成長に費やした者の差だね。そもそも、イバラキが護衛に来たら私たち多分いらないよね……」

 

 ……間違いないな。

 

 俺は徳利を受け取り、軽く振った。

 中で酒が揺れる音が聞こえ、自分の肩が下がるのがわかる。

 

 元々入っていた濁り酒はもうない。

 以前、鬼になった時に飲み切ってしまった。

 今入っているのは、少し甘めの白葡萄酒だ。


 リラはそのやり取りを見て、ほんのわずか口元を緩めた。

 すぐに騎士の顔に戻ったが、包みを持つ手の力は先ほどよりも穏やかだった。

 

 アルティシアが最後に一度だけこちらを見た。

 視線が合い、彼女は静かに頷いた。

 王女としての礼ではなく、一人の人としての、短い合図だった。

 

 俺は徳利を少し持ち上げる。

 

 「新しい国の、新しい酒が楽しみだ」

 

 タマが片手で額を抑える。それでも反対の腕を離さなかった。

 

 馬車が動き出す。

 車輪が石畳をゆっくりと進み、王都リュシアの門を越えていく。

 旗は風のない空の下で重たく垂れたまま、列だけが静かに伸びていく。

 

 祝福の声はない。


 冷えた門前の空気の中で、行列の進む先の空には厚い雲が静かに広がっていた。


 *


 洞窟棲家は、妙に忙しかった。

 

 土と石、そして新しい木材の香りが入り混じり、掘り抜かれた岩壁の奥まで満ちている。


 アウル=ヴェイルは壁際の椅子に座っていた。

 正確には座っているというより体育座りで、膝を抱え、つまらなさそうに天井を仰いでいる。


 古竜としての威厳はどこにもなく、着続けている水色の直垂に似た服だけが、どことなくゲドーマルの真似をしているようにも見える。


 何か言いたげではあるが、言わない。

 不満というより、ひたすらに退屈している。

 

 洞窟の奥では、イバラキがゴブリンたちに指示を飛ばしていた。

 

 「そこ、梁を半尺前へ。床材は左右逆です……違います、入口動線を優先してください」

 

 声は静かだが迷いも妥協も一切ない。

 ゴブリンたちは威勢よく返事をして忙しなく動き回っており、その慌ただしさを見れば、彼女たちがゲドーマルたちの帰還より前に仕上げるつもりでいることは明らかだった。

 

 入口の方から足音がした。

 

 「相変わらず、いい働きぶりだな」

 

 洞窟に入るなり、ドゥールはまずアウルを見て、苦笑を浮かべた。

 

 「……そりゃ、拗ねるよな」

 

 アウル=ヴェイルは答えないまま、視線だけをほんの少し逸らした。

 ドゥールは肩をすくめるでも急かすでもなく、事実をそのまま並べる口調で続けた。

 

 「他国に古竜は連れていけない。王女の護衛に同行させたら、帝国がどう受け取るか分からん。警戒どころか誤解される。最悪、最初から敵扱いだ。王女の身も危険に晒される」


 それを聞いてもアウルは反論しなかった。

 ただ、視線の先がゆっくりと床へ向く。

 不貞腐れている、ということは分かる。

 ドゥールもそれを分かった上で、短く言い添えた。

 

 「……悪いな」

 

 それだけ言ってから、彼はイバラキの方へ歩み寄り、包みを一つ差し出した。


 外套だった。この世界の布で仕立てられているが、手にした瞬間、重さが違うと分かる造りをしていた。

 

 「頼まれてた物だ」

 

 イバラキは受け取り、軽く頷いた。

 

 「ありがとうございます」

 

 ドゥールは少しだけ首を傾げる。

 

 「……なぜ、今なんだ?」

 

 率直な問いだった。準備が早すぎる、という言外の含みがある。イバラキは外套を腕に掛けたまま、少し考えてから答えた。

 

 「お館様が一歩でも歩き出せば……いつでも、問題は向こうから来ます」

 

 ゲドーマルと長い時間を共に過ごした、ただの経験則として口から出てくる。

 

 「結果として、すぐに、私が向かうことになります。いつものことです」

 

 アウルが、ぴくりと反応した。

 期待するように、抱えていた膝から顔を上げる。

 ドゥールは一瞬きょとんとしてから、堪えきれずに笑い出した。

 

 「……確かに、そうだな」

 

 この場にいる誰もが、それが冗談や誇張だとは思っていない。

 ドゥールは笑いを収めながら、独り言のように続けた。

 

 「俺も、準備だけはしておく。仕事が増えそうだ。こんな時、アウレオンがいてくれれば頼もしいんだがな……まぁ、それを言っても仕方がないか」

 

 そう言い残して出口へ向かう背中を見送ってから、ゴブリンジェネラルが一歩前に出た。

 

 「……では、我らも?」

 

 期待と野心が半分ずつ混じった顔だった。

 イバラキは即座に首を横に振る。

 

 「あなた方は、一刻も早く棲家を完成させてください」

 

 ゴブリンたちの間に、落胆と闘志が同時に広がった。

 

 「……了解」

 「やってやるか」

 「仕方ないな!」

 

 不満もあるが、誇りもある。


 洞窟棲家は、さらに忙しさを増した。

 

 アウルは、もう一度膝を抱えて壁に背をもたせるが、その表情は先ほどとは少しだけ違っていた。

 退屈の他に、何か別のものが見える。期待、とも言えるし、あるいは出番を待つ男の静けさとも似ていた。

 

 洞窟棲家の壁の奥で土が小さく崩れる音がした。

 動き出す準備だけは、もう整っていた。


 

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