第23話 それぞれの立つ場所
隠れ家の外れ。
一本の大樹の上に、簡易的な住処が組まれていた。
板を渡し、枝を組んだだけの、雨と風をしのぐだけの小屋。
住むための場所ではない。
ただ、居るための場所だった。
板と板の隙間から差し込む光が、足元を薄く照らしている。
そこにアウレオンはいた。
膝の上に広げた紙に羽根ペンを走らせている。
傍らには小さな鳥籠。
鳥はすでに慣れているのだろう。
アウレオンが紐を解くと迷いなく籠から飛び出し、枝先に止まった。羽を一度だけ震わせ、それからじっとしている。
アウレオンは紙を折り、短く結んだ。
内容は見えない。誰宛かも、分からない。
鳥の足にそれを括りつけると、指の腹で背を一度だけ撫でた。
「……頼んだ」
鳥は一声鳴き、森の向こうへ飛び去っていく。
アウレオンはその姿が木々の向こうに去っていくまで、じっと目で追い続けた。
風が吹き、枝が揺れる。
葉の擦れる音が、遠く近く重なった。
視線を下ろせば、隠れ家の屋根が見える。
あの中にはゲドーマルがいる。
タマがいて他の仲間たちもいる。
誘われていないわけじゃない。
拒まれているわけでもない。
それでも、アウレオンは”中”にいなかった。
自分の手を、見下ろした。
"天網の狂帝"。
その名を聞いて、仲間たちが瓦礫を運び始めたばかりの里を、自分だけが抜け出した。
里を壊した存在を倒すために。
だが、ミルザ、ヤグ、そしてあの場に現れた"格の違う魔族"。
近衛騎士第一団団長、グラウ・アイゼン。
名前を思い浮かべるたびに、胸の奥が静かに冷えた。
届かなかった。
あの時、自分の剣は空を斬っていた。
腕の話でも、勇気の話でもない。
そういう話ですらなかった。
立っている場所そのものが違った。
強いと思っていた。戦ってきた。生き残ってきた。
それでも、あの場所では……自分は、何もできなかった。
ただ、空気だけが残っている。
拳を握る。
手のひらの中に握るべき答えがなかった。
指の関節が白くなる。
それでも怒りは湧いてこない。
「……足りないな」
独り言は誰にも届かぬまま、風に溶けていった。
その隣で、小さな光がふわりと揺れる。
精霊、シルヴァン。淡い光を放ちながら、アウレオンの肩口をそっと照らした。
何も言わない。
責めない。励ましもしない。
光だけがそこにあった。
アウレオンは、苦笑した。
「心配されるほど、落ち込んでる顔か?」
シルヴァンは答えない。
ただ、光を少しだけ強めた。
その静けさが、返答だった。
折れてはいない。
逃げてもいない。
だが、このままでは駄目だと、はっきり分かってしまった。
魔族に届くには……今のままでは、足りない。
その事実を、言葉にするとかえって軽くなる気がして、アウレオンは口を閉じた。
もう一度、森の奥を見る。
鳥はもう見えない。それでも送った。
答えが来るかどうかは、分からない。
だが、動かずにはいられなかった。
下では、変わらない時間が流れている。
笑い声も、眠る気配もある。
ここには、居場所がある。
温かさも、確かにある。
それでもアウレオンはまだそこに降りることはしなかった。
自分が立つべき場所を、見失ったままでは。
風がもう一度木々を揺らした。
*
隠れ家のリビングに、皿のぶつかる音と食器を置く軽い音が重なっていた。
テーブルの上には甘味が並び、それぞれの前に盃、真ん中に酒がある。
揃っているものは揃っているのに、視線の行き場が定まらない。
アウル=ヴェイルは、水色の髪の男の子と呼べる姿のまま、タマのすぐ傍にいる。服装は、どことなくゲドーマルの直垂を小さくしたような格好。
距離が近い。
近すぎる。
椅子に座るタマの隣に立ち、時々、服の裾を軽く引く。
意味はない。
ただ、そこにいたいだけだ。
「……近いよ?」
タマが困ったように言うと、アウル=ヴェイルは首を傾げた。
「そうなの?」
普通に喋った。
ドゥールが盃を持ち上げる手を止める。
レオンが椅子の背にもたれたまま固まる。
茨木は、特に止まることなく俺の盃に酒を注ぐ。
「……喋れるの?」
タマが言うと、アウル=ヴェイルは少し考えてから答える。
「必要がなかったから」
淡々とした声だ。
今まで話さなかった理由を、説明する気はないらしい。
「タマが好き」
間髪入れずそう続ける。
ドゥールがむせる。
レオンが目を逸らす。
茨木は、こちらに視線を送る。
意味は分かっていないのだろうが、雰囲気で感じ取ってる。
タマは固まった。
「……え、えっと……」
言葉を探している間に、俺は無言でテーブルに手を伸ばした。
甘味がある。
1つ取る。
ガリッ。
……思ったより硬い。
ノクティスがタマの肩でぷるりと震える。
アウル=ヴェイルを見て、わずかに威嚇するように影が揺れた。
「……ゲドーマル」
タマが瞳に涙を溜めながら、こちらを見る。
「それ、私の」
……しまった。
「……知らなかった」
「嘘だよね」
「……すまない」
ドゥールが咳払いをして話題を変える。
「……あー、茨木……さん?」
机の上に小さな箱を並べる。
「翻訳の指輪。魔力を蓄積する指輪。それと……髪の色を変えられる指輪だ」
俺のと同じ、この世界で生きていく生活用の魔道具。
「この世界で暮らすなら、必要になると思ってな」
タマがとりあえず、首を傾げている茨木に通訳する。
茨木はちらりとこちらを見たあと、首を振った。
「結構です。お館様から以外、物は受け取りません」
「……え?」
驚きながらも、タマがそれもドゥールのために訳す。
忠誠というより、茨木の中の決まり事に近い。
ドゥールが困って、俺を見る。
しばらく考えてから、俺は自分の指輪を外した。
「……これを使え」
茨木は左手の小手を外し、即座に受け取った。
そして何の迷いもなく”左手の薬指”に通そうとする。
「待って!!」
タマが反射的に止めた。
「そこはダメ!」
「……?」
茨木は首を傾げる。
意味はわかっていない。
俺も正直よくわからない。
「何か問題が?」
「あるよ!」
ドゥールは、無言で新しい指輪を俺に差し出した。
俺はそれを受け取り、黙って自分の指にはめる。
それを見て、茨木の右手の指に指輪が収まっていく。
指輪が淡く光ると、茨木の黒髪の根元がわずかに青みがかった。
この世界で生きていくなら、多少の擬態は必要だ。
「……イバラキ」
俺が呼ぶと、茨木は首を傾げる。
「ここではそう呼ばれることになる」
イバラキは少し考えてから頷いた。
「お館様がそうおっしゃるなら」
しばらくして、話題は自然に変わる。
種族のことを話した。
俺とイバラキが鬼で、タマが妖狐で、俺とイバラキがこの世界の出身でないこと。
話し終えた後も、テーブルの匂いは変わらなかった。
酒の香りと甘味の匂い。
それだけだ。
ドゥールは肩をすくめる。
「……種族なんて、今さらだろ」
レオンが少しだけ視線を落とす。
「門番だった頃……仕事だからって、種族で金額を分けてた。疑問はあった。でも、考えないようにしてた」
言葉がテーブルの上に落ちたままになった。
俺ははっきり言った。
「そんなことは、どうでもいい」
それだけだ。
そして、現実的な問題が浮かぶ。
「……金、どうする? 酒が買えない」
王家を敵にまわしたため、王都には戻れない。
つまり、王都では冒険者になれない。
レオンも門番は辞めた。
イバラキも所持金はない。
「今、稼いでるのは俺だけだな」
ドゥールが胸を張って言う。
重くなりかけた空気を切ったのは、外の気配だった。
扉が叩かれる。
開けると、そこにいたのは……見覚えのあるゴブリンだった。
ゴブリンジェネラルだ。
俺がこの世界に来た時に、言葉を交わして以来、迷いの森を抜けた時にも姿を見せた。
どうやら、俺のことを主人と見定めたらしい。
「主様。……お持ち、しました」
両手には、食料をそのままの姿で持っている。
リビングに肉や果物の匂いが広がる。
誰も明日のことは決めていない。
だが、今日を生きる材料は揃っていた。
リビングに肉の焼ける匂いと甘味の匂いと、酒の香りが静かに混ざっていった。
*
教会の奥の部屋は、昼の喧騒から切り離されていた。
窓は小さく、灯りは絞られ、石壁の冷たさだけが一定の温度を保っている。
部屋の中央で水晶が淡く光っていた。
円柱状の魔道具。
その内部に浮かぶ像は、簡略化された映像と数値の集合だ。
感情は削ぎ落とされ、事実だけが残る。
巡道教本部に繋がる、正式な報告用水晶。
カイラン・ブランクは、その前に立っている。
背筋は伸びている。
声も、いつも通りだ。
だが、肩に戦場の匂いがまだ残っていた。
洗い落としたはずの血と土と焦げた空気が、衣の奥で僅かに揺れる。
「報告を開始します」
淡々と区切るように言った。
「王国レグナにおいて、第1王女アルティシア・クラウディア・レグナによる古竜制御の試みが確認されました」
水晶の内部で光が一瞬、強くなる。
「結果は失敗。古竜は制御されず、暴走寸前まで至っています」
事実だ。
一切の誇張も、削減もない。
「調査の結果、当該行動には魔族の介入が確認されました。王族に対し、直接的な干渉が行われていた可能性が高いと思われます」
ここでほんの一瞬だけ、間を置く。
”天網の狂帝”。
その名を、カイランは口にしない。
だが、言わなくても通じる。
”巡道教”が最も警戒すべき存在だ。
「古竜事案に伴い、王都近郊で武力衝突が発生。近衛騎士団第1団が出動しています」
ここからが選別だ。
「戦闘は、近衛騎士団主導によるもの。外部勢力の直接介入は確認されていません」
嘘だ。
水晶の光は変わらなかった。
事実として受け入れられている。
だが、悪意はない。
切り取った結果だ。
「死者はなし。ただし、近衛騎士団は壊滅的な被害を受け、現在、戦力として機能していません」
水晶の光が静かに揺れる。
本部側が、この情報をどう受け取るか。
その先の動きまで、カイランは理解している。
魔族が王族にまで手を伸ばした。
古竜は制御失敗。
王国の守りは、内側から崩れている。
ここまでが、提出する事実だ。
ゲドーマルの名は出さない。
タマの存在にも触れない。
世界を壊さず終わらせた存在。
古竜を“救った”選択。
王女を、殺さずに終わらせた裁定。
それらは、今ここで出せば、必ず歪む。
正義として利用されるか。
脅威として排除されるか。
どちらにしても、望まない形になる。
「王国についての報告は以上です。また、司教については特に挙げれる点は今のところありません。引き続き、薬物関連の調査を進めていきます」
水晶の光がゆっくりと弱まっていく。
報告は無事受理された。
通信が切れる直前。
カイランは、ほんの一瞬だけ、視線を落とした。
まだ、報告していないことがある。
だが、それは今ではない。
水晶は静かに暗くなった。
部屋に残るのは外から差し込む光と風の音だけだ。
カイランは窓へと歩き王都の方角を見る。
世界は、今日も動いている。
本当のことを知らされないまま。
それでも、止めなかった。止められなかった。
判断はした。
カイランは、それ以上何も言わず、踵を返した。
次にこのズレが、どこで噛み合い、どこで衝突するのか。
それを見届ける役目が、自分に回ってきたことだけは、はっきりしていた。
世界は誤解したまま前に進み始めている。
*
隠れ家の朝はいつもより少しだけ静かだった。
光だけが部屋に溜まっている。
窓の隙間から流れ込む空気は夜の冷たさをまだ含んでいた。
外で木々の枝が風に揺れ、屋根の梁がぱきりと一度だけ鳴く。
囲炉裏には茶を蒸らす鉄瓶が置かれ、湯気と一緒に古い木材の匂いが立ち上がっていた。
慣れた手つきで、イバラキが茶を配っていた。
順番も迷わない。
肩にはノクティスが乗っている。
落ち着いた様子で、時々、影がゆらりと揺れた。
アウルは相変わらずタマの近くにいた。
隣というより半歩内側。
離れる気配がない。
誰も急がない。
誰も次の話を切り出さない。
ただ一人、アウレオンだけが少し浮いていた。
視線が定まらないわけでも、落ち着きがないわけでもない。ただ、ここに“腰を下ろしていない”感じがする。
俺はそれに気づいていたが、口には出さなかった。
先に口を開いたのは、アウレオンだった。
「……俺は、一度戻る」
声は小さく、しかしよく通る声だった。
相談ではない。
レオンがわずかに肩を揺らす。
タマは視線を上げたが、すぐに言葉を飲み込んだ。
「里、じゃない」
アウレオンは視線を一度下げるが、すぐにしっかりと顔を上げる。
「エルフの国だ」
全員がアウレオンから視線を動かさない。
「私は元は第二王子だった。レグナ王国領近郊にあるエルフの里を任されていた」
そこで一度話を切り、眉間に皺が寄る。
拳を握り、指はその力で白くなっている。
「……それを潰された……《天網の狂帝》の配下に」
そう、アウレオンは静かに語った。
”天網の狂帝”とは魔王の一人であり、ミルザ達の本来の主人でもあること。母である女王からは、戻るよう何度も言われていたこと。
今までは、無視していた。
だが、今回は違う。
理由を、彼は多く語らなかった。
「ここは、居場所だ……だが、今の自分が立つ場所じゃない」
誰も否定しなかった。
誰も引き止めなかった。
イバラキは当然のように頷き、茶を置く。
アウルは反応を示さない。
タマは心配そうに見ていたが、言葉を選び、結局、何も言わなかった。
レオンは何か言おうと口を開きかけるが、結局、閉じた。
俺は短く言った。
「そうか」
送別の言葉はいらない。
アウレオンは、わずかに口角を上げた。
それ以上、話は続かなかった。
荷をまとめる音はない。
別れの挨拶もいらない。
ただ、アウレオンは立ち上がり森の外を見る。
その背中が、ほんの少しだけ以前よりも大きく見えた。
”居場所”は、ここにある。
だが、”立つ場所”は……別にある。
アウレオンが扉を開ける音が、朝の光の中に静かに溶けた。




