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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第2章 世界の正体をみる
29/50

プロローグ

 

 王都の北に広がる、通称”北のダンジョン”は冷えていた。


 冬の朝に肌を刺すような寒さではなく、ただ、ひんやりと肌の表面から体温を徐々に奪っていくような寒さだった。

 

 石壁は湿り、ゆっくりと流れている空気に魔力が溶けている。

 

 壁に手を触れてみると、湿った岩の冷たさが感じられた。

 

 血の匂いは少なく、土と石の匂いと、それから名前のつけようのない何かの匂いが鼻につく。


 暗がりの向こうには魔物の気配があり、時折、獣の唸り声や爪で岩を引っ掻くような音が聞こえてくる。


 だが、それは山で獣を追う時の気配とは違っていた。

 

 それに、生き物が多い場所にしては、奇妙なほど死の匂いが少ない。


 ここが王国で最も有名なダンジョンだと聞いた時は、ただ広く危険な場所なのだろうと思っていたが、歩いてみれば分かる。


 この場所は、今まで俺が視てきた世界とは違う。

 

 底が視えない。


 ただ階層があるという意味ではない。

 

 魔力そのものが流れていき、下の階がどうなっているのか想像もつかない。


 「絶対に五十階層まで行く」


 先頭を歩くラグスが、剣を肩に担いだまま言った。


 手に持つ魔導灯の光を受け、薄紫の短髪が見える。気負いはない。だが、足の運びに迷いもなかった。


 「あと二十階層! 絶対、昇格するっスよ」


 後ろでセインが声を弾ませる。杖を抱えるように持つその手には油断が感じられない。緊張を隠すために、少し明るくしているのだろう。


 「安全第一だからね」


 タマが前を見たまま、静かに言った。

 

 今のタマは完全に斥候の顔をしていた。

 

 足音を殺し、視線だけを先に進ませ、壁に沿って流れる空気の変化を拾っている。


 「心得てる」


 ラグスが短く返す。


 どうやら、それが冒険者の顔をしている時の彼の口癖らしい。何度か聞いた。


 軽く言っているようで、体に馴染んでいる。


 Cランクの中でも上位と聞いているが、動きを見れば納得できた。


 大きく見せる癖がない。剣の位置も、足の置き方も、熟練者のそれと言える。


 「前方に魔力反応。数は四。小型」


 タマの声が小さく響く。極力短く、しかし適切な情報を伝えてくれる。


 「了解っス」


 セインが肩まで伸ばした薄茶の髪を紐で結び直し、唇がわずかに動く。杖を持つ手に力を入れ、詠唱に入る仕草を見せる。


 焦ってはいない。

 

 冒険者としての経験はまだ浅いのだろうが、準備の仕方は悪くない。


 「赤き熱よ、弾けて散れーー《火爆》」


 詠唱が終わるより早く、暗がりの奥から魔物の影が現れる。


 魔狼と呼ばれる狼型の魔物が四体。


 ダンジョンでは珍しくもない魔物らしい。

 

 ダンジョン内の魔物は外の森で見るものよりも輪郭が薄く、目だけが妙に光っていた。


 足音が軽く、体重も軽く見える。


 魔狼の中心にセインの放った小さな熱の塊が飛んでいき弾ける。破裂した衝撃と熱が魔狼を襲う。


 ラグスが前へ出た。


 「我が骨肉に鋼の理を刻めーー《剛力》」


 低い声と同時に、踏み込みの瞬間、ラグスの身体が淡い光に覆われ、一段、足が床に深く食い込んだ。


 骨と肉が、内側から張りを増したような動き。


 瞬時に魔狼の懐へ入り込み、首筋を捉えた刃は、抵抗なく胴まで通った。


 「補助、入れるっス!」


 セインの声が響く。


 「巡る風よ、迅さを繋げーー《敏捷上昇・付与》!」


 淡い光を放つ魔法陣がラグスとタマの足元に現れる。

 

 二人の動きが軽くなり、魔狼を翻弄する。


 その二人の間を別の魔力が通る。


 「《風刃》」


 ガグン。


 灰色のマントを纏い、つばの広い帽子を深く被った旅装の魔導士。顔の上半分は影に隠れている。


 放たれた風の刃は、魔狼の首を音もなく落とす。


 無駄がない。


 使う魔力の量にも、魔法の大きさにも、風の刃が生まれてから消えるまでの間にも、余分な揺れがほとんどなかった。


 タマが間合いに入り、魔狼が動こうとした場所に短刀を一閃すると、魔物の体が断たれ、霧散する。


 倒された魔物は形を残さなかった。

 

 肉も骨も血もなく、ただ薄い霧のように散り空気に混じっていく。


 床に転がるのは、小さな魔石だけ。


 何度視ても慣れず、違和感がある。

 

 輪郭は確かに獣のそれで、目の動きも息づかいも生きていたはずなのに、倒した瞬間、最初からいなかったように消える。


 山で獣を追ってきた身には、骨も毛も残さない死というものが、どうにも腑に落ちなかった。


 セインが息を整えながら、魔石を拾い袋に入れる。


 「ゲドーマルさん、外の魔物とは違うっスよ。倒すと、全部魔力に還るっス」

 「ダンジョンは魔力の溜まり場だからな」


 ラグスが剣の血を払う仕草をして、すぐにやめた。刃に血はついていない。


 「下に行くほど濃くなる。十階層ごとにボスがいる。魔石はギルドに提出すれば討伐証明にもなるし、金にもなる」


 俺に説明しながらも、足は止まらない。


 この男は、話しながらも前を見ている。

 

 ここは気配の薄い場所ではない。

 

 こういうところで気持ちを切らさない者は、生き残る者だ。


 俺は少し後ろを歩きながら、周囲を視ていた。


 イバラキの手作りの大弓は背負ったままで、木刀にも手をかけない。

 

 代わりに、足元の握りやすい拳大の石を一つ拾う。


 横穴から熊型の魔物、ベア・ビーストが飛び出す。


 前線が一瞬だけ止まる。


 俺は力を入れて石を投げた。


 空気を裂きながらベア・ビーストに向かって石が飛ぶ。


 狙いは頭ではなく、足だ。


 ベア・ビーストが地に足を着けた、動けないその一瞬。


 石がその瞬間をつき、膝を砕き、体勢を崩す。

 

 ラグスの剣が遅れず入った。ベア・ビーストの輪郭が霧になって散る。


 氣は使わない。神眼も最小限に抑える。


 だが、俺の胸の内側には引っ掛かりがあった。


 このダンジョンは、落ち着きがない。


 魔力が濃いこと自体は不思議ではない。深い場所ほど濃くなる。


 それはラグスの説明通りなのだろう。


 氣と神眼を使って深く視たわけではないが、流れ方が妙だ。

 

 普通、水は低い方へ流れるし、煙は風に乗る。


 先ほどまでの階層では問題なかった。

 

 魔力はゆっくり下へと、下へと向かっていたが、この階の魔力は違う。


 底へ向かって流れるはずのものが、時折、横や上へと向きを変え、歪む。


 誰かが水面下で、魔力を動かしているようだった。


 俺の意識が逸れたその時、ガグンが杖を地面へ軽く突いた。


 石床を打ったはずなのに、音が布に吸われたように消える。


 詠唱は聞こえなかったが、一瞬だけ、空気が揺らいだ。


 理屈が覆されるような曖昧な感覚を覚える。

 

 暗がりの向こうから湧いた魔物の動きが鈍り、水の底を走るような動き方になった。


 セインの魔法が通りやすくなり、ラグスの剣が速さを増す。タマの短刀が魔物を容易く斬る。


 偶然と言えば、それまでだ。

 

 偶然が重なって勝ち筋になる、戦場ではそういうことがある。


 だが出来すぎているように感じられる。

 

 タマの視線が一瞬だけガグンの背に向くが、確信には至らなかったのだろう、細めた目はすぐに前を向いた。


 ガグンは何事もなかったように立っている。帽子の影からこちらを見ている気配はない。


 それなのに、見られているような気がした。


 横穴から、今度は蟻の群れが湧いた。


 人の身体ほどもある、大きな蟻が音を立てながら迫ってくる。

 

 数は多くないが、場所と間合いが悪い。

 

 通路は狭く、魔法を撃つには距離が近すぎる。


 ラグスが舌打ちし、剣を構え直し、セインは杖を掲げるが、どの魔法にするか迷って次の手が打てない。


 タマの視線が一瞬こちらに向く。

 

 俺は頷き、背中の大弓に手を伸ばした。

 

 矢筒から一本抜き取り、弦を引くと、呼吸を静かに止め、石壁の反射、魔物の脚の速さ、味方との距離を読む。


 狙うのは頭部ではなく関節。甲殻の継ぎ目。


 矢を放つ。


 小さな音がほんのわずか、聞こえたような気がした。


 矢は魔物を捉えるはずだった……が、外れた。


 期待していた乾いた衝突音ではなく、石壁に当たり、嫌な反響が鳴る。


 外れるはずがない距離だ。

 

 風はない。集中の乱れも、今の瞬間には感じなかった。

 

 弦の張りも、矢の重さも、指に引っ掛かる感触も、何一つおかしくなかった。

 

 それでも、外れた。

 

 すぐに周りを見渡す。だが、特に変わった様子はない。

 

 ガグンもこちらを見てはいない。


 すぐにもう一本抜いて、間合いを詰める。


 今度は狙う前に視る。魔物の動きだけではなく、空気の重さ、空気中の魔力の流れ、矢の飛ぶ道。


 放つ。


 矢は正確に甲殻の継ぎ目を貫き、魔物は霧散し、少しすると魔石が乾いた音を鳴らし転がる。


 戦闘は続いている。

 

 ラグスが前に出て魔蟻の勢いを抑え、タマがラグスの脇を抜けてきた魔蟻を切り裂く。

 

 セインが詠唱を終え、二人がサッと道を開ける。

 

 火の魔法が魔蟻を焼き、ガグンの風刃が魔蟻を正確に切り裂いた。


 誰も先ほどの矢を見ていない。

 

 だが、胸の奥に引っかかったものは消えなかった。


 外すような距離ではなかった。


 タマがちらりとこちらを見たあと、何かを聞こうとして、しかし口を閉じた。

 

 戦闘の最中に話すべきことではないと判断したのだろう、視線は前に戻る。


 やがて最後の魔物が霧散した。


 通路に残るのは魔石と空気中に浮かんだ魔力の歪な流れだけだ。


 あの後、俺の矢が外れることはなかった。


 「……今回は、ここまでだ」


 杖で地面を軽く突き、ガグンがはっきりと言い切る。


 ラグスが眉を上げる。


 「まだ行ける」

 「今のこのメンバーでは五十階層までは届かない」


 帽子に隠れていない左の目でラグスを見る。


 「進めば、誰かが死ぬ」


 セインが唇を噛み、何か言い返したそうに見えたが、杖を握る手の力が先に緩んだ。


 「……分かったっス」


 ラグスは少しの間、ガグンを見ていたが、剣を握る手が一度だけ強くなり、それから肩の力を抜く。


 「……心得てる」


 口癖のはずの言葉が、無理やり口から吐き出される。


 タマは何も言わず、ただ二人を見ていた。

 

 俺も、口を挟まなかった。


 撤退が決まると全員の空気が変わる。

 

 進む時とは違い、背中の方へも意識を向けなくてはいけない。


 流れる空気を行きよりも冷たく感じる。

 

 戻るという行為は、進むよりも気を使う。

 

 前向きな気持ちがなくなった時には余計に気をつけなくてはいけない。


 ラグスが拳を握った。


 「もっと強くなる。次は、必ず行く」


 その言葉にセインが少しだけ顔を上げる。


 「心得てる、っスよ」


 ラグスとセインが拳を軽く合わせる。


 「……余計な心配だったようだな」


 俺は小さく呟いた。

 

 タマが俺を見て小さく笑う。


 北のダンジョンは、何も答えない。

 

 ただ、後ろを流れる魔力だけが来た時よりも濃く感じられた。


 ……見られている。


 そう感じた。

 

 だが、確かめる術がなかった。


 俺は最後にもう一度だけ振り返ったが、暗がりの奥には、何もなく、魔物の気配も足音もない。 


 ガグンはすでに歩き出している。

 

 灰色のマントの裾が石の床を擦ることなく揺れていた。 

 

 その背中は、旅慣れた魔導士のものと何も変わらない。

 

 変わらないはずだった。


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