第24話 王族と国民
森の気配が一段だけ重くなった。
木の葉の揺れが止まり、鳥の声が途切れる。
山で熊を待ち伏せていた頃に幾度も覚えた感覚だ。
生き物というのは自分より大きな足音が近づくと、まず鳴くのをやめる。
「……来る」
タマが俺の言葉に反応し、俺を見る。
そして静かに頷く。
イバラキはテーブルを拭く手を一瞬だけ止めるが、またすぐに手を動かす。
ドゥールとレオンは茶を飲む手を止めるが、俺を見て首を傾げている。
アウルとノクティスは戯れ合うのを全くやめない。
氣は三つ。足音も三つ。
歩幅と踏み込みの重さで、誰が前に出るかは聞き分けられた。
一番軽い踏み込みが先。
次に、鎧の擦れる金属の小さな音。
最後が、わずかに引き摺るような迷いを含んだ足。
扉に手をかける前に、もう並びは見えていた。
コンコンコン、と遠慮気味だが、はっきりとした音が鳴る。
扉を開ける。
想像したとおりだった。
アルティシアが一番前。
半歩後ろにルキアス。
さらに半歩、ハル。
獲物を追う狩人は足の速い者を先頭に置きはしない。
先頭に立つのは責任を負える者だ。
退路を確保する者は必ず一番後ろに置かれる。
三人の並び方は、それと同じ形をしていた。
誰が前に出るか。誰が責任を負うか。誰が、超えてはならない線を引いているか。
言葉を交わさなくても、その三つは並びだけで分かった。
アルティシアが、扉を開けたこちらの呼吸に合わせるように、わずかに息を整えた。
「……時間を、もらえますか」
小さい声だった。
命令ではない。
だが、頭を下げるほど低くもできない。
初めて対面した時の、口角だけが微かに上がるあの声とは、別の場所から出ていた。
俺は三人を一度だけ視て、横へ身を引いた。
通す、というだけの動作。
中に入るとノクティスがまず動いた。
天井近くまで影を引き伸ばし、薄く広げて三人を上から視る。威嚇ではなく、ただの確認だ。
タマがスッと立ち上がる。
その背に、アウル=ヴェイルが無言で寄った。
水色の髪が、タマの裾に隠れて止まる。
レオンが膝を折りかけた。
ルキアスが指を半ばだけ開いて下から上へごく浅く持ち上げる。それで止まる。立っていてくれ、というそれだけの合図を、レオンはきちんと読んだ。
誰一人、座らない。
アルティシアが息を吸う。
長く、ゆっくり、吐き出す。
その吐息に小さな震えがわずかに混じった気がした。
「私は__」
言葉を噛み締めるように切る。
ルキアスは半歩後ろ、だが、アルティシアには触れない。
「魔女です」
わずかに聞こえていた外の音が消える。
「母が、魔女でした。だから……私も、魔女です」
静かに言い切り、視線は揺らがない。
いや、揺るがないように目に精一杯力を入れている。
俺は、彼女の指先を視た。
書類と契約と命令に慣れた、迷いのない細い指。
その指が、もう片方の手の人差し指の付け根をしっかりと押さえつけている。
誰にも気づかれない動きだ。
だが、その圧の強さで、自分の手を自分で押さえつけていることがはっきりと分かった。
乱れを許してこなかった指が、初めて他人から自分を守る形を作っている。
「王国を、守りたい……と、思って、います」
声の重さが揃わない。
本音が喉を通るのを嫌がっているが、無理やり通している。
「そのために……力を、貸してほしい」
視線を俺から離さない。
「可能なら、あなた方を……貴族として、迎えたい。王国の側に、いてほしい」
差し出された言葉は、誠実だった。
王女として用意できる、最大の手土産だ。
俺は、すぐには答えなかった。
視線だけを、隣のタマに渡す。
タマは動かなかった。
視線だけがまっすぐにアルティシアを捉えている。
アルティシアも逸らさなかった。
王女として無数の視線を受け止めてきた目が、今は一人の女の前でただ晒されている。
しばらくして、タマは大きく息を吸うとゆっくりと吐く。
身体の輪郭が淡い光に滲む。
白銀の耳が音もなく頭の上に立ち上がり、背の後ろで九本の尾が静かに広がった。
ハルが即座に腰を落とすが、ルキアスがそれを手の甲で制した。
アルティシアは目を逸らさない。
九本の尾は背に降ろしたまま、揺れていない。
だが、その根元のあたりが、一本だけ、ほんのわずかに低い位置で固まっているのを、俺は視ていた。
九尾の感情は本人より先に尾に出る。
これは答えを既に決めている時の止まり方だ。
「貴族には、ならない」
はっきりとした言葉だった。
「王族の元にも、行かない」
アルティシアの指の圧が、わずかに強くなる。
「前に……一度、王族の側にいた」
タマは視線を逸らさず続けた。
「正体を知られて、追われた。隠して、また隠して、それでも追われた。最後は、後がなくなって……ここに、戻ってきた」
声に感情の起伏はない。
だからこそ、逃げてきた時間の長さが余計に伝わった。
「今は最初から知られてる。それでも、貴族や国がいつまで赦すかは分からない。大きな力は、いつか歪みを生むの。歪みは、必ず、誰かを潰す」
アルティシアは言い返さなかった。
理屈の上で反論できないと分かったからではない。
タマが今語っているのは理屈ではないと、彼女が一番よく知っているからだ。
「だから……ただの人として、暮らしたい」
タマはそこで一度だけ、俺の方を見た。
「でも……困ってる時は、助ける。国民、として、なら」
その言葉にアルティシアの肩からほんのわずかに力が抜けた。
「……国民に、助けて、もらえるんですね」
声が、王女のものではなかった。
最初に部屋に入った時よりも、少しだけ低い。
誰かに守られたことが、たぶん、一度もなかった者の声だ。
守られる側に立っていい、と、生まれて初めて知らされた者の声でもあった。
俺は視線だけでイバラキを呼んだ。
壁際から足音もなく一歩。
衣が擦れる音すら立たない。
アルティシアの正面に立ち、軽く頭を下げる。
「少し、失礼します」
手を伸ばす。
手のひらは、額に触れない。
指先がこめかみのあたりの空間で止まる。
熱はない。
指先にわずかに氣が走る。
空気の重なりが一枚、薄く剥がれていく。
蜘蛛の巣を見つけた時、息で吹き飛ばさず、指先で糸の端だけを摘んで引いていく……あの慎重さで、何かが、剥がれていった。
アルティシアが、わずかに目を見開いた。
「……終わりました」
イバラキの声はいつもどおりだ。
「痕跡は、もうありません」
そこでドゥールが小さな魔道具を取り出し、魔力を注ぐ。魔道具は反応しない。
「……完全になくなっているな。おそらくヤグの魔道具で、会う度にゆっくりと時間をかけて洗脳したんだろう」
王女の息が一気に吐き出された。
胸の前で組まれていた指がそこで初めて、ほどけた。
肩のあたりで何かが下りた音は、もちろん聞こえない。
だが、それまで彼女の周囲に張り付いていた重苦しいものが、ふっと薄れたのが、はっきりと分かった。
「……ありがとう、ございます」
以前までの王女の「ございます」とは響きが違っていた。
その横でハルが息を呑んだ。
今までずっと斜めに構えていた肩が、初めて正面を向く。
「……今のは」
言葉を探して見つけられず、結局、別の言葉になった。
「弟子に、してください」
それはイバラキに向けられた言葉だった。
ハルは、続ける。
「今の俺には……あれが、何だったのか、分からない。わからないけど、これ以上、守るべきものがあるのに、自分の刃が届かないのが、嫌です。俺は……強くなりたい」
迷いはなかった。
だが、思い付きでもなかった。
ここに来るまでの森の中で考えた上で持ってきた言葉だ。
イバラキはハルを少しだけ見てから首を横に振った。
「あなたは、もう十分に強い」
声に突き放す響きはない。
「ですが、強すぎる者が増えると敵も増えます。今、あなたが立っている場所では、それは、よくありません」
ハルは、口を開きかけて、閉じた。
「……よく、分かりません」
「分かるようになる頃には、状況が、変わっています」
それで十分だった。
三人は、来た時と同じ並びで、隠れ家を出ていった。
扉が、静かに閉まる。
森の気配が、もう一段、緩んだ。
鳥が一羽、また鳴き始める。
木の葉の揺れが、戻ってくる。
俺は開けたままだった盃にようやく酒を注いだ。
残ったのは、王女が指の力をほどいたほんのひと時の間だけだ。
それで十分だ。
窓の外で森の鳥がもう一度、鳴いた。
*
玉座の間は時間が止まっているかのように静かだった。
天井の高い窓から、午後の光が斜めに差している。
光は太く広がっているが、暖かさを感じない。
石造りの床に落ちた光の帯の輪郭だけ鋭い。
広さに対して人の気配が少ない。
衣擦れも、呼吸も、意図的に小さく抑えられている。
だが、緊張だけは過剰に満ちていた。
玉座に座る男は若かった。
”ワイス・クラウディア・レグナ”。
三十代半ば。
淡い金髪は光の加減で銀色に見え、薄い灰青の瞳が光の帯の向こうから覗く。
細身の身体に纏うのは白から象牙色を基調とした簡素な王衣。
深く座り込み、背もたれに体を預け、片肘をだらしなく肘掛けに置いている。
王冠は被っていない。
正装ではあるが、どこか着崩している。
よく整った顔立ちだ。血筋の良さが一目で分かる。
”退屈そうな目”。
その足元に、グラウ・アイゼンが跪いている。
両耳には壊れたはずの、耳飾り型の魔道具が光っている。
左右には数名のメイド。
皆、背筋を伸ばし、視線を落とし、息を潜めている。
この場で最も緊張しているのは彼女たちだった。
ワイスは肘掛けに置いた指先で軽く叩いた。
「で?」
退屈そうな視線を変えることもなく、問う。
グラウは淡々と報告を始める。
古竜の件。王女の行動。魔族の介入。近衛騎士団の損耗。
そしてグラウの背を地につけた、自らを”オニ”と呼んだ男と女。
感情は挟まず、事実だけを淡々と積み上げる。
報告が終わると、玉座の間にわずかな沈黙が落ちた。
ワイスは顎に手を当てたまま、しばらく考える素振りを見せる。
「……魔女に産ませた割には出来が悪かったな」
失望でも怒りでもない。ただの評価。
「魔族に食わせておいた甲斐もなかったか。古竜一つ、制御できないとは」
グラウは、何も言わない。
それを咎める空気もない。
ワイスは鼻で小さく笑った。
「所詮、あの女の娘か」
そう言うと同時に、身体を玉座に沈め直す。
「まぁいい。価値がなくなったわけじゃない」
指を鳴らす。
「帝国第二皇子の元へ出せ。王女としてならまだ使える」
婚姻は、祝福ではない。
処罰でもない。
”処分”だった。
「これで、帝国はしばらく黙る」
グラウが静かに口を開く。
「……次の対策についてですが」
ワイスの目がわずかに細まる。
興味が湧いた、というより、資源を思い出した顔だった。
「例の“オニ”とか言っていた者か。次は、勝てるのか?」
グラウは顔をあげ、即答する。
「王国の秘蔵装備と宝剣を投入すれば、次は、必ず」
ワイスは満足そうに頷いた。
「ならばよい」
そして何でもないことのように言う。
「”女のオニ”は生け取りにしろ……血を繋ぐ価値がある」
直接的な言葉は使わない。
だが、意味は誰にでも分かった。
「次は、失敗するな」
王は、働かない。
王は、戦わない。
王は、
優秀な代行者を作る。
ワイスの視線が玉座の間の奥へ向く。
そこに立つのは、数人の女。
人族。獣人。亜人。
腹が明らかに大きくなっている者もいる。
誰も声を出さない。
ワイスはその光景を見て心底どうでもよさそうに言った。
「余は楽をしたい。働くのは下々の仕事だ」
整った顔で何の躊躇もなく。
「だから優秀な子を作る。統治はそいつらにやらせる」
それが、彼の“王としての哲学”だった。
ふと、思い出したように言う。
「……ああ、ルキアスはどうした」
グラウが答える。
「静かにしています。表立った動きはありません」
ワイスは露骨に不機嫌な表情を浮かべた。
「本当に、気に食わん」
理由は明白だ。
「あれは……良すぎる。責任感がある。王の仕事を、余に押し付けようとする」
王が王子に指示されるなど、論外だ。
「王は命じる側だ。指示される側じゃない」
グラウは沈黙を保つ。
国王と王子の権力差は覆らない。
第1団も、第4団も、国王のもの。
王女は借りていただけ。
王子は力を奪われた状態。
ワイスは満足したように玉座に身を沈めた。
「さて……次は、どこを使うか」
腹の膨らんだ女たちも帝国に差し出せる娘も働く息子も全て揃っていた。
それで、十分だった。
王座の間では誰も異を唱えなかった。
唱えられるものがいないからだ。
王座に沈んだワイスは指先でまた肘掛けを叩いた。
規則正しい音だった。
メイドの誰もその数を数えなかった。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
本話は第25話と一続きの物語です。
第1章の山場として書き進めたところ、1話に収めるには文字数が多くなりすぎてしまい、2話に分けることにしました。
第25話「居場所は、作られていく」も本日続けて投稿します。
合わせてお楽しみいただければ幸いです。




