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異世界の鬼は本日も盃を手放さない  作者: 二筆
第1章 居場所は作られていく
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第22話 戦いの後


 王都近郊の地下、外界の音も、風の気配も届かない。狂帝陣営の薄暗く沈んだ空間。


 ミルザは、確認するように”右腕”を持ち上げ、手のひらを開き、握り込み、再度開く、を何度か繰り返す。


 関節は軋まず、皮膚の下を巡る血にも、魔力の流れにも、問題はない。


 だからこそ、腹の底にわだかまるものが、いつまでも消えてくれない。


 あの時、肉が裂ける感触も、骨が斬り落とされる硬い音も、なかった。


 あったのは、まるで最初から、そこに腕など元々なかったかのような……軽さ。


 思い出そうとするたび、目の前が白くなるほどの……。


 ヤグがあの場に呼び出した魔族の精鋭は、数十を超えた。


 武装は整い、障壁は幾重にも張られ、火も水も風も、それぞれの得意とする形で並び立っていた。


 この編成で退けぬ相手など、魔族の中にもそういない。


 少なくとも、ミルザは破れるところを、ただの一度も見たことはない。


 それなのに、障壁がひとつずつ、音もなく散っていった。障壁そのものが、存在意義をなくしていた。


 あれほどの数を、一息に、しかも殺さずに無力化する。


 そんな真似ができるのは、この世界広しといえど、魔王様たち……最上位の座に在る者だけのはず。


 なのに、あの男は……ただの黒髪の冒険者だったはずだ。


 その黒髪が、額から角を生やした。それも、二本や三本ではない。


 五本もの角を持つ存在なんて、ミルザは知らない。


 根元は黒く、先端に近づくほど、血を吸ったような赤へと変わっていくのをミルザは、確かに見ていた。


 それでも、いまだに受け入れられない。


 ミルザは、その瞬間、魔力の流れを測っていた。


 見たこともない敵の器の大きさを測らずに、間合いを詰める馬鹿はいない。


 「……平凡だった……なぜ」


 貧弱な人族の冒険者としてもごく標準的な、取り立てて驚くほどのものではない、その程度の数値。


 力の大きさは、魔力の大きさに比例する。この世界に生きる者なら、誰もが疑うことのない理屈だ。


 それが、あの男の前でだけ、根本から意味を完全に失っていた。


 世界のほうが、その存在を持て余していたのだ。


 歩いた跡を示すように、木々が季節外れの花を咲かせ、開いた端から己の重みに耐えかねて散っていく。


 あれは、魔法の現象ではない。魔力の物差しでは、測れない何かだ。


 ならば、あの女は、何だ。


 ミルザの意識は、否応なく、隣に立っていたもう一人へと引き戻される。


 濃褐色の異国の服を纏った、あの女。初めて聞く言語を使っていた。


 あの女の内側に流れていた魔力は、測るまでもなく、零。


 なのに、腕が落ちた。斬られる瞬間を、ミルザは見ていない。


 奇妙な形の剣が鞘に戻る音で、腕が地に落ちたことを知った。


 順序が、狂っている。原因より先に、結果が場にあった。


 腕を失ったと分かった後も、しばらくのあいだ、ミルザはそれが自分の身に起きたことだと、理解できずにいた。


 痛みも、青い血の噴き出す感触も、時間差でようやく追いついてきた。


 「……イライラするよ、本当にね」


 この感覚を、言葉にしてしまわなければ、押し潰される。


 声にしたところで、何も変わりはしないことくらい、分かっている。


 それでも、口を閉じるわけにはいかなかった。閉じた分だけ、腹の底から冷たいものがせり上がってくる。


 隣で、ヤグが魔道具を黙々と片付けている。


 円盤状の器具の表面に、細かな亀裂が幾筋も走っているのを、ミルザは横目に捉えた。


 「限界が近い」


 ヤグの声は、いつも通りで口調の変化というものがない。


 「今回の転移は、無理をさせすぎた。次は、同じ精度は出ない」


 ミルザは治ったばかりの右手で、角の生え際をなぞろうとして、途中で止めた。


 「別にいいさ。負けたわけじゃないしね」


 「敗北ではない。だが、想定外は多すぎた」


 ヤグは視線を上げることなく、壊れかけた道具の亀裂を、手で撫でている。


 「測定を試みた。だが、数値が定まらない。あの男も、あの女も」


 ミルザの眉が、ぴくりと動いた。


 「……測れない、って」


 「魔力量に基づく理屈が、そもそも成立しない対象だ、ということだ」


 この男が、測定という行為そのものへ疑いを持つのを、ミルザは今まで見たことがなかった。


 「だが」


 ヤグが、ようやく手を止め、顔を上げる。


 「狐の方は、違う」


 「……あのタマ、とかいう」


 「魔力量そのものは、確かに測れた。王女アルティシアの器を、明確に上回っている」


 ミルザの黄金の瞳が、細くなる。


 「へえ……獣人が、魔女を超えるって?」


 「量だけの話ではない」


 ヤグは、円盤状の魔道具を握りしめたまま、視線を宙のどこか……あの場に浮かんでいた、九本の白銀の尾の残像を追うように、動かした。


 「あの尾の数だ。九という数に、意味がないはずがない。あれほどの量の魔力を内側に留め、なお暴発させずに保っている。一体の器の話ではない。あの尾の並びそのものが、何かの仕掛けだ」


 「調べたい、ってわけだ」


 「調べる価値がある」


 ヤグの声から、いつもの平らさが剥がれていた。残っているのは、興味の色だけ。


 この男が本当に心を動かすのは、こういう時だけだと、ミルザはよく知っている。


 さっきから、こちらのやり取りを聞いている者がいる。


 淡い銀灰色の髪が、二人を視界に入れることもなく、ただそこに座っている。


 存在するというより、そこに置かれているような静けさで、ただ在る。


 ミルザもヤグも、それを意識することなく、自然と距離を取っていた。


 威圧されているわけではない。ただ、近づいてはならない間合いを、身体のほうが勝手に理解している。


 ”若様”の表情は、動かない。


 喜びも、警戒も、興味さえも、その顔の上に浮かんだことを、ミルザはただの一度も見たことがない。


 それでも、手にした《狂智の錨》の柄に添えられた手だけが、ほんのわずかに、力を増していた。


 ミルザは何かを言おうとして、結局、口を閉じた。


 この男が、何を思っているのかは、誰にも分からない。分からないことだけが、いつも、はっきりと伝わってくる。


 「問題は、あの二人だ。ゲドーマル。脅威ではない……だが、規格外だ」


 声が静かすぎて、逆に周囲の空間が気を使い、いっそう静まっていく。


 ミルザが、思わず口を挟む。


 「直接やり合ってもいないだろ。大袈裟じゃ__」


 「違う」


 遮るというより、無感情な断絶がそこにはある。


 「強いか弱いかの話ではない。あれは、この世界の枠で測れる存在ではない」


 反論の芽ごと押し潰していったため、ミルザは口をつぐむしかなくなった。


 「もう一人も、同じだ」


 若様の視線は、何もない場所へ向いている。それでいて、その先にある何かを、おそらく捉えている。


 「女オーガの魔力は、零だった」


 ヤグが、補足する。若様は、静かに続けた。


 「だが、あの現象は魔力では説明できない……正面から当たれば、勝敗以前の問題になる」


 その言葉に、ミルザは何か言おうとして、やめた。


 否定してはならない。理由は分からないが、牙の裏に当てた舌が、それきり動かなかった。


 ヤグは、今は魔道具から手が離れていて、若様の言ったことについて考え込んでいるように見える。


 しばらくして、思いついたように、ミルザが声を出す。


 「オーガの変異種、という線は? 調べれば、同系統の個体が見つかるかもしれない」


 「無意味ではない」


 若様は、しかし首をわずかに傾ける。


 「だが、核心には届かないだろう」


 少しの間、若様は口を閉じるが、ミルザとヤグは口を挟まず、じっと待つ。


 「……父に介入を求める、という選択肢もある」


 ミルザの目が、細くなる。


 「……魔王様を、動かすか」


 「理論上は、可能だ。あの方は、常に戦士を求めている」


 若様の声は、高さも強さも変わらない。


 幾何学の模様が入った虹彩は、宙の一点へ据えられたまま動かない。


 「……だが、それは最後の手段だ。あの方は……軽々しく動かない」


 沈黙が、再び部屋を満たす。


 ミルザは、骨も、肉も、感覚も、何一つ欠けていない腕を、また見つめる。


 あの瞬間の、あの軽い感触を、忘れないために、右手で拳を握りしめる。


 「……面白くなってきたじゃないか」


 ヤグは答えない。若様の虹彩が、あの読めない文様の形を変えた。


 *


 王城の医療区画は、静かだった。


 叫び声も、うめき声も、今はもうここにない。


 消毒薬の匂いが、廊下の奥まで満ちている。


 近衛騎士団。王国最強と呼ばれ、王国の剣として振るわれてきた者たちが、今は一列に並べられていた。


 治癒師や医官たちは口を揃えて言う。どの傷も致命傷ではない、と。


 しかし、骨は折れ、関節は砕かれ、内側には深い衝撃の痕が残っている。


 治療を施せば、命は助かる。だが、立ち直れるかどうかは、まだ誰にも分からなかった。


 ルキアスは、廊下の中央で立ち止まり、負傷兵たちの顔を、一人ひとり、丁寧に見ていく。


 物心つく頃から、剣と魔法の稽古と共にあった。


 第一団の演習を幾度となく見学し、彼らの圧倒的な実力も鍛錬の厳しさも、身をもって知っている。


 ……王国最強の、剣と盾……か。


 実戦で押し込まれることはあっても、これほどまとめて、倒れ伏す姿を、ルキアスは一度も見たことがなかった。


 信じられない、という言葉すら、今は生ぬるく思える。


 それでも、頬が強張っていくのを感じながら、視線は逸らさない。


 王子の顔は、いつもの通りでなければならない。


 これが、結果だ。それを静かに受け入れる。


 彼は近衛騎士団長の名を呼ぼうとして、やめた。


 グラウ・アイゼン。その名は、ここにはない。


 死んだわけではないが、この区画のどこにもいなかった。


 それが、何よりも重い。彼がいたから、成立していた。彼がいたから、王女の命令は即座に刃となった。


 グラウの名を先に覚えたのは、妹のほうだった。


 演習を見終えた帰り道、まだ舌の回らない口で、あの人の名前を繰り返していた。


 その柱が、抜け落ちている。代わりなど、いない。


 医療区画を抜けると、仮設の指揮室が設けられていた。


 本来ならば会議室で行われるはずのやり取りが、今はここで行われている。


 机の上には書類が積まれ、そのすべてに、同じ言葉が並んでいた。


 暫定。暫定配置、暫定命令、暫定対応。


 ルキアスは、室内に立つアルティシアを見る。


 姿勢は正しく、表情も崩れていない……だが、その声はもう、場を動かしていなかった。


 「__次の部隊を、外縁へ」


 命令は出され、誰も反論しないのに、誰も即座には動かない。


 この命令を今ここで即座に飲み込めるかどうか、誰もが互いの顔色だけを窺っている。


 妹は、王女であり続けている。だが、今はもう、指揮官ではなくなっていた。


 国を憂う心と、妹を案じる心とが、腹の底で同じ重さになってせめぎ合う。


 「一度、外縁の配置を王都騎士団に任せよう」


 静かな声だったが、逆らいようのない強さを持っている。


 「負傷者の把握が先だ。暫定命令で部隊を動かす状況じゃない」


 アルティシアは黙ったまま、視線を伏せ、音も立てずに席につく。


 その動きは小さく、しかし、この部屋にいる全員が見ている。


 膝の上で重ねられた白い指先が、ほんの一瞬だけ強く握られ、それからまた、力なくほどけていく。


 ルキアスは、その仕草から目を離さない。


 王女となった妹がこれほどまでに小さく見えたことは、一度もない。


 結果として、王国は守られたが、今までの守り方は、もう使えない。


 この子が、自分で選べる場所まで戻す。それだけは、どうにかする。


 誰にも聞かせるつもりのない、その決意だけを、ルキアスは胸の奥深くへ、そっと仕舞い込む。


 表情には、何一つ出さない。兄としての焦りも、王子としての算段も、今はまだ、誰の目にも触れさせるべきではない。


 グラウが率いていた選抜部隊は、全員が生きている。それでいて、一人として動ける者はいなかった。


 暫定の判が押された書類が、また一つ机に積まれた。


 ルキアスは、そのインクが、まだ乾ききっていない紙の束を一枚めくり、すぐに戻した。


 窓の外へ目をやると、王都は平穏だった。


 *


 王女アルティシアの私室は、静かだった。


 外の喧騒は、厚い扉によって完全に遮られている。


 香の匂いも、揺れる灯りも、いつも通りで特に何かが変わったという様子はない。


 それなのに、この部屋にあるものすべてが、少しずつ、よそよそしく感じられる。


 アルティシアは、窓際に立ったまま動かなかった。


 頭は痛くないし、吐き気も眩暈もない。普段と、何も変わらない。


 本当に、自分は洗脳されているのだろうか。


 ゲドーマルの言葉が、何度も脳裏をよぎる中で、魔法が解けた感覚も解けていない感覚もない。


 もし、洗脳が本当なら、なぜ、何も感じられないのか。もし、嘘なら、なぜ、あの言葉を否定しきれないのか。


 アルティシアは、そっと胸元に手を当ててみたが、鼓動は規則正しく、感情も乱れてはいない。


 ……どこまでが、自分の意志だったのだろう。


 王国のため。正義のため。そう信じて全てを行ってきた。


 それが真実だと胸を張ることはもう出来ず、とはいえ、偽りだったと断言することも出来ない。


 自分を疑うことは、立っている場所ごと消えてしまうような感覚だった。


 考えれば考えるほど、視界も感覚も、すべてが遠くなっていく。


 アルティシアの指先が、自分の手の甲を押さえつけていた。気づけば、唇を噛んでいた。


 そうすることでしか、いま、確かに自分がここにいることを確認する術がなかった。


 自分が、信用できない。


 窓の外の光が、いつもより暗く見えた。それが、心の揺らぎのせいなのか、単なる曇り空のせいなのか、アルティシアには判別がつかなかった。


 ノックの音が、室内に響く。


 「失礼します」


 入ってきたハルは、いつも通りの軽い口調で、余計な気遣いはない。


 騎士団の状況、城内の再編。短く、必要なことだけを伝える。


 「……王子殿下が、こちらへ」


 アルティシアが頷くと同時に、彼女の視線が床に落ちた。


 それでも、身体は、いつも通りに、姿勢を正そうとしている。


 扉が、静かに開き、ルキアスが入ってくる。


 その姿が目に映ったとき、アルティシアの肩が、わずかに跳ねる。


 いつからか、その姿を見るたびに、まず考えることがあった。


 今、”王子”の前で、どう振る舞うべきか。王女として恥じない姿でいられているか。


 それは癖のように染みついた反応で、間違っているなどと思ったことはない。


 だが、彼の最初の一言が、彼女の空気を変えた。


 「……無事でよかった」


 確認でも、叱責でもない……王女に向けた言葉でも、なかった。


 昔と同じ声色、昔と同じ距離。それは、王子の声……などではなかった。


 胸の奥で、張り詰めていた何かが、音もなく緩む。


 気づいたときには、涙が頬を伝っていた。


 そこに在ったのは、”兄”だった。


 王女となってから、人前で泣いたことなど、これまでなかった。


 泣くという行為そのものが、立場として許されていないものだと、いつからか思い込んでいた。


 誰に禁じられたわけでもない。それでも、涙は弱さの証で、弱さを見せれば、そこに付け入られる。


 そう頑なに信じて、感情を胸の最奥へ押し込め続けてきた。


 それなのに、今、この瞬間、頬を伝う涙を、止めようという気が起きない。


 ……少しの間だけ……弱さを見せても、いいですか。


 「……私」


 言葉を選ぶのに、時間がかかる。


 「私が洗脳されていたって……言われたけれど……分からないの」


 涙を流したまま、ルキアスを見続ける。


 「何も、感じない……本当なのか、嘘なのか……どこまでが、私なのか……」


 ルキアスは、少しの間、アルティシアを見ている。


 そして、アルティシアの頬に流れる涙を指でそっと拭う。


 「分からないなら、今は決めなくていい」


 答えを与えないという選択。それは、命令よりも重い配慮だった。


 アルティシアの口角が、わずかに下がる。


 それまで焦点を失っていた目が、初めてルキアスを、ルキアスとして捉える。


 思い返せば、それはいつも、こうだった。


 幼い頃、転んで泣いていた自分の背を、黙って支えてくれた手があった。


 誰よりも早く駆けつけながら、決して答えを急かさなかった。


 ……いつだって、選ばせてくれた。


 王女としての務めに追われるようになってからも、その距離は変わらなかったはずなのに、いつからか、アルティシアのほうが、その手を遠ざけていた。


 ほかならぬ自分自身が、勝手に線を引いていた。


 ルキアスは、ただの一度も、その線を越えて踏み込んではこなかった。


 踏み込まないことこそが、彼なりの寄り添い方だったのだと、アルティシアは今になって、ようやく理解する。


 兄は、いつも、そこにいた。


 その事実が、今更のように、胸の奥深くへ、静かに広がっていく。


 今の自分は、王女として国を判断できる段階にない。


 立ち直った実感も、心を定めた自覚もない。それでも、その一点だけは、揺るがない。


 だが、先ほどまでのように、立ちすくみはしなかった。


 まだ何も選べていない……ただ、自分でも意外なことに、それだけは決まった。


 ゲドーマルのもとへ、行こう。


 その言葉が、静かに浮かんでいた。


 *


 隠れ家の寝室は、静かだった。


 外の月明かりが薄く差し込むだけで、部屋は暗い。


 古い木材の乾いた温もりと、窓の隙間から紛れ込んだ、草の青い匂いがある。


 床の上、茨木は濃褐色の直垂の裾を膝の下へ収め、手元の木刀を膝の上に乗せている。


 ヤスリをかける音は小さく、一定で、急ぐ様子もない。


 折れも欠けもしていない木刀を、ただ少しだけ整えている。


 それだけのことを、丁寧にやっている姿が、昔を思い出させる。


 ……サエさんたちと一緒に暮らしていた頃が、少し、懐かしい。


 ここに来るまで、ずっと一人だった。いや、正確には一人ではなかった。


 レオンがいて、ドゥールがいて、アウレオンがいて、そして、ハルがいた。


 それでも、ゲドーマルの隣に立ち続ける役目だけは、誰にも預けられなかった。


 今、こうして隣に、あの背中があるだけで、身体の芯にわだかまっていた強張りが、静かに抜けていく。


 守るべき人を守る役目を、独りで抱えなくていい。


 寝台では、ゲドーマルが眠っている。深くもなく、浅くもない眠りの中で、頭だけが、タマの膝の上に預けられている。


 タマは身じろぎもせず、その重さを受け止め、そっと髪を撫でることだけを、続けている。


 膝の上の温度が、少しずつ身体に染み込んでくる。


 茨木が、ちらりと視線を上げ、眠るゲドーマルを見て、ヤスリを動かす手が、一瞬だけ止まる。


 それから小さく息を吐いて、また手を動かす。


 「……随分と、信用されましたね」


 独り言のような声が、木を削る音の隙間に、静かに聞こえる。


 タマは、少しだけ視線をゲドーマルに落とす。


 「そう?」


 「ええ……お館様は、私の前でも、あまり眠りませんでしたから」


 その一言が、思いのほか、胸の奥深くまで届く。


 長く仕えてきたはずの茨木の前でさえ、ゲドーマルは易々と気を抜かなかった。


 それは、彼の在り方そのものだったのだろう。


 鬼の頭領として生きてきた歳月の中で、無防備な姿を晒すことが、どれほど重い意味を持つのか、タマには推し量ることしかできない。


 それでも、今、自分の膝の上には、その無防備な重みが、確かに預けられている。


 委ねられている……その重さが、膝から腿へ、ゆっくりと伝わってくる。


 タマは、少し困ったように笑う。腿が、痺れはじめている。


 「……疲れてたんだと思う」


 しばらく、木を削る音だけが続き、それが、ゆったりとした時間になっていく。


 やがて、タマが口を開く。


 「ねえ、茨木」


 「はい」


 「どうやって……来たの?」


 あの森で、ゲドーマルが名を呼んだ、たったそれだけで、道理も距離も飛び越えて、茨木は現れた。


 ただの奇跡と呼ぶには、あまりに安易な気がした。


 茨木は表情を変えず、ヤスリも止めない。


 「呼ばれたからです」


 タマは眉をひそめ、茨木を見る。


 「お館様に……呼ばれました」


 タマは、少し驚いたように目を瞬かせる。


 「でも……見つけられてなかったんでしょ?」


 「ええ」


 茨木はあっさりと、頷く。


 「斬られた瞬間に光の中へと消えて、呼ばれるまでは、どこをどれだけ探しても、氣も何も、感じませんでした」


 茨木が顔を上げ、タマの顔を見る。


 ヤスリの音が止まると、寝室には、外から差し込む薄い月の光と、ゲドーマルの静かな呼吸だけが残った。


 「ですが、呼ばれた瞬間に……お館様の存在を、はっきりと感じました」


 何かを確かめるように、あるいは自分自身に言い聞かせるように、続ける。


 「居場所も、距離も、世界の理も……関係ない」


 タマは、息を呑んだ。


 「……無茶だよ、それ」


 「でしょうね」


 茨木は、少しだけ口角を緩める。その表情が、どこか遠くを見ているように、タマには見えた。


 「ですが、お館様は、昔からそうでした。私は、ただそれに応えるのみ、です」


 ……確かに、世界の理を、守る側ではないよね。


 茨木は、削り終えた木刀を見下ろす。


 「……直りました」


 しばらく木刀を見つめてから、その表面を、形に沿って指で一度だけ撫でる。


 「どうせ作るのなら、もう少し、丁寧に作っていただきたいものです」


 そのまま、木刀を脇に置き、視線をゲドーマルへ向ける。


 「しかし……本当に、起きませんね」


 「起きないよ」


 タマは、ゲドーマルの髪を撫でながら、呟くように言った。


 髪の一房を指先で梳くたび、土の匂いに混じって、最近飲むようになった、あの少し甘い酒の残り香が微かに漂う。


 その匂いさえ、今は労わるように感じられた。


 角を戻し、氣を鎮め、それでもなお、消耗の色は、まだ全身に残っている。


 誰よりも重いものを、誰にも気づかれないように背負い続けてきた背中が、ここにある。


 もう、休ませてあげたい。これ以上、何も背負わせたくない。


 ……昔、サエさんがいなくなったあと。


 鬼の頭領として、守るべきものが増えるたび、その分だけ、ゲドーマル自身の何かが削られていくのを、タマは近くで見ていた。


 その時に、タマは、あの場所からいなくなった。


 次にまた何かが起きたとしても、今この瞬間だけは、彼から何も奪わせたくなかった。


 「今は、起こさない」


 茨木は、何も言わずに、ただ一度だけ頷く。


 寝室の空気が、ゆっくりと温まっていく。


 名前のつけようのない時間が、そこに満ちていた。


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