武道空手の直伝というもの
試合開始から、わずか十数秒。
序盤からこれほどの猛ダッシュを仕掛ける選手は、普通はいない。
チャンプアほどの男なら尚更だ。
だが、彼はあえてそれを選択した。
最初の一撃で俺を仕留め、すべてを終わらせようとしたのだ。
俺がこの十数秒でチャンプアの力を測ったように、彼もまた俺の実力に関する想定を更新したに違いない。
一撃で倒そうという発想そのものが、俺を警戒しつつも相当に過小評価していたということだ。
チャンプアは一度見せた手札を二度と使わない。
それは技の選択に限らず、戦略そのものにも言える。
猛攻による「力押しの圧殺」が防がれた今、次も同じように突っ込んでくることはまずない。
果たして。
チャンプアは低く落としていた重心をわずかに上げ、細かなステップを刻み始めた。
対する俺は、低く構えての「練り足」。
両者の動きの質は対極にある。
練り足は一見、緩慢な動きに見える。
だが、最短距離を無駄なく移動するため、視覚的な印象とは裏腹に、実際には極めて速い。
これは長年この構えを練り上げてきた者にしか理解できない領域だ。
チャンプアもその特異性は察しているはずだが、彼はそれでも自身のフットワークが勝ると判断したのだろう。
だからそのスピードのアドバンテージで俺の練り足を凌駕する選択をした。
チャンプアは遠い間合いから前後に素早く出入りし、俺に距離を測らせず、前足へ執拗にローキックを散らしてきた。
つまり足を止めにきている。
一撃必殺の大技に頼らず、地味ながら着実に脚を削るセオリーを貫ける強さ。
チャンプアは、工夫のない連続攻撃では俺を捉えられないと、すでに悟っている証拠だ。
想像通りではあるが、やはり一筋縄ではいかない。
俺はチャンプアのローキックを、紙一重の間合いでかわし続ける。
チャンプアは重心を後ろに置き、上体を最大限に寝かせた回避姿勢をとっているため、俺は即座にリターンを返すことはできない。
すべてのローを練り足の操作だけで外し、空手特有の膝を上げるブロックは一切行わなかった。
チャンプア級の蹴りになれば、ブロックの上からでもダメージを浸透させてくる。
何より、体に触れさせることは「距離の支配」に必要な情報を相手に与えてしまうことに繋がる。
さらに空振りはブロックよりも精神を削る。
空振るたびにバランスは崩れ、体勢を立て直す必要があるからだ。
なによりも「当たらない」ということがストレスになる。
だが、回避に徹している間は、チャンプアの攻撃時間だ。
このままではジャッジの印象が悪くなる。
どこかで反撃に転じ、流れを断ち切らなければならない。
繰り返されるローキックの軌道、そして速度のバリエーション。
そのすべてを脳内へトレースし終えた瞬間、俺は一撃だけ、ピンポイントのリターンを返した。
その刹那──
「スリップ!」
レフェリーの声が響いた。
その光景に、場内は水を打ったように静まり返った。
あのチャンプアが、マットに尻餅をついていたのだ。
俺の動きは予備動作を排した最小限のものだったため、観客には何が起きたのか理解できなかったのだろう。
やったことは、極めてシンプルだ。
チャンプアがローを放つべく、蹴り脚がわずか1cm浮いた瞬間。
その刹那に間合いを詰めた。
すでに軸足に体重が乗っている彼は、バックステップで逃げることができない。
両手による迎撃にのみ意識を割き、懐へ潜り込む。
そのまま、彼の軸足を足首で刈り上げた。
ムエタイ選手は、重心の安定とバランスを保つ訓練を骨の髄まで叩き込まれている。
空手家がムエタイ選手のバランスを崩す場面など、そう滅多に見られるものではない。
ましてや、それがチャンプアなら不可能に近い。
だが鵜飼貞夫直伝の空手はこれを得意とする。
だから、そのチャンプアが、一介の高校生空手家に転がされた。
ムエタイの誇りにかけて、これほどの屈辱はないはずだ。
ただ俺はあえてそれを狙った。
精神的な揺さぶりをかけるために。
でもそれ以上に、相手の得意な土俵の一角を俺の空手で崩しておきたかったという矜持があったのも事実だ。
即座に跳ね起きたチャンプアの瞳には、先ほどまでの冷静な光はない。
そこにあるのは、剥き出しの憎悪だ。
さて、チャンプアはそろそろ気づいてくれただろうか。
もう少しギアを上げなければ、すべての技を俺に封じ込まれるということに。




