不敗の回路
有栖天牙という男は、特異な精神構造をしていた。
世には「自尊心」という言葉があるが、有栖の場合はその次元をはるかに通り越している。
自分という存在が、およそこの地上において「過ち」という汚濁にまみれるはずがないという、一種の狂信に近い確信があった。
これはおそらく修養によって得た悟りではなく、天性のものであろう。
古来、英雄や狂人の類には、外部からの否定的な情報を脳が受け付けぬという特異な回路を持つ者がいるが、有栖はその典型といってよい。
空手の天才と謳われた彼が、当時女子中学生であったウィリス未惟奈の一撃に沈んだ時、世人は「さすがの有栖も、そのショックから再起不能になるのでは」と危惧した。
ところが、この男の口から出たのは「ラッキーキックが入って、彼女は運がよかったな」という、あきれるほどに平坦な総括であった。
会見場の記者が絶句し、呆気にとられたのは無理もない。
敗北という厳然たる事実が、彼の精神の門前で、単なる「確率のいたずら」へと変換されてしまったのである。
その有栖が、唯一その言に従ったのが芹沢薫子という女であった。
彼が芹沢の美貌に惑わされたのか、あるいはその奥底にある武の真理を洞察していたのか、その動機は判然としない。
ただ、彼は練習中も試合中も、まるで精密な機械のように芹沢の指示を遂行した。
有栖が天才への階段を駆け上がった背景には、明らかにこの芹沢の存在があった。
そうかと思えば、神沼翔という若者が芹沢から指導を受けていると知るや、執拗に絡む姿を見せる。
それはまるで秘蔵の宝を他人に触れさせぬ子供のような、奇妙な純粋ささえ感じさせた。
今夜のワンロップとの一戦においても、有栖は対戦相手を「路傍の石」程度にしか見ていなかった。
試合に敗れたという結果すら、彼にとっては大した事象ではないのである。
リングを下りる際、彼を包んだ万雷の「有栖コール」に対し、彼は「当然の報いである」とばかりに首を垂れた。
そして、リングサイドに立つ神沼翔へ、彼は無言で拳を突き出した。
有栖天牙が、自分以外の存在を「視界に入れた」稀有な瞬間であったといえる。
神沼の試合が終わった後、有栖は芹沢に問いかけた。
「で、神沼は勝ちましたか?」
「ええ、勝ったわ」
芹沢が短く応じると、有栖は彼にしては珍しく、満足げな笑みを浮かべた。
そして、立ち上がりざまに一言を放った。
「神沼によく頑張ったと伝えてください」
自分は敗れ、神沼は無敵の王者を倒したというのに、まるで辛勝した門下生をねぎらうような言葉を残し、彼は控室を去った。
事実を自分に都合よく組み替えて解釈するその傲岸不遜さは、もはや滑稽を通り越して、ある種の爽快感すら漂わせていた。
芹沢薫子がその背中を見送って、小さく笑ったのも、この男の持つ「救いようのない天分」に、一種の愛おしさを感じたからではあるまいか。




