見えない攻防
昔、祖父の勧めで、司馬遼太郎の「風神の門」という江戸時代の忍者歴史小説を読んだことがあった。その小説の主人公である伊賀忍者「霧隠才蔵」が剣豪「宮本武蔵」と対峙する場面がとても印象的だったのでよく覚えている。
その小説では、宮本武蔵が「見切り」という「技」を見せた。よく格闘技漫画、アニメで相手の技を貰わなくなると「みきったあ~」と言う(叫ぶ?)シーンをよく見るが、つまりこれのことだろうと思う。
そのシーンでは、武蔵は相手を見据えるだけで、相手が身動きができない状況に追い込んでいた。つまり相手がどう動こうが、その瞬間に相手を切り捨てることができる間合い、角度、身体の状態を作り出すことができる能力だ。
武道家の性だろうか、俺は人が近くに寄ると距離、視線、身体の角度、等を無意識のうちに「いつでも相手を倒せる状態」に身体をセットしてしまう癖がある。宮本武蔵までの域とは言わないが、これも「見切り」なのだろうと思ったものだ。
さて、問題は……さっきの邂逅で、チャンプは俺に「見切り」を最後までさせなかったということだ。
「伊波は~」とふざけた問いかけで控室に入ってきたわりに、最後まで俺の「見切り」をかわし続けた。俺の一挙手一投足の動きにいちいち反応したため、俺はついに最後までチャンプアを「見切る」ことができなかった。
しかもだ。
なんと俺に隙あらばチャンプアが「俺と同じこと」をしようとしていたのだ。
つまり「見切りのとりあい」という静かな攻防が、くだらない会話をしながら静かに行われていた。
未惟奈はおそらくそれに気づいていたようだ。そして俺が見る限りチャンプア以外の「ムエタイ選手」でそれに気付ていた人間はいない。
そもそもムエタイにこのような「武道的な技」があるとは思えないから当たり前だ。きっとチャンプアという天才が独自にその域にたどり着いてたに違いない。想像はしていたが、改めてそんなチャンプアの底なしの「力」に俺は警戒心を上げざるを得なくなった。
……確かに春崎が言うように入り口でもたもたしてる場合ではなかったのかもしれない。
「翔?今のどう思った?」
美惟奈は少しだけ心配なそぶりで俺に訊ねた。
「今の……というのは?」
美惟奈の俺への問いかけに、俺より先に春崎須美が眉間に皺を寄せ、そう反応した。美惟奈の言葉の意味が春崎にはわからない。だから俺は「それ」を説明してあげた。
「チャンプアは、ここに来てから最後まで少しの隙も見せずに去って行った、ということですよ」
俺はまるで日常会話と変わらないトーンでそう解説した。
「は?……よく意味が分からないんだけど?未惟奈ちゃんも横にいてそれが分かったの?」
春埼は顔を引きつらせながら、またまた信じられないという表情に戻っていた。
「私は気付いてあたりまえでしょ?」
未惟奈は「誰にものを言ってるの?」と言わんばかりに不快な表情で言う。
「だって、翔くんは武道の達人的なところがあるから、きっとそんなことも出来たりするのかな?なんて思ったけど未惟奈ちゃんはスポーツ側の人でしょ?」
「はあ?!私だってもう翔から随分武道空手の指導受けているんだからね!」
未惟奈が挑むように言う。
「で、でも一年も経ってないでしょ?」
春崎がそう返したが、確かにその通りだ。俺が未惟奈の指導をスタートさせたのは去年の夏前だ。それなのに「私も武道の達人よ!」という立ち位置にすでに来てしまっているのがなんとも恐ろしい。
「一年あれば十分でしょ」
未惟奈がシレっという。
「普通の人はそうならないからな?天才少女さん」
さすがの俺も苦笑いでそう言った。
「ホント、あなたたちと一緒にいると、漫画や小説の世界にいると勘違いしそうになるわ」
春崎は「恐れ」とも「呆れ」とも思える表情でそんなことを言った。
「そう言えば、さっきチャンプアと一緒にいた取り巻きも選手なんでしょ?」
チャンプアの周りには、俺を揶揄するよう「この高校生大丈夫なのか?」と言ってきたヤツの他に二人いた。その体型から皆ムエタイ経験者でおそらく選手であろうと思っていた。
「え?翔君、今日のカードしらないの?」
春崎はさっきとは違う種類の「呆れ」の表情を見せながら声のトーンを上げてそう言った。
俺はなんか凄くはずかい事を言ってしまったのかと思い咄嗟に美惟奈の顔色を伺った。
すると美惟奈は……
「格上がいちいち格下の試合に興味はないでしょ」
本当に詰まらなそうに、そう投げ捨てた。俺をフォローするためにあえて毒をはいて、ヒール役を買ってでたのもあるだろうが、これが美惟奈の本音でも有るのだろう。
「まあ、俺は格上格下がどうなんてことも興味ないし……そもそも試合に全く興味はない人間ですからね」
美惟奈ばかりを悪者にするわけにもいかず、俺も美惟奈の論調に乗っかった。
「全くあなたたちときたら」
春崎の「呆れ」の顔がますます深くなってきたので俺は話題を変えた。
「そう言えば、有栖天牙に会ったけど……つまりやつも空手側の選手として今来ていた誰かと戦うってことであってますか?」
「もちろんそうよ」
春崎はそう即答してから続けた。
「さっき翔くんをバカにした彼が有栖くんの相手」
「え?そうなんですか?有栖の相手にしては随分小さくないですか?」
さっきに見た選手は、確かに幼少期から過酷なトレーニングに耐えてきたであろうことが分かる「ムエタイ戦士」独特のごつい体つきだったが、おそらく有栖よりは身長、体重共に一回り小さい。
「そうなのよ。実は少しこれは運営サイドでも揉めたんだけど、有栖君が高校生なのに対して相手は年齢が20歳で成人しているし、プロの戦歴も有栖君よりは圧倒的に多いから……表向きには公言していないけど、実質はそれくらいのハンデがあったほうがいいだろうと」
そうか。有栖も舐められたもんだな。まあ、天才有栖天牙の評価をダダ下がりにした張本人が、目の前にいる未惟奈だからな。
プライドの高い有栖からすると、面白くないだろうな……いや、あいつの超ポジティブ思考なら平気で「手加減してあげるから安心しな」とかすでに相手に言ってそうだな。
なんて考えていたら未惟奈が口を開いた。
「さっき彼、相手が小さくて可哀そうだから手加減するとか言ってたわよ」
ほらな。絶対言うと思ったよ。
でも前に北辰高校で突如始まった有栖との対戦とは違い、今日は有栖と俺は同じ「空手チーム」のメンバーということだ。
しゃあないな。一応、有栖のこと応援してやるか。さっきのタイ人ムカついたし。
「ちゃんと二人とも同じ空手チームなんだから、有栖君のことも応援してね」
「ええ、今ちょうど思ってましたよ、応援してやろうって」
「ホント?」
「ホントですって!」
嘘じゃないから俺は思いっきりそういったのだが……隣のお嬢様は……
「私は翔以外の応援なんてしないわよ」
と言い放った未惟奈は少し頬を赤らめていた。
ったく照れるなら言うなよ……そう思った俺もきっと未惟奈と同じような顔になっていたに違いない。




