日常の目
耳を刺すような大歓声が、一瞬で消えた。
代わりに押し寄せたのは、数万人が同時に息を呑む、重苦しい静寂だ。
臀部から伝わるキャンバスの感触が、あまりに冷酷に、現実を突きつけてくる。
見上げれば、そこにはまだ幼さの残る顔立ちの、一人の少年が立っていた。
俺を見る目は、何の感情もない。
まるですれ違った見知らぬ人を見る目と、何ら変わりがないようにも見える。
この目には見覚えがある。
鵜飼貞夫だ。
あの日の俺に見せた、あの男の目と同じだ。
あの時も鵜飼は顔色一つ変えずに、ただただ俺を見下ろしていた。
俺はその屈辱を胸に秘め、今日の日を迎えているといっていい。
チャンプアは悔しさのあまり歯を食いしばり、素早く身を起こした。
ムエタイにおいて、“こかされる”ということは、単に体勢を崩すこと以上の意味を持つ。
それは、自分の「軸」を完全に支配され、赤子のように扱われたという証明なのだ。
重心を盗まれた。
俺が足を上げたその一瞬の『意図』を、あいつはまるで未来を知っているかのように読み切っていた。
あいつの足が触れた感触すら、ほとんどなかった。
俺が俺自身の体重に裏切られるようにして、勝手に地面が迫ってきたのだ。
リングの上で「不動」であることこそが王者の誇り。
この大舞台で、俺は「赤子」扱いされた。
技術でも、精神でもなく、生存の本能に近い領域で、この高校生に上回られたというのか?
チャンプアは、この少年に手加減しようなどと考えたことを心底悔いていた。
「手加減どころではない、このままいけば負けるぞ」 無敗のチャンピオンがデビュー以来、初めて意識した「敗北」という言葉。
チャンプアは少し距離をとり、リズミカルにステップを踏みながら両腕を大きく二回ほど回した。
その間に、チャンプアは意識の切り替えをしていた。
再び構え直した瞬間、チャンプアの雰囲気は別人のように変わっていた。
チャンプアは「早く試合を終わらせる」ではなく「確実に神沼翔を倒す」ことに戦略をシフトした。
今までの短い攻防を思い出し、チャンプアは神沼翔の再分析を行う。
神沼は俺の攻撃に必ずリターンを返す。
そのあまりの精度の高さゆえに、俺は全力での攻撃を躊躇した。
しかもその攻撃は、確実に一撃で効かせる急所だけをピンポイントに狙ってきた。
一撃で倒せる急所の場所は限られる。
ボディーを鍛え抜いた俺にとっての急所は両顎、テンプル。
ボディーはおそらく効かない。
強いて言えばレバーだろう。
しかも神沼は面ではなく、点で攻撃してくる。
その理由は明らかだ。
面では効かせられないのを分かっているのだ。
絶大なパワーがあれば、多少雑に急所周りに打撃を入れれば効かせられる。
しかしパワーがなければ、ピンポイントに小さな打点を打ち込むしかない。
だから神沼の蹴りは、脛や足の甲は使わず、すべて中足だ。
それであれば、パワーがなくとも効かせることはできる。
しかし裏を返せば、そのピンポイントさえ外せば怖い攻撃ではないということだ。
チャンプアは一瞬でこの分析を終えて、攻撃の体勢を作る。
チャンプアは翔の攻撃をすべて捌くことは諦めた。
被弾してもピンポイントで急所を射抜かれることだけを避けることに集中しようと決めたのだ。
チャンプアは強引に距離を詰めながら、再び得意の連続攻撃を仕掛けた。
ただ今度は、翔のリターンを警戒していない。
全速の攻撃を繰り出したのだ。
翔もチャンプアの攻撃を難なく捌き、即座にリターンを返す。
驚いたことに、その翔のリターンが今度はことごとくチャンプアにヒットした。
チャンプアは避けようともしない。
「あ、神沼の攻撃は当たってもチャンプアには効かない」 そう思った観客も多かっただろう。
しかし、これは少し違う。
チャンプアは翔の攻撃を完全に捌き切るのではなく、若干ずらすことで急所を外すことに成功していたのだ。
確かに急所を外れた翔の攻撃は、チャンプアにダメージを与えているようには見えなかった。
それに比してフィジカルに勝るチャンプアの攻撃は、今のところ翔にすべて躱されていたが、その迫力たるや、一撃でもヒットすれば簡単にKOされるであろうことを想像させるほどにパワフルなものであった。
そのチャンプアの攻撃に、会場がゾッとした瞬間。
その会場の反応をあざ笑うかのように、翔が驚きの行動に出る。
なんと翔も、チャンプアの攻撃を躱すことを止めて身体で受け止めはじめてしまったのだ。
「え? やばくね?」 と誰もが思った。
チャンプアの連続攻撃が翔に数発ヒットした、その瞬間、好機とばかりにチャンプアは渾身の膝蹴りで決めにかかろうとした。
その時、一瞬だけ翔と目が合った。
気付けばチャンプアは本能的に、飛び下がって距離をとっていた。
チャンプアが見た翔の目は……。
さっき俺を倒したときに、上からのぞき込んでいた、あの普通の目だったのだ。
やつはこの瞬間にでさえ日常の中にいたのだった。




