第五章 手を貸すな
雨は夕方まで細く続いた。
本降りになりきらぬまま、木々のあいだを濡らしている。
庭の石は夕刻の薄明りを鈍く返し、庇から落ちる雫だけが、時々きっぱりした音を立てた。
家の中は、昼のあとからどこか落ち着かぬ気配を帯びていた。
人の動く音は少ないのに、誰かが何かを待っている時の、あの薄い張りつめ方がある。
老婦人は午後の半ばに一度眠り、目を覚ますと、今夜は敬介たちも一緒に食事をしようと言い出した。
志保は一瞬だけ言葉を止めたが、結局「承知しました」と答えた。
その返事の仕方に、省吾はもう馴れかけていた。
嫌なことでも、いったん自分の前へ置かれたものは、声を荒げずに受け取る。
受け取った上で、あとから一人で疲れる。
そういう女だと分かってきたからだ。
夕食は、昨夜より大きな食堂で取られた。
燭台の灯が卓の上へ柔らかく落ち、磨かれた銀器の縁だけが小さく光る。そういう場は人の顔色まで少し整って見えるから厄介だった。
敬介のほかに、四十前後の婦人が一人来ている。
朝倉の縁つづきらしく、言葉遣いは上品だが、何を言うにも半寸ほど遅れて相手の顔を窺う癖がある。
名を静江といった。
静江は志保を見るたびに、
「まあ、お疲れでしょう」
とか、
「あなた一人では何かと大変ね」
とか、そういうことばかり言った。
気遣っているつもりなのだろう。つもりだから始末が悪い。
志保は、そのたびに少しだけ微笑んで、
「いいえ」
と返す。
それ以上の言葉は足さない。
足せば、多分、別のものがこぼれるからだろう。
老婦人は最初のうちこそ機嫌よく話していたが、食事が進むにつれて、むしろ周りのほうが老婦人の機嫌を損ねぬように、先回りして言葉を選び始めた。
その中で敬介だけが、やや熱心だった。
「叔母上も、秋までには少しお楽になるでしょう。そうしたら、志保さんも東京へ戻りやすくなる」
老婦人はスープ皿から顔を上げた。
「誰が戻るって?」
「いや、もちろん、叔母上のお加減次第ですが」
「私の加減なんか、今さらどうでもいいよ。人の行き先を私のせいにしないでおくれ」
敬介は笑ってごまかそうとした。
「そういう意味ではありません。ただ、志保さんも、こちらへ長くばかりはいられぬでしょうから」
静江がすぐに調子を合わせた。
「ええ、そうなの。あまり山に籠もりきりでは、お若い方にはお寂しいでしょうし」
志保は箸を置かなかった。置かないまま、ただ聞いていた。
そういう時の顔は、東京の家で千代が余計な親類の話を聞く時の顔と少し似ていた。
違うのは、千代ならどこかで口を挟むが、志保はそこで口を閉ざすことだった。
「寂しいかどうかは、本人が決めることだ」と省吾が言った。
敬介がこちらを見る。
「ええ、もちろん、最終的には……」
「最終的に、か。そこへ行くまでに皆で決めてやるんだろう?」
静江がぎこちなく笑った。
「久世さんは、いつもそのように仰るのね」
「お前方がいつもそのようにするからだ」
部屋の空気が少し痩せた。
燭台の火が揺れたわけでもないのに、卓の上が急に広く見える。
老婦人は黙っている。黙って、誰がどこまで言うかを見ている目である。
敬介は、やや声音を整えた。
「誤解なさらないでいただきたいが、私たちは志保さんのためを思って……」
「またそれだな」
「何がです」
「志保さんのため。便利な言葉だ。言った途端に、お前の都合が消える」
静江が「まあ」と小さく言ったきり黙り、志保はようやく顔を上げた。
「久世さん、もうよしてください」
「嫌なら嫌だと言えば済む」
「済まないこともあるの」
「そうして黙ってるから、皆がもっと勝手になるんだ」
敬介の頬が、今度ははっきり強張った。
「あなたは、外からおいでになって、事情も知らずに――」
「事情?」
省吾は盃を置いた。
「知ってるさ。死んだ男の家だ。若い未亡人が一人いる。周りは皆、気の毒がってる顔で、その実、どう収まりをつけるかばかり考えてる。間違ってるか?」
「言い方というものがあるでしょう」
「あるな。お前方のは上品だ。上品なぶん、本人の口がなくなる」
そこで老婦人が、低く言った。
「敬介」
それだけで、敬介は口を閉じた。
老婦人は小さな口元を一度結び、それから志保へ向いた。
「お前は、どうしたい」
問われた志保は、すぐには答えなかった。
灯の下で、その横顔だけがすっと白くなる。
ここで何を言っても、その後の場が変わってしまう。
そのことを、この場の誰よりもよく知っている顔である。
やがて彼女は、静かに言った。
「叔母さまのお側にいるのは、私がそうしたいからです」
静江は、ほっとしたような顔をした。
敬介も、これで丸く収まると思ったらしい。
だが省吾だけは、その答えが気に食わなかった。
「半分だな」と彼は言った。
志保の目が動く。
「何が」
「それで全部なら、お前はさっきからそんな顔をしてない」
「どんな顔よ」
「息の詰まるような顔だ」
志保は初めて、卓の向こうで省吾を真正面から見た。
怒っていた。傷ついてもいた。だが、そのどちらよりも先に、暴かれたくない場所へ手を入れられた時の顔だった。
「あなたに、そこまで言われる筋合いはないわ」
「ないな。だが、お前方は筋合いばかり整えて、本当の話をなに一つしてない」
静江が小さく咳をした。
「久世さん、それではあまりに……」
省吾はそちらを見もせず言った。
「お前は黙ってろ。人のためと言うなら、まず自分の腹の中を先に見ろ」
敬介がとうとう声を荒げた。
「失礼だぞ」
「知っている」
「この家に客として来ておきながら――」
「客にしか言えんこともある」
老婦人はその時、卓の端を指先でとんと叩いた。
音は小さかったが、皆が黙るには足りた。
「もういい」
誰に向けた言葉ともつかなかった。
だが、最も深く効いたのは志保だった。
彼女は一度だけ目を伏せ、それから膝の上へ手を揃えた。
「叔母さま」と彼女は言った。「私は、こちらへ居たくているのです。けれど、だからといって、皆が私のことを決めてよいわけではありません」
静江の顔が曇る。敬介は反論の言葉を探しかけて、老婦人の目を見てやめた。
志保は続けた。
「再婚でも、帰京でも、何でも結構です。私の身の振り方について、お心を配ってくださること自体はありがたいと思っています。でも、私が考える前に、私のためという言葉で話を進められるのは――」
そこで一度、息を整えた。
「……うるさいのです」
最後の一語だけ、少しだけ声が低くなった。
その低さが、かえって卓の上へはっきり響いた。
静江は俯いた。敬介は何か言いたげだったが、今は言えば自分のほうが浅く見えると知ったのだろう、口を閉じた。
老婦人はゆっくりと頷いた。
「それでいい」
それだけだった。
だが、その一言で、さっきまで志保の肩へ載っていた見えぬ重しが、半分ばかり床へ落ちたように見えた。
食事はそれで終わったも同然だった。
皿が下げられ、人々は形だけ穏やかに席を立った。
静江は志保へ「気に障ったなら御免なさいね」と言い、敬介は「少し言い過ぎたかもしれません」と曖昧な顔をしてみせたが、そのどちらも、もう志保の耳へは素直には入っていないようだった。
老婦人は女中に伴われて先に部屋へ戻った。
省吾は廊下へ出て、窓の外の暗がりを見た。
雨はもう止んでいた。
木々が濡れて、夜の匂いを濃くしている。少し冷える。足の奥に、鈍い重みが戻ってきていた。
後ろで、静かに襖――ではなく扉が閉まる音がした。
振り向くと志保がいた。
さっきの食卓の熱がまだ完全には引いていない顔である。
だが、もう怒っているというより、何かを言わねばならぬと思っている顔だった。
「あなた」と彼女が言った。
「何だ」
「ひどい方ね」
「知ってるさ」
「そればかりね」
「便利だろう?」
志保は呆れたように息をついた。
その息のつき方に、さっきまでの張りが少し抜けている。
「礼を言うつもりで来たのよ」
省吾は窓の外へ目を戻した。
「やめろ……」
「まだ何も言っていないわ」
「言わなくていい。礼なんか言われる筋合いじゃない」
「では何なの。あれは」
「腹が立っただけだ……」
「誰に」
「全てにだ」
「私にも?」
「半分な」
志保はしばらく黙っていた。
廊下の向こうで女中が食器を重ねる音が遠くにする。夜の別荘は広いせいか、家の中の音まで離れて聞こえる。
「どうして私にも腹が立つの」と志保が言った。
「分かってるくせに黙ってるからだ」
「黙らなければ、この家はもっと面倒になるわ」
「そうやって面倒を引き受ける顔が気に食わん」
「あなたに気に入られるために生きているわけではないわ」
「それで結構だ」
志保は、そこで初めて少し笑った。
今度の笑いは、呆れている時にこぼれ落ちた、短いものだった。
「本当に嫌な方」
「何度目だ」
「三度目くらいかしら」
「進歩がないな」
志保は首を振った。
「でも……」
言いかけて止まる。
その「でも」の先に、本来なら礼が続くはずなのだろう。
省吾にはそれが分かった。分かったから、ますます聞きたくなかった。
「よせ」
「あなたは、どうしてそうやって先に閉めるの」
「閉める?」
「ええ。誰かが何か言おうとすると、すぐそこを塞ぐ」
省吾は返事をしなかった。返事をすると、余計なことまで口から出そうだったからだ。
志保もそれ以上追わなかった。
ただ、しばらく並んで外の闇を見ていた。
木立の向こうに、どこか別の別荘の灯が一つだけ見える。
それもすぐ枝の影へ隠れた。
「明日、叔母さまは少し気が楽だと思うわ」と志保が言った。
「そうか」
「あなたのせいよ」
「なら迷惑だろう」
「迷惑でもあるわ」
省吾は、そこでようやく少しだけ口元を動かした。
笑ったのかどうか、自分でもよく分からぬほどの動きだった。
翌朝、空は晴れていた。
雨上がりの木立は明るく、葉の先に残った雫へ朝の光がかかっている。
こういう朝は、そこにいる人間まで少しだけ善く見えるから嫌だ、と省吾は思った。
朝食の席で、老婦人は妙に機嫌がよかった。
静江は来なかったし、敬介も遅れて顔を出しただけで、すぐ町のほうへ用があると言って出て行った。
昨夜のことがなかったような顔をしていたが、その無かったようにする素早さがまた気に障る。
老婦人はパンを千切りながら言った。
「あなた、もう一日ぐらいいてくれてもいいのに」
「いやだ」
「即答ね」
「気が楽になったんなら、俺はもう用済みだ」
「あなた、自分が役に立った時ほど居心地が悪くなる質なのね」
省吾は黙った。老婦人は志保を見て笑った。
「図星らしい」
志保は笑わなかった。
ただ、茶を注ぐ手がほんの少しだけ止まって、それから元へ戻った。
省吾は朝食を終えると、そのまま帰ると言い出した。
志保も老婦人も止めなかった。
止めれば余計にこじれると、もう分かってしまったのだろう。
荷は女中がまとめて玄関へ運んだ。
空気は冷えているが、昨夜のような湿りはない。
石段は乾ききらぬところだけ色が深い。
馬車は、まだ来ていなかった。
少し待つあいだ、老婦人は椅子へかけて見送ると言い、志保がそのそばに立った。
「あなた、また東京で嫌なことばかり言って暮らすのね」と老婦人が言う。
「他に能がないからな」
「あるさ。使わないだけ」
「お前の家の連中と同じことを言うな」
老婦人は笑い、志保は小さく目を伏せた。
その時、門の外で馬車の音がした。
玄関先の石段は、昨日の雨のせいで、端のほうだけまだ少し湿っていた。
たった三段しかない。三段しかないのに、省吾はこういう所が一番嫌いだった。
平らな道や長い坂より、短い石段のほうが、人の目が集まる。
荷が積まれ、御者が帽子を取る。省吾は杖をつき、一段目へ足を下ろした。二段目。そこまではよい。三段目で、ほんのわずか、体の重みが後ろへ残った。
その一瞬、志保が自然に手を差し出した。
考えるより先の動きだったのだろう。昨夜の礼を言い損ねたかわりでも、未亡人としての分別でもない。
ただ、危ないと思ったから、手が出た。そういう早さだった。
省吾は、その手を見た。
白い指だった。まだ朝の光をまとって、冷たそうに見えた。
見た途端、胸の奥で何かがひどく荒れた。
助けられそうになったからではない。
その顔で、その手で、自分の足の先にある半寸の頼りなさまで見られた気がしたからだ。
「やめろ」
志保の手が空中で止まる。
「危ないわ」と彼女は言った。
「危なくない」
「でも――」
「その顔をするな」
志保は手を引かなかった。
むしろ、何を言われたのかすぐには分からぬ顔になった。
「どの顔よ」
「気の毒がる顔だ」
志保の表情から、はっとしたような色が引いて、そのあとで静かな怒りが戻った。
彼女はようやく手を引いた。
「誰が気の毒がっているの」
「そう見える」
「そう見たいのは、あなたでしょう」
その一言は、昨夜までの志保なら言わなかったかもしれない。だが、今は言った。
省吾は返事をしかけて、出来なかった。
図星だったからではない。
相手の声が、怒っているくせにひどく静かで、その静けさが妙に堪えたからだ。
老婦人が後ろで言った。
「省吾さん」
たしなめたのでも、諭したのでもない。
ただ、名を呼んだだけだった。
だがその呼び方に、ああまたこの男は自分で自分の首を絞めたな、という半ば呆れた響きがあった。
省吾はそれ以上何も言わず、杖を突いて馬車へ向かった。
乗り込む時、今度は誰も手を出さなかった。
志保も出さない。
出さないまま、石段の上に立っていた。
御者が手綱を取る。馬車がゆっくりと門のほうへ向きを変える。
省吾は一度だけ振り向いた。
老婦人は椅子の上から小さく手を上げている。
志保はその横で、まっすぐ立っていた。
礼を言うでもなく、笑うでもない。ただ、もうこちらへ何か差し出す気はない顔で、静かに見ていた。
門を出る時、木立の影が一度だけ馬車の中へ落ちた。
その影が過ぎるまでの間、省吾はずっと、さっき差し出された手の白さを思い出していた。
思い出して、それを振り払うように、膝の上の杖を強く握った。




