数cmと数mm
神沼翔の身体は、鍛え上げられた鋼というよりは、極限まで調整された精密機械に近かった。
物心がつく前から鵜飼貞夫の指導で繰り返された「突き」と「受け」。
その数百万回に及ぶ反復は、彼の神経系までも異質なものへと変貌させていた。
彼にとって、拳を数ミリ単位で制御することは、呼吸をするのと同じくらいに当然の営みだった。
フィジカルに頼ることを極限まで拒み、ただ「人体の理」と「技の精度」のみを研ぎ澄ませたその立ち姿は、一つの才能の塊にも見えた。
しかし、その「才能」は先天的なDNAに刻まれたものではない。
努力によって神沼翔という武道に刻まれた才能だ。
ウィリス未惟奈と言う天才は、それを即座に看破した。
自分とは真逆の才能。
そしてウィリス未惟奈が物心ついた時から欲しくて欲しくて仕方のなかった、自分の努力のみで獲得した才能。
その才能を神沼翔は、最強のムエタイ戦士に向けていた。
ムエタイ戦士の肉体は、文字通りの凶器だった。
幾多の戦いで硬質化した脛、丸太のような大腿部、それは一撃で人の命を刈り取る爆発的な破壊力にもなりえた。
ムエタイは武道的な一面もあるが、その強さは現代スポーツが到達した、フィジカルの極致とも言える「暴力」の結晶でもあった。
神沼翔という高校生は、その「暴力」を彼にとっては「日常的な」動作の反復で寄せ付けることすらさせなかった。
彼にとっての「日常」「普通」という言葉は、超人的な才能を「日常」にしてしまったこと。
あれほどの才能の塊が「普通」に見えていることが、「異常」ということに気付いている人は少ない。
最強のムエタイ戦士は、試合中にそれにようやく気付き……恐怖した。
チャンプはその恐怖とプライドを傷つけられたという怒りをないまぜにした「感情」によって、ついに押さえつけていた「気」の扉が開いてしまった。
「きたな」
翔は、そう心でつぶやいた。
彼は目敏くその気の感覚を察知した。
これを引き出すことが、神沼翔の当初からの作戦だった。
相手の攻撃に「気の感覚」が乗るということは、翔はその攻撃を無意識に躱せることを意味した。
つまり防御に脳のリソースを一切使わずに済むということ。
今まではチャンプアの攻撃を注意深く躱し、時に排打功によって慎重に受け止めてきたが、もうその必要もない。
ただただ攻撃に集中すればいい。
チャンプアは翔の攻撃を、僅かな急所の「ずらし」によって回避していた。
翔の攻撃は確かに急所にピンポイントに刺さらないと、相手を倒すには至らない。
チャンプアの「数センチ単位」のずらしのテクニックは凄まじい技術であることには変わりはない。
しかし、神沼翔の技術は「数ミリ単位」で実現する。
しかも翔はチャンプアの「ずらし」のパターンの解析もほぼ済んでいた。
だから……翔は動いた。
広いスタンスから、軸足を数十センチスライドさせて前足による三日月蹴りを放つ。
チャンプアはその攻撃を身体を僅かに捻ることで躱す……はずだったが、その躱しの方向、スピード、すべて翔に読まれていた。
だから、今まで当たらなかった三日月蹴りがチャンプアのレバーにヒットした。
チャンプは、蹴りのダメージというよりは「避けたはずなのにヒットした」という事実に動揺した。
刹那、翔はチャンプアの左サイドに練り足で接近し、身体が密着するほどの至近距離で「ふわり」と浮き上がった。
チャンプは翔の顔が少しだけ浮き上がったと思ったら、その顔の真横から膝が接近していることに気付けなかった。
その距離は未惟奈が得意とする超接近からの蹴り技で、ムエタイにはない距離だった。
だから、その膝がチャンプアの顎にヒットした。
チャンプアはしゃがみこむように尻もちをついた。
これは、さっきの足を掬われた時と違い、明確に脳を振動させられて倒れた「ダウン」だった。
会場は騒然となった。
チャンプは、過去の試合でダウン経験がない。
だから世界はこの瞬間、チャンプアのダウンシーンをはじめてみたことになる。
翔は、再び尻もちをついたチャンプアに静かに残身をとっていた。
そして、その時も彼は日常にいた。




