それぞれの戦慄
RYUJINという、世界的な発信力を持つ格闘技興行。
その華やかな舞台に、高校生空手家である神沼翔は「一人の女性を救う」という極めて個人的なストーリーを持ち込んだ。
だが、その純粋な動機こそが、会場の観客や画面越しの視聴者たちの心を激しく揺さぶったのだ。
彼の見せた戦いは「格闘技」という既存の枠組みに照らし合わせても、明らかに度を越していた。
戦前には誰もが勝つことすら許されないと信じて疑わなかった伝説のムエタイ戦士、チャンプア・プラムックを、翔は文字通り圧倒してみせた。
そのあまりにも一方的な戦闘は、専門家であればあるほど理解を超えた恐怖――戦慄を覚えるものだった。
解説席に座っていた元王者の魔沙瑠も、試合前は自身の動画サイトで「神沼君が可哀想だ、勝てるはずがない」と語っていた一人だ。
しかし、いざ試合が終われば、彼は手のひらを返したように興奮を爆発させていた。
「いやあ、これを予想できた人はいないんじゃないの? 普通じゃないでしょ。あのチャンプアが子ども扱いなんだから。空手……だよね? しかも最近のカラテじゃない。いつの時代も空手によるムエタイ打倒は日本の悲願なんだろうけど、今回の決着は過去にもないくらいに完膚なきまでの圧勝だよ。きっと、以後も彼以上の存在は現れないと思うよ」
「しかもね、ウィリス未惟奈が彼女なの? みんな知ってたの? これも凄いよね。でも彼の戦いを見れば、未惟奈ちゃんが惚れるのも分かるよね。神沼君、見てる? 今度うちのチャンネルに出てよ。彼女と一緒にさ」
魔沙瑠は興奮気味にまくしたてた。
確かに多くの格闘家が予想動画を上げていたが、この凄惨なまでの結果を予見できた人間は皆無であった。
魔沙瑠自身、かつて彗星のごとく現れたブアッカーオを前に苦杯をなめ、生涯のライバルとして死闘を繰り広げた経験がある。
彼も最後にはブアッカーオに勝利したものの、この日、翔が見せたほどの圧倒的な差をつけるには至らなかった。
いや、普通はそんなことにはなり得ないのだ。
「翔くん、おめでとう。いまだに信じられないんだけど。まさかあそこまでチャンプアと差があるなんて、さすがに予想できなかったわ」
いまだに顔を引きつらせながら、会場の控室に戻ってきた翔に声をかけたのは格闘技ライターの春崎須美だった。
彼女自身に格闘技の経験はないが、膨大な試合を見て蓄積されたその情報量は他の追随を許さない。
彼女は試合前に翔の実力を過小評価していなかった数少ない人間だが、その彼女をしても、この圧倒劇は天地がひっくり返っても予想できるものではなかった。
「まあ、ありがとうございます。最初はとんでもないことに巻き込まれたと思っていましたが、終わってみれば俺も出場してよかったと思っています」
翔はチャンプアに勝てたことよりも、未惟奈への思いをしっかり伝えられたことを噛み締めているようだった。
そもそも、このマッチメイクを高野CEOに持ちかけた張本人だ。
翔の言葉には、そのことに対しての感謝も含まれていたのだろう。
「私は、翔が圧勝することは分かってたけどね」
横から誇らしげにそう言ったのは、未惟奈だった。
確かに、日本中を探しても、翔の圧勝劇を心から信じきれていたのは彼女だけだったのかもしれない。
「でも、未惟奈ちゃんもここまで圧倒するまでは想像できてないでしょ? 最後は未惟奈ちゃんも翔君の凄さに引きつってたわよね?」
未惟奈の隣でセコンドをしていた芹沢薫子は、そう言って彼女をからかった。
芹沢は、最初こそ余裕の表情で見守っていた未惟奈が、最後には戦慄の顔に変わっていたのを真横で見ていたのだ。
芹沢もついさっきまでは、あまりの翔の戦いにただただ衝撃を受けていた。
だが、大成拳の伝承者であるがゆえに彼の戦闘の「理」をようやく飲み込み、軽口を叩けるまでには回復したようだった。
「そんなことないわよ! 芹沢さんなんて、最初から最後まで動揺しまくりだったくせに!」
未惟奈はいつもの負けず嫌いで言い返したが、その声に「棘」はない。
その嫌味も楽しみながらあしらう余裕を感じさせた。
翔の思いを真っ直ぐに受け取った余韻が、彼女の心を柔らかく満たしているように見えた。
未惟奈の言葉に、翔はあえて反応せずに少しだけ目を細めて彼女と視線を合わせた。
きっと二人は声を交わさずとも思いは通じている、そういうことなのだろう。
「神沼。チャンプアの感情を引き出して気の圧力を引き出し出したのは、作戦通りだったわけだな」
そんな二人の甘い視線をものともせずに、御影がいつもの調子でカットインしてきた。
なぜか部外者は座れないはずの高いリングサイド席で、彼は試合中も一切動揺した様子を見せずに戦いを見届けていた。
そして今も、熟練者でも気づくのが困難な神沼の戦略を、こともなげに指摘してみせた。
「相変わらず、おまえの『気』に関する読みはおそろしいな。あの距離からそこまで見抜いたのかよ」
究極の気の拳法、大成拳の伝承者である芹沢が言うならまだわかる。
しかし、独学で気を練っているに過ぎない御影の読みには、熟練者を思わせる独特の説得力があった。
「で、じいさんは『まだまだじゃな』と言うんだろ?」
翔は、控室の奥にのんびりと座っていた祖父、鵜飼貞夫にたずねた。
「今日は、よく戦えていたよ」
翔は過去に祖父から褒められた経験がないので、心底驚き、いや驚きを通り越してどんな感情を抱けばいいのか分からず、顔を顰めてしまった。
「そんな顔をせんでもよいだろう」
「いやいや、じいさんが褒めるなんて気味が悪いだろ」
「失礼なやつじゃな。今日の戦いが出来れば、まあ及第点じゃよ」
「鵜飼さん……及第点って、満点ではないのですか?」
芹沢は心底信じられないといった面持ちで、鵜飼にそう尋ねた。
セコンドという立場で、眼の前で見ていた翔の圧倒的な戦い。
そのすべてが芹沢の理解の範疇を超えていたのだ。
それを「及第点」と評する鵜飼という達人の言葉は、にわかには信じがたいものだった。
芹沢の師は、鵜飼の師である沢井と同門であったはずだ。
しかし、鵜飼貞夫という空手家の底を、芹沢をして知ることはかなわない。
この老人が見ている高みはいったいどんな光景なのだろうか。
芹沢はそれを想像するだけで、ただただ、静かな恐怖に身を震わせるしかなかった。




