王者の歓喜
「……とてつもなく、楽しい」
神沼翔が、心の中でそうつぶやいた時、目の前の男、チャンプア・プラムックもまた、同じことを思っていた。
チャンプアは、見た目が普通過ぎる高校生を侮ってはいなかった。
しかし逆に、必要以上に過大評価をする理由もなかった。
チャンプアが神沼翔をこの場に呼び寄せた理由は、ただ一つしかない。
「鵜飼貞夫の孫であり、唯一の弟子である」
正直、彼には申し訳ないことをしたと、チャンプアは少しばかりの罪悪感を感じていた。
それは神沼翔と対戦したいという彼の至極個人的な我儘を、高野CEOに通してしまったことに対してだ。
しかも、たとえ鵜飼貞夫の弟子とはいえ、相手はまだ身体が出来上がっていない高校一年生だ。
さらに、彼は試合に一度も出たことがないという。
そんな人間と俺がまともに戦えば、大変なことになる。
だから俺は彼の動きから鵜飼貞夫の技を完全に封じ込める。
それができれば、それだけでいいのだ。
少年の空手生命を奪うような無残な結末など、王者のプライドにかけて微塵も望んでいなかった。
チャンプアが用意したシナリオは明快だった。
「最初の一撃で終わらせる」
それが、実力差のある相手に対する最大級の慈悲であり、安全策だった。
かつてのチャンプアは、鵜飼貞夫の最初の一撃すら対処できず、何度も飛ばされた。
それを逆にやり返す。
それでジ・エンドだ。
だから彼は最初の一撃に、全力で神沼翔を葬り去る最上の攻撃を放った。
予定通り、神沼翔が動いた瞬間のコンマ何秒に狙いを定めて。
彼のその攻撃は、神沼の安全を最大限に考慮した一撃だった。
頭部へのダメージは与えたくない。
だからチャンプアは中段で沈める技を選択した。
左のミドルキックでは右のレバーを直撃してしまい、内臓へのダメージが大きすぎる。
だからチャンプアは右のミドルキックを、左脇の見えない角度から摺り上げるようにしてクリーンヒットさせようとした。
これなら体を貫通させて腹部全体を揺らすことで、致命傷を避けつつ沈められる。
いよいよチャンプアの攻撃が、神沼翔の左脇に触れようとした、その刹那だった。
ほぼ同タイミングで、神沼翔の右の中段蹴りがチャンプアの左脇に吸い込まれていた。
「……っ!!」
チャンプアはとっさの判断で、間一髪その攻撃をブロックした。
チャンプアという男は、自身の攻撃が当たらなければ、無意識に当たるまで攻撃を出し続ける身体にまで鍛え抜かれている。
神沼翔に最初の一打を「やすやすと」かわされ、しかもそれだけではなく、一歩間違えればチャンプア自身が沈められていたほどのピンポイントな急所へのリターンが返ってきたことで、その「連続攻撃モード」が自動的に発動した。
チャンプアは最初の一撃の直後から、十発ほどの目にも止まらぬ連続攻撃を繰り広げた。それは当初抱いていたような相手の身体を慮る攻撃ではない。
相手を潰しに行く全力の攻撃であった。
いや、正確には少し違う。
すべてのチャンプアの攻撃を顔色一つ変えずに捌き切り、すべての攻撃に対して正確無比なリターンを返す神沼翔の対応が、チャンプアの動きに変調をきたしていた。
チャンプアはこの連続攻撃モードに入って、相手が倒れなかったことがかつて一度もなかった。
すべての対戦相手が、この猛攻の中で地を這った。
だが目の前の少年は地を這うどころか、すべての攻撃を処理した上で、チャンプア自身が地を這う光景をありありと想像させていた。
踏み込めば、合わせられる。 腕を振り抜けば、その死角から拳が飛んでくる。 神沼翔が放つリターンの軌道があまりに冷徹で、急所だけを正確に射抜こうとするため、チャンプアの肉体は本能的にブレーキをかけていた。全力の攻撃を出すことを、彼の生存本能が躊躇させていた。
(なんだ、こいつは?)
チャンプアは理解が追いつかないほどに一瞬混乱した。
しかも目の前の高校生は、すでに次の一手のための間合いの位置取りも完了させ、最初の構えに戻っている。
さらに恐ろしいのは、まるで散歩の途中であるかのように顔色一つ変えていない。
かつて歯が立たなかった鵜飼貞夫。
でも、それは所詮子供のころの実力がないころの経験だ。
もしかすると、思い出補正で過大評価していただけかもしれない。
高校生まで巻き込んで、その彼が普通の空手家で、幻想が崩れたら……その可能性は大いにあると思っていた。
しかし、そんな予想はチャンプアの想像をはるかに超えた光景として、目の前に出現していた。
全く、鵜飼貞夫。とんでもないモンスターを作り上げていやがった。
そう心でつぶやいたチャンプアの顔は、ただ、歓喜にあふれていた。




