一番近くにある深淵
チャンプアのスリップにより、会場は水を打ったように静まり返った。
異様な空気が場内を支配している。目の前で起きている事象を脳が理解できないとき、群衆の放つ気配はこれほどまでに不気味なものになるのか。
その光景は観客にとって到底理解しがたいものだったが、本来であれば「理解できる」はずの二人の女性にとっても、それは驚愕の光景であった。
「未惟奈さん、これもいつもの翔君なの?」
驚きのあまり言葉を失っていた芹沢が、ようやく喉を震わせて未惟奈に尋ねた。
翔の空手を誰よりも知っているのは未惟奈であることに疑いはない。
だが、その未惟奈ですら、今の神沼翔が見せた動きに顔を引きつらせていた。
「まあ、彼ならあれくらいはやるでしょうね」
強がってはみたものの、チャンプアの初手を封じたときに見せていた余裕は、今の彼女にはなかった。
「でも、ああいった動きは芹沢さんが指導したものじゃないの?」
翔と未惟奈は芹沢から大成拳を学んでいたが、もともと鵜飼貞夫から大気拳の基礎を叩き込まれていた翔と初学の未惟奈は、それぞれ異なるアプローチで教えを受けていた。
未惟奈が言うように、最小限の動きで相手を崩し飛ばすのは大成拳的ともいえる。
だから未惟奈の知らないところで芹沢の指導があったと想像したのだろう。
しかし、芹沢の答えは違っていた。
「あれは、私が教えたものではないわ。むしろ、未惟奈さんが最初に彼に転がされたときと似ている技だと思うけれど」
未惟奈も同じことを考えていた。
ただ、あの時の自分は、常人離れしたスピードとはいえ、相手の反撃を想定しない上段攻撃を繰り出していた。
翔はそれを予測し、踏み込んだ私の軸足を横蹴りで刈ったのだ。
私が勝手に距離を詰めたから、翔はその場に足を置いただけとも言える。
軸足を刈るという意味では、今チャンプアを転がした技に近い。
だが、条件が違いすぎる。
相手は上段ではなく、予備動作のないコンパクトなローキック。
しかも間合いはロング。
動きの緻密さ、自ら間合いを操作して一瞬で距離を詰めた練り足のスピード、どれをとっても翔の動きはあの時の比ではなかった。
だからこそ、未惟奈の想定を遥かに超え、戦慄が走ったのだ。
(翔は、私にすら底を見せていなかった……)
未惟奈は、一番近くにいると思っていた自分ですら、彼の実力を見誤っていた事実にショックを受けた。
しかしそれは「裏切られた」という落胆よりも、自身の空手の師であり、恋人でもある神沼翔という男への畏敬の念を深めさせるものだった。
全てのメジャースポーツの誘いを蹴ってでも、翔と続けてきた空手
ああ、やっぱり私は空手を選んでよかった。
翔を選んでよかった。
引きつっていた未惟奈の表情は、いつしか晴れやかなものへと変わっていた。
「芹沢さん、そうね。あれは翔がもともとおじいさんから叩き込まれた技だと思う。でも、あそこまで洗練された動きは私も初めて見た。……自分の彼氏だからって贔屓目じゃなくて、やっぱり翔ってとんでもない。ちょっと感動してる」
不遜な態度を崩さない普段の彼女ではなく、素直に恋する少女の顔を見せた未惟奈。
芹沢はその変化に驚きつつも、その言葉の重みに納得して応えた。
「本当、彼はとんでもない空手家よね」
* * *
「鵜飼さん、今、何が起きたんですか?」
格闘技ライターの春崎須美は、驚愕に目を見開き、隣の老人に詰め寄った。
二人が座るのは、リングの振動がダイレクトに伝わる最前列のSRS席。
高野CEOの計らいにより、鵜飼貞夫の隣に春崎の席が用意されていた。
取材のために一瞬たりとも目を離さず集中していた春崎だったが、リング上の攻防はすでに彼女の動体視力を追い越している。
もはや隣に座る達人の解説なしには、事態を把握することすら困難だった。
「翔が、チャンプアの足を刈り上げただけじゃよ」
鵜飼は、茶を啜るような気軽さでそう断じた。
「え? 足を刈られた? ムエタイのトップ選手がそう簡単にバランスを崩すはずがありません。なのに、あんなにあっさりと……信じられません」
春崎はチャンプアの過去の試合をすべてチェックしている。
そのチャンプアが華麗なスウィープで相手を転がす場面は幾度となく見てきたが、彼自身が転がされる場面を見たのはこれが初めてだ。
いや、正確には「転がされた」という結果は目視できても、その瞬間に何が起きたのか、翔がどう動いたのかというプロセスが、春崎の目には全く捉えられていなかった。
「チャンプアも、少し下段蹴りを連続して放ちすぎた。軌道と速度を翔に読まれたんじゃな」
無敗の帝王が放つ攻撃を「不用意」とでも言いたげに指摘できる人間は、世界中を探してもこの老人くらいだろう。
「そ、そんなことが翔君には可能なんですか?」
「ハハハ。それくらいできねば、高野だって翔をこの舞台に立たせやせんよ」
笑う鵜飼の様子を見て、春崎は改めて痛感した。
このリングで繰り広げられているのは、既存の格闘技の常識では計り知れない、あまりに研ぎ澄まされた技術の応酬なのだと。
春崎は決して翔の実力を過小評価していたわけではない。
だが、それはチャンプアに対しても同様だった。
むしろ、積み上げてきた実績という点ではチャンプアの情報が圧倒的だ。
客観的なデータに基づき冷静に分析すれば、翔の分が悪いと感じる要素はあまりに多いと感じていた。
それが、目の前のわずか数十秒で、自分の思い込みがいかに的外れであったかを痛感させられていた。




