第1話 斬られた鬼は目を覚ます
眼を覚ました、というよりも、意識を取り戻した、というほうが近かった。
まぶたの裏を透かして、白く滲む眩しさが差し込んでくる。
あれは、つい先ほどのことのように思える……実際にどれほど時が経ったのかは、分からないが。
ただ、斬られたと思った瞬間に感じた優しい光とは違う、普通の陽の光がそこにはあった。
次に、経験したことのない匂いが鼻の奥を撫でる。
丹波の山で嗅ぎ慣れてきた、草の青さも付き合いの長い土の匂いも、ここにはない。
長く生きているが、風の乾き方も、吹き方も、何もかもが記憶にない、初めてのものだ。
……生きている、のか……それとも。
毒に侵されて動かなくなったはずの手が、地面を掴んでいる。
柔らかく、冷たい土の感触が、確かに手のひらへ返ってくる。
死んだ者にこんな感触は必要ない、はずだ……おそらく、だが。
身体を起こし、視線を巡らせると、視たことのない草がこちらを囲んでいる。
森の中、この一角だけ木々が疎らで、頭上がぽっかりと開けている。
雲が一度だけ切れ、空気が澄んだ。
陽の光とは違う、あの柔らかい輝きが差し込んで、地面と俺の身体を等しく照らす。
……知らぬ光だ。だが、なぜか、拒む気にはなれない。
不意に、脳裏に、あの瞬間が蘇る。
歯を食いしばり、刀の柄を握りしめたまま、退がろうとしなかった女の顔。
血に濡れた濃褐色の直垂の袖。
「茨木!」
声にした途端、喉の奥が引き攣った。
叫びは空に消え、誰も、何も、答えない。
知らない土地の、知らない風だけが、返ってくる。
もう一度、辺りを見回すが、最後まで俺のために刀を振るっていたはずの茨木の姿は、どこにもない。
首元に手をやると、斬り下ろされたはずのその場所には、痛みも、裂けた感触も、何一つ残っていない。
見下ろせば、いつも纏っている濃い墨色の直垂に、破れひとつない。華美さを排除した、無骨な実戦の仕立てがそこにある。
袖を通した感触も、いつもと変わらない。
邪魔だと文句をつけた俺に、茨木は何も言い返さず、黙って布の下へ手を入れた。
あの時の、少しだけ不服そうな横顔を思い出す。
袖の内側に触れると、見た目よりずっと硬い、薄い鱗状の金属板の感触が、手のひらに返ってきた。
左腰には太刀《終座》。腰には、使い古した徳利。
……何一つ、変わっていない。俺の身の回りだけが。
これは参ったな。
茨木がそばにいない。それだけのことで、こんなにも心細くなるとは思わなかった。
袖の裏地を、指の先でそっとなぞる。あの日、邪魔だと吐き捨てた自分の声を思い出す。
今なら分かる。返すべきは、別の言葉だった。
眼の奥が、じわりと熱を持ち、慌てて、空を仰ぐ。
ここで泣くわけにはいかない。
……どこでしくじったのだろうか。
「いや、はじめから……か」
鬼が人と共に生きようなどと、儚い夢を見たのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。
「サエ……やはり俺は人ではないらしい」
懐に手を入れると、指先が触れたのは、割れたはずの盃。何の変わりもなく、そこにある。
「……なぜ?」
声が、勝手に口から漏れた。
確かに割れたはず。畳の上で音もなく二つに割れた、その瞬間を覚えている。
胸の奥を抉られるような痛みも、未だ消えていない。
それなのに、手の中にあるそれには、ひびのひとつも見当たらない。
記憶と、今この手にあるものが、噛み合わない。
それなりに長く生きてきたつもりだが、今この瞬間ほど、頭が追いつかないことはなかった。
心の臓が、急に速さを増していく。呼吸が浅くなり、指先が細かく震え出す。
人として生きていた頃には知らなかった。
鬼と化したあの日から、幾度となく付き合ってきた"あれ"。
氣が乱れ、血の流れが逆巻くように速くなる。
……不味い。歯止めが、利かない。
”抑えてきた感情”、”抑えるべき感情”が、堰を切ったように身体の奥から溢れてくる。
胸を強く押さえる。それでも治まらない。
腰の徳利へ、震える手を伸ばすと、力任せに栓を抜き、盃も使わぬまま、そのまま口をつける。
流れ込んだ酒の味は、いつもと変わらなかった。
舌に馴染んだその味だけが、今この場に唯一残っている、確かなものだった。
一口、また一口と重ねるうちに、指の震えが、少しずつ収まっていく。
「うわ、懐かしい飲み方」
声のした方へ、視線を向けると、少し離れた場所に、白銀の髪をした女が立っている。
異国の旅装に、和の名残がわずかに混じった、見慣れぬ装い。
反射的に、身体が強張る。知らぬ気配、知らぬ土地、すべてが警戒すべきものに思えた、その矢先。
九つの尾が、ふわりと揺れ、狐の耳が、呆れたように傾いている。
両手を腰に当て、その金色の瞳がこちらを流し見ている。知った尾の数に、知った耳の傾け方。
強張っていた肩から、力が抜けていく。
誰なのかは、すぐに分かった。
「玉藻……!?」
思わず、声が上ずった。
頬が、勝手に引き攣りそうになり、慌てて、手で口元を覆う。
彼女との記憶が、次々とよぎる。
悪戯な顔で舌を出していた、あの表情。
遠くを見るような、少し寂しげな眼差しで、湯呑みを傾けていた横顔。
茨木や配下の鬼たちに混じって、声を上げて笑っていた、あの日の声。
……そして、最後に思い出すのは、報告に来た茨木の、深刻そうな顔。
それらが、一息に胸の中を通り過ぎていく。
「……久しぶりだな」
盃を懐へ戻し、徳利の栓をゆっくりと閉める。急いで動けば、それだけで悟られる。
情けない顔だけは、誰にも見せるわけにいかない。
脳裏に、呆れたような茨木の顔がよぎる。
目の前の玉藻も、耳を呆れたように傾けたまま、九つの尾だけが、ふわりと膨らんでいる。
「変わんないね、外道丸は……ほんと。その紅い眼も懐かしいし、誤魔化すのが下手なのも一緒」
そう言う玉藻の口元も、わずかに緩んでいるのが視えた。
*
「……ほんと、信じられないよね」
タマは『ついて来て』とだけ言うと、迷いのない足取りで歩き出した。
俺は、その少し後ろをついていく。しばらく歩いたところで、不意に話しかけられた。
「何がだ?」
「殺されかけたんでしょ、その直後にお酒飲めるとか、どういう感性の持ち主なのよ」
タマは歩を緩め、くるりとこちらへ向き直ると、後ろ向きのまま器用に歩き出す。
はあ、と大きくため息を吐きながらも、なぜか花が咲いたような顔になる。
返す言葉が、見当たらない。
「玉藻」
状況を整理するために、彼女の名を呼んだ。
「タマ」
「?」
「ここではタマ。玉藻とか妖狐とか九尾とか呼ばないで。私は人族のタマ」
つい今し方までの緩い表情とは打って変わって、目が細くなる。
言われて、初めて気づく。周りの景色に気を取られていて、見過ごしていたが、先ほどまで揺れていた銀色の尾も、狐の耳も、消えている。
昔と同じ、人の姿。
「さっき、見たことない澄んだ光と、異常に大きな力を感じたから……少し臨戦体制になってただけ。この世界では私は人族。今度は絶対に隠し通す」
この世界?
その時、空気が変わり、風の流れが、重く、ざらついたものになる。
覚えのある感触ではなく、”視た”ことのない風。
やはり知らぬ土地だ。もしかしたら……黄泉の類か。
「黄泉じゃないよ」
タマが、ちらりと舌を出す。
思わず、目を見開いたのが自分でもわかる。
「相変わらず、わかりやすい」
彼女の気配が、一瞬で研ぎ澄まされていく。
「……来る」
そう、低く告げたのは、タマ。
そして、木々の影から、緑がかった肌をした小柄な影が姿を現す。
数は十を超え、手にしているのは粗末な武器だが、動きに無駄がない。
「ゴブリン」
タマの声が、はっきりと警戒を帯びた。
”ごぶりん?”
「しかも、統率個体がいる。あれはゴブリンジェネラルだよ……なんで、こんな所に」
”ごぶりんじぇねらる?”
初めて聞く名だ。姿形からすれば、妖の類だろうが、妙だ。
彼らの周囲に漂っているのは、見慣れぬ力の気配。俺の棲家の山には、こんな”視え方”をする力は存在しない。
タマが足音を消して半歩前へ出ると同時に、重心を落とす。
こんな時、茨木がいてくれれば……いや、詮無いことだ。
「そんなに急いで敵意を向けるな、タマ」
彼女の前に、静かに立つ。庇うというより、位置を整えるだけの動き。
背後で、布の擦れる音がして、視線だけで振り返ると、タマの手が、俺の袖の近くで所在なく止まっている。
どうやら、掴みかけてやめたらしい。
「……外道丸、あれは魔物だよ」
声が、いつもより低い。
”まもの”?
「妖だろう?」
即座に返した言葉に、タマは一瞬、言葉を詰まらせる。
当然だ、と思う。彼女は長く、一人で生きてきた。
味方でないと見れば、まず警戒する。先に構え、先に斬る。
それが”妖が生き残るため”の、唯一の正解だ。
だが、俺は違う。
鬼となってから長いこと、俺は仲間と共に在った。
鬼の頭領として群れを率い、言葉を交わし、時に折り合いをつけてきた。
今この距離であれば、瞬きする間もなく、この群れを潰すことはできるだろう。
《終座》を抜く必要すら、ない。だが、今ここで抜く意味も、ない。
先ず……話す。
「……お前たち、俺の名は外道丸だ。こちらに争う意思は、ない」
声をかけると、”ごぶりん”たちがぴたりと動きを止める。
一斉に向けられた視線には、敵意があり、警戒がある。
俺は、思わず、首を傾げた。
敵意? 警戒?
想像していたものとは、違う反応がそこにある。
……まさか、俺を知らないのか。
俺を知らぬ妖など、この世に存在しないはず。
……そのはずだった。
随分と前から、この名を聞いて震えなかった人も妖もいない。
恐れられ、遠ざけられ、時に襲われながらも、誰もが必ず、俺を"それ"と知った上で、態度を決めてきた。
それが今は、ただの見知らぬ乱入者として、値踏みされている。
「用があるなら、聞こう」
”ごぶりん”たちから、反応が、返ってこない。その事実が、じわりと混乱を呼ぶ。
熊や猪ならば、まだ分かるが、目の前にいる者たちは、明らかに知性を持っている。
それなのに、言葉が届かない。
「……通じないよ」
タマが身を構えたまま、小さく呟く。
”ごぶりん”の中から、他よりも大きく、装備も整っている一人が前に出る。
「……ジェネラル」
タマの声が、わずかに強張る。
”じぇねらる”は唸るような声を上げ、武器を構えるが、その腕は、震えている。
「……ただ、怯えているんじゃない。従属とも違う?……本能が、拒んでいる……の?」
タマが呟く。
「こちらは、通りたいだけだ」
諦めずに、話しかけると、少しして、”じぇねらる”は背後へ向けて、短く吠えた。
それだけで、他のゴブリンたちが一斉に下がる。
「……仲間を、制した?」
思わず漏れたタマの声には、いつもと違う震えが混じっている。
森そのものが、息を呑んだように静まっている。
”じぇねらる”はゆっくりと膝を折り、視線を下げ、武器を地に置く。
空気が、止まった。
続いて、他の”ごぶりん”たちも次々と膝をつくと、武器が地に触れる音だけが、静かに森へ鳴り響く。
隣で、タマの構えていた足から力が抜ける。
「……ウソ、でしょ」
タマが呆然と呟いた。
森に静けさが戻り、風の吹く音だけが聞こえてくる。
タマの警戒で細められていた金色の目が、まん丸になっていた。
「……通じた。いや、でも、言葉は通じてないからね」
「だが、道は開いた」
「それを交渉成立って言っていいのかな……」
「目的は果たした」
タマは何かを言い返しかけ、結局、肩を落とした。
「昔から、結果が出ると細かいところを全部置いていくよね」
「通してもらえるなら、それでいい」
俺とタマは、”ごぶりん”たちの横を、抜ける。
理屈はよく分からないが、結果として道は開けた。
彼らが何者かは分からないが、それでよしとしよう。
しばらく歩いてから、タマが小さく息を吐く。
「……こういうところも、ほんと変わらないね」
少しだけ皮肉めいた声を出すが、口元は柔らかな弧を描いている。
「ゴブリンジェネラル相手に交渉成立、か」
そして、首を傾け、俺の顔を覗き込みながら、片方の口角だけをくいっと上げる。
「さすが鬼の頭領。格が違う、ってやつ?」
「そうか?」
「そうだよ」
タマは苦笑した。だが、その肩の強張りは、もう消えていた。
*
森を抜けると、視たことのない平原が広がっていた。
道の先には、大きな壁に囲まれた街が見える。
タマが立ち止まり、振り返る。
「ここ、あなたにとっては異世界。あなたが知っている国も、神も、そのままじゃない。妖もいない」
「そうか」
「……驚かないんだ」
もちろん驚いている。流石に驚きすぎて、反応が追いつかないというだけの話。
これはもう、理解の範疇をとうに超えている。
「外道丸もここでは今みたいに角は隠していた方がいいわ」
「……俺はここ百年、角を出してはいない」
心情としては、一度も鬼になったつもりはない。
額に角が生えたあの日から今日まで、外見も中身も、人として生きているつもりだ。
どれだけ時が流れようとも、茨木のように開き直ることだけは、できずにいる。
不意に、小さな金属の輪を投げられた。
避ける。
「ちょっ、なんで避けるの?」
「?」
「信じられない!」
投げた本人がそれを拾い、今度は投げずに、差し出してくる。
「はい」
「これは?」
「指輪。指にはめておいて」
受け取り、なんとなく利き腕ではない左手の指へ合わせていく。
「ちょっと! 左の薬指は流石にダメ!」
相変わらず、注文の多い奴だ。だが、どの指なら良いのかは、教えてくれないらしい。
どの指にするか迷っていると、「貸して!」と指輪を奪われ、じっと手を見られたあと、決断するように右手の薬指へはめられた。
小さな石が埋め込まれていて、その内側に、不思議な力の流れが視える。
「まぁ、いっか、これで」
「右ならよいのか?」
タマの手が止まった。耳が赤くなり、視線だけが俺の手から外れる。
「……今は、そこ考えなくていいから」
「そうか」
「その顔で素直に納得されると、それはそれで腹が立つ」
「よくわからん」
「すぐに、私に感謝することになる。とりあえず、遅くなる前に門まで行かないと。入れなくなっちゃう」
「あの城壁の向こう側へ行くのか?」
「案内するよ」
タマが振り返り、狐の偽りの笑みではない、どこか懐かしい、あの頃と同じ笑顔をみせる。
「レグナ王国、王都リュシアよ。異世界へようこそ、外道丸」
*ここまで読んでくださってありがとうございます。
この卓は、まだ揃っていません。
でも、少しずつ巡り始めました。
次話もお付き合い頂けたら幸いです。




