第八章 退学者
その日の午後、久世に与えられた最初の授業は、上級生の作文だった。
教室へ入ると、三十人ばかりの娘たちが一斉に立った。椅子と机が整然と並び、窓は開いているのに、室内の空気はどこか閉じている。
黒板の脇には「質実温雅」と書かれた札が掛かっていた。
達筆で、嫌味なほど堂々としている。
「ごきげんよう」と一人が言い、続けて全員がそれを真似た。
省吾は教壇の前で杖を止めた。
「ごきげんよう、か。ずいぶん結構だな」
何人かが顔を見合わせた。笑ってよいものか迷う、若い娘らしいためらいがすぐに教室へ広がる。
「座れ」
生徒たちは、また一斉に腰を下ろした。
佐和が教室の後ろへ立っている。監督というほど露骨ではない。
だが、初日の客人に好き勝手はさせまいという気配は十分あった。省吾はそれを知っていて、黒板へ背を向けずに言った。
「今日は作文を見るそうだ。大層なことを書くな。見栄を張るな。先生が喜びそうなことを並べるな。書いた瞬間に落第させるぞ」
前列の一人が、思わず小さく息を漏らした。笑いかけて飲み込んだらしい。
佐和は眉を寄せたが、止めなかった。
「題は何でもいい。ただし、自分で見たことだけ書け。誰かに教わった立派な話はいらん。親孝行だの女徳だの、そういうものは、こっちが頼みもしないのに大抵紛れ込んでくる。そういうのを削ったあとに残るものを書け」
沈黙が落ちた。女学生たちは、困った顔をしつつも、どこか目を輝かせていた。こういう言い方をされることに慣れていないのだろう。
省吾は教壇の上へ腰を掛けず、教室を見回した。
「題を一つやるなら――そうだな、『家の中でいちばん息の詰まる時』にしろ」
今度は、はっきりとざわめいた。娘たちは互いの顔をちらと見た。誰か一人がくすりと笑い、それにつられるように、いくつかの口元がほどける。だが、すぐに皆、後ろにいる佐和のほうを気にした。
佐和は省吾を見た。
「少し難しいのではありませんか」
「難しいか」
「書きにくいでしょう」
「書きにくいことしか、本当は書く値打ちがない」
佐和は何か言いかけ、やめた。生徒たちはもう筆を取っている。むしろ止めるほうが不自然だった。
省吾はゆっくり教室を歩いた。歩くたびに杖の音が床へ小さく響く。
最初のうちは、その音に気を取られていた娘たちも、やがて自分の紙の上へ沈んでいった。筆先が紙を擦る気配は、雨ほどではないにしても、妙に人の気を落ち着ける。
ただ、一つだけ空いた席があった。
河村鞠子の席である。
そこだけ、机の上に何もなく、しかし片づけられすぎてもいない。今日になって急に欠けたというより、午前から誰も触れずに残してある感じがした。
授業の終わりに紙を集めると、省吾はざっと目を通した。
案の定、「母上のご恩」「妹の無邪気」「自分の未熟」など、どこかで聞いたような言葉が並ぶものが多い。
悪くはない。だが、悪くないだけで、みな同じ顔をしている。
その中で一枚だけ、妙に乾いた文があった。
昼の食卓で、父が黙って箸を置く時のこと。
誰も何も悪いことをしていないのに、その沈黙だけで家中が固くなること。母は汁椀の位置を直し、弟は咳を我慢し、自分は襖の桟の木目ばかり見ていること。そこには「息が詰まる」という言葉は一度も使われていないのに、読んでいて胸が狭くなる。
署名はなかったが、最後の行の癖で、省吾には分かった。
河村鞠子のものだ。
午前に教室へ出ていなかった娘の席から、どういうわけか紙だけが提出されているらしい。
授業が終わると、娘たちは立ち上がり、また一斉に礼をした。
「ごきげんよう」
「よせ」と省吾が言った。「気味が悪い」
今度は、何人かがはっきり笑った。佐和はため息をついたが、その顔に怒気は薄かった。
教室を出たあと、資料室で作文の束を机へ置くと、佐和がすぐ入ってきた。
「最初からああいう題を出す方は初めてです」
「そうか」
「生徒たちが面白がっていました」
「それは結構だ」
「でも、あとで校長先生がご覧になったら、何と言うか分かりません」
「品位がない、とでも言うだろう」
「……多分」
省吾は束の中から鞠子の作文を抜き出した。
「これ、河村のだな」
佐和の目がわずかに動いた。
「なぜそう思うの」
「お前の学校の優等生どもにしては、言葉が痩せてる。余計なことを覚える前の頭だ」
佐和は紙を受け取り、読み直した。もう一度読む必要もないものを読む顔だった。
「ええ、鞠子さんのです」
「教室にいないくせに、紙だけ出すのは妙だな」
「寮監が届けたのでしょう」
「事情、か」
佐和は机の端へ指を置いた。
「あなた、しつこいのね」
「気になるから訊いてる」
「気にするほどのことではありません」
「なら、隠すな」
佐和は少し黙った。その沈黙が長くなりそうになると、窓の外の蝉の声が妙に耳についた。
夏の終わりにはまだ遠い、力の強い鳴き方だった。
「河村さんのお父上は、地方で小さな役をしておられた方です」と、佐和はようやく言った。「数年前に亡くなられて、今はお母さまと弟妹がいらっしゃる。学費は親類の援助でどうにか続けてきたのだけれど……」
「足りなくなった」
「ええ」
「それだけなら退学にはまだ早い」
佐和は視線を伏せた。
「援助している親類の家の息子さんが、少し出入りなさっていたの」
「なるほど」
「でも、鞠子さんが何かしたと決まったわけではないのよ。ただ、噂だけが先に立って……」
「学校は困る」
「困るわ」
「お前も」
「……ええ」
そこまで聞けば十分だった。
金が足りぬ家、援助する親類、年頃の娘、学校の体面。品位という札が、ここでは「都合の悪い事情を切り捨てる」ための布に使われようとしている。
「校長は何と言ってる」
「まだ何も決めていません」と佐和は言ったが、その声には自分でも信じ切っていない薄さがあった。
「決めてる顔だ」
「そうかもしれない」
「お前は止める気か」
「止めたいわ」
「その言い方じゃ止まらん」
佐和は顔を上げた。
「では、どう言えばいいの」
「自分で考えろ。俺はお前の校長じゃない」
「その言い方はずるいわ」
「そうか」
「そうよ。見抜くだけ見抜いて、あとは人に投げる」
省吾は少しだけ目を細めた。
腹が立ったのではない。痛いところへ手を入れられた時の、あの小さな反応である。
「お前も似たようなものだろう」と彼は言った。「守りたい顔をして、学校が壊れるほどの喧嘩はしたくない」
佐和は返さなかった。返せなかったのだろう。
その日の夕方、省吾は寮のほうへ歩いた。佐和に行くなと言われたわけではない。だが、行ってほしいとも言われていない。
そういう曖昧な時ほど、省吾は行ってしまうのだった。
女学校の寮は校舎の裏手にあり、二階建ての細長い建物だった。
白い壁に夕日が斜めにかかり、窓の桟だけが濃く見える。寮監らしい中年の婦人に名前を告げると、相手はひどく困った顔をした。
「河村さんに、ですか」
「そうだ」
「今は少し……」
「騒ぎはしない」
「そういう問題ではなくて」
「大層だな。会えば天井でも落ちるのか」
寮監は困りながらも、結局、小さな応接間へ通した。
間もなく鞠子が来た。昼の教室で見た時よりもさらに白く見える。だが姿勢は崩れていない。崩さぬことで、どうにか自分を保っているのだろう。
「何か御用ですか」と彼女が言った。
「作文の礼を言いに来た」
鞠子は少し驚いたように目を動かした。
「礼?」
「下手な優等生の文を十枚読むよりはましだった」
鞠子の口元が、今度ははっきりと動いた。笑う一歩手前で止まる顔である。
「それは、褒めていらっしゃるの」
「半分な」
「残り半分は?」
「もう少し人を憎んでもいい」
鞠子は省吾の杖へ一度だけ目を落とし、すぐに顔へ戻した。その視線の運び方が、嫌に慣れていた。見てはいけないと教えられてきた者の見方だ。
「先生は、妙なことを仰るのね」
「先生じゃない」
「皆そう呼ぶわ」
「勝手だな」
「学校ですもの」
そこまで言ってから、鞠子は少し黙った。
小さな部屋の中に、夕方の気配がひっそり溜まっている。ガラス窓の向こうで、誰かが廊下を渡る音がした。
「私、退学になるのかしら」と鞠子は急に言った。
声は平坦だった。泣いてはいない。むしろ、泣く時期を通り過ぎた者の声だった。
「まだ決まってないだろう」
「決まる前のほうが、皆いろいろ言うの」
「そうだろうな」
「何もしていないのよ」
「知っている」
鞠子は目を見開いた。
「どうして」
「してたら、もっと違う顔をしてる」
少女はしばらく省吾を見ていた。自分を信じると言うでもなく、慰めるでもなく、ただそう見えるからそうだと言う男に、どう返してよいか分からぬ顔だった。
「お母さまがね」と彼女は言った。「もうやめて戻って来てもいいと言うの。学問なんて、女には贅沢だったのだって」
「お前はどうだ」
「分からない」
「嘘つけ」
鞠子は少し唇を噛んだ。
「……やめたくないわ」
「それでいい」
「でも、やめたくないと言うと、余計にお母さまを困らせるの」
「それも本当だろうな」
「先生は、やさしくないのね」
「知っている」
鞠子は今度こそ少し笑った。笑うと、年相応の顔になる。それがかえって痛々しかった。
部屋を出ると、廊下の向こうに佐和が立っていた。最初からいたのか、途中で来たのかは分からない。だが彼女は二人の会話を半分ほど聞いていた顔だった。
「来ると思っていました」と言った。
「なら止めろ」
「止まる方ではないでしょう」
「そうだな」
二人は並んで外へ出た。
夕空の端が少し紫がかり、校庭に立つ木の影が長く延びている。人のいない校舎は、昼間よりさらにきれいで、きれいなだけ余計に無慈悲に見えた。
「鞠子さんは聡いの」と佐和が言った。「だから余計に、学校には扱いづらいのよ」
「ここの学校だけじゃない。どこでもそうだ」
「そうかもしれないわね」
省吾は杖で土を少し掻いた。
「お前、あいつを守る気があるなら、明日には校長とやりあえ」
「やります」
「負けるなよ」
佐和は歩みを止めた。夕方の光の中で、その横顔が少し厳しくなる。
「あなたにそう言われるのは、腹が立つわ」
「それは心外だな」
「だって、あなたは明日になれば、ここを去っても困らないもの」
省吾は即座には答えなかった。答えなかったが、佐和の言うことが正しいのは分かった。
正しいことを言われると、人は腹が立つより先に、少し静かになる。
「そうだな」と彼は言った。「だから今のうちに言うんだ」
佐和はそれを聞いて、怒るでも笑うでもない顔になった。窓の向こうの長い廊下に、夕日の色だけが残っている。
「あなた、本当に嫌な方ね」
「お前もそればかりだな」
「だって他に何と言えばいいの」
「立派だ、とでも言っとけ」
「冗談じゃないわ」
そのやり取りのあと、不思議に沈黙が重くならなかった。
二人はそのまましばらく校庭の端まで歩いた。向こうでは、寮の窓にぽつぽつ灯がともり始めている。
女学校の夜は、昼よりもずっと息を潜めた顔をしていた。
そこで、佐和がふいに言った。
「あなた、どうしてそんなに人の建前が嫌いなの」
問いは軽くなかった。だが、責める色だけでもない。
省吾は少し考えてから答えた。
「建前そのものが嫌いなんじゃない。建前の後ろへ隠れて、本人の口がなくなるのが嫌なんだ」
「……それだけ?」
「それだけじゃあ足りないか」
佐和は首を振らなかった。頷きもしなかった。代わりに、遠くの寮の窓を見た。
「私はね」と彼女は言った。「残らなければならないの。ここに。生徒たちの顔を明日も見なければならない。だから、あなたみたいに言い切れないことがある」
「わかっている」
「わかっているのなら、もう少し優しくしてほしいわ」
「それは無理だ」
「でしょうね」
佐和はそこで、ようやく少し笑った。昼に見せたものよりも、ずっと疲れていて、ずっと人間らしい笑い方だった。
校舎の奥で、鐘が一つ鳴った。夕食の合図らしい。二人はそこで足を止めたまま、同じ方を向いて立っていた。
長い廊下の先で、誰かの影が一つ曲がる。鞠子かもしれないし、違う娘かもしれない。
だが、その影がいまこの学校で、どこへ押しやられようとしているかだけは、二人とももう見失っていなかった。




