第七章 女学校の廊下
志保からの手紙が、机の引き出しへ入ってしまってから、三日ばかり省吾は妙に家の中にいた。
いるからといって、役に立つわけではない。
昼近くまで机の前へ座って、紙へ一行書いては消し、店へ客が来れば横目で見て、誰が何を隠している顔かだけは言い当てる。
千代にしてみれば、いない時は腹が立ち、いる時も腹が立つ、まことに始末の悪い弟であった。
その日の午後も、店には西日が斜めに差していた。帳面の端だけ白く光り、硝子瓶の中の鉛筆が影を落としている。
京子は奥で女学校の課題らしい英語の本を拡げ、庄作は帳場で数字を追っていた。千代は客へ包みを渡しながら、ふと省吾のほうを見た。
「あんた、いつまでそうやって燻っているつもりだい」
「俺は炭じゃないぞ」
「似たようなもんだよ。火にもならない煙ばかり立てて」
「うるさいな」
「うるさくもなるよ。机の引き出しばかり開けたり閉めたりして」
省吾は顔を上げた。
「見てたのか」
「見えるんだよ。見せるようにやってるくせに」
京子が本から顔を上げずに言った。
「おじさま、気になるならもう一度読めばいいのに」
「何をだ」
「手紙よ」
「お前まで余計なことを言うな」
「余計じゃないわ。気にしてる顔をしてるもの」
「どういう顔だ」
「嫌そうなくせに、忘れてない顔」
省吾は本気で何か言い返しかけたが、その時、表の戸が開いて、佐伯が入ってきた。暑さのせいか額に少し汗を浮かべているが、相変わらず人好きのする顔をしている。
「いやあ、やっぱりいたか」
「何しに来た」
「顔を見に来たんだよ。山から帰って、君がどれだけ感じ悪くなったかと思って」
「期待に添えそうだな」
佐伯は笑って、扇子で首筋をあおいだ。
「それより、少し話がある」
「金か」
「半分はな」
「残り半分は面倒事だろう」
「よく分かるね」
千代がすぐに茶を出した。佐伯は一口飲んでから、懐から名刺ほどの紙を取り出した。
「信州のほうに女学校がある。知り合いの校長から頼まれてね。作文と英語の授業を少し見てくれる人間が要るんだ」
京子がすぐ反応した。
「女学校?」
「そう、君の学校ほど立派じゃないがね」
京子は少し胸を張りかけて、すぐ母に睨まれた。
省吾は小机に頬杖をついたまま言った。
「他を当たれ」
「当たったよ。皆、夏のうちから新学期の備えだの、家庭教師だので忙しい」
「教師なんぞ、暇そうな顔をしてるくせに、妙なところだけ忙しい、面倒な仕事だ」
「君も暇そうな顔をしてるだろう」
「俺は教師じゃない」
「それがいいんだ」
佐伯は紙を卓へ置いた。
「教えると言っても、しばらくの代わりだ。作文の講評と、少し英語の読み。宿舎も出る。金も出る。校長は学士の肩書に弱いから、君が行けばそれだけで少しは顔が立つだろう」
「大した顔じゃない」
「君の顔の話じゃない、肩書の話だ」
庄作が帳場から穏やかに言った。
「それはよさそうじゃないか。女学校なら、少なくとも喧嘩相手は男ばかりではあるまい」
「余計に面倒だ」
「君は面倒でないものを選んで生きてきた覚えがあるのか」
省吾は黙って佐伯の持ってきた紙を見た。
学校の名と場所、それから校長の姓だけが、几帳面な字で書いてある。
女学校。
そういうものは、京子の口から聞くほか、あまり近くで見たことがなかった。
洋風の校舎、規律、リボン、作文、良妻賢母、英語の綴り。どれも少しずつ気に食わない。気に食わないが、気に食わぬものほど一度は覗いてみたくなる。
「何日だ」
佐伯がにやりとした。
「一週間ほどだ」
「長い」
「君が一週間も人様の役に立つ機会は滅多にないよ」
「立たなくても困らん」
「周りが困る」
千代が言った。
「行きなさい」
「またか……」
「まただよ。あんたが家にいると、京子まで口が悪くなる」
京子が本から顔を上げた。
「それは違うわ、お母さま。私は前から少しは悪いの」
「胸を張ることじゃないわ」
佐伯は笑いながら扇子を閉じた。
「明後日には発てる」
「勝手に話を進めるな」
「断る顔じゃない」
「お前、その言い方を山でもしたな」
「これが当たるからやめられないんだ」
結局、省吾は引き受けた。引き受けたというより、断る理屈が面倒になっただけである。
だが千代はその理屈の薄さまで含めて承知していたらしく、その日のうちに着替えと下着を風呂敷へまとめた。京子は女学校という言葉に少し浮き立ったらしく、
「どんな学校か見ていらして」
と言ったが、省吾は
「見ても褒めない」
と返した。
出立の朝は、前よりも暑かった。
東京の夏は、朝から人を疲れさせる。空が明るくなるより先に、どこかの家で水を撒く音がし、通りの土と石がぬるい匂いを立てる。
そんな空気の中を出発して、昼近くにその地方の停車場へ着くと、そこは山ほどではないにせよ、東京よりいくらか風が軽かった。
迎えは来ていない。
かわりに、学校から寄越したらしい下男が一人、名前を書いた木札を持って立っていた。まだ二十にもならぬ痩せた顔で、省吾を見ると、緊張したように頭を下げた。
「久世先生でいらっしゃいますか」
「先生じゃない」
「は、では……」
「久世でいい」
下男は困ったように笑い、荷を受け取った。
そういう笑い方をする人間は、学校というものに長くいると多くなる。叱られぬように、自分の言葉を先に削る癖がつくのだろう。
学校は町の外れにあった。
煉瓦を積んだ正門は思ったより大きく、その内側に白っぽい校舎が見える。二階建てで、中央に小さな塔のようなものがあり、窓が規則正しく並んでいた。
校庭には木が何本か植えられ、花壇の花まで列を揃えている。遠くから見ると整っているが、近づくとその整い方が少し窮屈に見えた。
門の脇には、「某々女学校」と墨痕あざやかな表札がかかっていた。字は力んでいて、いかにも「品格」を書こうとしているように見える。
「立派だな」と省吾が言った。
下男は嬉しそうに振り返った。
「はい、県下でも名のある学校でございます」
「息が詰まりそうだ」
下男はまた返事に困った顔をした。
玄関へ入ると、廊下の板がよく磨かれていた。磨かれすぎて、雨の日には滑るだろうと思うほどである。
窓は高く、廊下が長い。端から端まで見通せるのに、人が歩くとどこかの角へすぐ吸われてしまう。
そういう造りは、規律にはよいかもしれぬが、人の息には少し冷たい。
校長が応接室で待っていた。五十に近い、鼻筋の通った男で、洋服を暑苦しそうにきちんと着ている。髭も手入れがよく、話し方も整っていた。
「ようこそおいでくださいました、久世先生」
「だから先生じゃないと言った」
校長は一瞬だけ目を瞬かせ、それから笑みを深くした。
「では久世さん。佐伯君から、たいへん才気ある方だと」
「口の悪い方だとも聞いてるだろう」
「はは、多少」
「多少じゃない」
校長はその答えを冗談として受け取り、すぐ学校の理念や、生徒の気風や、女徳と学問の両立について語り始めた。
省吾は半ば聞き流しながら、部屋の中を見ていた。壁には創立者の額、棚には賞状、窓際には花瓶。
どれも「こうあるべき学校」の印として置かれているものばかりで、人の匂いが薄い。
「――本校では、品位ある婦人を育てることを第一としております」
校長がそう言った時、省吾はようやく口を挟んだ。
「品位ってのは、教えられるものか」
校長は少し笑った。
「教育によって、ある程度までは」
「便利な言葉だな」
「は?」
「品位。従順でも、口が利けても、都合よく包める」
校長はさすがに笑顔をそのまま保ったが、目だけは少し曇った。
「久世さんは、なかなか率直でいらっしゃる」
「そう言われることが多い」
「本校の生徒は感受性が豊かですから、あまり鋭すぎる言葉は――」
「だったら最初から呼ぶな」
応接室の空気が少し硬くなったが、そこへちょうど扉が叩かれた。返事を待って、一人の女が入ってくる。
背の高い女だった。
華やかというのではない。着物の色も地味で、髪もきちんと結われている。だが立ち方に無駄がなく、こちらへ向ける目も曖昧でない。三十にはまだ少し遠いだろうか。鼻筋が通り、口元に、笑えば柔らかくもなりそうな線があるのに、今はそれが固く閉じられていた。
「失礼いたします。英語科の水原です」
校長が言った。
「ちょうどよかった。こちら、しばらく作文と英語を見てくださる久世さんです。水原先生には、授業の進み具合など、いろいろお教え願いたい」
女――水原佐和は、軽く会釈をした。
「どうぞよろしく」
「よろしくはされん」と省吾が言った。
校長が咳払いをする。佐和はわずかに眉を動かしただけだった。
「では、せめて支障のないようにお願いいたします」
「それはお互い様だ」
校長はそれ以上二人を同じ部屋へ長く置くのを危ぶんだらしく、すぐに佐和へ校内の案内を命じた。
応接室を出ると、長い廊下に昼の光が落ちていた。
授業中らしく静かである。だが、ただ静かなのではない。教室ごとに、小さな息の気配が整列しているような静けさだ。
「あなた、校長先生へあのような言い方をなさるの」
歩き出してすぐ、佐和が言った。
「お前は校長にそういう口を利くなと言われてるのか」
「生徒ではないのですから、そこまでは言われません」
「なら結構だ」
「結構じゃありません。ここは学校です」
「見れば分かる。墓場じゃないだけましだ」
佐和は足を止めはしなかったが、横顔に呆れたような色が差した。
「佐伯さんから、少し風変わりな方だとは伺っていました」
「少しか」
「だいぶ、かもしれません」
「誠実な男だな、あいつは」
廊下の先に教室が並ぶ。障子ではなくガラス窓がはめ込まれていて、中では女学生たちが机に向かっている。袴の裾、白い襟元、きちんと結われた髪。
どの教室も似た風景で、その似方がまた学校らしい。
一つの教室の前を通りかかった時、女子生徒が二、三人、廊下の向こうからこちらを見た。
見てすぐ、顔を引っ込める。
その早さには、好奇心と遠慮の両方がある。
省吾はその視線に気づいたが、何も言わなかった。むしろ、向こうが見たいなら見ればいいと腹の底で思っていた。
馬鹿な子供に真似をされるのとは違う。ここでは彼女たちもまた、見られる側に立たされている。
「皆、あなたを珍しがるでしょう」と佐和が言った。
「学士様だからか?」
「それもあるでしょうけれど」
「足か」
佐和はすぐには答えなかった。答えぬ沈黙が、かえって正直だった。
「子供ですから」と彼女は言った。
「便利な言葉だ」
「あなた、その言い方がお好きなのね」
「好きで言うんじゃない。本当に便利だから使うんだ」
廊下の端まで来ると、小さな資料室のような部屋へ通された。
机が二つ、本棚が一つ、黒板が小さく据えられている。
窓から校庭の一部が見え、向こうで下級生らしい小さな女学生たちが整列していた。
「こちらをお使いください」と佐和が言った。「授業の割り振りはあとでお渡しします」
「ふん」
「作文は上級生が主です。英語は五年と六年を少し。校長先生は、学士の講義というだけで喜ばれると思っておいでですが、生徒はそう簡単ではありません」
「結構だ。簡単な顔をした連中ばかり相手にしてると、こっちが腐る」
佐和はそれを聞いて、初めて少しだけ口元を緩めた。笑ったとまでは言えぬほどの微かな動きだった。
「そこだけは、同感です」
省吾は佐和の横顔を見た。校長へ対する時と違って、今の一言には作りがなかった。
この女は、学校の中で生きる術を身につけているが、完全に学校へ魂を売ったわけではないのだろうと思った。
「お前、長いのか」と省吾が言った。
「この学校へですか。五年目です」
「よく続くな」
「続けなければならないこともあります」
「立派だな」
「皮肉かしら」
「半分はな」
そこで、廊下の向こうから慌ただしい足音がした。若い女教師が一人、顔色を変えてやってくる。
「水原先生、少し」
佐和はすぐ表情を変えた。
「どうしました」
「河村さんが、また……」
その名を聞いた時、佐和の目の奥が一瞬だけ曇った。すぐ省吾に向き直る。
「失礼します。こちらで少しお待ちを」
「待たんでも、その河村とやらを見に行けばいいか」
「来なくて結構です」
「そうか」
だが、佐和が去ったあと、廊下の空気はすぐにただの学校の静けさへ戻らなかった。どこか一隅だけがざわついている。
女学校というのは、男ばかりの学校よりも静けさが破れぬように作られているぶん、一箇所の綻びがあると余計に目立つようだった。
省吾は資料室の窓から校庭を見ていたが、やがて杖を取り、廊下へ出た。
来るなと言われて行くのは、昔から悪癖である。
ざわめきのもとは二階の端の教室だった。扉は閉じられているが、中から女教師の抑えた声が聞こえる。
しばらくすると佐和が出てきた。こちらを見るなり、露骨に眉をひそめた。
「来なくて結構だと申したはずです」
「結構じゃない顔をしてた」
「あなたには関係ありません」
「それも便利な言葉だな」
佐和は短く息を吐いた。
「河村鞠子さんといって、上級の生徒です。少し事情があって、今日は教室へ出られないだけです」
「事情、か」
「ええ」
「それは学校の都合か、家の都合か、それとも本人の都合か」
佐和は答えず、むしろ問い返した。
「なぜそんなことを聞くの」
「お前の顔が、本人より学校を先に案じる顔だったからだ」
佐和の目が、ほんの少し鋭くなった。図星を突かれた時の怒りと、よく見ているじゃないかというわずかな驚きが混じった目だった。
「あなたは、何でも見透かしたようなことを仰るのね」
「見えることしか言わん」
「そうやって人の事情へ土足で入るのは、癖かしら」
「お前の学校は、靴を脱げば中へ入れてくれるのか」
佐和は返しかけて、やめた。今は言い争っている場合ではないと思ったのだろう。
「河村さんは、優秀な生徒です」と彼女は低く言った。「作文も英語もよくできる。ですが、少し前から妙な噂が立っているの」
「男か」
「……どうしてそう思うの」
「女学校で“妙な噂”と言えば、たいてい男か金か家だ」
「半分は当たりです」
「残り半分は」
「家よ」
佐和はそう言ってから、言い過ぎたと思ったのか、口を結んだ。省吾はそのまま扉へ目をやった。
中は静かだった。泣き声もしない。そういう静けさのほうが、時に始末が悪い。
「素行不良にする気か」と省吾が訊いた。
佐和は驚いたように省吾を見た。
「まだ何も――」
「顔に書いてある。校長が“品位”を大事にして、女教師が胃を悪くしそうな顔をしてる時は、たいていそうだ」
佐和は、怒る前に少し疲れたように笑った。
「本当に嫌な方ね」
「言われ慣れてる」
「それも伺いました」
その時、教室の扉が少しだけ開き、中から一人の少女が顔を出した。
十七か十八ほど、色の白い細い顔で、目だけが妙に落ち着いている。泣いた跡はない。だが、泣くより先に諦める癖がついてしまった者の目だった。
佐和がすぐ寄る。
「河村さん、今は休んでいなさい」
少女――鞠子は、佐和の後ろにいる省吾を見た。見たが、珍しがるでも恥じるでもなく、ただ一瞬でこちらのどこかを量ったような目だった。
その目が、妙に京子に似ているようでいて、もっと早く大人にさせられた感じがある。
「この方が、久世先生?」と鞠子が訊いた。
「先生じゃない」と省吾が言った。
鞠子の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのかもしれない。
「では、学士様なのね」
「それも大して役には立たん」
「そう」
少女はそれだけ言って、また扉の内側へ下がろうとした。
佐和がその肩へ手を置く。やさしい手つきだが、同時に、ここで余計なことを言うなという制止も含んでいる。
扉が閉じると、廊下はまた静かになった。
窓の外では、校庭の白線が日の下で乾いていた。
さっきまで整って見えた廊下が、今は少し長すぎるものに思える。長い廊下の端に、一人の少女が閉じ込められている。そのことだけが、板の光り方の中へひっそり混じっていた。
佐和はしばらく扉を見ていたが、やがて振り返った。
「あなたに、余計なことをしていただきたくはないの」
「余計なことしか出来ん」
「そうでしょうね」
「だが、お前も黙って済ませる気はない顔だ」
佐和は答えなかった。答えなかったが、その沈黙が否定でないことだけは分かった。
彼女はゆっくり歩き出した。省吾も杖をついてその横につく。
長い廊下に、二人分の足音が響く。磨かれた板の上を、同じ方へ進みながら、二人とも別々のことを考えている気配があった。
教室の窓から、何人かの女学生がまたこちらを見た。今度は好奇心だけではない。何か起こっている、ともう皆が知っている目である。
学校という場所は、静かな顔をして、いつも人の噂で息をしている。




