第六章 朝の停車場
停車場へ着いた時、朝はもうだいぶ進んでいた。
山の朝の明るさは、東京のそれより少し遠いところから来るように見える。
光だけが先に木立の上へ降りて、地面や建物へ届くまでに一拍ある。そのあいだに、人の顔や声がどこか醒めぬまま残っている。
省吾は馬車から降りると、杖を一度だけ石へ当ててから、荷を受け取った。
御者は用向きの済んだ客へ余計な言葉をかけぬ男で、その無口さだけはありがたかった。
別れ際に軽く帽子を触れたきり、馬を返して去ってゆく。省吾はその背を見送りもせず、切符売場のほうへ歩いた。
朝倉の家を出てから、まだそれほど時は経っていない。
だが頭の中では、玄関先の石段と、そこへ差し出された手ばかりが、妙に近く残っていた。
白かった、と思う。余計な色のない手であった。
ああいう手を、何も考えずに出せる人間は、たいがい自分の善意を疑わない。そう決めつけたい気持ちがあった。
だが同時に、省吾は志保の顔に、いわゆる善人の得意そうな柔らかさがなかったことも覚えていた。
気の毒がる顔だ、と言ったのは自分だが、言った瞬間に、半分は自分へ向けて言っている気もした。
そんなことを考えるのが癪で、彼は停車場の薄暗い待合へ入ると、まず新聞売りの声がするほうへ顔を背けた。
新聞など読みたくもないし、何より今は文字を見ると、志保の横顔に戻りそうだった。
売店の前で弁当を一つ買う。
竹の皮に包んだだけの簡素なもので、東京の駅弁よりも味気ない。
そういう味気なさが、今は少し都合よかった。余計に旨いものは、かえって人を惨めにする時がある。
待合には、軍服の青年が一人、老夫婦が一組、子供を連れた女が一人いた。
皆、自分の乗る汽車の時刻だけを気にしている顔で、他人のことには構わぬ。
そういう場所のほうが、かえって人は落ち着く。善意も親切も、そこには長居しないからだ。
省吾は窓際の長椅子へ腰を下ろした。
右足を少し前へ出し、杖を膝へ立てる。
朝倉の家では気づかれぬようにしていた疲れが、ここへ来てからじわじわ出てきた。
痛みは鋭くない。
ただ、関節の内側へ細い錘を入れられたような重さがある。
昨夜の雨と、今朝の石段と、あの一瞬の踏み外しと、それから腹立ち。全部が残っているのだろう。
発車までまだ間がある。
彼は弁当の包みを膝の上へ置いたまま、しばらく開かなかった。
窓の外では、貨車の向こうを駅員が早足で横切り、煤の匂いがふっと流れてくる。
山の空気はたしかに澄んでいた。だがプラットホームというものは、どこへ行っても、焦げた匂いと、別れかけた人間の匂いが混じる。
その混じり方が、少し好きだった。全部がきれいに澄んでいる場所より、人の出入りの名残がある場所のほうが、まだ信用できる。
やがて汽車が入って来ると、待合の人間が一斉に立った。
省吾も杖をついて立ち上がる。立ち上がった時、真正面の窓へ一瞬だけ自分の姿が映った。
黒い羽織、少し歪んだ肩、手に馴染みすぎた杖。見慣れているはずのその形が、山の停車場の光の中では妙に余所余所しく見えた。
「立派だな」と彼は小さく呟いた。
誰に向けたわけでもない。自分で聞いても、皮肉なのか倦みなのかよく分からぬ声音だった。
車内は行きより空いていた。
窓際へ座ると、今度は誰も話しかけてこない。
それがよかった。
汽車が動き出すと、木立が後ろへ流れ、山の線が少しずつほどけて、また平地の色へ戻ってゆく。
省吾はようやく弁当の包みを開いた。
飯は冷えて固くなっていた。卵焼きがひとかけ、煮しめが二つ。まるで志保の家の食卓と正反対だった。
あちらでは、何もかもが整いすぎていて、人の息のほうが窮屈になっていた。こっちは粗末で、しかし食えばそれで済む。
それなのに、箸を動かしながら、頭に浮かぶのは志保の声ばかりである。
――そう見たいのは、あなたでしょう。
あの一言が、なぜだか耳に残った。
もっと穏やかな礼の言葉でも、もっと冷たい憎まれ口でもなく、あれだけが残る。
自分がそう見たいのだ、と言われて否定しきれなかったのが腹立たしい。
自分は同情されるのが嫌いなだけだ。そう言い切ればいい。
だが、嫌いなものを、いつでも正確に嫌えるわけではない。
時々、その影を自分のほうから先に見に行ってしまうことがある。それが一番みじめだと、省吾は知っていた。
弁当を食べ終えて、竹の皮をきちんと畳んだ。
畳みながら、ふと老婦人の顔が浮かんだ。
あの女は多分、すべて見ていた。見ていて、わざと何も言わなかった。言えば余計にこじれると知っている年の取り方だった。
そういう年寄りは苦手である。怒鳴る年寄りなら、まだ相手がしやすい。
汽車は東京へ近づくにつれ、窓の外の色を変えた。
畑が減り、瓦が増え、土の匂いが煤に負ける。人の気配が濃くなる。山では聞こえなかった雑音が、またこちらの耳へ戻ってくる。
その雑音が、今は少し懐かしかった。
着いた時には、昼を少し回っていた。
本郷坂下へ帰る道すがら、車夫が何か世間話をしかけたが、省吾はほとんど応じなかった。
車夫も、客の顔色でそれ以上は喋らぬと決めたらしい。そういう見切りのよさが、今日の省吾にはありがたい。
坂の下の店は、いつも通り開いていた。
表には帳面と鉛筆が出ていて、夏に向かう時分の埃を紙が薄くかぶっている。
庄作が客へ包みを渡しているのが見え、その奥で千代が何か帳面をつけていた。
車が止まると、最初に顔を上げたのは千代だった。
「あら」
それだけで、いろいろ分かってしまった顔である。省吾が荷を下ろすより先に言った。
「早かったね」
「用は済んだ」
「そうかい。どうせまた、ろくでもない別れ方をしてきたんだろう」
省吾は車から降り、杖をついた。
「帰って来た男児に最初に言う言葉がそれか」
「当たってる顔をしてるよ」
庄作が客を見送ってから、控えめに笑った。
「まあ上がりたまえ。顔色が山から来た色じゃないな」
「山から、来たんだ」
「だからだよ。少しも健康そうに見えない」
「健康そうな顔なんぞしたことがない」
店へ入ると、紙と墨と人の暮らしの匂いが、いっぺんに戻ってきた。
朝倉の家の静まり方とは違う。
ここでは、誰かが戸を開け、誰かが鉛筆を選び、誰かが奥で味噌汁を温める。その雑然とした趣が、省吾にはどこか居心地が良かった。
京子はまだ学校から戻っていないらしい。
省吾は小机の脇へ荷を置き、どさりと腰を下ろした。千代が茶を持ってきて、まじまじと顔を見た。
「疲れた顔してるじゃない」
「元からだ」
「違うね。元から嫌な顔ではあるけど、今日は少し余計だ」
「お前は弟の顔を何だと思ってる」
「よく見れば、だいたい分かる便利な顔だよ」
庄作が帳場から言った。
「先方はどうだった」
「退屈な婆さんと、親切な親類と、よく働く女」
「最後のが少し引っかかる言い方だな」
「引っかかるだろうな」
千代が目を細めた。
「女?」
「食いつくな」
「食いつくよ。あんたがそういう言い方をするときは、ろくでもないから」
「ろくでもなかった」
「でしょうとも」
それで話は済んだように見えたが、千代はまだどこか納得しきらぬ顔をしている。
だが客が入ってきたので、それ以上は追わなかった。
午後の日が少し傾いた頃、京子が帰ってきた。
戸口へ入るなり、机の横に見慣れた行李があるのを見つけて、すぐ声を上げた。
「まあ、おじさま。もうお帰り?」
「帰っちゃ悪いか」
「悪くはないけれど、早すぎるわ」
「向こうの木が全部見えたから十分だ」
「そんなはずないでしょう」
京子は風呂敷を置いて、叔父の顔を見た。
その顔を見た途端、少しだけ声音を改めた。
「……おじさま、どこか具合が悪いの」
「悪くない」
「でも、何だか」
「何だか、で人を病人にするな」
京子はむっとしたが、それ以上言わなかった。
叔父が本当に機嫌の悪い時は、下手に追わぬほうがよいと、もう知っている。
その晩、省吾は珍しく夕飯のあと早く部屋へ引っ込んだ。
煙草を吸うでも、本を開くでもなく、机の上へ肘をついてしばらく黙っている。
外では坂を下る人力車の音がして、遠くで犬が鳴いた。
山の夜は空白が長かったが、東京の夜は小さな音が絶えぬ。その絶えなさが、今夜はかえって気を紛らせた。
翌日の昼近く、店先へ郵便配達が来た。
千代が封を受け取って、何気なく宛名を見る。
朝倉の名があった。
封筒は厚くない。礼状にしては、どこか手堅い字である。
「省吾」と千代が呼んだ。「あんたに手紙だよ」
奥から省吾が出てきた。
封を一目見ただけで、誰からか分かったらしい。
その顔つきが、一瞬だけ険しくなって、それからすぐ、何でもないものを見るような顔へ戻った。
「そこへ置け」
「読まないのかい」
「後で読む」
「後ってのは、いつだろうね」
「お前には関係ないだろう」
千代は肩をすくめて帳場へ置いた。
だが客が立て込んだので、しばらくそのままになる。京子が女学校から戻ると、帳場の端に見慣れぬ封があるのに気づいた。
「これ、誰から?」
「さあね」と千代が言う。「山のお家からだよ。おじさまがろくでもない別れ方をしてきた、そのお相手のところ」
「お母さま」
「本当のことだろう」
京子は少しためらったが、結局、その封を手に取って奥へ持っていった。
省吾は机に向かっていたが、原稿用紙の上へ何も書いていない。
「おじさま」
「何だ」
「お手紙」
「見れば分かる」
「読まないの」
「後で読むと言った」
「昨日もそう仰ったわ」
「昨日は来てない」
「揚げ足を取らないで」
京子は封を差し出した。
省吾はしばらく受け取らなかったが、やがて面倒そうにそれを取ると、封を切り、中の紙を一枚だけ引き出した。
文は短かった。
叔母が昨日は久しぶりに気分よく休んだこと。突然帰られて驚いたこと。失礼なことばかり言う方だが、退屈しのぎにはなったこと。そして、山の空気のせいか、お足のお加減が少しでもましであればよいと思うこと。
そこまで読んで、省吾の眉が寄った。紙を畳み、何でもない顔で机の端へ放る。
「何て書いてあったの」と京子が訊く。
「退屈しのぎになったそうだ」
「それだけ?」
「他に要るか」
京子は叔父の横顔を見た。
何かまだある、と顔が言っている。
だが省吾はそれ以上話すつもりがないらしい。
「おじさま」と京子は少し声をやわらげた。「優しい方だったのね」
省吾はすぐ顔を上げた。
「優しくなんかない」
「だって、お手紙をくださったのでしょう」
「礼儀だ」
「礼儀でも、くれない人はくれないわ」
「お前は何でも人を善く見すぎる」
「おじさまは悪く見すぎるのよ」
「それが丁度よくなるものなんだ」
京子は小さく息をついた。
「そんなふうに何でも半分にしていたら、いつまでたっても一人ぼっちよ」
その言葉は、言った京子自身にも少し意外だったらしく、言い終えてから頬を赤らめた。
省吾は数秒、何も言わなかった。
それから、机の上の手紙へ手を伸ばし、くしゃりともせず、きちんと裏返して置いた。
「学校の宿題は済んだのか」
「済んでないわ」
「ならやれ」
「すぐ話をそらす」
「そらしてない。今はそっちのほうが大事だ」
京子は口を尖らせたが、どこか少し笑いそうでもあった。
叔父が本当に突き放したい時は、もっと冷たい。今はそうではないのが分かるからだ。
彼女が部屋を出て行ったあと、省吾はもう一度だけ手紙を表へ返した。
志保の字は、思った通り整っていた。整っていて、余計な飾りがない。ああいう字を書く女は、自分の感情を文字へ滲ませることを恥じる。
だからこそ、最後の一行――お足のお加減が少しでもましであれば――だけが、かえって目に刺さった。
省吾は紙を畳み直し、封へ戻した。
戻してから、しばらくその上に手を置いたまま動かなかった。
外では、店へ客が入る音がして、千代が応対している。
庄作が帳場で何か数字を読み上げ、京子がそれへ返事をする。家の中の音が、ごくありふれたものとして続いてゆく。
どれも、志保の家の静まり方とは違う。違うのに、その違いが今は妙に胸へ触れた。
省吾はやがて封を引き出しの奥へしまい、音を立てぬように閉めた。
読まないふりをして、捨てるほどでもないものだけが、人の机の奥へ残るのだった。




