払えない空気感
「翔くん、こんなに時間掛かって何やってたの?試合前から大丈夫?」
今日、この会場まで車で送迎してくれた春崎須美は、大事な本番を前にいきなりモタモタしてしまった俺に大層不安のご様子だ。
「全く問題ないですよ」
と言ってみたものの、俺も苦笑いせざるを得ない。確かに幸先が悪すぎた。
「全くもう……チャンプアはとっくに会場に入りしてすでにアップしてたわよ」
春崎は追撃の手を緩めない。
ラスト登場のチャンプアが今からアップとか、どんだけ真面目かよ!むろんそんなチャンプアの「真面目っぷり」は知る由もないが……
ただ、すでにヤツが「ここ」にすでにいることは知っていた。
「ええ、確かに奴は会場にいますね」
俺は淀みなく即答した。
「あれ?もう会ったの?」
「いや、会わなくてもわかりますよ。なぁ未惟奈」
「ほんと、この感じ……ウザくてしょうがないわ」
未惟奈はつまらなそうにぼそりという。
「フフフ……」
当たり前のように「その異様な空気」に気付ている未惟奈に俺は笑ってしまった。
「え?何の話をしているの?」
春崎は不思議そうに俺と未惟奈を交互に見た。
この会場に入った瞬間「空気が違う」のだ。
そんなことが分かるのか?
芹沢薫子から大気拳を学んでいくうちに、そんなことが分かるようになった。
俺は、今までに空間の「空気感」を意識する機会が増えた。人が集まる場所では様々な「空気」にあたってしまいクラクラしてしまうことすらある。
そんな時は、テコンドー師範の黄厳勇が見せた「気をキャンセルする」というスキルでそんな「空気あたり」を捌けるようにもなっていた。
しかし、会場に入るやどんなに「キャンセル」しようとしても自己主張をやめてくれない「この感覚」は異常だった。俺はチャンプアのことは「映像」では嫌になる程に見ている。ただ実際に会ったことがない。しかし「おそらくこんな芸当」が出来るのはチャンプア・プラムックその人に違いないと俺の直感が確信していた。
この会場にチャンプア以外でこんなことができる選手が他にいたら大変なことだ。まあ、未惟奈は別格としても。
そういえば初めて未惟奈に会ったときの「感覚」も凄かった。あの圧倒的な「圧力」には驚嘆したものだった。あのときは大気拳を学ぶ以前だが、未惟奈は体育館にいた生徒全員、つまり素人すら黙らせるほどの常人離れした「オーラ」を放っていた。俺と初めて対戦したあの時、その体育館が一瞬しんと静まり返っていのは、一般人をも震撼させる「何か」がそこにあったからなのだ。
しかし、今日今感じる「この感覚」はその時の未惟奈の圧に似てるがきっと種類が違う。すくなくとも「素人には感じない」というコントロールがされている意味でより洗練されている気がした。
侮れない。
分かっていたが、あらためてその思いを強くする。
「え?あなたたち何の話をしているの?」
春崎は、むろんなこんな「感覚」に気づくはずもない。だから、ただただ奇異の目で俺たちを見てそう言った。
「やっぱり春崎さんには何も感じないんですよね?」
そんなことは分かっていたのだが、俺にとってあまりに「あたりまえ」すぎる感覚だったのでついそんな言葉が口をついてしまった。
「翔?春崎さんが分かる訳ないでしょ?」
「まあ、そうだよな、でもほら、だって未惟奈だってあたりまえのように”ウザい”とか言うし」
「は?何で春崎さんと私が同じ土俵にいることになってんのよ?」
未惟奈がむくれながら言った。
ついに春崎はまるでバケモノを見るような「引き攣った」表情を浮かべつつ一言、言葉を絞り出してた。
「あなたたちは何者なのよ、まったく?」
春崎の「何者」は無論「バケモノ」と言いたいのだろう。
まったく普通の男子だと思っていたのについには「バケモノ」扱いか。でも確かに「バケモノ」でもない限り未惟奈はともかく俺にような高校生がこんな大舞台のいることができるはずがないのかもしれない。
俺はそんな春崎をしり目に未惟奈に話をふる。
「そういえば伊波に会ったか?」
俺は煩すぎるチャンプアの感触から少しでも気を逸らすために話題を変えることにした。さっき会場入り口であった伊波紗也子はおそらくタイミング的に未惟奈とすれ違ったはずだ。
「ええ、さっき翔と仲良く話してたじゃない」
なんだよ、見てたのかよ?だったら、いつものように電光石火のごとく「カットイン」してくれてもよかったのに。
未惟奈はすでに不機嫌だ。うっかり?伊波とのやりとり見られていたようで……別に仲良く話したつもりはないんだが。
「まあ、未惟奈の対戦相手だからな、体調のチェックでもしておこうと思ったのだ」
俺は伊波とくだらない茶番をしつつも、伊波の「調子」を探るべく伊波の「動き」には特段注意を払っていたのは事実だ。
「女子の体調チェックとか……やらしい。女性の身体ジロジロ見てたら通報されるレベルよ」
「おいおい、そんなわけ無いだろ」
未惟奈の対戦相手だぞ?……そこはしっかりチェックしておくべきだよね?間違ってないよね?健康男子の邪心は、なかったと……思う?!
「それに、なんで私が伊波さんの体調をに気にしなきゃなんないのよ?おかしいでしょ?」
「いやいや、それは未惟奈がおかしいだろ?対戦相手だぞ?」
先を歩く未惟奈は、振り返りながらキッ!とばかりに俺を睨みつけながら言った。
「伊波さんがどんなに調子だろうと、万が一にも私に歯が立つはずがないでしょ!」
未惟奈のイライラはさらに強くなり語気も粗くなる。
確かにそれは未惟奈の言う通りかもしれない。俺の中でも実は伊波が未惟奈に勝てるイメージが全く浮かばない。
ただ、さっき伊波が全く緊張も動揺もしていないその態度が妙に気になった。
「ってかさ!翔はなんで久々にあった伊波さんとなんであんな仲良く話してんのよ!」
「え?そっち?」
俺は試合前だというのに、全くいつも通りのヤキモチを炸裂する未惟奈のメンタルに呆れた。
その時だ……
少しだけ和やかになった空気が一変した。
少しだけ未惟奈の頬が引きつったように見えた。
きっと俺も同じような顔をしていたに違いない。
「翔くんは随分と伊波と仲良しなんだな」
その男は、そんなセリフと共にむせ返るような異様な「空気」と共に現れた。




