第21話 鬼神と盃
森には、歪な空気が漂っていた。
血と鉄、それに湿った土の匂いへ、肌をざらりと撫でていく不快な感触が、薄く混じり込んでくる。
ドゥールが手にしていた治癒の薬をレオンへ放り、自分はどこから取り出したのか、別の魔道具を握り直す。
レオンはそれを受け止めるなり、アウレオンの傷ついた腿へ振りかける。
ハルもその傍らへと身を寄せていき、タマはアウル=ヴェイルの手を握ったまま、じっと俺を見ている。
九つの尾が、アウル=ヴェイルを守るように、そっと巻きついていた。
アルティシアは膝をついたまま、ミルザへ顔を向けていた。
灰青の瞳に湛えられていた底の見えない静けさは、今はもう、どこにもない。
ミルザは喉の奥で、短く笑いながら、アルティシアにゆっくりとした足取りで近づく。
面白がっているようでいて、その黄金の瞳は、膝をついた王女を値踏みするように細められる。
「ねえ、王女さま」
アルティシアの前にしゃがみ込むと、指で彼女の顎を持ち上げる。
そして、平気で人の心を土足で踏みにじっていく声を出す。
「一緒にあれを殺そうよ。王国を守りたいんでしょ? だったら、今が最後のチャンスだ」
アルティシアは膝を地につけたまま、手だけが土を掴んだ状態で動かない。
灰青の瞳はミルザを映してはいたが、その焦点は、どこにも結ばれることはない。
やがて、救いを求めるような視線をグラウへと向ける。だが、グラウは地に伏したまま、ただ剣だけを握りしめていた。
答えを返せる状態では、ない。
その時、アルティシアの傍らに落ちていた魔道具へ、白い手が伸びる。
……まだそれに縋るの、か。
だが、その手は魔道具を掴まず、指先で静かに押しやった。
泥に汚れた道具が、乾いた音を立てて転がっていく。
ミルザが大袈裟にため息をつき、視線を茨木へと移した。
「ねえ、そこの”雌オーガ”」
まるで気のおけない友人へ声をかけるような、軽い調子で話しかける。
「いい線してるよ。こっちに来なよ。自由に暴れていい」
断られる可能性など、はなから考えてもいない口振りで、茨木を人差し指で手招きする。
だが、翻訳の指輪をつけていない茨木は首を傾げるばかりで、本気で周囲を見回す。
「不思議ですね……白灰色の天狗も、いるのですね」
通じていない。まったく、一言も通じていない。
ヤグは会話に加わろうとせず、視線だけを静かに動かす。
俺、アウル=ヴェイル、タマ、そして茨木へと、その目が順に、大きな変化もなしに流れていく。
「……面白い」
袖の中で親指と人差し指を擦りながら、そっと呟く。
ミルザの表情が、あからさまに歪み、額には青筋が浮いている。
「……聞いてる? 無視してるの?」
その声の苛立ちが、ちょうど頂点に達した瞬間、空間へ奇妙な模様が滲み出す。
ミルザの右手のメイスに刻まれた細い線、歪み、文字のような何か……が淡く光る。
意味も構造も何ひとつ掴めないのに、嫌な感触だけが、はっきりと伝わってくる。
だが、それは完成しない……するはずがない。
そんな、あからさまに怪しいものを放置するような”彼女”ではない。
茨木は、すでに消えていた。
白刃が閃光を放ち、鞘走る音だけが遅れて追いついてくる。
気づけば、ミルザの右腕が地面に落ちていた。
遅れて青い血が宙へ噴き上がり、メイスに浮かんでいた光の模様が、霧のように散って消えた。
ミルザは、自分の右腕の断面を見下ろしている。
黄金の瞳が大きく見開かれ、大きく開いた口が塞がらない。
「……は?」
声が掠れていた。痛みを受け取るための理解が、まだ追いついていない。
「……嘘だろ。僕の腕を……?」
噴き出す血がようやく視界に入ったその瞬間、ミルザの顔から笑みが完全に消え失せた。
「……ヤグ」
名を呼ぶ声が、震えている。
レオンがミルザに向けていた槍を下ろしながら、呆然と呟く。
「……さっきから、何をしているのか、何も見えない」
ハルはもはや呆れ顔で、肩を落としている。
「俺の見立て、当てにならないなあ……影で飯食ってる身としちゃ、立つ瀬がないね」
だが次の瞬間、空気が変わった。ミルザではない。ヤグでもない。
場そのものの重さが、根こそぎ別物へと塗り替えられていく。
振り返ったときには、もうそこに立っていた。
中性的な顔立ちに、重力へ逆らうことなく自然に落ちた、淡い銀灰色の髪。
濃灰の法衣に近い装束を纏い、手にしているのは、ミルザが手にしていたメイスにどこか似た、短槍とも錨ともつかぬ形をした何かで、その目の奥には、規則正しくも歪んだ揺らぎが宿っている。
「……若様……」
ミルザが、目を見開く。
その存在はミルザに目もくれず、まずアルティシアを見る。そして、すぐに興味を失ったように今度はアウル=ヴェイルに視線を動かす。
「……また天狗か」
俺の隣で、肩をすくめながら茨木が、ため息を大袈裟に吐いたあと、小さく呟いた。
「天狗ではない」
「では、何ですか」
改めて視る。分かるのは、こいつが他とは違うということだけだ。
「……知らん」
「では、ひとまず天狗でよろしいでしょう」
「よくはない」
だが、こいつは存在の密度が、異常だ。魔力が溢れているのではなく、むしろ逆。
そこに在るというだけで、周囲の世界の手応えそのものが、薄く削げ落ちていく。
グラウの額に冷や汗が滲み、地に伏したまま意識を残していた騎士の呼吸が、止まる。
アウレオンが額に浮いた脂汗を一度、腕で拭い、小さく呟く。
「この魔力……魔族でも、魔王に近い者だな」
瞳の虹彩には、ミルザたちが好んで使う、文字のような紋様の魔法と同じ流れが視える。
タマはアウル=ヴェイルを庇うように、傷だらけの身体を割り込ませる。
その視線がアウル=ヴェイルから、隣に立つタマに移る。
若様と呼ばれた男の手にある《錨》が、ごくわずかに傾く。
先端が向いた、それだけで、足元の土へ文字に似た紋様が浮かび上がり、根を伸ばすように地面を一息に駆けていく。
一つはタマの足元へ。一つはアルティシアの胸元へ。
……速い。
迷っている暇は、ない。線が届くより先に、右手を向ける。
小指の指輪へ、魔力を流す。
同時に親指の指輪が仄かな熱を持ち、魔力の揺れを、一本の流れへとなだめていく。
炎を生む必要は、ない。
眼に視えているのは、地を這う紋様の中で、他よりも魔力の薄い継ぎ目。
薪の中でも、ひときわ乾いて火の付きやすい一本を見分けるのと、同じ勘だ。
そこだけを炙れば、流れは膨らみ、隣り合う線同士の噛み合わせが狂うはず。
小指の先に、赤い光が灯る。
熱が糸のように細く絞られ、紋様の継ぎ目へ向かって走り出す。刹那、熱が右手から離れなくなった。
親指の指輪が、耳の奥まで届くほど甲高い音を立てる。
熱そのものは、確かに生まれている。だが小指から先へ抜けず、五本の指の間を行き場もなく巡り続けている。
視ると、ヤグの手にある薄い円盤から、細い流れが一本、こちらの右手まで伸びていた。
指輪から放とうとした魔力の道へ、横合いから別の線を噛ませている。
熱が外へ抜ける道を、静かに閉じられていた。
行き場を失った熱が右手の内側で渦を巻き、指輪の下の皮膚が、焼けたように痛む。
若様と呼ばれた男の紋様は、時をかけずに閉じていく。
九つの尾が、己の傷を隠すこともなく大きく開き、アウル=ヴェイルの細い身体を包み込んでいく。
「……タマ」
耳だけが、声にわずかに反応した。それでも、こちらを見ない。
見れば、腕の力が緩むとでも思っているのだろう。
視線は紋様の向こうにあるものへ向けたまま、傷ついた身体を、アウル=ヴェイルの前へ差し入れている。
ドゥールの手が工具ベルトへ走り、留め具が弾け、魔道具が引き抜かれる。
レオンの槍が、ハルの小太刀が、血の滲む脚で立ったアウレオンの剣が、同時に前を向く。
四人が、地を蹴ろうとした瞬間、その足元が、黒くなった。
ミルザの左手が、右腕の断面から離れている。押さえるものを失った断面から、青い血が噴き出す。
それでも指は止まらないまま、宙で、何かを編んでいる。
「……ねえ、君たちは、そこで見ててよ」
地面から夜が湧き上がるように、四人の周りだけ光が食われていく。
ドゥールの魔道具の輝きが、届く前に飲まれる。
「闇魔法だ! 足元から離れ__」
声の途中で、四人の姿が影の中へ沈む。
アルティシアの胸元へ真っ直ぐに伸びた紋様が、もう彼女に届く。
身体はひとつ、手は二本しかない。
俺がアルティシアへ眼を向けた、その時には、もう茨木の姿は隣になかった。
衣擦れの音すら残さず、アルティシアの前へ立っている。
鞘から刀身がわずかに覗き、細い光へ触れると、高い音が一つ鳴る。
光はアルティシアへ届く前に断ち切られ、細かな粒となって湿った土へ落ちていく。
茨木は振り返らない。
理由を尋ねることも、守る相手を選び直すこともなく、俺が眼を向けた者の前に、ただ立っている。
同時に、タマの足元へ伸びていた紋様が、一息に密度を増し、九つの尾へ絡みつく。
白銀の毛並みが大きく引かれ、細い身体が一度だけ、大きく沈む。
それでもタマは、膝をつかない。
軋むような重みに耐えながら、アウル=ヴェイルを抱く腕へ、なお力を込める。
タマの内側から、膨大な魔力が溢れ出す。
紋様を散らせてはいない。閉じようとする力へ、真正面から魔力を押し返している。
線の完成を、ほんのわずかだけ遅らせている。
だが、消せては、いない。
傷ついた身体ひとつで、己の分と、アウル=ヴェイルの分まで、ただ耐えている。
「本当に、お前は……」
ヤグの円盤へ伸びる流れを、深く視る。
指輪から火へ至る道の、もっとも狭い場所へ正確に入り込み、流れの向きを押さえ込んでいる。
解くなら、円盤の溝を一つずつずらし、流れを元へ戻せばいい。
だが、その間にも、タマの尾が一本、また一本と地面へ縫いつけられていく。
もう、丁寧に解いている暇は、ない。
木刀を握り直す。
表面へ氣を薄く沿わせようとして、その手を止めた。
薄くする必要も、線だけを狙う必要もない。
ヤグの円盤から指輪へ伸びる線、その周囲の魔力ごと、まとめて視る。
夏の夕立の直前、山の頂で空気が甘く重くなる、あの張り詰めた気配。
木刀の刀身に沿って、紫色の稲光が細い蛇のようにのたうち、空気を焼き切る。
「そこか」
木刀を振り抜く。
空気を斬っただけのはずの一撃が、森の奥まで届くほど重い音を響かせる。
氣が触れた場所の密度と流れをまとめて押し潰し、ヤグの魔法が形を保つために借りていた空間そのものを、横合いから抉り取る。
円盤の表面に刻まれた溝が一斉に光り、次の瞬間、中心から蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
閉じ込められていた熱が、堰を切ったように右手から噴き出す。
赤い火が木刀の周囲を一瞬だけ駆け抜け、そのまま若様の紋様へと流れ込む。
地面の下を走っていた紋様が揺らぎ、真っ直ぐに揃っていた文字の継ぎ目がずれ、引き裂かれた布のように左右へ分かれていく。
タマを縫い止めていた線が、一本、音もなく切れた。
ヤグの腕が、円盤ごと後ろへ弾かれる。初めて、その足が半歩だけ下がった。
俺は木刀を下ろさぬまま、散りかけた魔力の流れを視る。
「……人の火を止めるなら、もう少し離れてやれ」
木刀の表面では、押さえきれなかった氣が、紫の火花となって爆ぜ続けている。
肌を這っていた不快な圧が一度だけ緩んだ。
だが、消えてはいない。
散った文字は土の上で止まることなく向きを変え、再び互いを探し始めている。
背後で影が薄れ、四人が膝をつく音が重なる。
ドゥールが真っ先に顔を上げ、また魔道具へ手をかける。
タマはアウル=ヴェイルを抱いたまま、動かない。
少し離れた場所では、茨木がアルティシアを背に庇っている。
こちらが退けと言っても、誰一人として、自分の身を守る場所へは戻ろうとしないだろう。
敵は人の話を聞かず、味方は己の傷を数へ入れない。
奥歯の間から、低い声が漏れた。
「……どいつも、こいつも」
声を荒らげたつもりはなかった。
それでも足元の草が一斉に伏せ、木々の葉が、風もないのに細かく震えはじめる。
神眼が、この場の全部を一息に呑み込む。
若様、ヤグ、隻腕のまま尚もこちらを窺うミルザ、そしてまだ揺らいだままのアウル=ヴェイルの風。
若様の瞳がこちらを見ている。肌へ、見えない爪が立てられていくような感触が走る。
この身ひとつで、届く場所はいくつあっても足りはしない。
今の姿でも、一つなら止められる。二つでも、茨木となら届くだろう。
だが、誰か一人を守るたびに、別の誰かを諦めるような戦い方では、いつか必ず間に合わなくなる。
ならば、この場そのものを、俺の手が届く場所へ変えるしかない。
俺は腹の底で覚悟を決め、迷いを振り払うように深く息を吐き出す。
「……ここで終わらせよう」
一度、閉じた瞼をゆっくりと持ち上げ、それを口にすると、木刀を地面に突き刺す。
戦う覚悟などではなく、それはタマとの約束を反故にする覚悟。
タマを、視る。
目が合った瞬間、タマの瞳が揺れ、首を横に振る。小さく、だが、はっきりと。
「タマ……すまない」
「ダメ、外道丸」
その名が耳へ届いた瞬間、解きかけていたものが、一度だけ止まった。
鬼神でも、鬼でもない。
ずっと昔から、自分だけを指していた”名”。
「それでも……」
俺は目を伏せ、短く息を吐いた。
氣が、反転する。
身体の奥で押さえつけていたものが解き放たれ、静かにその形を変える。
存在の重さそのものが、変わりはじめていくと、頭に角が現れていくのがわかる。
その数は”五本”。
中央に太く長い角が一本、額の左右には前へ張り出す二本、頭の後方には短く鋭い二本。
根元は深い黒に、先端へ向かうほど滲むように、真紅へと色を変えていき、角が揃いきった瞬間、空気が焼け始める。
氣の密度が高すぎて、世界のほうがもう、耐えきれなくなっていた。
ミシミシと低く重い軋みが森の奥まで染み渡り、皮膚の表面を紫がかった閃きが這い回って、弾けては消え、また現れる。
音は遅れ、光が歪む。
右手を視ると、すでに先ほどの火傷も治っている。
タマの尾が一瞬だけ逆立ち、その呼吸が止まる。
レオンは息を呑んだきり、目を見開いたまま動けない。
ドゥールは直感で理解していた……これには触れてはいけない、と。
ハルからは、もはや乾いた笑いさえ出てこない。
ミルザの身体が後ろへ倒れかけ、残った左手が咄嗟に地面を支えるが、止まりかけていた血が、その拍子に改めて噴き出した。
状況が飲み込めず、きょとんとした表情で瞬きを繰り返す。
ヤグの表情と全身が石のように固まり、一歩、二歩と後ずさる。
錨を持った魔族の目が、見開かれた。
倒れていた近衛騎士たちは地を這うようにして身体を引きずり、俺から少しでも遠ざかろうとしている。
誰もが一様に顔を伏せ、視線を合わせようとしない。
アルティシアの動きが固まり、グラウですら、視線を地へ落としている。
茨木が、音もなく俺の前に立った。
「お館様、ここは……」
俺は黙って首を横に振り、その紅い瞳を視る。
「……茨木、大丈夫だ」
茨木が下唇を噛んだ。紅い瞳が揺れ、何かを言いかけて、止まる。
それでも頷きはしなかった。
刀の柄を握った指を解かぬまま、アルティシアとタマを順に見て、ようやく後ろへ一歩だけ下がる。
俺が一歩、前に出ると、草履が地を噛んだ瞬間、乾いた音とともに、紫色の細い稲妻が湿った土の上を走った。
落ち葉が灰へと変わり、枯れ枝が崩れ、湿っていたはずの地表が、見る間に白く乾いていく。
氣は地中を伝い、根を伝い、幹をのぼって、枝の先まで届く。
俺の歩いた跡をなぞるように、木々が狂い咲く。
春でもないのに白い花、赤い花、紫の花が次々と開いては、やがて自らの重みに耐えかね、花弁ごと地へ落ちていった。
生命を急かしてしまうほどの、密度。
世界が、俺という存在を持て余している。
「久しく忘れていた感覚だ」
低く、ゆっくりと声を出す。
「自分でも、どこまで制御できるか分からん」
錨を持った若様の目が、俺の動きを追っていた。
その身体は俺が進んだぶんだけ後ろへ下がり、それでも視線だけは、外さない。
「逃げるなら、今だぞ」
「……」
答えはなく、あったのは息を呑む音だけ。
その時、ヤグが腰の小袋から円盤状の魔道具を取り出すと、瞬時に判断を下し、そこへ魔力を込める。
魔道具が光を放ち、空気が一点へ歪むと、転移の光とともに、武装した魔族の一団が現れる。
数にして数十はいる。だが、その魔族たちもまた、現れた瞬間に動きを止める。
俺の姿を見たというより、この場に満ちた空気をまともに浴びせられたのだろう。
それぞれの足が一歩、後ろへ下がり、槍の穂先は揺れ、呼吸も浅くなり、視線が落ちていく。
中には膝を震わせはじめる者までいた。
ミルザが、メイスを捨てた左手で右腕の断面を押さえながら吠える。
「下がるな! 下がった奴から殺す!」
片腕を失った直後の、理性の端が崩れかけた叫び声で命令する。
武器を構える者、詠唱を始める者、それでも動けぬまま立ち尽くす者へと、魔族たちは分かれる。
やがて透明で強固な魔法障壁が全員の前へ張り巡らされ、その上に火炎の槍、水の槍、風の刃が、ずらりと並んだ。
数百もの魔法が、俺ひとりへ照準を合わせている。
空気の重さは本物で、これを正面から受けて無傷で済む存在は、この世界にもそう多くはあるまい。
レオンが、槍を持つ手に力を入れ、その一歩を踏み出そうとする。
ドゥールが魔道具へ魔力を注ぎ、ハルが小太刀を握り直す。
アウレオンは無理に立ち上がり、傷口から血が噴き出している。
タマが、視線をこちらへ向けたまま、彼らが動かぬよう手で制す。
「……動かないで」
下唇を噛み締め、九つの尾が縮こまっている。
四人が、動きを止めた。
俺は構えることもなく、ただ、魔族たちに問う。
「……会話する気のある者はいるか? 下がるなら見逃す」
声は静かに、森の奥まで届いていった……だが、魔族たちは応えない。
身体を震わせ、歯を食いしばり、それでも武器を下ろそうとはしない。
命令に、洗脳に、魔族としての矜持に、それぞれが、それぞれの何かに縛られている。
俺は待ってはみたが、ただのひとつの声も、返ってはこなかった。
「……そうか」
はぁ、と声になるほどのため息をひとつ吐いた。
「残念だ」
俺が右手を向けると、手のひらから湯気のような薄い揺らぎが漏れる。
氣が風に乗るように、前へと流れていく。
ひとつ目の障壁が、意味を失って、音を生むこともなく、ただ黙って散る。
ふたつ目も、同じく。みっつ目の途中で、もう障壁という言葉が、何ひとつ当てはまらなくなっていた。
並んでいた魔法の槍は宙でその形を保てなくなり、火も、水も、風も、消えてなくなる。
鎧が塵になり、槍の穂先が崩れ、剣の柄から先が、すっと掻き消えていく。
氣が通り抜けた線の中心から全方向へ紫電が走り、遅れて空気の爆ぜる音が届いた。
弾けた氣の圧が、魔族たちを後方へ吹き飛ばす。
先頭の者が次の列を巻き込み、さらに後ろの者までも、まとめて地面を転がっていった。
静かになった。立っている魔族は、もう一人もいない。
「……な、何が起こった?」
ミルザが悲鳴さえ出せずに顔を強張らせる。
残った左手で右腕の断面を押さえたままヤグを見たが、ヤグは答えなかった。
額に汗を滲ませたまま、ただ首をわずかに横へ振るだけで、声にならない。
若様の目が、初めて俺を正面から見据えた。
額から一筋の汗が頬を伝う。
その奥の揺らぎの中で、あの読めない紋様が、もう一度組み上がりはじめる。
一度止まっていたはずの構築が、また動き出す。
「……無駄だ」
俺は息を吐いた後、左腰の《終座》、その鞘へ左手を伸ばすと、右手で柄を握り、左手の親指で、鍔を静かに押し上げた。
切羽が離れ、カチリと小さく硬質な音が、波紋のように広がっていく。
身体の周りを走っていた紫の稲光が、一段、密度を増し、バリバリと、低く鳴り続けている。
その右手を、掴まれた。
漆黒の角を二本、頭に立てたまま、茨木の紅い瞳がこちらを見ている。
鬼化した茨木のその顔に怒りはなく、ただ静かに、はっきりと首を横に振った。
「お館様。それは……私の仕事です」
茨木は俺の手からそっと柄を離させ、前へ出た。
鞘に手をかけたまま、あの存在の正面へと立つ。
揺らぎが、茨木を捉えた。空間に浮かんでいた文字が密度を増し、今まさに完成へと向かおうとしている。
茨木が、音も出さずに鞘の中の刀へ氣を流し込む。
居合いの要領で空気を斬ると、紫の火花が茨木の全身からばりばりと弾け、氣が刀の向きに沿って、一直線に空間を走り抜け、斬撃となってあの存在を襲う。
宙の文字が揺れる。組み上がりかけていた構造が震え、歪み、その維持を失っていく。
完成するより先に、氣がその場の空気ごと、力の通り道を塗り潰した。
若様の目が、わずかに開かれたあと、ごくりと唾を飲み込む音が、静まり返った森に響いた。
ヤグが即座に動きを再開する。腰から転移の魔道具を取り出し、片腕を失ったミルザの肩を掴む。
「……これ以上は無意味だ」
若様は茨木から視線を外し、ヤグのほうを見て、静かに頷くと、すばやく踵を返す。
転移の光がヤグとミルザを包み込み、あの存在もまた、同じ光の中へと身を入れる。
光が消えると、魔族たちの気配が、同時に世界から消え去った。
森が静まり返る。
歪んでいた空気が元の重さを取り戻し、薄く削げ落ちていた世界の手応えが、ゆっくりと戻ってきた。
俺は、焦らず時間をかけて氣を収束させていく。
無理に抑え込むのではなく、焚き火の熾火に灰をそっと被せていくように、在るべき形へと戻していく。
角が消え、圧が抜けて、世界がふたたび俺を人として扱いはじめた。
だが、右手《終座》へ伸ばした、その手が震えていた。指の先が小刻みに揺れて、どうしても止まらない。
「外道丸……」
タマの声が、すぐ近くから聞こえた。いつのまにか、すぐ隣にいて、俺の直垂の袖に触れる。
「……大丈夫だ」
俺は震える手を自分の背に移し、タマから見えないよう隠す。
嘘はついていない。だが、すべてを伝えたわけでもなかった。
《終座》を抜こうとしたのが、不味かった。
茨木が戻ってきて、氣を鎮めると、角が消え、真紅の瞳も黒へと戻っていく。
いつもの、少しばかり口の悪い、見慣れた顔がそこに在る。
茨木は何も言わずに俺の腰に下げた徳利を取り、蓋を外すと、そのまま慣れた手つきで俺の口元へと当てた。
酒が、喉を通っていく。
いつもの味が舌に残る。慣れたわずかな甘みに溶けていくように、指の震えが少しずつ収まっていく。
茨木は徳利を戻しながら、短く言う。
「……飲み過ぎですよ」
文句か、それは。
「飲ませたのは、お前だろう」
「今のは薬です」
「なら、もう少し要る」
茨木は徳利の栓を閉めた。
「もう治りました」
「喉は渇いている」
「それは別の症状です」
タマが隣で小さく笑った。笑いながら、その目の縁が赤く滲んでいる。
そのまま耳と尾を隠し、いつもの冒険者の軽装へと姿を戻していく。
ノクティスが肩の上で安心したように、影の輪郭が緩む。
茨木がそれに気づき、不思議そうに指でつつく。
ノクティスが小さく威嚇すると、茨木の眉がわずかに上がった。
「……何ですか、この小さいの。塵塚怪王の親戚ですか」
「……闇精霊だ。ノクティスという」
「懐いてますね」
「まあな」
「……ふうん。後ほど、最初からご説明いただきます」
「長くなるぞ」
「私が探していた時間よりは、短いでしょう」
「……」
返す言葉が見つからなかった。
俺はドゥールたちを一瞬だけ視て、そのまま歩き出す。
「……行くぞ」
茨木が当然のように、俺の後ろへつく。
タマも一瞬だけドゥールたちへ目をやり、何か言おうと口を開きかけたが、結局は諦めて、すぐに俺の隣へ来た。
手のひらを、しっかりと握ってくる。
人の形をしたアウル=ヴェイルが、一歩、前へ出た。
言葉はないが、その視線だけがこちらを向いている。
「……好きにしろ」
アウル=ヴェイルの風がゆっくりとその輪郭をはっきりさせ、やがて水色の髪をした小さな子供の姿へと変わると、そのまま、タマの反対の手を握る。
レオンの視線がわずかに下がったが、すぐに前を向いて口を開く。
「……俺も行く」
アウレオンは短く頷いた。ドゥールは黙って装備を整え、ハルは肩をすくめる。
「今さら、戻る理由もないしね」
タマが込み上げる笑みを隠すように一瞬だけ下を向き、それから顔を上げて、明るい声で言う。
「とりあえず……隠れ家、かな」
誰も、反対しなかった。
「それなら、道はそっちじゃないよ」
足を止めると、後ろの茨木が小さく息を吐く。
「お館様は、知らない場所でも先頭を歩かれるのですね」
「……歩けば、いずれ着く」
「着かないから、止められているんです」
タマの後ろを歩く。それが、約束だ。道はタマが知っていればいい。
俺たちは、森の奥へと歩き出した。最後に一度だけ、風が吹いた。
*
残されたのは、アルティシアたちのみ。
目の前には倒れた近衛騎士たちと折れた剣が散らばり、グラウは地に伏したまま動かない。
見上げた空には、もう誰もいなかった。
アルティシアは立っていた。
膝はもう震えていない。土に触れていた指も、いつのまにか離れている。
気がついたときには、王女としての姿勢へと戻っていた。
背筋が伸び、肩が下がり、顎がわずかに上がる。
身体が、ひとりでに覚えている形を意識せずとも自然にとってしまう。
命令を発するための声が、喉の奥でつかえている。
いつもなら勝手に零れ出てくるはずの言葉が、今はひとつも浮かんでこない。
視線が、地に伏したまま、それでも剣だけは握りしめている男、グラウへと向く。
いつもなら先を促すように小さく頷いてくれるはずのその首は、今は動かない。
自分の足元だけが、まだそこに取り残されている。
指先に、土の感触が戻ってくる。
さきほど握りしめた土の湿り気が、まだ爪の中に残っていた。
汚れた手だった。
開いても、閉じても、それを拭ってくれるものは、誰もいない。
守られたのではない。選ばれなかったのだ。
その事実だけが、いつまでも、その場に残されていた。




