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第21話 鬼神と盃


 森には、歪な空気が漂っていた。


 血と鉄、それに湿った土の匂いへ、肌をざらりと撫でていく不快な感触が、薄く混じり込んでくる。


 ドゥールが手にしていた治癒の薬をレオンへ放り、自分はどこから取り出したのか、別の魔道具を握り直す。


 レオンはそれを受け止めるなり、アウレオンの傷ついた腿へ振りかける。


 ハルもその傍らへと身を寄せていき、タマはアウル=ヴェイルの手を握ったまま、じっと俺を見ている。

 

 九つの尾が、アウル=ヴェイルを守るように、そっと巻きついていた。


 アルティシアは膝をついたまま、ミルザへ顔を向けていた。


 灰青の瞳に湛えられていた底の見えない静けさは、今はもう、どこにもない。


 ミルザは喉の奥で、短く笑いながら、アルティシアにゆっくりとした足取りで近づく。


 面白がっているようでいて、その黄金の瞳は、膝をついた王女を値踏みするように細められる。


 「ねえ、王女さま」


 アルティシアの前にしゃがみ込むと、指で彼女の顎を持ち上げる。


 そして、平気で人の心を土足で踏みにじっていく声を出す。


 「一緒にあれを殺そうよ。王国を守りたいんでしょ? だったら、今が最後のチャンスだ」


 アルティシアは膝を地につけたまま、手だけが土を掴んだ状態で動かない。


 灰青の瞳はミルザを映してはいたが、その焦点は、どこにも結ばれることはない。


 やがて、救いを求めるような視線をグラウへと向ける。だが、グラウは地に伏したまま、ただ剣だけを握りしめていた。


 答えを返せる状態では、ない。


 その時、アルティシアの傍らに落ちていた魔道具へ、白い手が伸びる。


 ……まだそれに縋るの、か。


 だが、その手は魔道具を掴まず、指先で静かに押しやった。


 泥に汚れた道具が、乾いた音を立てて転がっていく。


 ミルザが大袈裟にため息をつき、視線を茨木へと移した。


 「ねえ、そこの”雌オーガ”」


 まるで気のおけない友人へ声をかけるような、軽い調子で話しかける。


 「いい線してるよ。こっちに来なよ。自由に暴れていい」


 断られる可能性など、はなから考えてもいない口振りで、茨木を人差し指で手招きする。


 だが、翻訳の指輪をつけていない茨木は首を傾げるばかりで、本気で周囲を見回す。


 「不思議ですね……白灰色の天狗も、いるのですね」


 通じていない。まったく、一言も通じていない。 


 ヤグは会話に加わろうとせず、視線だけを静かに動かす。


 俺、アウル=ヴェイル、タマ、そして茨木へと、その目が順に、大きな変化もなしに流れていく。


 「……面白い」


 袖の中で親指と人差し指を擦りながら、そっと呟く。


 ミルザの表情が、あからさまに歪み、額には青筋が浮いている。


 「……聞いてる? 無視してるの?」


 その声の苛立ちが、ちょうど頂点に達した瞬間、空間へ奇妙な模様が滲み出す。


 ミルザの右手のメイスに刻まれた細い線、歪み、文字のような何か……が淡く光る。


 意味も構造も何ひとつ掴めないのに、嫌な感触だけが、はっきりと伝わってくる。


 だが、それは完成しない……するはずがない。


 そんな、あからさまに怪しいものを放置するような”彼女”ではない。


 茨木は、すでに消えていた。


 白刃が閃光を放ち、鞘走る音だけが遅れて追いついてくる。


 気づけば、ミルザの右腕が地面に落ちていた。


 遅れて青い血が宙へ噴き上がり、メイスに浮かんでいた光の模様が、霧のように散って消えた。


 ミルザは、自分の右腕の断面を見下ろしている。


 黄金の瞳が大きく見開かれ、大きく開いた口が塞がらない。


 「……は?」


 声が掠れていた。痛みを受け取るための理解が、まだ追いついていない。


 「……嘘だろ。僕の腕を……?」


 噴き出す血がようやく視界に入ったその瞬間、ミルザの顔から笑みが完全に消え失せた。


 「……ヤグ」


 名を呼ぶ声が、震えている。


 レオンがミルザに向けていた槍を下ろしながら、呆然と呟く。


 「……さっきから、何をしているのか、何も見えない」


 ハルはもはや呆れ顔で、肩を落としている。


 「俺の見立て、当てにならないなあ……影で飯食ってる身としちゃ、立つ瀬がないね」


 だが次の瞬間、空気が変わった。ミルザではない。ヤグでもない。


 場そのものの重さが、根こそぎ別物へと塗り替えられていく。


 振り返ったときには、もうそこに立っていた。


 中性的な顔立ちに、重力へ逆らうことなく自然に落ちた、淡い銀灰色の髪。


 濃灰の法衣に近い装束を纏い、手にしているのは、ミルザが手にしていたメイスにどこか似た、短槍とも錨ともつかぬ形をした何かで、その目の奥には、規則正しくも歪んだ揺らぎが宿っている。


 「……若様……」


 ミルザが、目を見開く。


 その存在はミルザに目もくれず、まずアルティシアを見る。そして、すぐに興味を失ったように今度はアウル=ヴェイルに視線を動かす。


 「……また天狗か」


 俺の隣で、肩をすくめながら茨木が、ため息を大袈裟に吐いたあと、小さく呟いた。


 「天狗ではない」


 「では、何ですか」


 改めて視る。分かるのは、こいつが他とは違うということだけだ。


 「……知らん」


 「では、ひとまず天狗でよろしいでしょう」


 「よくはない」


 だが、こいつは存在の密度が、異常だ。魔力が溢れているのではなく、むしろ逆。


 そこに在るというだけで、周囲の世界の手応えそのものが、薄く削げ落ちていく。


 グラウの額に冷や汗が滲み、地に伏したまま意識を残していた騎士の呼吸が、止まる。


 アウレオンが額に浮いた脂汗を一度、腕で拭い、小さく呟く。


 「この魔力……魔族でも、魔王に近い者だな」


 瞳の虹彩には、ミルザたちが好んで使う、文字のような紋様の魔法と同じ流れが視える。


 タマはアウル=ヴェイルを庇うように、傷だらけの身体を割り込ませる。


 その視線がアウル=ヴェイルから、隣に立つタマに移る。


 若様と呼ばれた男の手にある《錨》が、ごくわずかに傾く。


 先端が向いた、それだけで、足元の土へ文字に似た紋様が浮かび上がり、根を伸ばすように地面を一息に駆けていく。


 一つはタマの足元へ。一つはアルティシアの胸元へ。


 ……速い。


 迷っている暇は、ない。線が届くより先に、右手を向ける。


 小指の指輪へ、魔力を流す。


 同時に親指の指輪が仄かな熱を持ち、魔力の揺れを、一本の流れへとなだめていく。


 炎を生む必要は、ない。


 眼に視えているのは、地を這う紋様の中で、他よりも魔力の薄い継ぎ目。


 薪の中でも、ひときわ乾いて火の付きやすい一本を見分けるのと、同じ勘だ。


 そこだけを炙れば、流れは膨らみ、隣り合う線同士の噛み合わせが狂うはず。


 小指の先に、赤い光が灯る。


 熱が糸のように細く絞られ、紋様の継ぎ目へ向かって走り出す。刹那、熱が右手から離れなくなった。


 親指の指輪が、耳の奥まで届くほど甲高い音を立てる。


 熱そのものは、確かに生まれている。だが小指から先へ抜けず、五本の指の間を行き場もなく巡り続けている。


 視ると、ヤグの手にある薄い円盤から、細い流れが一本、こちらの右手まで伸びていた。


 指輪から放とうとした魔力の道へ、横合いから別の線を噛ませている。


 熱が外へ抜ける道を、静かに閉じられていた。


 行き場を失った熱が右手の内側で渦を巻き、指輪の下の皮膚が、焼けたように痛む。


 若様と呼ばれた男の紋様は、時をかけずに閉じていく。


 九つの尾が、己の傷を隠すこともなく大きく開き、アウル=ヴェイルの細い身体を包み込んでいく。


 「……タマ」


 耳だけが、声にわずかに反応した。それでも、こちらを見ない。


 見れば、腕の力が緩むとでも思っているのだろう。


 視線は紋様の向こうにあるものへ向けたまま、傷ついた身体を、アウル=ヴェイルの前へ差し入れている。


 ドゥールの手が工具ベルトへ走り、留め具が弾け、魔道具が引き抜かれる。


 レオンの槍が、ハルの小太刀が、血の滲む脚で立ったアウレオンの剣が、同時に前を向く。


 四人が、地を蹴ろうとした瞬間、その足元が、黒くなった。


 ミルザの左手が、右腕の断面から離れている。押さえるものを失った断面から、青い血が噴き出す。


 それでも指は止まらないまま、宙で、何かを編んでいる。


 「……ねえ、君たちは、そこで見ててよ」


 地面から夜が湧き上がるように、四人の周りだけ光が食われていく。


 ドゥールの魔道具の輝きが、届く前に飲まれる。


 「闇魔法だ! 足元から離れ__」


 声の途中で、四人の姿が影の中へ沈む。


 アルティシアの胸元へ真っ直ぐに伸びた紋様が、もう彼女に届く。


 身体はひとつ、手は二本しかない。


 俺がアルティシアへ眼を向けた、その時には、もう茨木の姿は隣になかった。


 衣擦れの音すら残さず、アルティシアの前へ立っている。


 鞘から刀身がわずかに覗き、細い光へ触れると、高い音が一つ鳴る。


 光はアルティシアへ届く前に断ち切られ、細かな粒となって湿った土へ落ちていく。


 茨木は振り返らない。


 理由を尋ねることも、守る相手を選び直すこともなく、俺が眼を向けた者の前に、ただ立っている。


 同時に、タマの足元へ伸びていた紋様が、一息に密度を増し、九つの尾へ絡みつく。


 白銀の毛並みが大きく引かれ、細い身体が一度だけ、大きく沈む。


 それでもタマは、膝をつかない。


 軋むような重みに耐えながら、アウル=ヴェイルを抱く腕へ、なお力を込める。


 タマの内側から、膨大な魔力が溢れ出す。


 紋様を散らせてはいない。閉じようとする力へ、真正面から魔力を押し返している。


 線の完成を、ほんのわずかだけ遅らせている。


 だが、消せては、いない。


 傷ついた身体ひとつで、己の分と、アウル=ヴェイルの分まで、ただ耐えている。


 「本当に、お前は……」


 ヤグの円盤へ伸びる流れを、深く視る。


 指輪から火へ至る道の、もっとも狭い場所へ正確に入り込み、流れの向きを押さえ込んでいる。


 解くなら、円盤の溝を一つずつずらし、流れを元へ戻せばいい。


 だが、その間にも、タマの尾が一本、また一本と地面へ縫いつけられていく。


 もう、丁寧に解いている暇は、ない。


 木刀を握り直す。


 表面へ氣を薄く沿わせようとして、その手を止めた。


 薄くする必要も、線だけを狙う必要もない。


 ヤグの円盤から指輪へ伸びる線、その周囲の魔力ごと、まとめて視る。


 夏の夕立の直前、山の頂で空気が甘く重くなる、あの張り詰めた気配。


 木刀の刀身に沿って、紫色の稲光が細い蛇のようにのたうち、空気を焼き切る。


 「そこか」


 木刀を振り抜く。


 空気を斬っただけのはずの一撃が、森の奥まで届くほど重い音を響かせる。


 氣が触れた場所の密度と流れをまとめて押し潰し、ヤグの魔法が形を保つために借りていた空間そのものを、横合いから抉り取る。


 円盤の表面に刻まれた溝が一斉に光り、次の瞬間、中心から蜘蛛の巣のような亀裂が走る。


 閉じ込められていた熱が、堰を切ったように右手から噴き出す。


 赤い火が木刀の周囲を一瞬だけ駆け抜け、そのまま若様の紋様へと流れ込む。


 地面の下を走っていた紋様が揺らぎ、真っ直ぐに揃っていた文字の継ぎ目がずれ、引き裂かれた布のように左右へ分かれていく。


 タマを縫い止めていた線が、一本、音もなく切れた。


 ヤグの腕が、円盤ごと後ろへ弾かれる。初めて、その足が半歩だけ下がった。


 俺は木刀を下ろさぬまま、散りかけた魔力の流れを視る。


 「……人の火を止めるなら、もう少し離れてやれ」


 木刀の表面では、押さえきれなかった氣が、紫の火花となって爆ぜ続けている。


 肌を這っていた不快な圧が一度だけ緩んだ。


 だが、消えてはいない。


 散った文字は土の上で止まることなく向きを変え、再び互いを探し始めている。


 背後で影が薄れ、四人が膝をつく音が重なる。


 ドゥールが真っ先に顔を上げ、また魔道具へ手をかける。


 タマはアウル=ヴェイルを抱いたまま、動かない。


 少し離れた場所では、茨木がアルティシアを背に庇っている。


 こちらが退けと言っても、誰一人として、自分の身を守る場所へは戻ろうとしないだろう。


 敵は人の話を聞かず、味方は己の傷を数へ入れない。


 奥歯の間から、低い声が漏れた。


 「……どいつも、こいつも」


 声を荒らげたつもりはなかった。


 それでも足元の草が一斉に伏せ、木々の葉が、風もないのに細かく震えはじめる。


 神眼が、この場の全部を一息に呑み込む。


 若様、ヤグ、隻腕のまま尚もこちらを窺うミルザ、そしてまだ揺らいだままのアウル=ヴェイルの風。


 若様の瞳がこちらを見ている。肌へ、見えない爪が立てられていくような感触が走る。


 この身ひとつで、届く場所はいくつあっても足りはしない。


 今の姿でも、一つなら止められる。二つでも、茨木となら届くだろう。


 だが、誰か一人を守るたびに、別の誰かを諦めるような戦い方では、いつか必ず間に合わなくなる。


 ならば、この場そのものを、俺の手が届く場所へ変えるしかない。


 俺は腹の底で覚悟を決め、迷いを振り払うように深く息を吐き出す。


 「……ここで終わらせよう」


 一度、閉じた瞼をゆっくりと持ち上げ、それを口にすると、木刀を地面に突き刺す。


 戦う覚悟などではなく、それはタマとの約束を反故にする覚悟。


 タマを、視る。


 目が合った瞬間、タマの瞳が揺れ、首を横に振る。小さく、だが、はっきりと。


 「タマ……すまない」


 「ダメ、外道丸」


 その名が耳へ届いた瞬間、解きかけていたものが、一度だけ止まった。


 鬼神でも、鬼でもない。


 ずっと昔から、自分だけを指していた”名”。


 「それでも……」


 俺は目を伏せ、短く息を吐いた。


 氣が、反転する。


 身体の奥で押さえつけていたものが解き放たれ、静かにその形を変える。


 存在の重さそのものが、変わりはじめていくと、頭に角が現れていくのがわかる。


 その数は”五本”。


 中央に太く長い角が一本、額の左右には前へ張り出す二本、頭の後方には短く鋭い二本。


 根元は深い黒に、先端へ向かうほど滲むように、真紅へと色を変えていき、角が揃いきった瞬間、空気が焼け始める。


 氣の密度が高すぎて、世界のほうがもう、耐えきれなくなっていた。


 ミシミシと低く重い軋みが森の奥まで染み渡り、皮膚の表面を紫がかった閃きが這い回って、弾けては消え、また現れる。


 音は遅れ、光が歪む。


 右手を視ると、すでに先ほどの火傷も治っている。


 タマの尾が一瞬だけ逆立ち、その呼吸が止まる。


 レオンは息を呑んだきり、目を見開いたまま動けない。


 ドゥールは直感で理解していた……これには触れてはいけない、と。


 ハルからは、もはや乾いた笑いさえ出てこない。


 ミルザの身体が後ろへ倒れかけ、残った左手が咄嗟に地面を支えるが、止まりかけていた血が、その拍子に改めて噴き出した。


 状況が飲み込めず、きょとんとした表情で瞬きを繰り返す。


 ヤグの表情と全身が石のように固まり、一歩、二歩と後ずさる。


 錨を持った魔族の目が、見開かれた。


 倒れていた近衛騎士たちは地を這うようにして身体を引きずり、俺から少しでも遠ざかろうとしている。


 誰もが一様に顔を伏せ、視線を合わせようとしない。


 アルティシアの動きが固まり、グラウですら、視線を地へ落としている。


 茨木が、音もなく俺の前に立った。


 「お館様、ここは……」


 俺は黙って首を横に振り、その紅い瞳を視る。


 「……茨木、大丈夫だ」


 茨木が下唇を噛んだ。紅い瞳が揺れ、何かを言いかけて、止まる。


 それでも頷きはしなかった。


 刀の柄を握った指を解かぬまま、アルティシアとタマを順に見て、ようやく後ろへ一歩だけ下がる。


 俺が一歩、前に出ると、草履が地を噛んだ瞬間、乾いた音とともに、紫色の細い稲妻が湿った土の上を走った。


 落ち葉が灰へと変わり、枯れ枝が崩れ、湿っていたはずの地表が、見る間に白く乾いていく。


 氣は地中を伝い、根を伝い、幹をのぼって、枝の先まで届く。


 俺の歩いた跡をなぞるように、木々が狂い咲く。


 春でもないのに白い花、赤い花、紫の花が次々と開いては、やがて自らの重みに耐えかね、花弁ごと地へ落ちていった。


 生命を急かしてしまうほどの、密度。


 世界が、俺という存在を持て余している。


 「久しく忘れていた感覚だ」


 低く、ゆっくりと声を出す。


 「自分でも、どこまで制御できるか分からん」


 錨を持った若様の目が、俺の動きを追っていた。


 その身体は俺が進んだぶんだけ後ろへ下がり、それでも視線だけは、外さない。


 「逃げるなら、今だぞ」


 「……」


 答えはなく、あったのは息を呑む音だけ。


 その時、ヤグが腰の小袋から円盤状の魔道具を取り出すと、瞬時に判断を下し、そこへ魔力を込める。


 魔道具が光を放ち、空気が一点へ歪むと、転移の光とともに、武装した魔族の一団が現れる。


 数にして数十はいる。だが、その魔族たちもまた、現れた瞬間に動きを止める。


 俺の姿を見たというより、この場に満ちた空気をまともに浴びせられたのだろう。


 それぞれの足が一歩、後ろへ下がり、槍の穂先は揺れ、呼吸も浅くなり、視線が落ちていく。


 中には膝を震わせはじめる者までいた。


 ミルザが、メイスを捨てた左手で右腕の断面を押さえながら吠える。


 「下がるな! 下がった奴から殺す!」


 片腕を失った直後の、理性の端が崩れかけた叫び声で命令する。


 武器を構える者、詠唱を始める者、それでも動けぬまま立ち尽くす者へと、魔族たちは分かれる。


 やがて透明で強固な魔法障壁が全員の前へ張り巡らされ、その上に火炎の槍、水の槍、風の刃が、ずらりと並んだ。


 数百もの魔法が、俺ひとりへ照準を合わせている。


 空気の重さは本物で、これを正面から受けて無傷で済む存在は、この世界にもそう多くはあるまい。


 レオンが、槍を持つ手に力を入れ、その一歩を踏み出そうとする。


 ドゥールが魔道具へ魔力を注ぎ、ハルが小太刀を握り直す。


 アウレオンは無理に立ち上がり、傷口から血が噴き出している。


 タマが、視線をこちらへ向けたまま、彼らが動かぬよう手で制す。


 「……動かないで」


 下唇を噛み締め、九つの尾が縮こまっている。


 四人が、動きを止めた。


 俺は構えることもなく、ただ、魔族たちに問う。


 「……会話する気のある者はいるか? 下がるなら見逃す」


 声は静かに、森の奥まで届いていった……だが、魔族たちは応えない。


 身体を震わせ、歯を食いしばり、それでも武器を下ろそうとはしない。


 命令に、洗脳に、魔族としての矜持に、それぞれが、それぞれの何かに縛られている。


 俺は待ってはみたが、ただのひとつの声も、返ってはこなかった。


 「……そうか」


 はぁ、と声になるほどのため息をひとつ吐いた。


 「残念だ」


 俺が右手を向けると、手のひらから湯気のような薄い揺らぎが漏れる。


 氣が風に乗るように、前へと流れていく。


 ひとつ目の障壁が、意味を失って、音を生むこともなく、ただ黙って散る。


 ふたつ目も、同じく。みっつ目の途中で、もう障壁という言葉が、何ひとつ当てはまらなくなっていた。


 並んでいた魔法の槍は宙でその形を保てなくなり、火も、水も、風も、消えてなくなる。


 鎧が塵になり、槍の穂先が崩れ、剣の柄から先が、すっと掻き消えていく。


 氣が通り抜けた線の中心から全方向へ紫電が走り、遅れて空気の爆ぜる音が届いた。


 弾けた氣の圧が、魔族たちを後方へ吹き飛ばす。


 先頭の者が次の列を巻き込み、さらに後ろの者までも、まとめて地面を転がっていった。


 静かになった。立っている魔族は、もう一人もいない。


 「……な、何が起こった?」


 ミルザが悲鳴さえ出せずに顔を強張らせる。


 残った左手で右腕の断面を押さえたままヤグを見たが、ヤグは答えなかった。


 額に汗を滲ませたまま、ただ首をわずかに横へ振るだけで、声にならない。


 若様の目が、初めて俺を正面から見据えた。


 額から一筋の汗が頬を伝う。


 その奥の揺らぎの中で、あの読めない紋様が、もう一度組み上がりはじめる。


 一度止まっていたはずの構築が、また動き出す。


 「……無駄だ」


 俺は息を吐いた後、左腰の《終座》、その鞘へ左手を伸ばすと、右手で柄を握り、左手の親指で、鍔を静かに押し上げた。


 切羽が離れ、カチリと小さく硬質な音が、波紋のように広がっていく。


 身体の周りを走っていた紫の稲光が、一段、密度を増し、バリバリと、低く鳴り続けている。


 その右手を、掴まれた。


 漆黒の角を二本、頭に立てたまま、茨木の紅い瞳がこちらを見ている。


 鬼化した茨木のその顔に怒りはなく、ただ静かに、はっきりと首を横に振った。


 「お館様。それは……私の仕事です」


 茨木は俺の手からそっと柄を離させ、前へ出た。


 鞘に手をかけたまま、あの存在の正面へと立つ。


 揺らぎが、茨木を捉えた。空間に浮かんでいた文字が密度を増し、今まさに完成へと向かおうとしている。


 茨木が、音も出さずに鞘の中の刀へ氣を流し込む。


 居合いの要領で空気を斬ると、紫の火花が茨木の全身からばりばりと弾け、氣が刀の向きに沿って、一直線に空間を走り抜け、斬撃となってあの存在を襲う。


 宙の文字が揺れる。組み上がりかけていた構造が震え、歪み、その維持を失っていく。


 完成するより先に、氣がその場の空気ごと、力の通り道を塗り潰した。


 若様の目が、わずかに開かれたあと、ごくりと唾を飲み込む音が、静まり返った森に響いた。


 ヤグが即座に動きを再開する。腰から転移の魔道具を取り出し、片腕を失ったミルザの肩を掴む。


 「……これ以上は無意味だ」


 若様は茨木から視線を外し、ヤグのほうを見て、静かに頷くと、すばやく踵を返す。


 転移の光がヤグとミルザを包み込み、あの存在もまた、同じ光の中へと身を入れる。


 光が消えると、魔族たちの気配が、同時に世界から消え去った。


 森が静まり返る。


 歪んでいた空気が元の重さを取り戻し、薄く削げ落ちていた世界の手応えが、ゆっくりと戻ってきた。


 俺は、焦らず時間をかけて氣を収束させていく。


 無理に抑え込むのではなく、焚き火の熾火に灰をそっと被せていくように、在るべき形へと戻していく。


 角が消え、圧が抜けて、世界がふたたび俺を人として扱いはじめた。


 だが、右手《終座》へ伸ばした、その手が震えていた。指の先が小刻みに揺れて、どうしても止まらない。


 「外道丸……」


 タマの声が、すぐ近くから聞こえた。いつのまにか、すぐ隣にいて、俺の直垂の袖に触れる。


 「……大丈夫だ」


 俺は震える手を自分の背に移し、タマから見えないよう隠す。


 嘘はついていない。だが、すべてを伝えたわけでもなかった。


 《終座》を抜こうとしたのが、不味かった。


 茨木が戻ってきて、氣を鎮めると、角が消え、真紅の瞳も黒へと戻っていく。


 いつもの、少しばかり口の悪い、見慣れた顔がそこに在る。


 茨木は何も言わずに俺の腰に下げた徳利を取り、蓋を外すと、そのまま慣れた手つきで俺の口元へと当てた。


 酒が、喉を通っていく。


 いつもの味が舌に残る。慣れたわずかな甘みに溶けていくように、指の震えが少しずつ収まっていく。


 茨木は徳利を戻しながら、短く言う。


 「……飲み過ぎですよ」


 文句か、それは。


 「飲ませたのは、お前だろう」


 「今のは薬です」


 「なら、もう少し要る」


 茨木は徳利の栓を閉めた。


 「もう治りました」


 「喉は渇いている」


 「それは別の症状です」


 タマが隣で小さく笑った。笑いながら、その目の縁が赤く滲んでいる。


 そのまま耳と尾を隠し、いつもの冒険者の軽装へと姿を戻していく。


 ノクティスが肩の上で安心したように、影の輪郭が緩む。


 茨木がそれに気づき、不思議そうに指でつつく。


 ノクティスが小さく威嚇すると、茨木の眉がわずかに上がった。


 「……何ですか、この小さいの。塵塚怪王(ちりづかかいおう)の親戚ですか」


 「……闇精霊だ。ノクティスという」


 「懐いてますね」


 「まあな」


 「……ふうん。後ほど、最初からご説明いただきます」


 「長くなるぞ」


 「私が探していた時間よりは、短いでしょう」


 「……」


 返す言葉が見つからなかった。


 俺はドゥールたちを一瞬だけ視て、そのまま歩き出す。


 「……行くぞ」


 茨木が当然のように、俺の後ろへつく。


 タマも一瞬だけドゥールたちへ目をやり、何か言おうと口を開きかけたが、結局は諦めて、すぐに俺の隣へ来た。


 手のひらを、しっかりと握ってくる。


 人の形をしたアウル=ヴェイルが、一歩、前へ出た。


 言葉はないが、その視線だけがこちらを向いている。


 「……好きにしろ」


 アウル=ヴェイルの風がゆっくりとその輪郭をはっきりさせ、やがて水色の髪をした小さな子供の姿へと変わると、そのまま、タマの反対の手を握る。


 レオンの視線がわずかに下がったが、すぐに前を向いて口を開く。


 「……俺も行く」


 アウレオンは短く頷いた。ドゥールは黙って装備を整え、ハルは肩をすくめる。


 「今さら、戻る理由もないしね」


 タマが込み上げる笑みを隠すように一瞬だけ下を向き、それから顔を上げて、明るい声で言う。


 「とりあえず……隠れ家、かな」


 誰も、反対しなかった。


 「それなら、道はそっちじゃないよ」


 足を止めると、後ろの茨木が小さく息を吐く。


 「お館様は、知らない場所でも先頭を歩かれるのですね」


 「……歩けば、いずれ着く」


 「着かないから、止められているんです」


 タマの後ろを歩く。それが、約束だ。道はタマが知っていればいい。


 俺たちは、森の奥へと歩き出した。最後に一度だけ、風が吹いた。


 *


 残されたのは、アルティシアたちのみ。


 目の前には倒れた近衛騎士たちと折れた剣が散らばり、グラウは地に伏したまま動かない。


 見上げた空には、もう誰もいなかった。


 アルティシアは立っていた。


 膝はもう震えていない。土に触れていた指も、いつのまにか離れている。


 気がついたときには、王女としての姿勢へと戻っていた。


 背筋が伸び、肩が下がり、顎がわずかに上がる。


 身体が、ひとりでに覚えている形を意識せずとも自然にとってしまう。


 命令を発するための声が、喉の奥でつかえている。


 いつもなら勝手に零れ出てくるはずの言葉が、今はひとつも浮かんでこない。


 視線が、地に伏したまま、それでも剣だけは握りしめている男、グラウへと向く。


 いつもなら先を促すように小さく頷いてくれるはずのその首は、今は動かない。


 自分の足元だけが、まだそこに取り残されている。


 指先に、土の感触が戻ってくる。


 さきほど握りしめた土の湿り気が、まだ爪の中に残っていた。


 汚れた手だった。


 開いても、閉じても、それを拭ってくれるものは、誰もいない。


 守られたのではない。選ばれなかったのだ。


 その事実だけが、いつまでも、その場に残されていた。


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