第25話 居場所は、作られていく
第三団の詰所は落ち着きすぎていた。
人の気配はある。
だが、張り詰めた緊張も戦場の余韻も、ここにはない。
リラ・ヴァン・ストライゼンは、椅子に腰掛けたまま、窓の外を見ていた。
剣は預け鎧もない。
謹慎中。
第3団を独断で動かした罰だ。
命令ではなかった。
騎士としてそれ以上の罪はない。
リラはそれを理解している。だから抗議はしない。
ノックの音がした。
「……入ってもいい?」
アルティシアの声だった。
聞いたことのない穏やかな声色に、思わず顔が音の先を追う。
しかし、あの部屋で受けた冷気を背中が覚えていた。
リラは一瞬だけ考えてから、短く答える。
「どうぞ」
入ってきたアルティシアは簡素な装いだった。
外套を羽織り装飾もない。
護衛はいない。
手には命令書も勅令も持っていない。
リラの眉に皺が寄り、目が揺れる。
「……座ったままでいいわ」
リラは短く頷く。
しばらく沈黙が流れた。
アルティシアは先に言葉を探した。
「……あなたに、かかっているものがある」
リラの頬がわずかに反応する。
アルティシアは続けた。
「それは魔族の洗脳じゃない……私が王女だったせいで、縛ってしまったもの」
それは、“王女の騎士”であることを強制した枷。
「それを、解きたい」
リラはすぐには答えなかった、ただ肩は強張る。
アルティシアはゆっくりと近づき、そっと頬に触れる。
あの部屋の頬を包まれた時の感触が、身体の記憶を掠めた。
リラの肩が、ほんの一瞬だけ跳ねる。
「……大丈夫」
その声色はあの時とは違っていた。
リラは少し迷ってから、ゆっくりと視線を閉じる。
静かに詠唱に入る。
指先が頬に触れたまま、ほんの少しだけ温度が下がった気がした。
リラの息が一瞬、止まる。
胸の奥で名前も知らないものが一つ外れたのがわかった。
アルティシアはゆっくりと息を吐く。
「これで……あなたは、自由よ」
リラはしばらく黙っていた。
アルティシアが静かに言葉を紡ぐ。
「……私は、もう、あなたに命じない」
リラは静かに、しかしはっきりと言う。
「私は、王国を裏切りません」
即答だった。
「でも……それは、命令だから、ではない」
顔を上げ、生まれて初めてアルティシアの目をしっかりと見る。
「守りたいと思った時に、守ります。それが、私の選択です」
アルティシアは少しだけ、安堵したように見えた。
「……それで、十分」
立場はもう、上下ではない。
主従でもない。
ただ、同じ国に生きる二人だ。
リラはふと小さく笑った。
「でも……正しさって、簡単に見つけられないです」
「ええ」
アルティシアは頷く。
「でも、選ぶことは……できるはず」
雷は、今は、まだ眠っている。
封じられているわけじゃない。
次にそれが鳴る時、それは王都近衛騎士の雷ではなく、リラ・ヴァン・ストライゼンの雷だ。
窓の外で風が一度だけ、詰所の旗を揺らした。
*
ギルド本部の奥の部屋は、時間が止まっているようだった。
窓はあるがブラインドが閉まっていて、外界とは遮断されている。
書類の山にも、机の木目にも年の重みだけが広がっている。
ドゥールは椅子に腰掛けたまま、指先で机を叩いていた。
考えるときではなく言葉を選ぶ時の癖だ。
対面にいるのは、ギルドマスター・シオウ。
年齢は分かりづらい。
老いてはいないが、若くもない。
生き残ることを選び続けてきた人間の顔をしている。
シオウはコーヒーを一口だけ含んでからカップを置いた。
「王都は、今は危ない」
前置きなく言った。
ドゥールとの間で前置きが必要だった時期は、もう何年も前に過ぎている。
「剣がどうこうの話じゃない。政治が荒れている。あの王女が失墜した」
ドゥールは頷くだけだ。
「強い存在はな……今は“助け”じゃなく、“道具”になる。都合よく持ち上げられて、都合が悪くなったら切られる」
それが誰を指しているのか、言わなくても分かる。
「ギルドは?」
ドゥールが目を細めて聞く。
シオウは肩をすくめた。
「表向きは協力する。裏では距離を取る。それが本部の意向だ」
迷いのない答えだった。
「魔族が絡んだ瞬間、話は秩序じゃなくなる。王権に利用されたら、終わりだ」
ギルドは正義の味方ではない。
王の手足でもない。
生き残るための線引きだ。
「……あの魔道具」
ドゥールが、ふと思い出すように言う。
「ヤグのやつだ」
カップに伸ばしかけた手が、途中で止まった。
「限界は見えた」
同業者としての冷えた評価だった。
シオウは即座に頷き、身体を背もたれに預ける。
ドゥールは腕を組み、そのまま続ける。
「だが、奴は改良する。同じやり方は通じない」
脅しでも、不安煽りでもない。
技術者同士の冷静な認識だった。
「”天網の狂帝”の狙いは……」
ドゥールは言葉を選ぶ。
「おそらく、古竜だ」
断言しない。
だが、筋は通る。
「制御できれば、世界が一段階変わる。他に、理由が見当たらない。奴は本気で世界を一つにしようとしている……手段を選ばずに、だ」
シオウは身体を起こし、机に肘をついた。
「対抗できるのは?」
分かっていて、聞く。
ドゥールは答える。
「帝国の勇者か……ゲドーマルたちだろうな」
沈黙が場に広がる。
「帝国は信用できない。勇者は、便利な兵器になる」
シオウの声は淡々としている。
「王女が抑止力を必要とした、という考えも……あながち間違ってはいない」
ここにいる二人は、もう善悪で話をしていなかった。
「今は、動くな」
シオウが静かに言った。
「巻き込まれるだけだ」
ドゥールは椅子から立ち上がる。
「……分かってる」
だが、止まる気はない。
準備をしない、という選択肢がないだけだ。
部屋を出る直前、ドゥールは振り返った。
「シオウ、俺は、どこにも属さない」
シオウはわずかに笑った。
「だから話せるんだよ」
ドゥールは扉を閉める。
廊下を歩いた。
石畳に工具ベルトの金具が一定のリズムで当たる。
「止まれ、か」
止まるための理屈ならいくらでもあった。
歳も、立場も、勝ち目の無さも。
それでも、次にタマが倒れた時……あの男が間に合わなかった時、自分の鞄の中に道具が揃ってないのは、耐えられなかった。
工房の鍵を指先で確かめる。
まだ、温かかった。
*
ゲドーマルがいない。
それに気づいた瞬間、タマの胸の奥で何かがきゅっと縮んだ。
薪を抱えた腕の力が抜けて薪が一本、足元に落ちた。
さっきまで確かに気配はあった。
隠れ家の入り口付近、確かにレオンと話をしていた。
それがもう、どこにもない。
「……また、だ」
呟いた声は、思ったより細かった。
肩に、重さを感じる。
振り向くと、アウルがぴったりと寄り添っている。
古の竜の気配は、嵐の前の森に似ていた。
広大で、静かで、内側に途方もない力を抱えている。
その存在が今、タマの脇でただの子供としている。
理由も聞かず、説明も求めず、ただそこにいる。
探そう、と言いかけて、タマは一度、深く息を吸った。
この距離なら、妖狐の本来の姿に戻れば早い。
九本の尾を解放すれば、捉える気配の密度が跳ね上がる。
ゲドーマルの気配など、王都の外れまで追えるはずだ。
追われる覚悟も、もうある。
代償も、今さら恐ろしくない。
「待ってください」
静かな声が背中を止めた。
振り返ると、イバラキが立っている。
キッチンの方から音もなく現れたその表情はいつも通り、何も乱れていない。
「氣を探せば、すぐ分かります」
「でも……」
「消えていません」
事実としての確信を持っている。
「お館様は、近くにいます。ただ動いているだけです。いつも通りです」
タマは言葉を失う。
”生きている”
ただそれだけなのに、胸の奥につっかえていたものが取れる。
「……本当に?」
「はい」
イバラキは一分の迷いもなく頷いた。
アウルは何も言わない。
ただ、タマの袖をそっと引いた。行こう、と言っているみたいに。
タマはゆっくりと息を吐いた。
力を使わず、探す。
信じて、歩く。
それが今、自分にできる選択だった。
*
外が騒がしい。
いや、騒がしいというほどでもなかった。
木を叩く乾いた音と、石を転がす重い音。
それに混じって、やたら元気な声が洞窟の中で響いている。
俺は洞窟を少し入った場所で、粗削りな岩肌に背を預け、腰を下ろしてそれを聞いていた。
湿った土と切り出したばかりの木材の匂いがする。
「そこ、柱にするなら太さが足りねぇぞ」
「分かってる! 今、替えを持ってくる!」
ゴブリンたちが足音も荒く行き来している。
あの小さな体のどこにそれだけの力が宿っているのかと思うほど、太い木材を軽々と引きずり、石を抱えて走る。
命じた覚えはない。
いつの間にか彼らは言葉も流暢になっていた。
指示を出さなくても、誰かが見て、誰かが補う。
止める理由はなかったし、止めようという気も起きなかった。
「……まさか、ここまで本気でやるとはな」
隣でレオンが苦笑した。
その手には木材の端材が握られている。
いつの間にか作業員扱いだ。
元門番責任者が材木を抱えている光景は、なかなかに奇妙ではあったが、レオン自身がそれを楽しんでいるように見えた。
「家賃はかからない。それは分かるけど……」
レオンは洞窟の広くて、高い天井を見上げる。
粗削りな岩盤に、ゴブリンたちが掘り込んだ柱の穴が等間隔に並んでいた。
通路の取り方、奥行きの設計、どれも信じられない精度で用意されている。
「もう"仮"じゃないよな、これ」
俺は答えなかった。
答えなど、持っていない。
ここに来たのはただ静かな場所が欲しかっただけだ。
王都から近くて、目立たず、守りやすい。
ゴブリンたちに「いい場所はないか」と聞いた。
それだけのことだった。
だが彼らは「ここなら安心」、「守りやすい」、「畑も作れる」と言った。
それから先は、勝手に話が進んだ。
「主様! ここ、どう思いますか!」
振り返ると、三匹のゴブリンが期待に満ちた目でこちらを見ていた。その目の中に、答えを欲しがる不安と、もう確信している自信が、同時に宿っている。
「……悪くない」
それだけ言うと、洞窟の中の壁が大歓声で揺れた。
どうしてそうなる?
「姉さん! この梁どうです!」
「位置が甘いですね。五寸、ずらしてください」
先ほど、イバラキもここに来ていた。
来た、というよりも、いつの間にかいた、という方が正確だった。
イバラキは何の違和感もなくその場に馴染んでいる。
指示が的確で、無駄がなく、誰も疑問を持つ隙がない。
「"姉さん"って……」
レオンが静かに引いている。
まあ、分かる。
その時、洞窟の入口の方から足音がした。
「……ゲドーマル?」
タマだった。
土埃の混じった空気の向こうに、見慣れた白銀の髪が見える。
その声には安堵と、まだ消えきっていない心配が混じっていた。
「また、黙っていなくなるから……探そうとしたんだけど。イバラキは先に行っちゃうし」
少し涙目だ。
このところ、心配させすぎているかもしれない。
「……すまない」
言いながら、立ち上がる。
「入る前に__」
イバラキが自然に言った。
「履き物は、ここで脱いでください」
「?」
レオンの目が一瞬、点になる。
そして視線を周りの仲間に移す。
アウルは素直に従った。
その動作に反抗の色は一切なかった。
古の竜でさえ、このイバラキの声には逆らわない。
タマは少し遅れて足を止め、それから靴を脱ぎ、きちんと揃える。
ほんの一瞬、頬が緩み、口角がわずかに上がるのが視えた。
洞窟の奥へ進むと空間が広がる。
粗削りではある。
だが柱の位置、通路の幅、採光のために開けられた岩の細い割れ目。
どれも、無意識の設計とは思えない精度で整っていた。
タマが小さく息を吸った。
「……不思議」
「何がだ?」
「分からない。でも……」
タマは言葉を探して、やめた。
「ううん。なんでもない」
と首を横に振る。
探しても出てこない何かがある時、無理に言葉にしない。
俺もそれ以上は聞かなかった。
俺自身、説明がつかない。
ここは、落ち着く。
王都でもない。隠れ家でもない。
それでも人が集まって、誰に命じられるでもなく、勝手に手を動かしている。
……あとは、金だな。
洞窟の奥で、ゴブリンが一匹転んで、大きな音を立てた。
他のゴブリン達が集まっていく。
「なんか……緊張、取れた」
タマがぽつりと言った。
その声の小ささが、かえって真実味を持っていた。
言われて気づく。
ここに来てからタマは一度も周囲を警戒していない。
耳が音を拾おうとする、あの鋭い緊張感がない。
ゴブリンたちは動き続けている。
木を叩く音、石を転がす音、やり取りする声。
イバラキは指示を飛ばし、レオンは苦笑しながら手を動かす。
誰も「拠点を作ろう」とは言っていない。
だが、もう作られ始めている。
俺は洞窟の中央に置かれた平たい石に、何となく腰を下ろした。
盃を置くなら、ここだな。
理由はない。
ただ、そう思った。
形も、規模も、素材も、何もかも違う。
そもそも洞窟ですらなかった。
それでも、どこかに、覚えがある。
雨上がりの土の匂いと、囲炉裏の薪の爆ぜる音と、冷たい水で手を洗う音。
その欠片が、この洞窟の奥でかすかに揺れているような気がした。
だが、ここで生きることはできそうだ。
それだけで、今は十分だった。
入口から風が吹き込む。
日差しが穀物を温めた時のような匂いを運んで、洞窟の奥までゆっくりと届いた。




