キャンバスに漂う熱
格闘技ライターという仕事柄、春崎須美はこれまで数え切れないほどの「歴史的瞬間」に立ち会ってきた。
王者が倒れる瞬間。
無名の挑戦者が奇跡を起こす瞬間。
引退を賭けた男が最後の意地を見せる瞬間。
感動はする。
興奮もする。
しかしその感情は、多くの場合、原稿を書き終えた瞬間には跡形もなく消えてしまうのが常だった。
次にいくらでも注目すべき試合はやってくる。
ひとところにとどまってはいられない。
それが自分の選んだ職業だと割り切っていた。
しかし今夜だけは、違った。
RYUJINの興行が終わり、会場の熱気が少しずつ冷めていく中、春崎はしばらく放心したままリングサイドの席から動けずにいた。
手元のノートには何も書かれていない。
ICレコーダーは、いつの間にか止まっていた。
自分が泣いていることにすら、今の今まで気づかなかった。
頬を伝う熱い感触を自覚して、慌てて手の甲で拭い去る。
「……私としたことが」
誰に言うでもなく、自嘲気味に呟いた。
脳裏から離れないのは、チャンプアが崩れ落ちた後、神沼翔という少年が静かに残心をとって立っていたあの姿だ。
普通の顔で。
ただどこまでも普通の顔で、彼はそこに立っていた。
そして勝利者インタビューで神沼翔が放った言葉。
「凡才の俺が、絶対的な才能を凌駕してみせる必要があった。彼女の努力は無駄じゃないと、証明したかったんです」
その言葉が鼓膜を叩いた瞬間、春崎は脳を直接、重い鉄槌で叩き抜かれたような衝撃に襲われた。
目の前が白むほどの、自責と羞恥。
空手対ムエタイ。
日本対タイ。
無名の高校生対、無敗の帝王。
自分がプロのつもりで組み立て、安直に消費しようとしていた物語がいかに空虚で、傲慢なものだったか。
神沼翔がリングに立った理由は、ライターが捏造するドラマなど遥かに超越した聖域にあった。
一人の少女が長年抱えてきた呪いを解くため。
ただそれだけのために、あの少年は無敗の王者と向き合い、命を削っていたのだ。
何百もの試合を見てきた自負など、一瞬で瓦解した。
その真意を試合中に一切見抜けなかった己の眼の節穴ぶりに、春崎は激しい嫌悪と吐き気すら覚えた。
そもそもこの興行を仕掛けたのは、格闘技の歴史に幾度となく刻まれてきた、あの狂おしいまでの問いに終止符を打ちたかったからだ。
「立ち技最強」は、どちらか。
空手か、ムエタイか。
使い古され、手垢にまみれた言葉。
それゆえに、この言葉は、この世界の住人たちが最も抗えない魔力を持つ。
ライターとしての自分の見立てでは、歴史的にはムエタイに分があった。
しかし、空手母国日本がその称号を奪還する瞬間をいつか記事にしたいという、呪縛に近い夢をずっと捨てきれずにいた。
だから神沼翔とウィリス未惟奈を、このRYUJINの興行に引きずり込んだのだ。
無名の高校生空手家と、無敗のムエタイ王者。
普通に考えれば神沼翔が勝てる可能性は極めて低い。
それでも、根拠のない確信めいた予感だけがあった。
「翔くんが、勝ってしまうのではないか」
一方で、数秒で圧勝するだろうと想像していた未惟奈と伊波の試合もまた、自分の想像をはるかに超えていた。
伊波紗弥子という少女が、確かに命を懸けて未惟奈を追い詰めた。
春崎は息をするのを忘れた。
今もまだあの時の、鬼気迫る伊波の顔が頭から離れない。
女子高生がなぜあそこまで。
その表情には、過去に見たどんな格闘家からも感じたことがない、異様なまでの「何か」が宿っていた。
逃げ場のない切実な狂気。深淵の闇から湧き上がるその熱量に、春崎はただ圧倒されるしかなかった。
*** *** ***
この興行をCEOの高野晃に持ち掛けたのは自分だった。
なのに、まさかこれほどまでに置いていかれるとは思っていなかった。
「やられたわ」
春崎は苦笑した。
有栖天牙に。
伊波紗弥子に。
ウィリス未惟奈に。
チャンプア・プラムックに。
そして、神沼翔に。
この興行に関わったすべての人間に、完敗だった。
春崎はようやく席を立ち、薄暗くなり始めた会場をゆっくりと歩いた。
清掃スタッフが動き始めたリングの周りを一周しながら、キャンバスを見上げる。
まだそこに、神沼翔とチャンプアが切り結んだ攻防の残滓が漂っているような気がした。
今夜はもう、十分だ。
出口へ向かいながら、春崎はすでに次のことを考え始めていた。
世間に見つけられてしまった神沼翔という才能は、これからどうなるのか?
初めての敗戦を経験したチャンプア・プラムックはどこへ向かうのか。
伊波紗弥子は?
頭の中で、彼らの情報が静かに更新されていく。
会場の出口をくぐる直前、春崎は一度だけ振り返った。
がらんとしたアリーナ。
消えかけた照明。
そしてもう誰もいないリングだけが、白く浮かび上がっていた。
「翔くんは、おそらく二度とここには戻ってこないのでしょうね」
それだけは確かな気がした。
春崎須美は悲しい顔でそっと目を細め、夜の闇の中へと消えていった。




