精神的な優位性
チャンプアの思考は手に取るように分かった。
「神沼翔の攻撃は威力がない」
そう思ったに違いない。
だから急所さえ外せば、ダメージはないと判断したのだ。
チャンプアは最初の突撃で見せたような、俺のリターンを鮮やかに躱す動きを捨てた。
俺の攻撃を被弾しながらも、ヒットポイントを数センチずらすだけで強引に距離を詰めてくる。
彼の技術は極めて高精度なものだが、傍目にはただ無防備に打たれているようにしか見えないはずだ。
さらに、彼はこうも確信したはずだ。
──神沼翔は、自分を沈める技を持ち合わせていない、と。
武道の立ち合いにおいて、いかに精神的な主導権を握るかが勝敗を分かつ。
おそらく格闘技という競技においても、それは同じなのだろう。
ならば、俺はチャンプアが抱いた”神沼の攻撃は効かない”という精神的な優位性を、根底から揺さぶってやらなければならない。
だったら──。
──俺も、同じことをしてやる。
いや、正確には違う。
俺はチャンプアのように急所を外すなんて面倒な真似はせず、”そのまま”被弾してやるのだ。
高校一年生という成長途上のフィジカルで、チャンプアという強大な敵の攻撃をまともに受けるなど、正気の沙汰ではない。
しかし、今の俺には「それ」ができる。
「今の俺」と言ったのは、半年前の俺には不可能だったという意味だ。
この半年間で、俺は急激な進化を遂げた。
一つは大成拳。もう一つは、エドワード・ウィリスによる肉体改造。
そのどちらが欠けても、この境地には至らなかっただろう。
大成拳に限らず、中国武術には「排打功」という鍛錬法がある。
一見すれば、空手の巻き藁のように拳や前腕を固くする部分鍛錬に思えるが、その根本は全く異なる。
大成拳は「気」を最大限に操る武術だ。
気を全身に巡らせ、身体全体を調和させることで、相手の攻撃を無力化する。
ゆえに、攻撃や受けに使う部位だけでなく、肩、背中、腹、胸……全身を打ち付けて鍛え抜く。
すべては気の力をもって。
拳から気の威力を発するのと同じように、相手が触れたその場所から気をぶつけ、攻撃を跳ね返すイメージだ。
芹沢の話では、かつて排打功の達人がムエタイの蹴りを首に食らった際、達人は無傷どころか、蹴った選手の脛が折れたという。
最終的にはそこまでの次元に至る鍛錬法だが、さすがに半年でその域に到達するのは不可能だ。
しかし、全身に気を巡らせることで、衝撃が当たった瞬間に無力化する程度のことはできるようになっていた。
さらに、俺にはもう一つ考慮すべき点がある。
それは審判の先入観だ。
俺にチャンプアの攻撃が当たれば、彼らは「効いているに違いない」と誤認する。
だからこそ、被弾した際に背筋がのけ反り、体勢が後方に流れるような隙を微塵も見せてはならない。
それを可能にしているのは、相手の打突を真っ向から受け止めるための、エドワード・ウィリスによって鍛え上げられた強靭なフィジカルだ。
デッドリフトを、足腰が立たなくなるまでひたすらやり込んだ日々は無駄ではなかった。
だから──。
俺は、強引に距離を詰めて近距離から放たれたチャンプアの猛攻を、これまでのようには躱さなかった。
逃げずに、まともに受け止めた。
チャンプアは必倒の攻撃パターンを即座にシュミレートしたに違いない。
しかし、跳び膝蹴りの体制に入った瞬間に、チャンプアはそれを躊躇して飛び去った。
この判断ができるのがチャンプアの強さだ。
あのタイミングで俺にそんな大技を仕掛ければ、チャンプアとはいえ隙は生まれる。
それを逃す俺ではない。
虎視眈々とその隙を見定めた瞬間に、チャンプは引いた。
果たして、必倒のコンビネーションでチャンプアの攻撃が俺にダメージを負わせることはなかった。
これが何を意味するか。
チャンプアもまた、俺に対してはピンポイントで急所を射抜くほどの精度で打たない限り、何発手を出そうが無意味だということだ。
この瞬間、俺とチャンプアは再び同じ土俵に立たされた。
それどころか、俺はチャンプアの手駒を一つずつ確実に潰している。
今の彼に、精神的な余裕など残っていないはずだ。
さあ、次はどうするんだ?無敗の帝王さまよ……




