プロローグ
酒が、喉を通らなかった。
それだけで、すべてを悟った。
……結局、こうなる運命、だったな。
俺たちの異変に気づいた山伏たちが刀を抜き、動けない配下たちへ襲いかかりはじめる。
先ほどまで交わしていた他愛のない笑い声が、まだ耳の奥に残っている。
山伏たちの罵声が広がっていくなか、囲炉裏の炭が爆ぜる音が、本来なら小さいはずなのに、やけに大きくこの部屋に響き渡る。
山伏たちが持ち込んだ酒の匂いに、微かな……あまりにも微かな、甘い腐臭が混じっていた。
それを、最後の一口まで嗅ぎ分けられなかった。
喉の奥に、苦い笑いだけが残る。
俺の前に立つ、《山伏の頭領》を名乗っていた男が、震える手で刀を抜いた。
「……見事なものだ、もはや人にしか見えない。だが、たとえ、どれだけ上手く人の姿に化けていようが、笑おうが、どこまでいっても、鬼は鬼! 帝の命により、ここで貴様を討つ!」
……鬼は鬼、か。
人として生まれた身で、そう呼ばれる日が来るとはな。
身体の中心から、全身へ冷たいものが徐々に広がっていくのがわかる。
……指先の感覚が遠くなっていく。
丹波の山の夜気とは違う、骨の髄まで凍らせにくるような、ただの”寒さ”などではない、”冷たさ”だった。
「……なるほど」
声は、出る。ならば、まだ少しだけ、猶予がある。
酒に溶け込んだ気配があまりにも巧みで、こちらの鼻も舌も、欺き通されていた。
毒だ、それもただの毒ではない。
鬼の五感を欺くには、人の手だけでは足りない。神の手が、入っている。
山で祈るだけの者に、神がここまで手を貸すはずもない。ならば、こいつらは山伏などではない。
これほどの毒を仕込めるものは、そう多くはないはず……だが、やり口が汚い。
いくら《鬼》相手とはいえ……いや、鬼だからこそ、ここまでやらねば殺せぬと踏んだのだろう。
神の加護を借り、毒を盛り、数で囲み、宴の席で笑いながら、その時を窺っていた。
それだけのことをしなければ、この首は獲れないと、そう見切られていたわけだ。
恐れも、焦りも、顔に出すわけにはいかない。
こちらが揺らいでいるのを悟られれば、あの男たちの刃から迷いが消える。
迷いのない刃は、速い。速い分だけ、奥で戦っている茨木たちの方へ、余力が回る。
視線を無理矢理にでも、上げる。
先ほどまで酒を酌み交わし、山の精進料理を褒め、都の噂話に声を弾ませていたはずの男が、無言で刃を構えている。
その刃の先が、わずかに震えている。
……まだ、怖いか。
それほどまでに《鬼神》という名は、重いものらしい。
怖いのなら、退けばいい。それをしない。恐れながら、なお刃を持ち上げてくる。
こちらの言葉も、暮らしも、何ひとつ知らぬまま、お前は一体何を信じているというのだ。
奥の柱の影から、金属がぶつかり合う甲高い音が御殿内に響いた。
茨木が、数人に囲まれている。
女ひとりに対して男が群がる、鬼畜の所業……人の世では、それを討伐と呼ぶらしい。
見慣れた無骨な仕立ての、濃褐色の直垂が、今は無惨に血に濡れ、左の袖が肩口から裂けていた。
それでも彼女は刀を下げず、鬼にも戻れずに”人”の姿のまま、歯を食いしばり、両足で畳を踏み締めて立っていた。
すまない茨木……俺が油断した。
人と盃を交わせたと、お前たちを巻き込んだのは、俺だ。
俺の喜びが皆を殺す。
決して退がらないと知っている。あいつは俺が倒れるまで、絶対にその場を離れない。
だからこそ、退がってくれ、と願わずにはいられなかった。
他の者たちは、逃げおおせただろうか。せめて、そうであってほしい。
もはやどうにもならない状況に、笑いが込み上げてくる。
やはり……最後まで、鬼は人とは相容れない関係だったな。
「……そうか。人の世の宴には、終わりの合図もいらぬらしい」
男は応えない。当然だ。応える義理もない。ただの嫌味だ。死にゆく鬼の、最後の悪態に過ぎない。
痺れが、喉元まで昇ってくる。
呼吸のたびに、胸の奥で《氣》の流れが途切れる感覚があった。
身体の芯にある、生きるための源のようなものが、毒に侵されて、ゆっくりと冷えていく。
もはや、氣を練ることもできない。
盃が、手から滑り落ちた。
畳の上に落ちたそれは、音もなく、二つに割れる。
その瞬間、胸の奥を何かに抉られたような痛みが走った。
割れた盃から目が離せなかった。
雨上がりの夜。薬草の匂い。囲炉裏の傍で、汚れた手を何の躊躇いもなく取ってくれた、あの手のひら。
『手、洗おうよ』
それだけ言った声。あの記憶の、最後の形。
サエ……すまない。
お前の言った通りだった。
『……世界はね……きれいには、とじないの』
あの時、あの最後の瞬間、俺は……如何にお前に救われたかを伝えるべきだった。
いつも俺は、肝心なことを伝えきれない。
山伏の形をした男が、無言で刀を持ち上げる。
ならば、最後に一つだけ。
身体は動かない。指も、足も、もはや自分のものではない。
それでも……眼だけは生きている。
氣が尽きかけた身体の中で、真紅の瞳だけが、男を射抜く。
「やり方は鬼よりも鬼らしいな」
殺す覚悟を決めたはずの武人の腕が、止まった。毒で倒れ、指一本動かせぬ鬼の、ただの眼差しに。
だが、それは一瞬でしかない。男は歯を食いしばり、再び刀を握り直す。
自分の正義を、一度も疑ったことのない目で。
こちらのことなど、微塵も知らぬくせに。
そのとき、御殿の奥に、光が差す。
静かに、この血と毒に塗れた場をそっと撫でるような、柔らかい輝き。
黄金色に輝く稲穂が揺れる幻が瞼の裏に映り、熟した穀物の香ばしく甘い香りが鼻の奥に届く。
……あたたかい。
男の顔が引き攣る。
「何をした!」
何もしていない。
身体の痺れが酷くて呼吸すらまともにできないこの状態で、何ができるというのか。
奇妙な術なら、陰陽師か狐か狸にでも頼むがいい。
男が動揺を振り切るように、刀を振りかぶる。
構わない。
……もう、疲れた。
あの光の中に、微笑みかけてくれた気配があった。それだけで、満足だった。
刀が、風を切る音。
屋敷の外で、夜明け前の空が、音もなく白み始めていた。
*次話から異世界編が始まります。
火曜22時/金曜22時
の週2話ずつの投稿予定です。
よろしくお願いいたします。




