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第九章 残る者

 翌朝の空は、前の日よりも高かった。


 雲がないぶん、光の来る筋がまっすぐで、校舎の白い壁が朝から少しきつく見える。

 廊下の窓はすでに開け放たれていて、板の匂いに夏の乾いた風が混じっていた。

 女学校の朝というものは、何もかもが早い。鐘が鳴る前から、女学生たちの袴の裾が廊下をかすめ、教室ごとに椅子を引く音が揃い、朝礼の歌まで、誰かがどこかで決めた通りの高さで始まる。


 省吾は、そういう整い方が朝から気に障った。


 気に障るのは、整っていることそのものではない。整っているものほど、どこかに隠している綻びがある。その綻びを見つけると、たいてい人はまず隠す。次に、見なかったことにする。最後に、綻んだもののほうを外へ出す。

 昨日から、この学校の空気はまさにその顔をしていた。


 資料室へ入ると、机の上に今日の時間割が置いてあった。佐和の字で、必要なことだけが端正に並んでいる。

 作文、英語、午後に講話。講話という言葉を見て、省吾は顔をしかめた。女学校の講話ほど、碌でもないものは少ない。教える側だけが気持ちよく、聞かされる側は大抵黙って痩せる。


 その時、廊下を急ぐ足音がした。若い女教師が戸口へ来て、少し息を切らせたまま言う。


「久世さん、水原先生が、会議室へ来てくださるようにと」


「朝から会議か」


「はい……」


 その顔つきで、もう何が始まるかはおおよそ知れた。


 会議室は校長室の隣にある、小さな部屋だった。

 長机が一つ、椅子が数脚、壁に学則の額。窓際に花まで置いてあるのが、かえって白々しい。

 中には校長と佐和のほか、寮監の婦人、それから寄宿舎の会計を預かるらしい年嵩の事務員がいた。皆、座っているのに、誰も腰が落ち着いていない。


 校長が、いかにも落ち着いた声を作って言った。


「お忙しいところを失礼します」


「忙しくないから呼ばれたんだろう」


 校長は笑わなかった。今日は笑って済ませる気のない顔である。


「河村鞠子さんの件です」


「だろうな」


「昨日から少し行き違いがあるようなので、念のため話を整えておきたいのです」


 省吾は椅子へ腰を下ろさず、杖をついたまま壁際に立った。


「整える?」


「ええ。本校としても、生徒の将来を思えばこそ――」


「またそれだ」


 校長の眉が少し動いたが、今度は受け流さなかった。


「久世さん。私は本校の長として申しているのです。河村さんは優秀な生徒です。しかしながら、家庭の事情、親類との関係、学校内の風聞、それらを総合して考えると、今後このまま在籍を続けるのが本人にとって幸福かどうかは、慎重に見極めねばならない」


「退学にする気だな」


「そのような乱暴な言い方は――」


「乱暴なのは俺の言い方じゃない。中身の方だ」


 寮監の婦人が、思わず口を挟んだ。


「でも、本当に噂が広がっておりますの。下級生まで知るようでは……」


「それで本人を切るのか」


「切るだなんて」と校長が言った。「むしろ、しばらくご家庭で静養し、また適当な時期に――」


「戻れない形にしておいて、言葉だけ柔らかくするな」


 校長の顔色が変わった。佐和は、机の端に置いた指へ少し力を入れたまま黙っている。

 昨日、自分で言ったのだ。

 ここに残る者は、明日も生徒の顔を見なければならないと。だから今の沈黙にも、沈黙なりの計算があるのだろう。


 だが、その計算の遅さが省吾には苛立たしかった。


「学費だろう」と彼は言った。


 会議室が静まった。


「何がです」と校長が言う。


「河村の家が苦しい。親類から援助を受けてる。その親類の息子が出入りした。その事実を利用しただけだ。品位だの風聞だのは所詮飾りだ。要するに、金のない生徒を、金のある親類の顔で処理したいだけだろう」


 事務員の婦人が、目を伏せた。寮監も黙る。校長だけが言葉を探した。


「……あなたは、事情を単純になさりすぎる」


「複雑にして得するのは、お前方だ」


 そこで佐和が、ようやく口を開いた。


「校長先生」


 声は低かったが、よく通った。


「河村さんは、この春の成績で学年でも上位でした。作文も英語もよくできる。授業態度にも問題はありません。現時点で、退学や休学を勧める理由として、公に出せるだけの瑕疵は何一つないと、私は思います」


 校長が、ゆっくりそちらを向く。


「水原先生、それは理屈としてはそうかもしれません。しかし学校は理屈だけでは――」


「ええ、学校は理屈だけでは動きません」と佐和は言った。「ですけれど、理屈で支えられない処置は、たいてい誰かの顔色で決まります」


 その言葉は、昨日までの佐和なら、ここまで真っ直ぐには出さなかったかもしれない。言っている本人にも、その自覚があるらしく、言い終えたあとで目を逸らさなかった。

 逸らせば負けると知っている顔だった。


 校長は沈黙した。


 長机の上の花が、妙に場違いに見えた。

 朝から替えたばかりらしい水が、ガラスの中で明るい。こういう部屋では、ものがきれいなほど話の中身が濁る。


「では、どうなさるおつもりです」と校長が言った。「援助を打ち切られた場合、本校が学費を負担するのですか」


 佐和は少しだけ言葉を探した。そこへ省吾が入った。


「それくらいのことか」


「それくらい?」と校長がすぐ反応した。


「学費の穴だ。いくらだ」


 事務員の婦人が戸惑いながら数字を言った。省吾は鼻で笑った。


「大した額じゃない」


「あなたにとってはそうでなくとも、本校のような私学では――」


「寄付はあるだろう」


「寄付には使途があります」


「便利だな、また」


 校長はついに苛立ちを隠さなくなった。


「久世さん、あなたは部外の方です。本校の経理も運営もご存じない」


「知る必要もない。顔を見りゃ足りる」


「何ですと」


「河村を残せば、誰かの機嫌を損ねる。河村を出せば、数字はきれいで、話も早い。そういう顔だ」


 寮監の婦人が、小さな声で「そんな……」と言いかけてやめた。否定したかったのではない。ただ、口にされてしまうと、もう以前のような顔をしてはいられぬからである。


 その時、廊下の向こうで鐘が鳴った。

 授業開始の合図だった。

 どの教室でも、今ちょうど娘たちが椅子へ腰を下ろしている頃だろう。

 女学校の一日が、何事もない顔で動き始める。その何事もない顔の裏で、一人の娘の行き先だけが、こうして大人たちの都合で量られている。


 佐和が立ち上がった。


「校長先生、私は授業へ参ります」


 校長は目を上げた。


「水原先生」


「河村さんの処置は、少なくとも今日のうちに決めるべきではありません。お母様とも、私がもう一度お話しします。そのうえでなお学校のご判断が変わらぬなら、その時はその時に考えます」


 言い切ったあと、佐和は省吾のほうを見なかった。

 見れば、借りた力を認めるようで癪なのだろう。だが、その背筋は昨日よりまっすぐだった。


 校長は長くは引き止められなかったらしい。「……分かりました」とだけ言う。口調は渋かった。


 会議室を出ると、廊下の空気が会議室の中よりましに思えた。

 教室ごとに授業が始まり、声が小さく重なっている。

 生徒たちは何も知らぬ顔で、あるいは知りながら知らぬ顔で、ノートを開いているのだろう。学校とはそういう場所だ。壊れる時ですら、半分は平然としている。


 佐和は数歩先を歩いていたが、階段の手前で止まり、振り返らぬまま言った。


「ありがとう、とは言いません」


「ああ」


「でも、あなたは本当に嫌なところで人を押すのね」


「転がりやすそうだったからな」


「自分は?」


 その問いには、省吾もすぐには答えなかった。


「転がってるさ」と彼は言った。


 佐和はそこで初めて振り向いた。

 怒ってもいないし、笑ってもいない。ただ、その返事だけは冗談でなく受け取ったらしい目だった。


「そういうことを、平気で言うのは卑怯よ」


「何でだ」


「こっちが、それ以上言えなくなるもの」


「言わなくていい」


「そうやって、また閉めるのね」


 それだけ言って、彼女は階段を上がっていった。


 午後の講話は、結局、うやむやになった。校長が別の用で出てしまい、代わりに作文の講評をすることになったのである。佐和の差し金かもしれなかった。


 省吾は昨日集めた作文を教壇へ持ち込み、何枚か抜き出して読んだ。褒めるために読むのではない。どこで人が自分の言葉を失い、どこで取り戻しかけているかを見るためである。


「これは駄目だ」と言って一枚置く。


「母の徳ばかり書いて、自分が消えてる。お前は家にいないのか」


 女学生たちは息を呑んだり、笑いを堪えたりした。


「これは少しましだ。嫌いな親類の鼻の形だけ書いてる。顔の嫌なところを書く時、人は少しだけ本音が出る」


 教室のあちこちで、肩が震えた。

 笑っているのだ。

 こういう笑い方は、先生方の前ではあまり許されぬのだろう。


 最後に、鞠子の作文を手に取った。


 名前は伏せたまま、一節だけ読む。

 父が黙って箸を置く時、襖の木目ばかり見てしまうというくだりである。読み終えると、教室は妙に静かになった。


「こういうのだ」と省吾は言った。「立派じゃなくていい。上品でなくていい。自分がそこにいる文を書け」


 その時、教室の後ろの扉が静かに開いた。

 振り返ると、鞠子が立っていた。制服ではあるが、少しやつれて見える。顔色は白いままだったが、目は昨日より落ち着いていた。

 おそらく佐和が、今日のうちに教室へ戻すと決めたのだろう。


 教室がざわついた。だが省吾は何も言わず、ただ空いた席のほうを顎で示した。

 鞠子はまっすぐそこへ歩き、座った。誰も口を利かなかったが、その沈黙の中で、彼女が「まだここにいる」ことだけは、皆の目にくっきり見えた。


 授業のあと、女学生たちが廊下へ出てゆく時の顔は、昨日より少しだけ動いていた。

 好奇心、安堵、少しの尊敬、それから面倒なことに巻き込まれたくないという臆病。

 若い娘の顔には、たいがいそれが一緒にある。


 校門のところまで出ると、佐和が追いついてきた。


「鞠子さんは残れることになりそうです」


「そうか」


「親類の家と学校で、少し話がついたの。学費は、奨学の名目にして一部を学校でみることになりました。校長先生は苦い顔でしたけれど」


「寄付の顔が立つ言い方を考えたな」


 佐和は少しだけ笑った。


「学校というのは、そういう言い方でしか動かせないこともあります」


「知ってるさ。だから面倒だ」


「でも、残れる」


「ああ」


 そこで二人はしばらく黙って歩いた。

 校門の外は、町へ続く道が白く乾いている。午後の光が傾きはじめて、校舎の影が長く地面へ落ちていた。


「あなたは、明日にはお帰りになるのね」と佐和が言った。


「長居する義理はない」


「ええ」


 返事はそれだけだった。だが、その「ええ」には、ほっとするような寂しさが少し混じっていた。


 省吾はそれを聞き逃さなかったが、何も言わない。言えば、また余計なものが壊れる。


 佐和が足を止めた。


「昨日、あなたに言ったこと、覚えている?」


「何をだ」


「残る者は、残るからこそ言えないことがある、と」


「覚えているさ」


「あなたは正しいことを言うわ」


 佐和は省吾を見た。夕方の光がその頬の片側だけへ当たり、目元の影を少し深くする。


「でも、あなたは残らない」


 その言葉は責めるようでいて、責めるだけでもなかった。

 むしろ、そういう人間を初めて正確に呼んだ時の静けさがあった。


 省吾は杖の先で地面を軽く突いた。白い土が少し崩れる。


「残れと言うのか」


「言わないわ」


「だろうな」


「言えないもの」


「それでいい」


「よくないかもしれない」


 省吾は笑わなかった。こういう時に笑うと、場が安くなる気がした。


「お前は残れ」と彼は言った。「残って、ああいう娘を一人でも多く学校に置け。俺には出来ん」


 佐和は少しだけ目を細めた。


「それは、褒めているの」


「半分な」


「残り半分は?」


「……お前も、いつか疲れて嫌になる」


「もう、時々嫌になっているわ」


「そうか」


「そうよ」


 そこまで言って、佐和はふっと笑った。これまでで一番自然な笑いだった。疲れているのに、疲れていることを少し笑える時の顔である。


「本当に、嫌な方ね」と彼女はまた言った。


「言い過ぎだ」


「足りないかもしれない」


「立派だな」


「それは皮肉でしょう」


「半分はな」


 言葉がそこまで来ると、二人とも少しだけ笑った。笑って、それ以上近づくことはしなかった。

 近づけば、多分この二人はうまくいかない。そういう種類の相手だと、もう互いに分かっていた。


 翌朝、省吾は早く学校を出た。

 校長は最後まで、表向き整った礼を崩さなかったが、その整い方の中に省吾を歓迎せぬ気持ちが混じっているのは明らかだった。寮監の婦人はほっとした顔をし、若い女教師たちは少し名残惜しそうにし、女学生たちは廊下の窓から小さくこちらを見た。


 鞠子も、その中にいた。


 彼女は窓辺に立ち、他の娘たちのようにひそひそもせず、ただ一度だけ軽く会釈した。

 省吾も、ほんの少し顎を動かして返しただけである。それで十分だった。


 校門の手前に佐和が立っていた。見送りに出ると決めて来た顔ではない。だが、来なければ気持ちが悪いと分かって出てきた顔だった。


「道中、お気をつけて」と彼女は言った。


「そういう柄じゃない」


「知っています」


 少し間があった。


「作文の課題、あれは少し卑怯でした」と佐和が言った。


「何が」


「皆、自分の家のことを考えてしまったもの」


「それでいい」


「ええ。……でも、しばらく生徒たちが私に、前より本当のことを言うようになったら、あなたのせいだと思う」


「それは災難だな」


「そうかもしれないわ」


 佐和はそこで、昨日の言葉をもう一度確かめるように言った。


「あなたは正しい。でも、残らない」


「くどいな」


「大事なことだから」


「お前のほうこそ、言っておく。残るなら、たまには嫌われろ」


「もう、ずいぶん嫌われています」


「まだ足りん」


「意地悪」


「よく言われる」


 佐和はそれに答えず、ただ少しだけ視線を外した。校門の白い柱に朝の日が当たっている。夏の明るさは、別れの時まで容赦なく明るい。


「では、さようなら」と彼女が言った。


「さようなら、か。便利な言葉だな」


「またそれ」


「二度と会わん時にもちょうどいい」


「会うかもしれませんよ」


「会わんほうが、お互い平和だ」


「それもそうね」


 佐和は笑った。今度は本当に笑ったのだが、笑いながらも、その目の奥には少し暗いものが残っていた。省吾も、それを見て見ぬふりをした。


 彼は杖をつき、門を出た。背後では、女学校の一日がまた整った顔で始まってゆく。鐘が鳴り、廊下を娘たちが走らぬように急ぎ、どこかの教室で本が開く。


 省吾は振り返らなかった。


 振り返れば、あの長い廊下がまた目に入りそうだった。あの廊下には、残る者の足音がいつまでも吸い込まれていく。自分の足音は、そういうところには向いていないと、もう知っていた。

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