静かなる挑発
「神沼はチャンプアの感情を引き出そうとしていますね」
ずっと沈黙を守っていた美影惣一が、静かな声で呟いた。
「あれ? 美影君、いたんだ?」
春崎須美は驚いて、自分のすぐ後ろを振り返った。
VIP席の背後に彼が控えていたことに、今の今まで全く気づいていなかった。
「ええ。神沼が頼んで、高野CEOが僕の分まで席を用意してくれたようです」
「そうなんだ。で、さっきの話はどういうことなの?」
「神沼が最も的確に相手の攻撃を捌くことができるのは、相手の攻撃に『感情』という名の圧が乗った時です。おそらく、神沼は今それを狙っている」
美影は格闘技の経験はないが、武道の達人のような分析を淡々と口にする。
「フフフ、やはり君は面白い男じゃのう」
鵜飼貞夫が、心底楽しそうに笑いながら言葉を継いだ。
「見たところ、チャンプは今まで意識的に気の放出を抑え込んでおる。翔もそれに気づいておるはずじゃ。だからこそ今の翔は、チャンプアの卓越した攻撃を捌くために、防御にかなりの意識を割かざるを得ない状況にある」
「さっき控室で話していた『気』の話ですね。私にはよく分かりませんが、美影君にはそれが見えているの?」
春崎は格闘技の知識量では誰よりも勝っているが、実戦経験がないため、気の感覚を直接掴むことはできない。
「ええ。最初に神沼とウィリス君が体育館で戦った時も、神沼はウィリス君の感情の圧を無意識に察知して、あの光速の蹴りを避けていましたから」
それは、美影が神沼翔に初めて声をかけることになった際のエピソードだった。
「ええ、あの対戦は私も見ていたわ。あの短い時間の中で、そんなことが起きていたのね」
春崎は、自分の理解が及ばない領域の事実に、ただ驚くしかなかった。
「翔は芹沢さんと違って、気の察知が意識と連動しておらんからな。無意識の反応に頼り切っておるのが、まだまだなところよ」
鵜飼が美影の話を補足するように言った。
鵜飼の指摘が正しいことは、未惟奈と芹沢が対戦した際にも現れていた。
未惟奈の怒りの圧を、芹沢は確かに意識的に後方へ受け流すという技術を見せた。
ただ、それは全身から放たれる大きな気の放出を流すような技だった。
翔がやろうとしているように、相手の拳や脚という部位に乗った気を察知し反応するのは、難易度が数倍は高い。
鵜飼であれば、翔が無意識に行っていることを有意識で制御できるということであろう。
「翔君がチャンプアの感情を引き出そうとしているというのは、具体的にはどういうことなの?」
春崎が改めて美影に問いかける。
「神沼はたった今、ムエタイの得意領域である『こかし』の技術でチャンプアに尻餅をつかせ、さらにチャンプアの攻撃を正面から受けて効かないことをアピールしました。あれは明確にチャンプアを挑発しているんだと思います」
美影は気の動きだけでなく、リング上の攻防のやり取りまで正確に把握していた。
「事実、少しずつチャンプアの感情の蓋が開きつつあるよ」
鵜飼が、満足げに笑う。
「ここからまた、新たな展開になりそうですね」
美影はこともなげに、これからの戦況を予想した。
春崎は二人の会話を真剣に聞きながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
* * *
「やっぱりそういうことよね、未惟奈さん」
一方、セコンドの芹沢と未惟奈も、翔がチャンプアの感情を引き出そうとしていることに気づいていた。
「そうね。二度もチャンプアのプライドを潰すような真似をしたんだもの。翔もやるときはやるわね」
未惟奈は、そんな翔の戦い方に嬉しそうな表情を見せた。
「チャンプアはもう、感情を抑えるのが限界のようね」
芹沢は口角を上げながら言った。
「ええ、もう気がダダ漏れでしょ」
未惟奈も芹沢も、チャンプアから溢れ出す気の漏洩に当然のように気づいていた。
「芹沢さんは、気が乗った攻撃に有意識で対応できるんでしょ?」
「いいえ、私だってそこまでは無理よ」
「でも、私と対戦した時、私の気を意識的に操ったじゃない」
「ああ、あれは未惟奈ちゃんの全身から放たれる圧そのものだったからできたこと。拳や脚に乗った素早い攻撃に対しては、私だって翔君と同じで無意識の反応に頼るしかないわ」
未惟奈はいつになく素直に、何度も頷いている。
「翔君も当然、チャンプアの気の漏洩に気づいているでしょうから、ここから仕掛けるんじゃないかしら」
芹沢もそう予測していた。
未惟奈は翔の表情を見る。
驚いたことに、彼は未だにいつもと全く変わらない、普通の顔をしていた。
それを見て、未惟奈はニヤリと笑う。
そして未惟奈が笑った直後に、翔の瞳の奥がきらりと光ったことを、未惟奈は見逃さなかった。




